三章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
最終選別を終えた、二十日後。
名前の身体は回復し、剣士としての眼差しは、以前よりもずっと研ぎ澄まされていた。
春風が優しく吹いたその日、静水の庵に一つの影が立った。
木肌のままのひょっとこの面に無言の気配――
現れたのは、寡黙な刀鍛冶・鉄山森 忍斎だった。
庵の扉が開かれると、彼は黙って肩の包みを外し、名前に向かって差し出す。
静水が、柔らかな声で促した。
「名前。お受けなさい」
名前は頷き、静かに正座し、両手で包みを受け取った。
細やかに結ばれた布を一枚ずつ解いていく。
現れたのは、白木の鞘に収められた一振りの刀。
その柄の形、その鍔の文様、手に伝わる重さと感触。
名前の指が一瞬、止まる。
そして、そっと鞘を引いた。
――その瞬間だった。
銀白の金属が朝の光を受けてきらめき、
やがて、ごく淡い青が刀身の奥からにじむように広がっていった。
その青は、深海の底にわずかに差し込む光のようで――
まるで“沈黙の祈り”が形を取ったような、薄群青。
空の色でも、川の色でもない。
人の目に触れることのない水底の、どこまでも静かな色。
それが、雫の呼吸の色だった。
名前は、ほんのわずかに息を呑む。
けれどそれ以上に、彼女の目に焼きついたのは――その剣の姿そのものだった。
「……これは……」
刃の長さ、柄の重み、鍔の形。
それは、かつて父が遺した形見の剣――あの剣そのものだった。
驚きと戸惑いに手が震えたその時、隣で見守っていた静水が、そっと口を開いた。
「それは、あまね様が忍斎殿に預けてくださったのです」
「貴女が藤の屋敷を発たれたあと、ずっと大事に保管して下さっていた様です」
「『あの子が必要とする日がきっと来る』――そう仰って、鍛え直しを依頼されたのだと」
名前は、再び刀を見下ろした。
薄く深い青の刃が、朝の光を穏やかに受けてきらめいていた。
その刀身はほんの少しだけ、一般的なものよりも長い。
ただそれは、不自然なものではなかった。
――むしろ、この剣にはこの形こそが“自然”なのだと、手が語っていた。
名前は、剣をそっと胸元に抱きしめた。
懐かしく、けれど確かに新しい。
これはもう、過去の形見ではない。
“今を生きるための剣”として、あの時の想いと共に、生まれ変わっていた。
鉄山森 忍斎は、その様子を黙って見届けると、くるりと背を向けて庵を出てゆく。
だが、縁の手前でふと立ち止まり、低く、短く言い残す。
「……折るなよ」
その言葉の裏には、良い剣と、良い使い手に出会えた事への喜びもあったのだろう。
名前は、剣を抱きながら立ち上がり、忍斎の背に深く頭を下げる。
静水が、その横顔に優しく微笑みかけた。
「……良かったですね、名前」
名前はわずかに頷いた。
静かに、水のように――
その目に、確かな決意の光が灯っていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
それから、三日後。
朝露の残る庭に、しゃり、と草を踏む音が響く。
名前は、静水の見守る中、日輪刀を構えていた。
構えには無駄がなく、動きに淀みがない。
その手に握られているのは――父の形見であり、鉄山森によって鍛え直された薄群青の日輪刀。
空気を裂く音もほとんどなく、名前の剣は、ただ“一雫”のように流れた。
壱ノ型《たゆたう面影》。
陸ノ型《隔水の楯》。
それらの型が、静かに、しかし確実に結ばれてゆく。
静水は、縁側に正座したまま、目を細めてその様子を見つめていた。
「……より、洗練されましたね」
思わず、そう呟いていた。
あの剣が、日輪刀となって戻り――
その刃が名前の呼吸と重なっていくことで、技の“芯”が、さらに冴えたように感じられる。
その時――
「カァァ!!通告!通告!」
甲高い声が空を裂き、雲間から一羽の鎹鴉が音もなく降りてきた。
名前の肩に着地し、やたらと張り切った様子で嘴を開く。
「初任務、初任務デス!」
「隠ヨリ通報!南西ノ村ニテ“鬼”ノ出没、多数ノ失踪者アリ!」
「任務地点ハ山間部! 徒歩ニテ一日半!」
「昨夜、“喰ワレカケタ”青年ガ脱出、鬼ノ存在確定!」
名前は剣を収め、静かに振り返った。
鴉が器用に地図と指令書を取り出す。
それを一瞥した名前は、わずかに頷く。
「分かった」
「良キ返答!初任務ノ伝令、栄エアル栄誉!我、噛ミ締メ中!噛ミ締メ中ゥゥウ!!」
にぎやかに羽ばたく鎹鴉の声を背に、名前が振り返ると、静水がそっと立ち上がった。
その手には、淡い青の羽織があった。
雫を思わせる小さな紋が、袖にひとつだけ、慎ましく刺繍されている。
「これを……受け取ってください」
「……羽織?」
「ええ。私がまだ、剣を振るっていた頃のものです。今の私には、もう必要のないものですから」
静水は静かに言った。
「けれどこれは、長い間、私の背を守ってくれました。どうか少しでも、貴女から災いを遠ざけてくれますようにと……そう願いを込めて、渡します」
名前はその羽織を、静かに受け取る。
少しだけ褪せた布地には、幾つもの時間と想いが染み込んでいた。
「……ありがとうございます」
小さな声だったが、名前の手はその羽織をしっかりと握っていた。
そして、静水に向き直る。
「行ってきます。静水様」
「気をつけて。……貴女の剣は、今や“雫の流れ”だけではない。かつてその剣を握った方の、誇りも、想いも……確かに息づいていますから」
「…はい」
名前の返事は短く、けれどしっかりとした声音だった。
朝の陽が差し込み、彼女の背の刀の一振りが、静かに光を湛えた。
その背に、静水が声をかける。
「名前。いつでも…帰ってきて良いのですよ。私はここで、貴女を待っていますからね」
祈る様なその言葉に、名前は静かに一礼する。
風に羽織の裾が揺れ、藤の葉と共に、またひとつの別れを告げた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
夕暮れの山道を、一人の少女が歩いていた。
漆黒の隊服と薄青色の羽織に身を包み、背に刀を負ったその姿に、畑を終えた村人たちがちらりと目を向ける。
少女――名前は、足を止めて静かに頭を下げた。
「こんばんは。突然のご無礼をお許しください。少しだけ、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
最初に応えたのは、白髪の老人だった。
「……旅の人かね。こんな山奥に、珍しいな」
「はい、道中で知人を捜しております。昨晩、この近くで何かあったと聞いて……若い男の方が怪我をして、こちらの方角へ逃げてこられたと」
村人たちが顔を見合わせる。
その空気には、わずかに警戒の色が混じっていた。
「怪我人……か」
「……たしか、村の裏手の納屋に……倒れてた人がいるって……」
「うまく喋れないみたいで……ほとんど泣くばかりだって」
「今も、誰かが様子を見てるはずだよ」
名前はもう一度、丁寧に頭を下げた。
「ご親切にありがとうございます。助かります」
そのまま背を向けて歩き出すと、すぐに村人たちの小さなささやきが背後に流れた。
「あの子……なんだか、妙な雰囲気で……」
「刀なんか持って……何者なんだろうな……」
けれど名前は、振り返らなかった。
淡い茜色に染まる空の下、ただ静かに、歩みを進めていた。
村の裏手へと向かう細い小道を、名前は一歩一歩、確かめるように進んだ。
周囲はすでに夕闇が滲み始め、木々の影が長く伸びている。
ぽつんと建つ古びた納屋の前に、ひとりの年配の女が腰を下ろしていた。
名前が近づくと、女はわずかに身を引いた。
「失礼します。倒れていた方は、こちらにいらっしゃいますか」
「え、あ……あぁ、はい。中に……」
女が戸を指さす。
「まだうまく喋れなくて、泣いたり怯えたりして……なんだか様子がおかしいんですよ」
名前は小さく頷くと、ゆっくりと戸を開けた。
納屋の中はほの暗く、乾いた藁の匂いが漂っていた。
その奥、粗末な布の上に――青年がひとり、身を丸めるようにして座り込んでいた。
年の頃は十七、八。
顔は泥に汚れ、袖口には裂けた跡。
何度も同じ言葉を口の中で繰り返している。
「……こないで……やめて……くるな……」
名前は、声を荒げず、静かに口を開いた。
「こんばんは。私は、鬼殺隊の者です」
青年の肩がぴくりと震える。
「昨夜、鬼に襲われたと……貴方のことを聞いて、来ました」
言葉を選びながら、名前はそっと距離を詰めた。
「……安心してください。もう、貴方を襲うものはいません。私は、その鬼を討つためにここへ来ました」
青年はおそるおそる顔を上げる。
その目は恐怖に濁り、焦点が定まっていなかった。
けれど、名前の言葉の端々に、何かを掴もうとするように、唇を震わせた。
「……ほんと、に……あいつを、倒して、くれるのか……?」
「はい。お名前を、聞いても?」
「……聡……です……木島、聡……」
「木島さん。大丈夫、ゆっくりで構いません。……何があったのか、教えてください」
名前の声は、柔らかかった。
そうすることが、“盾の剣”の始まりであるのだと、静水に教わっていた。
青年の目に、少しだけ光が戻る。
「……山の、方から……来たんだ……真っ暗で……声がして……誰も、いないのに……笑ってて……!」
「気づいたら、俺の隣にいて……腕が、……腕が伸びてきて……!」
肩が震える。言葉が途切れる。
名前は一歩だけ近づき、そっと問いかける。
「鬼の姿は……見ましたか?」
聡は小さく、震える声で頷いた。
「目が、なかった。顔に、穴が開いてて……でも、こっちを見てた……!」
「俺、何もできなくて……みんな、喰われて……俺だけ逃げて……!」
その言葉は悲鳴のようだった。
名前は、深く頷いた。
「ありがとう、よく話してくれました」
「貴方のおかげで、情報が得られました。……必ず、その鬼を討ちます」
その言葉に、聡は泣きながら何度も頷いた。
納屋の外には、もう完全な夜が降りていた。
けれど名前の目は、迷いなく山の奥――鬼の潜む気配を、静かに見据えていた。
名前の身体は回復し、剣士としての眼差しは、以前よりもずっと研ぎ澄まされていた。
春風が優しく吹いたその日、静水の庵に一つの影が立った。
木肌のままのひょっとこの面に無言の気配――
現れたのは、寡黙な刀鍛冶・鉄山森 忍斎だった。
庵の扉が開かれると、彼は黙って肩の包みを外し、名前に向かって差し出す。
静水が、柔らかな声で促した。
「名前。お受けなさい」
名前は頷き、静かに正座し、両手で包みを受け取った。
細やかに結ばれた布を一枚ずつ解いていく。
現れたのは、白木の鞘に収められた一振りの刀。
その柄の形、その鍔の文様、手に伝わる重さと感触。
名前の指が一瞬、止まる。
そして、そっと鞘を引いた。
――その瞬間だった。
銀白の金属が朝の光を受けてきらめき、
やがて、ごく淡い青が刀身の奥からにじむように広がっていった。
その青は、深海の底にわずかに差し込む光のようで――
まるで“沈黙の祈り”が形を取ったような、薄群青。
空の色でも、川の色でもない。
人の目に触れることのない水底の、どこまでも静かな色。
それが、雫の呼吸の色だった。
名前は、ほんのわずかに息を呑む。
けれどそれ以上に、彼女の目に焼きついたのは――その剣の姿そのものだった。
「……これは……」
刃の長さ、柄の重み、鍔の形。
それは、かつて父が遺した形見の剣――あの剣そのものだった。
驚きと戸惑いに手が震えたその時、隣で見守っていた静水が、そっと口を開いた。
「それは、あまね様が忍斎殿に預けてくださったのです」
「貴女が藤の屋敷を発たれたあと、ずっと大事に保管して下さっていた様です」
「『あの子が必要とする日がきっと来る』――そう仰って、鍛え直しを依頼されたのだと」
名前は、再び刀を見下ろした。
薄く深い青の刃が、朝の光を穏やかに受けてきらめいていた。
その刀身はほんの少しだけ、一般的なものよりも長い。
ただそれは、不自然なものではなかった。
――むしろ、この剣にはこの形こそが“自然”なのだと、手が語っていた。
名前は、剣をそっと胸元に抱きしめた。
懐かしく、けれど確かに新しい。
これはもう、過去の形見ではない。
“今を生きるための剣”として、あの時の想いと共に、生まれ変わっていた。
鉄山森 忍斎は、その様子を黙って見届けると、くるりと背を向けて庵を出てゆく。
だが、縁の手前でふと立ち止まり、低く、短く言い残す。
「……折るなよ」
その言葉の裏には、良い剣と、良い使い手に出会えた事への喜びもあったのだろう。
名前は、剣を抱きながら立ち上がり、忍斎の背に深く頭を下げる。
静水が、その横顔に優しく微笑みかけた。
「……良かったですね、名前」
名前はわずかに頷いた。
静かに、水のように――
その目に、確かな決意の光が灯っていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
それから、三日後。
朝露の残る庭に、しゃり、と草を踏む音が響く。
名前は、静水の見守る中、日輪刀を構えていた。
構えには無駄がなく、動きに淀みがない。
その手に握られているのは――父の形見であり、鉄山森によって鍛え直された薄群青の日輪刀。
空気を裂く音もほとんどなく、名前の剣は、ただ“一雫”のように流れた。
壱ノ型《たゆたう面影》。
陸ノ型《隔水の楯》。
それらの型が、静かに、しかし確実に結ばれてゆく。
静水は、縁側に正座したまま、目を細めてその様子を見つめていた。
「……より、洗練されましたね」
思わず、そう呟いていた。
あの剣が、日輪刀となって戻り――
その刃が名前の呼吸と重なっていくことで、技の“芯”が、さらに冴えたように感じられる。
その時――
「カァァ!!通告!通告!」
甲高い声が空を裂き、雲間から一羽の鎹鴉が音もなく降りてきた。
名前の肩に着地し、やたらと張り切った様子で嘴を開く。
「初任務、初任務デス!」
「隠ヨリ通報!南西ノ村ニテ“鬼”ノ出没、多数ノ失踪者アリ!」
「任務地点ハ山間部! 徒歩ニテ一日半!」
「昨夜、“喰ワレカケタ”青年ガ脱出、鬼ノ存在確定!」
名前は剣を収め、静かに振り返った。
鴉が器用に地図と指令書を取り出す。
それを一瞥した名前は、わずかに頷く。
「分かった」
「良キ返答!初任務ノ伝令、栄エアル栄誉!我、噛ミ締メ中!噛ミ締メ中ゥゥウ!!」
にぎやかに羽ばたく鎹鴉の声を背に、名前が振り返ると、静水がそっと立ち上がった。
その手には、淡い青の羽織があった。
雫を思わせる小さな紋が、袖にひとつだけ、慎ましく刺繍されている。
「これを……受け取ってください」
「……羽織?」
「ええ。私がまだ、剣を振るっていた頃のものです。今の私には、もう必要のないものですから」
静水は静かに言った。
「けれどこれは、長い間、私の背を守ってくれました。どうか少しでも、貴女から災いを遠ざけてくれますようにと……そう願いを込めて、渡します」
名前はその羽織を、静かに受け取る。
少しだけ褪せた布地には、幾つもの時間と想いが染み込んでいた。
「……ありがとうございます」
小さな声だったが、名前の手はその羽織をしっかりと握っていた。
そして、静水に向き直る。
「行ってきます。静水様」
「気をつけて。……貴女の剣は、今や“雫の流れ”だけではない。かつてその剣を握った方の、誇りも、想いも……確かに息づいていますから」
「…はい」
名前の返事は短く、けれどしっかりとした声音だった。
朝の陽が差し込み、彼女の背の刀の一振りが、静かに光を湛えた。
その背に、静水が声をかける。
「名前。いつでも…帰ってきて良いのですよ。私はここで、貴女を待っていますからね」
祈る様なその言葉に、名前は静かに一礼する。
風に羽織の裾が揺れ、藤の葉と共に、またひとつの別れを告げた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
夕暮れの山道を、一人の少女が歩いていた。
漆黒の隊服と薄青色の羽織に身を包み、背に刀を負ったその姿に、畑を終えた村人たちがちらりと目を向ける。
少女――名前は、足を止めて静かに頭を下げた。
「こんばんは。突然のご無礼をお許しください。少しだけ、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
最初に応えたのは、白髪の老人だった。
「……旅の人かね。こんな山奥に、珍しいな」
「はい、道中で知人を捜しております。昨晩、この近くで何かあったと聞いて……若い男の方が怪我をして、こちらの方角へ逃げてこられたと」
村人たちが顔を見合わせる。
その空気には、わずかに警戒の色が混じっていた。
「怪我人……か」
「……たしか、村の裏手の納屋に……倒れてた人がいるって……」
「うまく喋れないみたいで……ほとんど泣くばかりだって」
「今も、誰かが様子を見てるはずだよ」
名前はもう一度、丁寧に頭を下げた。
「ご親切にありがとうございます。助かります」
そのまま背を向けて歩き出すと、すぐに村人たちの小さなささやきが背後に流れた。
「あの子……なんだか、妙な雰囲気で……」
「刀なんか持って……何者なんだろうな……」
けれど名前は、振り返らなかった。
淡い茜色に染まる空の下、ただ静かに、歩みを進めていた。
村の裏手へと向かう細い小道を、名前は一歩一歩、確かめるように進んだ。
周囲はすでに夕闇が滲み始め、木々の影が長く伸びている。
ぽつんと建つ古びた納屋の前に、ひとりの年配の女が腰を下ろしていた。
名前が近づくと、女はわずかに身を引いた。
「失礼します。倒れていた方は、こちらにいらっしゃいますか」
「え、あ……あぁ、はい。中に……」
女が戸を指さす。
「まだうまく喋れなくて、泣いたり怯えたりして……なんだか様子がおかしいんですよ」
名前は小さく頷くと、ゆっくりと戸を開けた。
納屋の中はほの暗く、乾いた藁の匂いが漂っていた。
その奥、粗末な布の上に――青年がひとり、身を丸めるようにして座り込んでいた。
年の頃は十七、八。
顔は泥に汚れ、袖口には裂けた跡。
何度も同じ言葉を口の中で繰り返している。
「……こないで……やめて……くるな……」
名前は、声を荒げず、静かに口を開いた。
「こんばんは。私は、鬼殺隊の者です」
青年の肩がぴくりと震える。
「昨夜、鬼に襲われたと……貴方のことを聞いて、来ました」
言葉を選びながら、名前はそっと距離を詰めた。
「……安心してください。もう、貴方を襲うものはいません。私は、その鬼を討つためにここへ来ました」
青年はおそるおそる顔を上げる。
その目は恐怖に濁り、焦点が定まっていなかった。
けれど、名前の言葉の端々に、何かを掴もうとするように、唇を震わせた。
「……ほんと、に……あいつを、倒して、くれるのか……?」
「はい。お名前を、聞いても?」
「……聡……です……木島、聡……」
「木島さん。大丈夫、ゆっくりで構いません。……何があったのか、教えてください」
名前の声は、柔らかかった。
そうすることが、“盾の剣”の始まりであるのだと、静水に教わっていた。
青年の目に、少しだけ光が戻る。
「……山の、方から……来たんだ……真っ暗で……声がして……誰も、いないのに……笑ってて……!」
「気づいたら、俺の隣にいて……腕が、……腕が伸びてきて……!」
肩が震える。言葉が途切れる。
名前は一歩だけ近づき、そっと問いかける。
「鬼の姿は……見ましたか?」
聡は小さく、震える声で頷いた。
「目が、なかった。顔に、穴が開いてて……でも、こっちを見てた……!」
「俺、何もできなくて……みんな、喰われて……俺だけ逃げて……!」
その言葉は悲鳴のようだった。
名前は、深く頷いた。
「ありがとう、よく話してくれました」
「貴方のおかげで、情報が得られました。……必ず、その鬼を討ちます」
その言葉に、聡は泣きながら何度も頷いた。
納屋の外には、もう完全な夜が降りていた。
けれど名前の目は、迷いなく山の奥――鬼の潜む気配を、静かに見据えていた。