一章
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夕刻。
門下生達と夕餉を終えた名前は陽太の部屋を訪れた。
道場の奥、襖の開け放たれた座敷で名前は陽太の枕元に腰を下ろした。
「陽太。頂いた薬は飲めた?」
「…苦い……」
顔をしかめた陽太が、何かを求める様に名前を見る。その視線を受け、名前は困ったように微笑んだ。
「ほら、水飴。今日のは、あの飴屋さんの新しいやつだよ」
懐から小さな包みを取り出し、それを陽太の口元へと放り込んでやる。
陽太は口に含まれたそれに嬉しそうに笑った。
「あまぁい。ありがとう、姉上」
「まったく…父上と母上には内緒だからね」
「はぁい!へへ…」
とろりとした水飴が舌に触れた瞬間のこの笑顔に名前は弱かった。
口では呆れていても、病弱な弟をこうして甘やかしてしまう自分はダメな姉だろうか。
「姉上の水飴、大好き」
「別に、私が作ったんじゃないけど」
「それでも良いんだ。最後に姉上にもらった水飴食べると…薬の苦いの全部なくなるんだ」
そう言って再び笑顔を向けてくる陽太に、名前はそっと目を伏せた。
「はいはい。また持ってきてあげるから」
「うん。ずっと食べさせて」
「ずっとなんて言わないの。いつか、お薬もいらなくなるんだから」
「…そうかな」
「きっと」
陽太の細く小さな手を握る。
梅の甘い香りが、二人を優しく包んだ。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
この日、薬を飲んでも中々熱が下がらず寝苦しくて目が覚めた陽太は、水を飲もうと部屋から出た。
台所に向かっていると、両親の部屋に灯りが灯っていることに気が付いた。
両親がまだ起きている、彼らに頼ろうと部屋に近づいたが、中から声がして襖を開けようとした手を止めた。
「…お前が、あの子の隣にいてくれたら私達も安心できる」
父、澄誠の声だった。
その相手が朝霧颯太郎であることはすぐに察しがついた。
「名前の剣は、もはや父である私をも遥かに凌ぐ。だが…家のこと、人との繋がりとなれば、話は別だ」
綺羅子が沈んだ声で言う。
「あの子が男であれば、あるいは…」
「綺羅子」
「あの子には、女として幸せになってもらいたいのです。けれどあの子は、玖波を守る力を持っている…颯太郎さん。どうかあの子にその二つの幸せを叶えてあげて頂けませんか」
母の言葉は、陽太の心をえぐった。
つまり、母の言葉が示すことは。
「(婿入り…)」
朝霧颯太郎が、名前の夫として玖波に婿入りし、彼が玖波の名を継ぐ。
そうなったら、自分は?
「陽太には気の毒だが、あの子には--」
もう十分だった。
自分が、この家に必要とされていないことを思い知るには。
「(僕は、いらないんだ)」
姉が大好きだった。
優しく聡明な姉は、門下生や女中に慕われていた。
そして、姉は剣の天才だった。
九つの時には大人の門下生の稽古相手を務めた。
今ではもう、父も姉には敵わない。
皆が口々に言う。
「名前様は剣の申し子だ」
「太刀筋が一切乱れぬ。構えは凛として美しい」
「しかも恐ろしく速ぇときたもんだ。気がついたらやられてる。もう目が追いつかねぇよ」
名前の剣には、無駄がなかった。
剣が生きている様に、まるで水面に雫が一滴落ちる様に。
その美しさに目を奪われる頃にはもう、勝負は決まっていた。
対して自分は。
生まれた時から病弱で、少し剣を振るうだけで発熱し咳が止まらなかった。
もちろん、剣の才も全く無かった。
姉が、眩しくて仕方なかった。
気付いた時には、陽太は裸足で外へと飛び出していた。
春まだ浅い夜の風が肌を刺すように冷たかったが、その寒さすら彼の胸の中の焦げるような苦しみに比べれば、何ほどのこともなかった。
何処に行こうとしていたのか、自分でもわからない。
ただ、息が詰まりそうだった。
この家にいては――壊れてしまいそうだった。
足元の石畳が、夜露に濡れてぬめる。
月明かりが頼りない光を落とす中、庭を抜けて裏の小径に出た、その時だった。
「可哀想に」
突然、誰かの声がした。
澄んだ静寂に差し込まれたその音は、不思議なほど柔らかく、けれどどこか決定的におかしかった。
陽太が振り返ると、そこには――男がいた。
黒い着物に黒髪、真夜中の闇よりもなお深い色を纏ったような人物だった。
最初、誰か分からなかった。ただ、その男が「人ではない」と、本能が告げていた。
「……君は、望まれなかったのだろう。家族に、世間に。そして、あの姉にも」
姉。その単語に陽太の肩が震えた。
そんな陽太の姿に、男はふっと微笑んだ。
「苦しかったろう、特別な姉といつも比べられて。何もかもが労せず与えられた姉と、どんなに努力しても何も得られない自分」
陽太の胸が、ひりつく様に痛む。
何か言い返したいのに、喉が乾いてへばりついた様に何も言葉が出てこない。
「でも、もし。もしも、君がその差を埋められる力を持てたとしたら…どうだろう」
男の声は、酷く甘かった。
男の手が伸びる。その掌には、赤黒く蠢く、何か――血のような、瘴気のようなものが滴っていた。
「選ばれなかった君に、選ぶ権利をあげよう。
この世界を変える力を。
君自身の手で、すべてを変えられる。
……姉さえも、ね」
――姉さえも。
その言葉が、深く、深く、陽太の中に沈んでいった。
思い出される、名前の姿。
笑っていた姉。
優しく髪を撫でてくれた姉。
水飴を、薬のあとに差し出してくれた姉。
――でも、もう戻れない。
陽太の唇が、かすかに開いた。
「……僕に、できる?」
「もちろん」
即答だった。
「君は、私に選ばれたのだから。
それに、君には……最後に“甘いもの”が残っているじゃないか」
その言葉の意味に気づく前に、陽太の眼前が血に染まった。
滴る音がした。
味がした。
甘く、腐りかけた果実の様な。
その瞬間、彼の運命は、決して戻れない場所へと踏み込んでいた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
「…陽太様は、本当にお強くなられた。いずれ玖波家当主として恥じないお方になられるでしょう」
「うむ。病弱の身でありながら、陽太は剣を振るうことを諦めたことはない。それは何にも変えられぬ強さだ」
「今は名前に甘えてばかりですが…ふとした時に芯のある表情をする様になりました。きっともう少ししたら、陽太も一人で立つことができるでしょう」
綺羅子が、慈しみの表情で微笑む。
「颯太郎。この話、受けてくれるか」
「はい。私で良ければ喜んで…名前さんを伴侶に迎えたく存じます」
颯太郎の答えを聞き、澄誠は満足そうに笑み、そして断言した。
「玖波を継ぐのは、陽太に他ならぬ。陽太こそが、我らの嫡男であり、長男なのだから」
「しかしそれには時間がかかる…。どうか、颯太郎。名前と共に陽太を支えてやってほしい」
「颯太郎さん。名前と陽太を…どうか、よろしくお願い致します」
「はい。その覚悟で、参りました」
春風が障子を揺らす。
颯太郎と両親のこの会話を、陽太は永遠に知ることはない。
悲劇の足音は、もうすぐそこに迫っていた。
門下生達と夕餉を終えた名前は陽太の部屋を訪れた。
道場の奥、襖の開け放たれた座敷で名前は陽太の枕元に腰を下ろした。
「陽太。頂いた薬は飲めた?」
「…苦い……」
顔をしかめた陽太が、何かを求める様に名前を見る。その視線を受け、名前は困ったように微笑んだ。
「ほら、水飴。今日のは、あの飴屋さんの新しいやつだよ」
懐から小さな包みを取り出し、それを陽太の口元へと放り込んでやる。
陽太は口に含まれたそれに嬉しそうに笑った。
「あまぁい。ありがとう、姉上」
「まったく…父上と母上には内緒だからね」
「はぁい!へへ…」
とろりとした水飴が舌に触れた瞬間のこの笑顔に名前は弱かった。
口では呆れていても、病弱な弟をこうして甘やかしてしまう自分はダメな姉だろうか。
「姉上の水飴、大好き」
「別に、私が作ったんじゃないけど」
「それでも良いんだ。最後に姉上にもらった水飴食べると…薬の苦いの全部なくなるんだ」
そう言って再び笑顔を向けてくる陽太に、名前はそっと目を伏せた。
「はいはい。また持ってきてあげるから」
「うん。ずっと食べさせて」
「ずっとなんて言わないの。いつか、お薬もいらなくなるんだから」
「…そうかな」
「きっと」
陽太の細く小さな手を握る。
梅の甘い香りが、二人を優しく包んだ。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
この日、薬を飲んでも中々熱が下がらず寝苦しくて目が覚めた陽太は、水を飲もうと部屋から出た。
台所に向かっていると、両親の部屋に灯りが灯っていることに気が付いた。
両親がまだ起きている、彼らに頼ろうと部屋に近づいたが、中から声がして襖を開けようとした手を止めた。
「…お前が、あの子の隣にいてくれたら私達も安心できる」
父、澄誠の声だった。
その相手が朝霧颯太郎であることはすぐに察しがついた。
「名前の剣は、もはや父である私をも遥かに凌ぐ。だが…家のこと、人との繋がりとなれば、話は別だ」
綺羅子が沈んだ声で言う。
「あの子が男であれば、あるいは…」
「綺羅子」
「あの子には、女として幸せになってもらいたいのです。けれどあの子は、玖波を守る力を持っている…颯太郎さん。どうかあの子にその二つの幸せを叶えてあげて頂けませんか」
母の言葉は、陽太の心をえぐった。
つまり、母の言葉が示すことは。
「(婿入り…)」
朝霧颯太郎が、名前の夫として玖波に婿入りし、彼が玖波の名を継ぐ。
そうなったら、自分は?
「陽太には気の毒だが、あの子には--」
もう十分だった。
自分が、この家に必要とされていないことを思い知るには。
「(僕は、いらないんだ)」
姉が大好きだった。
優しく聡明な姉は、門下生や女中に慕われていた。
そして、姉は剣の天才だった。
九つの時には大人の門下生の稽古相手を務めた。
今ではもう、父も姉には敵わない。
皆が口々に言う。
「名前様は剣の申し子だ」
「太刀筋が一切乱れぬ。構えは凛として美しい」
「しかも恐ろしく速ぇときたもんだ。気がついたらやられてる。もう目が追いつかねぇよ」
名前の剣には、無駄がなかった。
剣が生きている様に、まるで水面に雫が一滴落ちる様に。
その美しさに目を奪われる頃にはもう、勝負は決まっていた。
対して自分は。
生まれた時から病弱で、少し剣を振るうだけで発熱し咳が止まらなかった。
もちろん、剣の才も全く無かった。
姉が、眩しくて仕方なかった。
気付いた時には、陽太は裸足で外へと飛び出していた。
春まだ浅い夜の風が肌を刺すように冷たかったが、その寒さすら彼の胸の中の焦げるような苦しみに比べれば、何ほどのこともなかった。
何処に行こうとしていたのか、自分でもわからない。
ただ、息が詰まりそうだった。
この家にいては――壊れてしまいそうだった。
足元の石畳が、夜露に濡れてぬめる。
月明かりが頼りない光を落とす中、庭を抜けて裏の小径に出た、その時だった。
「可哀想に」
突然、誰かの声がした。
澄んだ静寂に差し込まれたその音は、不思議なほど柔らかく、けれどどこか決定的におかしかった。
陽太が振り返ると、そこには――男がいた。
黒い着物に黒髪、真夜中の闇よりもなお深い色を纏ったような人物だった。
最初、誰か分からなかった。ただ、その男が「人ではない」と、本能が告げていた。
「……君は、望まれなかったのだろう。家族に、世間に。そして、あの姉にも」
姉。その単語に陽太の肩が震えた。
そんな陽太の姿に、男はふっと微笑んだ。
「苦しかったろう、特別な姉といつも比べられて。何もかもが労せず与えられた姉と、どんなに努力しても何も得られない自分」
陽太の胸が、ひりつく様に痛む。
何か言い返したいのに、喉が乾いてへばりついた様に何も言葉が出てこない。
「でも、もし。もしも、君がその差を埋められる力を持てたとしたら…どうだろう」
男の声は、酷く甘かった。
男の手が伸びる。その掌には、赤黒く蠢く、何か――血のような、瘴気のようなものが滴っていた。
「選ばれなかった君に、選ぶ権利をあげよう。
この世界を変える力を。
君自身の手で、すべてを変えられる。
……姉さえも、ね」
――姉さえも。
その言葉が、深く、深く、陽太の中に沈んでいった。
思い出される、名前の姿。
笑っていた姉。
優しく髪を撫でてくれた姉。
水飴を、薬のあとに差し出してくれた姉。
――でも、もう戻れない。
陽太の唇が、かすかに開いた。
「……僕に、できる?」
「もちろん」
即答だった。
「君は、私に選ばれたのだから。
それに、君には……最後に“甘いもの”が残っているじゃないか」
その言葉の意味に気づく前に、陽太の眼前が血に染まった。
滴る音がした。
味がした。
甘く、腐りかけた果実の様な。
その瞬間、彼の運命は、決して戻れない場所へと踏み込んでいた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
「…陽太様は、本当にお強くなられた。いずれ玖波家当主として恥じないお方になられるでしょう」
「うむ。病弱の身でありながら、陽太は剣を振るうことを諦めたことはない。それは何にも変えられぬ強さだ」
「今は名前に甘えてばかりですが…ふとした時に芯のある表情をする様になりました。きっともう少ししたら、陽太も一人で立つことができるでしょう」
綺羅子が、慈しみの表情で微笑む。
「颯太郎。この話、受けてくれるか」
「はい。私で良ければ喜んで…名前さんを伴侶に迎えたく存じます」
颯太郎の答えを聞き、澄誠は満足そうに笑み、そして断言した。
「玖波を継ぐのは、陽太に他ならぬ。陽太こそが、我らの嫡男であり、長男なのだから」
「しかしそれには時間がかかる…。どうか、颯太郎。名前と共に陽太を支えてやってほしい」
「颯太郎さん。名前と陽太を…どうか、よろしくお願い致します」
「はい。その覚悟で、参りました」
春風が障子を揺らす。
颯太郎と両親のこの会話を、陽太は永遠に知ることはない。
悲劇の足音は、もうすぐそこに迫っていた。