二章
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淡く、長い六日間だった。
名前は、常に前を歩いていた。
声を上げることもなく、疲れた様子も見せず、ただ鬼を――“討つべきもの”を斬り続けた。
夜が来るたびに、鬼は姿を現した。
だが、名前の剣は一度も迷わなかった。
何の装飾もない斬撃だった。
綾斗はただ、その背を追っていた。
名前によって斬られた鬼たちの首が地に落ちるたび、彼は自分の無力を噛み締めた。
怖くて、震えて、何もできないまま五夜が過ぎた。
何度も、「やっぱり俺には無理だ」と思った。
けれどその背中が、進み続けていたから、彼は置いていかれまいと必死だった。
そして、六日目の夜。
森の気配が、変わった。
空気がどこか粘ついて、湿っている。
風が動かない。虫の声がしない。夜のはずなのに、空が妙に明るい。
「……っ」
綾斗が息を呑んだ。
そこに、“それ”はいた。
倒木の向こう、広がる斜面に――
鬼がいた。
いや、“それ”の周囲には、すでに十を超える人の亡骸が転がっていた。
裂けた腹。ねじれた首。手足が無惨に引きちぎられた者もいた。
血の匂いが、森を満たしている。
綾斗は、声を出せなかった。
足も動かなかった。
その鬼は、長く太い縄のような筋肉で全身を縛るように巻きつけており、腕や脚にも、縄のような捻れた筋が浮き出ていた。
縄を使って狩るのではない。
縄そのものが鬼の“肉”なのだ。
「……あ?」
その“縄鬼”が、こちらを見た。
目があった瞬間――綾斗の背筋に氷のようなものが走る。
「……なんだ…まだ生き残りがいたのかァ…」
その声は、ざらついた砂のようだった。
縄鬼はゆっくりと足を踏み出した。
その一歩ごとに、山の地面がみしりと鳴る。
「なァんか懐かしい匂いがすんなあ……」
笑いながら、鬼が言う。
「……どこかで嗅いだことあるなァ……ほら、あれだよ……あの“役立たずの盾”共の匂い……」
その視線が、綾斗に向いた。
「……オイ、そこの震えてる坊主。お前、昔の雫のガキの仲間か?」
「っ……」
綾斗は一歩も動けなかった。
足が、身体が、凍りついていた。
鬼が踏み出す。
縄のような腕がずるりと地面を引きずりながら、持ち上がる。
「あ〜〜…昔もいたなァ……守ってくれる“盾”に隠れて、死ぬまで逃げ続ける奴がよ……まずはお前から“味見”してやるよォッ!」
腕が振り上げられた、その瞬間――
「――雫の呼吸・陸ノ型」
ぱん、と風を断つ音が響いた。
視界が水の幕に包まれるような、透明な“気流”が綾斗の前に広がった。
名前だった。
彼女は、綾斗の前に音もなく躍り出て、その腕に刃を構え、剣の軌道に重ねて空間を切り裂く。
空気が揺らぐように、鬼の縄腕の一撃が弾かれた。
刃と刃の間に、一瞬だけ“水面”のような薄膜が広がったかのようだった。
《隔水の楯》。
雫の呼吸・陸ノ型。
仲間を護るための、盾の技。
鬼の腕が外へと逸れ、綾斗の横の樹を粉砕した。
「……!」
綾斗がはっと息を呑んだ。
そして――
鬼が笑った。
「……あァ……やっぱり、そうだよあ……!」
縄鬼の目が、爛々と光る。
「この流れ……この匂い……“水の盾”――間違いねえ……雫の呼吸!!」
「ははっ、最高だ!なんて夜だ……!また喰えるなんてよォ、夢にも思わなかった!!」
縄鬼は喜悦に満ちた顔で、腕を振り上げる。
「逃げんなよ、嬢ちゃん!お前みてぇな役ただずの盾を喰うのが、俺は一番好きなんだよ!!」
綾斗は震えながらも、その背で名前が盾になってくれた事実を、ただ呆然と、しかし確かに、受け止めていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
裂けた腹。千切れた腕。ねじられた首。
肉片と化した者もいた。受験者の羽織が血にまみれ、山の闇に沈んでいく。
綾斗はその場に崩れ落ちそうになった。
そして、その“山”の上に――鬼がいた。
筋肉が縄のように撚れ、全身を締めつけるように走っている。
両腕は異様に太く長く、その表面には結び目のような膨らみが連なっていた。
「…………」
鬼が、顔を上げた。
その目が名前を捉えると、にたりと口角が吊り上がる。
「懐かしいなぁ……」
縄鬼の目が細まり、舌なめずりするように、その巨体をゆらりと揺らす。
「昔なァ、この山で二人ばかし、喰ったんだよ。一人は小僧で、やたらへらへらしてた。剣もろくに振れないくせに、“おばあ様に褒めてもらいたいんです”って、ニコニコしながら前に出てきやがった」
「もう一人は女。無駄に真面目で、うるせえガキだった。“師範に恥じぬよう、盾になります”――だとよ。おかげで随分、楽しく食えた」
綾斗が震えながら、息を呑んだ。
鬼は続ける。
「どっちも最後まで逃げねぇのな。笑っちまうだろ?俺にかすり傷一つつけられねぇくせに、守ろうとするんだぜ?」
「で、お前も同じ匂いがする。すぐわかったよ。“斬れねえけど前に立つ”――そういう、“役立たずの盾”の臭いだ」
名前の目が、ふっと細くなる。
「……」
「どうした?何とか言ってみろよ。“剣は捨てません”とか、“人のために死ぬ覚悟はある”とか…そういうのが雫の剣士の決まり文句なんだろ?」
そして、鬼は笑う。
「でも、結局あの二人は、誰一人守れなかった。滑稽だよなァ。最期の瞬間まで、顔を歪めながら、“どうか誰かだけでも……!”とか叫んでたぜ?」
「他の受験者?――喰ったよ。全員、そいつらの目の前で。自分も守れねぇくせに盾なんてなぁ……無様だよな」
名前の呼吸が、かすかに揺れた。
「……黙れ」
その声は低く、かすかに震えていた。
「その子達が……どんな想いで剣を振るったと思ってる………」
鬼は面白がるように目を細めた。
「知るかよ。俺にゃ関係ねぇ。ただの残骸に、何を期待してんだ?」
名前の肩が、ぴくりと動いた。
彼女の中で、何かが軋んでいた。
「……静水様が……どんな想いで帰りを待っていたと思ってる……!」
剣を構える手に力が入る。
だが――
その怒りは、彼女の“呼吸”を乱した。
雫の呼吸は、繊細な静けさの上に成り立つ。
怒りや悲しみ――感情の波に飲まれれば、型は崩れる。
(……だめだ、呼吸が……乱れる……)
「なら、その“静水様”とやらに伝えてやるよ!“三人目の餓鬼も、俺に美味しく喰われて死にました”ってなァ!!」
縄鬼が跳ねた。
「――っ!」
名前は雫の呼吸を取ろうとする。
だが、遅れた。間に合わない。
鬼の縄じみた腕が迫る。
回避しきれず、肩を掠めるように衝撃が走った。
「くっ……!」
身体が弾かれ、勢い良く岩肌にぶつかる。
肋骨の折れた音が鈍く響いた。
それでも、名前はすぐに立ち上がる。
剣を握る手が震えている。
呼吸が、定まらない。
「――どうした、“盾の嬢ちゃん”」
縄鬼が、ゆったりと歩み寄る。
太く縄のように撚れた筋肉が、ぞわぞわと蠢きながら音を立てている。
「雫の剣士ってのは、みんなそうか?“斬れねぇけど守れます”って顔して突っ込んできて、勝手に死んで、勝手に骨になって終わりか?」
名前は無言のまま剣を構えていた。
その両肩が、大きく揺れている。
鬼の声が、なおも続く。
「それで送り出す方もどうかしてんな。守ることしかできねぇ、弱ェ剣の使い手を最終選別になんてよ。そんなガキを“盾として送り出す”なんざ、どういう神経してんだ?」
笑いながら、鬼は言った。
「――そのババア、頭おかしいんじゃねぇのか?」
瞬間。
名前の瞳に、色が戻った。
それは――怒りだった。
どうしようもなく熱い、大切な人を侮辱された者の、激しく燃える焔を滾らせた目だった。
鬼は唇を吊り上げる。
「どうした、怒ったのかァ?お前は喋らなくてつまんねェからよ、何度でも言ってやるよ。そのババアは、犬死にさせるために弟子達を送り出して――」
「――ッ黙れッッ!!」
その瞬間、名前の身体が閃いた。
構えもなく、呼吸の型も整わぬまま、剣が振りかぶられた。
(駄目だ!)
綾斗が思った。
(呼吸も剣筋も、めちゃくちゃだ!)
しかし、名前の足は止まらなかった。
突き動かされたのは怒り。
“静水を、散っていった雫の剣士を侮辱された”ことへの――抑えきれぬ、感情の波。
「静水様は……!」
「雫の呼吸は……役立たずの盾なんかじゃないッ!」
「犬死なんかじゃないッ!!」
「最期まで誰かのためにあろうとしたんだ!!それがどんなに尊いことかっ…、お前如きが、軽々しく口にして良いものじゃないんだッッ!!」
名前の剣が振るわれた。
だが――その軌道は、余りに粗かった。
呼吸が、整っていない。
心が乱れている。
静寂の芯も、雫の流れも、その一太刀一太刀には宿っていなかった。
「甘いなァ」
縄鬼が笑う。
腕が振り上げられる。
縄のような筋がしなり、剣を巻き取るように絡みつく。
「なっ……!」
名前の剣が押し返される。
腕が痺れる。
「雫の剣士ってのは、ほんと……哀れな“盾”だよなァ」
「怒れば雑になる。乱れれば弱くなる。心が静かじゃなきゃ、技も何も通じねぇ」
「――だから、お前も、犬死するんだよ」
鬼の手が迫る。
その刹那、名前の顔がわずかに歪んだ。
(憎い。弱い自分が、憎くて堪らない)
(全部、足りない……全部、届かない……!)
そう心の中で叫んだ瞬間だった。
名前の瞳から、ひと粒の涙が、頬を伝って零れた。
それは、恐怖ではない。
――あまりに悔しく、あまりに情けない、自分自身への怒りの涙だった。
それでも、体が反応できない。
気持ちと身体の動きが一致しない。
剣が間に合わない。
「ッ……!」
鬼の腕が、振り下ろされる。
ねじれた縄の爪が、目前に容赦なく迫る。
その時――
「やめろォォーーッ!!」
闇を裂くような叫びと共に、飛び込んでくる影があった。
綾斗だった。
涙を見たその瞬間、彼の中で何かが弾けた。
「水の呼吸……壱ノ型――水面斬り!!」
構えも、技の完成度も荒い。
けれどそれは、彼が初めて“剣として振るった”一太刀だった。
しぶきのように放たれたその刃は――名前に迫っていた鬼の爪を、確かに弾き斬った。
「なっ……!」
縄鬼の腕が、裂けた。
わずかに深く、斬り込みが走る。
皮膚から血が滲み、腕が引き戻された。
綾斗は、息を詰めながら名前の前に立ち塞がる。
「もう……やめろ……っ」
「……誰が……誰が犬死だよ……!」
「これ以上名前ちゃんに酷いこと言ってみろ……許さないぞ!!」
震えながらも、彼は剣を握る手を緩めなかった。
その背を見て――名前の表情が、変わっていく。
守られたのは、初めてだった。
誰かが、自分の前に立ってくれたのは――本当に、初めてだった。
その背は細い。
けれど、それが灯した光は、確かに名前の胸に届いていた。
名前は、常に前を歩いていた。
声を上げることもなく、疲れた様子も見せず、ただ鬼を――“討つべきもの”を斬り続けた。
夜が来るたびに、鬼は姿を現した。
だが、名前の剣は一度も迷わなかった。
何の装飾もない斬撃だった。
綾斗はただ、その背を追っていた。
名前によって斬られた鬼たちの首が地に落ちるたび、彼は自分の無力を噛み締めた。
怖くて、震えて、何もできないまま五夜が過ぎた。
何度も、「やっぱり俺には無理だ」と思った。
けれどその背中が、進み続けていたから、彼は置いていかれまいと必死だった。
そして、六日目の夜。
森の気配が、変わった。
空気がどこか粘ついて、湿っている。
風が動かない。虫の声がしない。夜のはずなのに、空が妙に明るい。
「……っ」
綾斗が息を呑んだ。
そこに、“それ”はいた。
倒木の向こう、広がる斜面に――
鬼がいた。
いや、“それ”の周囲には、すでに十を超える人の亡骸が転がっていた。
裂けた腹。ねじれた首。手足が無惨に引きちぎられた者もいた。
血の匂いが、森を満たしている。
綾斗は、声を出せなかった。
足も動かなかった。
その鬼は、長く太い縄のような筋肉で全身を縛るように巻きつけており、腕や脚にも、縄のような捻れた筋が浮き出ていた。
縄を使って狩るのではない。
縄そのものが鬼の“肉”なのだ。
「……あ?」
その“縄鬼”が、こちらを見た。
目があった瞬間――綾斗の背筋に氷のようなものが走る。
「……なんだ…まだ生き残りがいたのかァ…」
その声は、ざらついた砂のようだった。
縄鬼はゆっくりと足を踏み出した。
その一歩ごとに、山の地面がみしりと鳴る。
「なァんか懐かしい匂いがすんなあ……」
笑いながら、鬼が言う。
「……どこかで嗅いだことあるなァ……ほら、あれだよ……あの“役立たずの盾”共の匂い……」
その視線が、綾斗に向いた。
「……オイ、そこの震えてる坊主。お前、昔の雫のガキの仲間か?」
「っ……」
綾斗は一歩も動けなかった。
足が、身体が、凍りついていた。
鬼が踏み出す。
縄のような腕がずるりと地面を引きずりながら、持ち上がる。
「あ〜〜…昔もいたなァ……守ってくれる“盾”に隠れて、死ぬまで逃げ続ける奴がよ……まずはお前から“味見”してやるよォッ!」
腕が振り上げられた、その瞬間――
「――雫の呼吸・陸ノ型」
ぱん、と風を断つ音が響いた。
視界が水の幕に包まれるような、透明な“気流”が綾斗の前に広がった。
名前だった。
彼女は、綾斗の前に音もなく躍り出て、その腕に刃を構え、剣の軌道に重ねて空間を切り裂く。
空気が揺らぐように、鬼の縄腕の一撃が弾かれた。
刃と刃の間に、一瞬だけ“水面”のような薄膜が広がったかのようだった。
《隔水の楯》。
雫の呼吸・陸ノ型。
仲間を護るための、盾の技。
鬼の腕が外へと逸れ、綾斗の横の樹を粉砕した。
「……!」
綾斗がはっと息を呑んだ。
そして――
鬼が笑った。
「……あァ……やっぱり、そうだよあ……!」
縄鬼の目が、爛々と光る。
「この流れ……この匂い……“水の盾”――間違いねえ……雫の呼吸!!」
「ははっ、最高だ!なんて夜だ……!また喰えるなんてよォ、夢にも思わなかった!!」
縄鬼は喜悦に満ちた顔で、腕を振り上げる。
「逃げんなよ、嬢ちゃん!お前みてぇな役ただずの盾を喰うのが、俺は一番好きなんだよ!!」
綾斗は震えながらも、その背で名前が盾になってくれた事実を、ただ呆然と、しかし確かに、受け止めていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
裂けた腹。千切れた腕。ねじられた首。
肉片と化した者もいた。受験者の羽織が血にまみれ、山の闇に沈んでいく。
綾斗はその場に崩れ落ちそうになった。
そして、その“山”の上に――鬼がいた。
筋肉が縄のように撚れ、全身を締めつけるように走っている。
両腕は異様に太く長く、その表面には結び目のような膨らみが連なっていた。
「…………」
鬼が、顔を上げた。
その目が名前を捉えると、にたりと口角が吊り上がる。
「懐かしいなぁ……」
縄鬼の目が細まり、舌なめずりするように、その巨体をゆらりと揺らす。
「昔なァ、この山で二人ばかし、喰ったんだよ。一人は小僧で、やたらへらへらしてた。剣もろくに振れないくせに、“おばあ様に褒めてもらいたいんです”って、ニコニコしながら前に出てきやがった」
「もう一人は女。無駄に真面目で、うるせえガキだった。“師範に恥じぬよう、盾になります”――だとよ。おかげで随分、楽しく食えた」
綾斗が震えながら、息を呑んだ。
鬼は続ける。
「どっちも最後まで逃げねぇのな。笑っちまうだろ?俺にかすり傷一つつけられねぇくせに、守ろうとするんだぜ?」
「で、お前も同じ匂いがする。すぐわかったよ。“斬れねえけど前に立つ”――そういう、“役立たずの盾”の臭いだ」
名前の目が、ふっと細くなる。
「……」
「どうした?何とか言ってみろよ。“剣は捨てません”とか、“人のために死ぬ覚悟はある”とか…そういうのが雫の剣士の決まり文句なんだろ?」
そして、鬼は笑う。
「でも、結局あの二人は、誰一人守れなかった。滑稽だよなァ。最期の瞬間まで、顔を歪めながら、“どうか誰かだけでも……!”とか叫んでたぜ?」
「他の受験者?――喰ったよ。全員、そいつらの目の前で。自分も守れねぇくせに盾なんてなぁ……無様だよな」
名前の呼吸が、かすかに揺れた。
「……黙れ」
その声は低く、かすかに震えていた。
「その子達が……どんな想いで剣を振るったと思ってる………」
鬼は面白がるように目を細めた。
「知るかよ。俺にゃ関係ねぇ。ただの残骸に、何を期待してんだ?」
名前の肩が、ぴくりと動いた。
彼女の中で、何かが軋んでいた。
「……静水様が……どんな想いで帰りを待っていたと思ってる……!」
剣を構える手に力が入る。
だが――
その怒りは、彼女の“呼吸”を乱した。
雫の呼吸は、繊細な静けさの上に成り立つ。
怒りや悲しみ――感情の波に飲まれれば、型は崩れる。
(……だめだ、呼吸が……乱れる……)
「なら、その“静水様”とやらに伝えてやるよ!“三人目の餓鬼も、俺に美味しく喰われて死にました”ってなァ!!」
縄鬼が跳ねた。
「――っ!」
名前は雫の呼吸を取ろうとする。
だが、遅れた。間に合わない。
鬼の縄じみた腕が迫る。
回避しきれず、肩を掠めるように衝撃が走った。
「くっ……!」
身体が弾かれ、勢い良く岩肌にぶつかる。
肋骨の折れた音が鈍く響いた。
それでも、名前はすぐに立ち上がる。
剣を握る手が震えている。
呼吸が、定まらない。
「――どうした、“盾の嬢ちゃん”」
縄鬼が、ゆったりと歩み寄る。
太く縄のように撚れた筋肉が、ぞわぞわと蠢きながら音を立てている。
「雫の剣士ってのは、みんなそうか?“斬れねぇけど守れます”って顔して突っ込んできて、勝手に死んで、勝手に骨になって終わりか?」
名前は無言のまま剣を構えていた。
その両肩が、大きく揺れている。
鬼の声が、なおも続く。
「それで送り出す方もどうかしてんな。守ることしかできねぇ、弱ェ剣の使い手を最終選別になんてよ。そんなガキを“盾として送り出す”なんざ、どういう神経してんだ?」
笑いながら、鬼は言った。
「――そのババア、頭おかしいんじゃねぇのか?」
瞬間。
名前の瞳に、色が戻った。
それは――怒りだった。
どうしようもなく熱い、大切な人を侮辱された者の、激しく燃える焔を滾らせた目だった。
鬼は唇を吊り上げる。
「どうした、怒ったのかァ?お前は喋らなくてつまんねェからよ、何度でも言ってやるよ。そのババアは、犬死にさせるために弟子達を送り出して――」
「――ッ黙れッッ!!」
その瞬間、名前の身体が閃いた。
構えもなく、呼吸の型も整わぬまま、剣が振りかぶられた。
(駄目だ!)
綾斗が思った。
(呼吸も剣筋も、めちゃくちゃだ!)
しかし、名前の足は止まらなかった。
突き動かされたのは怒り。
“静水を、散っていった雫の剣士を侮辱された”ことへの――抑えきれぬ、感情の波。
「静水様は……!」
「雫の呼吸は……役立たずの盾なんかじゃないッ!」
「犬死なんかじゃないッ!!」
「最期まで誰かのためにあろうとしたんだ!!それがどんなに尊いことかっ…、お前如きが、軽々しく口にして良いものじゃないんだッッ!!」
名前の剣が振るわれた。
だが――その軌道は、余りに粗かった。
呼吸が、整っていない。
心が乱れている。
静寂の芯も、雫の流れも、その一太刀一太刀には宿っていなかった。
「甘いなァ」
縄鬼が笑う。
腕が振り上げられる。
縄のような筋がしなり、剣を巻き取るように絡みつく。
「なっ……!」
名前の剣が押し返される。
腕が痺れる。
「雫の剣士ってのは、ほんと……哀れな“盾”だよなァ」
「怒れば雑になる。乱れれば弱くなる。心が静かじゃなきゃ、技も何も通じねぇ」
「――だから、お前も、犬死するんだよ」
鬼の手が迫る。
その刹那、名前の顔がわずかに歪んだ。
(憎い。弱い自分が、憎くて堪らない)
(全部、足りない……全部、届かない……!)
そう心の中で叫んだ瞬間だった。
名前の瞳から、ひと粒の涙が、頬を伝って零れた。
それは、恐怖ではない。
――あまりに悔しく、あまりに情けない、自分自身への怒りの涙だった。
それでも、体が反応できない。
気持ちと身体の動きが一致しない。
剣が間に合わない。
「ッ……!」
鬼の腕が、振り下ろされる。
ねじれた縄の爪が、目前に容赦なく迫る。
その時――
「やめろォォーーッ!!」
闇を裂くような叫びと共に、飛び込んでくる影があった。
綾斗だった。
涙を見たその瞬間、彼の中で何かが弾けた。
「水の呼吸……壱ノ型――水面斬り!!」
構えも、技の完成度も荒い。
けれどそれは、彼が初めて“剣として振るった”一太刀だった。
しぶきのように放たれたその刃は――名前に迫っていた鬼の爪を、確かに弾き斬った。
「なっ……!」
縄鬼の腕が、裂けた。
わずかに深く、斬り込みが走る。
皮膚から血が滲み、腕が引き戻された。
綾斗は、息を詰めながら名前の前に立ち塞がる。
「もう……やめろ……っ」
「……誰が……誰が犬死だよ……!」
「これ以上名前ちゃんに酷いこと言ってみろ……許さないぞ!!」
震えながらも、彼は剣を握る手を緩めなかった。
その背を見て――名前の表情が、変わっていく。
守られたのは、初めてだった。
誰かが、自分の前に立ってくれたのは――本当に、初めてだった。
その背は細い。
けれど、それが灯した光は、確かに名前の胸に届いていた。