二章
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山の麓には、薄紫の花が、まるで雨のように垂れ下がっていた。
辺り一帯を包むのは、静かな香りと、夜明けを待つ冷たい空気。
藤の花が満ちるこの山――ここが最終選別の舞台。
生き残れば鬼殺隊への道が開かれる。
だが戻らぬ者もまた、多い。
沈黙が張り詰めていた。
十五、六名程だろうか。
選別に挑む者たちは皆、緊張と恐怖を抱えながら、どこにも視線を向けられず、ただ自分の鼓動の音に耳を澄ませている。
名前は、その中にあって――ただ静かに立っていた。
何も言わず、息を乱すこともなく。
夜風が揺らす藤の花すら、まるでその気配を避けるように舞っている。
その少し後ろには、ひとりの少年――鷹司綾斗。
細い肩を震わせながらも、その足は揺れていなかった。
彼は名前の落ち着きに、理由のわからぬ安心を覚えていた。
まもなく、山門の前に二人の子供が現れる。
一人は、白髪の少女。
もう一人は、黒髪の少女。
(……あまね様と……そっくり……?)
名前はふと、心の中で呟いた。
あの凛とした佇まい、感情の見えない瞳――かつて藤の家紋の屋敷で出会った、あの人と。
二人は同時に一礼し、淡々と告げる。
「これより、最終選別を開始します」
黒髪の少女が、殆ど感情を交えずに言う。
「この藤襲山には、鬼殺隊の剣士様方が捕らえ、幽閉した鬼が多数潜んでいます。ですが、外に出ることはできません。山の麓から中腹にかけて鬼共の嫌う藤の花が一年中、狂い咲いているからでございます」
白髪の少女が続けて告げる。
「しかし、ここから先には藤の花は咲いておりませんから鬼共がおります。この中で七日間、この山で生き延びた者だけが、鬼殺隊士として認められます」
それだけを告げて、二人は再び静かに頭を下げる。
「「では、行ってらっしゃいませ」」
直後、山門が重く軋みながら開かれた。
その先には、夜の藤襲山。
光の届かぬ闇と、静かな死の気配が待っていた。
名前は、迷うことなく歩を進める。
刀を手に、足元も揺れずに。
綾斗がその後を慌てて追いかける。
「ま、待ってください……!あ、あの……えっと…その、隣に行っても、いいですか…?」
返事はない。
だが、歩調がほんの少しだけ緩んだ。
それだけで十分だった。
二人の影が、夜の藤の森の奥へと、静かに吸い込まれていく。
最終選別。
生と死を分ける七日間が、今――始まった。
山の中腹に足を踏み入れると、途端に辺りは暗く、湿った土と朽ち葉の匂いが鼻をついた。
木々は高く、空を覆い隠し、月の光すら地面には届かない。
風もない。
音もない。
ただ、枯枝を踏む足音と、自身の呼吸だけが、闇の中に響く。
綾斗は、静かに名前の後ろを歩いていた。
足音を立てまいと、何度も呼吸を調えながら、
それでも落ち葉が舞い、草を掻き分ける音が小さく響くたび、彼は身体をすくませていた。
「…………」
前を行く名前は、まるで気配を消しているかのように静かだった。
足元も乱れず、背筋も揺れず、ただ前を見据えて進んでいる。
(……すごいな、この人……)
綾斗は思わず、そんなことを考えた。
自分はまだ、水の呼吸の型すら定まらない。
鬼と本気で戦った経験もない。
だからこそ、落ち着き払ったこの少女の背が、
少しだけ――心強く思えた。
「……えっと、すみません。黙ってついてきてばっかりで」
綾斗がぽつりと呟くように言った。
名前は何も答えない。
ただ、その歩みが止まらないことが、返事のように感じられた。
綾斗は息を整え、空を見上げる。
木々の間からわずかに覗く月が、夜の山の深さを、静かに照らしていた。
そのとき――
風が止んだ。
空気が変わる。
肌を撫でる湿気に、わずかな“不和”が混ざった。
名前の足が止まる。
綾斗も、思わず呼吸を止めた。
「……え?」
木々の奥から、何かの這う音が聞こえた。
地を這い、何かがこちらに向かってきている。
それは、鬼の気配だった。
名前が鞘に手をかける。
選別開始から、わずか数刻。
藤襲山の静寂を破る“最初の闘い”が、迫っていた――。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
「……ハッ……ハッ……」
汗が背を伝い、喉が音を立てて鳴る。
目を凝らすまでもなく、気配の正体は近づいていた。
「見つィイけたァァァ……」
風を切る音。
低い唸り声。
爪が木を裂く音。
鬼。
「ひっ……!」
綾斗は咄嗟に抜刀したが、震える手に柄が馴染まない。
構えも定まらず、足も動かなかった。
鬼が跳んだ。
「人肉だァアアアアッ!!」
月明かりに飛び込んできたのは、皮膚がひび割れ、血走った目を持つ鬼。
その鋭い腕が、真っ直ぐ綾斗に迫った。
(動けない――!)
その瞬間だった。
「――雫の呼吸・壱ノ型」
風が、止まったように思えた。
名前の姿が綾斗の前へと滑り込む。
「《たゆたう面影》」
鬼の爪が迫る。
だが名前の剣がその力を受け流し、剣ごと身体を沈めて衝撃を散らす。
まるで彼女ごと“水面”になったように、攻撃の威力が霧消した。
「なッ……なんだと……?」
鬼が一瞬よろめいた。
名前は無言で地を蹴る。
足元は揺れず、気配は波紋ひとつ立てない。
背後に回り込むと――呼吸を止め、身を低く。
剣を振る。
抜くようにして放たれた一閃。
音のないその一太刀が、鬼の頸を断ち切った。
首が飛ぶ。
振り抜いた剣すらも、気配を残さず。
ただ、すべてが“終わっていた”という事実だけが、そこにあった。
名前は剣を払い、静かに鞘に収める。
その背に、血の気配も、気負いもなかった。
綾斗は、呼吸を忘れていたことに気づく。
(……すご……)
思ったままの言葉が、胸の中に浮かんだ。
口に出すには、少しだけ躊躇があった。
さっきの自分は、何もできなかった。
鬼を目の前にして、ただ立ち尽くしていた。
(俺……足、震えてた……)
だけどその目の前で、名前は、たった一人で、すべてを受け止めて、終わらせてくれた。
気づけば、名前はもう背を向けて歩き出していた。
「……あ、あの……!」
声が出た。
「……ありがとう。その……助けてくれて」
その背中は何も返さない。
ただ、ほんの一瞬だけ、歩調が緩んだように見えた。
気のせいかもしれない。
でも、今の自分には、それだけで十分だった。
綾斗は小走りで追いつくと、少しだけ息を整えながら言った。
「……あんな風に、動けるんだね。すごく……静かで、綺麗だった」
言葉を選びながら、少しずつ零れていく。
「俺……怖くて、なにもできなかった。君がいなかったら俺……今、死んでた…」
それでもやっぱり、名前は何も言わない。
けれど綾斗は、もう不安ではなかった。
月の光が、枝の隙間から差し込んでいる。
二人の影が並んで伸び、またその先に、闇と鬼と、夜が続いていく。
(俺、強くなりたい)
名前の後ろ姿を見ながら、綾斗はそう静かに、胸の中で呟いた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
わずかに陽が昇り、藤襲山の深い木々の隙間から、ようやく光が差し込み始めていた。
それでも森の中は、まだほの暗い。
鬼の気配は遠のいたが、気を緩められるような空気ではない。
岩陰に腰を下ろした綾斗は、ぐったりと背をもたれかけた。
「ふー…はは……もう無理……力、入らない……」
その声音には疲労が滲んでいたが、どこか柔らかさもあった。
名前は背を向けて座り、剣の手入れを静かに行っていた。
綾斗の呼吸が落ち着くのを、ただ黙って待っているように見えた。
やがて、綾斗がぽつりと口を開く。
「俺さ、鷹司綾斗っていいます。……水の呼吸、修行中」
名前はちらりとも振り返らないが、手の動きが一瞬止まった。
「……君は?」
「…………名前」
綾斗の表情が、ぱっと和らぐ。
「そっか!……名前ちゃん、って呼んでいい?」
名前は驚いたように一瞬目を伏せ、それでも否定はしなかった。
綾斗は、それを了承と受け取り、微かに笑った。
「……俺さ、妹と弟がいっぱいいるんだ。七人」
「みんな小さくて、飯とかもう取り合い。それ見てると……ああ、俺が何とかしなきゃなって思ったんだよね」
「ちょっとだけ俺に剣の才があるって分かった時、鬼殺隊の使いの人が家に来てさ…親から“行ってこい”って言われた。仕送りしろって。……そういう家なんだ」
言葉にとげはなかった。
むしろ、自分の立場を“当然のこと”のように淡々と語っていた。
「俺、怖がりだし……情けないし……本当は逃げたくなることばっかりだけど……でも、あいつらに寒い冬、我慢させたくなくて」
「……だから俺、柱になりたいんだ。柱になれば、たくさんお給金がもらえるって聞いたから。そうしたら、あいつらにちゃんとご飯と布団、用意できると思ってさ」
名前は、何も言わない。
けれど、少しだけ肩の力を抜いたようにも見えた。
綾斗は続けた。
「さっきさ――名前ちゃん、鬼を倒したとき……呼吸、使ってなかったよね?」
「……あれ、なんて言うんだろ……音がないのに、斬られてて……すごかった」
名前は、剣の刃先を布で静かに拭いながら、目を伏せた。
綾斗はそっと言葉を添える。
「君ならさ、柱、目指せるんじゃないかなって……思った」
その一言に、名前の手がふと止まった。
やがて彼女は、そっと顔を横に向けた。
「……柱って……何?」
その問いに、綾斗が少し目を丸くする。
「……あれ、知らなかった? そっか……」
彼は頬をかきながら、照れたように微笑んだ。
「鬼殺隊の中で、一番強い人たちのことだよ。“柱”って呼ばれる剣士が九人いて、それぞれの呼吸を極めてて……たしか、炎、水、雷、風…あと蛇とか、恋とか…いろいろある」
「俺らみたいな新人とは、全然別格。隊士たちの目標って言ってもいいくらい、すごい人たち」
名前は、黙ってその言葉を聞いていた。
柱――初めて耳にするその存在に、目を伏せたまま、何も返さなかった。
やがて、低く、小さく口を開いた。
「……無理だと思う」
綾斗は、少し驚いて名前を見た。
「……さっきの鬼は、斬れた。でも」
「もっと強い鬼の首は……きっと斬れない」
それは、彼女の確信だった。
静寂の芯――それは、剣技の果てにある感覚。
けれど、それで断てるのは、“弱い者の命”だけ。
もっと深くて、濁っていて、正面からこちらを食らい尽くそうとする“強い何か”に、今の自分の剣は、通用しない。
綾斗は何かを言いかけて、けれど口を閉じた。
代わりに、小さく頷く。
「……でも俺は、名前ちゃん、すごいと思ったよ」
それだけを残して、二人はまた立ち上がった。
夜が明けたとはいえ、森は薄暗く、鬼の気配が完全に消えたわけではない。
けれど今、綾斗の足取りは――
さっきより、ほんの少しだけ強く踏みしめられていた。
辺り一帯を包むのは、静かな香りと、夜明けを待つ冷たい空気。
藤の花が満ちるこの山――ここが最終選別の舞台。
生き残れば鬼殺隊への道が開かれる。
だが戻らぬ者もまた、多い。
沈黙が張り詰めていた。
十五、六名程だろうか。
選別に挑む者たちは皆、緊張と恐怖を抱えながら、どこにも視線を向けられず、ただ自分の鼓動の音に耳を澄ませている。
名前は、その中にあって――ただ静かに立っていた。
何も言わず、息を乱すこともなく。
夜風が揺らす藤の花すら、まるでその気配を避けるように舞っている。
その少し後ろには、ひとりの少年――鷹司綾斗。
細い肩を震わせながらも、その足は揺れていなかった。
彼は名前の落ち着きに、理由のわからぬ安心を覚えていた。
まもなく、山門の前に二人の子供が現れる。
一人は、白髪の少女。
もう一人は、黒髪の少女。
(……あまね様と……そっくり……?)
名前はふと、心の中で呟いた。
あの凛とした佇まい、感情の見えない瞳――かつて藤の家紋の屋敷で出会った、あの人と。
二人は同時に一礼し、淡々と告げる。
「これより、最終選別を開始します」
黒髪の少女が、殆ど感情を交えずに言う。
「この藤襲山には、鬼殺隊の剣士様方が捕らえ、幽閉した鬼が多数潜んでいます。ですが、外に出ることはできません。山の麓から中腹にかけて鬼共の嫌う藤の花が一年中、狂い咲いているからでございます」
白髪の少女が続けて告げる。
「しかし、ここから先には藤の花は咲いておりませんから鬼共がおります。この中で七日間、この山で生き延びた者だけが、鬼殺隊士として認められます」
それだけを告げて、二人は再び静かに頭を下げる。
「「では、行ってらっしゃいませ」」
直後、山門が重く軋みながら開かれた。
その先には、夜の藤襲山。
光の届かぬ闇と、静かな死の気配が待っていた。
名前は、迷うことなく歩を進める。
刀を手に、足元も揺れずに。
綾斗がその後を慌てて追いかける。
「ま、待ってください……!あ、あの……えっと…その、隣に行っても、いいですか…?」
返事はない。
だが、歩調がほんの少しだけ緩んだ。
それだけで十分だった。
二人の影が、夜の藤の森の奥へと、静かに吸い込まれていく。
最終選別。
生と死を分ける七日間が、今――始まった。
山の中腹に足を踏み入れると、途端に辺りは暗く、湿った土と朽ち葉の匂いが鼻をついた。
木々は高く、空を覆い隠し、月の光すら地面には届かない。
風もない。
音もない。
ただ、枯枝を踏む足音と、自身の呼吸だけが、闇の中に響く。
綾斗は、静かに名前の後ろを歩いていた。
足音を立てまいと、何度も呼吸を調えながら、
それでも落ち葉が舞い、草を掻き分ける音が小さく響くたび、彼は身体をすくませていた。
「…………」
前を行く名前は、まるで気配を消しているかのように静かだった。
足元も乱れず、背筋も揺れず、ただ前を見据えて進んでいる。
(……すごいな、この人……)
綾斗は思わず、そんなことを考えた。
自分はまだ、水の呼吸の型すら定まらない。
鬼と本気で戦った経験もない。
だからこそ、落ち着き払ったこの少女の背が、
少しだけ――心強く思えた。
「……えっと、すみません。黙ってついてきてばっかりで」
綾斗がぽつりと呟くように言った。
名前は何も答えない。
ただ、その歩みが止まらないことが、返事のように感じられた。
綾斗は息を整え、空を見上げる。
木々の間からわずかに覗く月が、夜の山の深さを、静かに照らしていた。
そのとき――
風が止んだ。
空気が変わる。
肌を撫でる湿気に、わずかな“不和”が混ざった。
名前の足が止まる。
綾斗も、思わず呼吸を止めた。
「……え?」
木々の奥から、何かの這う音が聞こえた。
地を這い、何かがこちらに向かってきている。
それは、鬼の気配だった。
名前が鞘に手をかける。
選別開始から、わずか数刻。
藤襲山の静寂を破る“最初の闘い”が、迫っていた――。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
「……ハッ……ハッ……」
汗が背を伝い、喉が音を立てて鳴る。
目を凝らすまでもなく、気配の正体は近づいていた。
「見つィイけたァァァ……」
風を切る音。
低い唸り声。
爪が木を裂く音。
鬼。
「ひっ……!」
綾斗は咄嗟に抜刀したが、震える手に柄が馴染まない。
構えも定まらず、足も動かなかった。
鬼が跳んだ。
「人肉だァアアアアッ!!」
月明かりに飛び込んできたのは、皮膚がひび割れ、血走った目を持つ鬼。
その鋭い腕が、真っ直ぐ綾斗に迫った。
(動けない――!)
その瞬間だった。
「――雫の呼吸・壱ノ型」
風が、止まったように思えた。
名前の姿が綾斗の前へと滑り込む。
「《たゆたう面影》」
鬼の爪が迫る。
だが名前の剣がその力を受け流し、剣ごと身体を沈めて衝撃を散らす。
まるで彼女ごと“水面”になったように、攻撃の威力が霧消した。
「なッ……なんだと……?」
鬼が一瞬よろめいた。
名前は無言で地を蹴る。
足元は揺れず、気配は波紋ひとつ立てない。
背後に回り込むと――呼吸を止め、身を低く。
剣を振る。
抜くようにして放たれた一閃。
音のないその一太刀が、鬼の頸を断ち切った。
首が飛ぶ。
振り抜いた剣すらも、気配を残さず。
ただ、すべてが“終わっていた”という事実だけが、そこにあった。
名前は剣を払い、静かに鞘に収める。
その背に、血の気配も、気負いもなかった。
綾斗は、呼吸を忘れていたことに気づく。
(……すご……)
思ったままの言葉が、胸の中に浮かんだ。
口に出すには、少しだけ躊躇があった。
さっきの自分は、何もできなかった。
鬼を目の前にして、ただ立ち尽くしていた。
(俺……足、震えてた……)
だけどその目の前で、名前は、たった一人で、すべてを受け止めて、終わらせてくれた。
気づけば、名前はもう背を向けて歩き出していた。
「……あ、あの……!」
声が出た。
「……ありがとう。その……助けてくれて」
その背中は何も返さない。
ただ、ほんの一瞬だけ、歩調が緩んだように見えた。
気のせいかもしれない。
でも、今の自分には、それだけで十分だった。
綾斗は小走りで追いつくと、少しだけ息を整えながら言った。
「……あんな風に、動けるんだね。すごく……静かで、綺麗だった」
言葉を選びながら、少しずつ零れていく。
「俺……怖くて、なにもできなかった。君がいなかったら俺……今、死んでた…」
それでもやっぱり、名前は何も言わない。
けれど綾斗は、もう不安ではなかった。
月の光が、枝の隙間から差し込んでいる。
二人の影が並んで伸び、またその先に、闇と鬼と、夜が続いていく。
(俺、強くなりたい)
名前の後ろ姿を見ながら、綾斗はそう静かに、胸の中で呟いた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
わずかに陽が昇り、藤襲山の深い木々の隙間から、ようやく光が差し込み始めていた。
それでも森の中は、まだほの暗い。
鬼の気配は遠のいたが、気を緩められるような空気ではない。
岩陰に腰を下ろした綾斗は、ぐったりと背をもたれかけた。
「ふー…はは……もう無理……力、入らない……」
その声音には疲労が滲んでいたが、どこか柔らかさもあった。
名前は背を向けて座り、剣の手入れを静かに行っていた。
綾斗の呼吸が落ち着くのを、ただ黙って待っているように見えた。
やがて、綾斗がぽつりと口を開く。
「俺さ、鷹司綾斗っていいます。……水の呼吸、修行中」
名前はちらりとも振り返らないが、手の動きが一瞬止まった。
「……君は?」
「…………名前」
綾斗の表情が、ぱっと和らぐ。
「そっか!……名前ちゃん、って呼んでいい?」
名前は驚いたように一瞬目を伏せ、それでも否定はしなかった。
綾斗は、それを了承と受け取り、微かに笑った。
「……俺さ、妹と弟がいっぱいいるんだ。七人」
「みんな小さくて、飯とかもう取り合い。それ見てると……ああ、俺が何とかしなきゃなって思ったんだよね」
「ちょっとだけ俺に剣の才があるって分かった時、鬼殺隊の使いの人が家に来てさ…親から“行ってこい”って言われた。仕送りしろって。……そういう家なんだ」
言葉にとげはなかった。
むしろ、自分の立場を“当然のこと”のように淡々と語っていた。
「俺、怖がりだし……情けないし……本当は逃げたくなることばっかりだけど……でも、あいつらに寒い冬、我慢させたくなくて」
「……だから俺、柱になりたいんだ。柱になれば、たくさんお給金がもらえるって聞いたから。そうしたら、あいつらにちゃんとご飯と布団、用意できると思ってさ」
名前は、何も言わない。
けれど、少しだけ肩の力を抜いたようにも見えた。
綾斗は続けた。
「さっきさ――名前ちゃん、鬼を倒したとき……呼吸、使ってなかったよね?」
「……あれ、なんて言うんだろ……音がないのに、斬られてて……すごかった」
名前は、剣の刃先を布で静かに拭いながら、目を伏せた。
綾斗はそっと言葉を添える。
「君ならさ、柱、目指せるんじゃないかなって……思った」
その一言に、名前の手がふと止まった。
やがて彼女は、そっと顔を横に向けた。
「……柱って……何?」
その問いに、綾斗が少し目を丸くする。
「……あれ、知らなかった? そっか……」
彼は頬をかきながら、照れたように微笑んだ。
「鬼殺隊の中で、一番強い人たちのことだよ。“柱”って呼ばれる剣士が九人いて、それぞれの呼吸を極めてて……たしか、炎、水、雷、風…あと蛇とか、恋とか…いろいろある」
「俺らみたいな新人とは、全然別格。隊士たちの目標って言ってもいいくらい、すごい人たち」
名前は、黙ってその言葉を聞いていた。
柱――初めて耳にするその存在に、目を伏せたまま、何も返さなかった。
やがて、低く、小さく口を開いた。
「……無理だと思う」
綾斗は、少し驚いて名前を見た。
「……さっきの鬼は、斬れた。でも」
「もっと強い鬼の首は……きっと斬れない」
それは、彼女の確信だった。
静寂の芯――それは、剣技の果てにある感覚。
けれど、それで断てるのは、“弱い者の命”だけ。
もっと深くて、濁っていて、正面からこちらを食らい尽くそうとする“強い何か”に、今の自分の剣は、通用しない。
綾斗は何かを言いかけて、けれど口を閉じた。
代わりに、小さく頷く。
「……でも俺は、名前ちゃん、すごいと思ったよ」
それだけを残して、二人はまた立ち上がった。
夜が明けたとはいえ、森は薄暗く、鬼の気配が完全に消えたわけではない。
けれど今、綾斗の足取りは――
さっきより、ほんの少しだけ強く踏みしめられていた。