一章
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庵での修行が始まってから、すでに幾日が過ぎていた。
静水は、名前に静かな口調で呼吸の型を教えた。
動きはすべて流れるように連続し、剣の軌道は水の揺らぎを思わせた。
「これは、雫の呼吸・参ノ型――“深潭の衣(しんたんのころも)”。
気配、呼吸、足音、視線のすべてを深い水底のように沈め、敵の感知から外れる術。高い集中力を要しますが、一瞬の隙を生むには極めて有効です」
またある日は、
「雫の呼吸・弐ノ型――“垂香(すいこう)”。
気配や動きの微細な“香り”を変化させることで、敵の狙いや殺気を狂わせる幻惑の型です」
さらに次の日は、
「伍ノ型“流涙(るるい)”。
軽傷の出血を抑えるための呼吸法。痛みを散らし、しばらくの間、動きを保たせることができます」
どの型も、精妙だった。
理に適っていて、美しく、優しい。
だが――
漆ノ型まで会得した名前は、静水に問いかけた。
「……捌ノ型は、ありますか」
静水は、茶を淹れていた手を止めることなく答えた。
「ありません。七つで、終わりです」
その言葉を聞いた瞬間、名前の中で、張り詰めていたものが、音もなくほどけた。
「――攻撃の型は」
その声は、乾いていた。
「……すべてです」
静水の声が、静かにそう告げた。
「雫の呼吸は、七つの型で完成されています。そのどれもが、防御、回避、補助、癒しに特化したもの。攻撃の型は――存在しません」
名前は、返事をしなかった。
ただ、手に握っていた竹刀の柄が、かすかに軋んだ。
目の奥が、じりじりと熱を帯びていく。
(そんなはず、ない)
(私は、陽太を――)
(無惨を、必ず――)
「……っ」
音を立てたのは、握りしめた拳だった。
力を込めすぎて、手の甲に血が滲んでいた。
(何のために……ここまで来たの)
(あの時、あの夜、何を見たと思っている――)
次の瞬間。
バン――!
乾いた音が、庵の庭に響いた。
名前の手から放たれた竹刀が、地面に激しく叩きつけられていた。
土が弾け、刃の先が小さく跳ねた。
名前は、その場に立ち尽くしたまま、肩を震わせていた。
「……なんで」
小さな声だった。
「なんで、こんな……斬れない呼吸なんですか……」
その声に怒気はなかった。
けれど、胸を裂くような焦りと絶望が滲んでいた。
「……それでもあなたは、この呼吸を選んだ」
「…選んでなど、いません……」
「選ばれたのです。あなたの身体と心が」
名前は、言葉を詰まらせた。
静水は、それ以上何も言わなかった。
ただ、まっすぐに名前の背を見つめていた。
水面に石が落ちても、決して波紋を広げぬ湖のように。
名前は、崩れ落ちそうな心を押しとどめるように、ゆっくりと竹刀を拾い上げた。
震える手のまま、鞘へと戻す。
その仕草は、剣士としての誇りだけが保っていたものだった。
そして――何も言わぬまま、静かにその場を去った。
背を向けたその歩みに、
水の雫のような静かな悔しさが、ぽたりと地に落ちていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
庭の竹林に、霜が降りていた。
凍てつく朝の空気の中、吐息が白く浮かんでは消えてゆく。
冬の庵には、風の音すら重く染み込んでいた。
名前は、その日もいつものように庭に立ち、雫の呼吸・漆ノ型までを静かに繰り返していた。
足元は凍えた土。
竹刀を握る手の指先は、かじかんで赤くなっていた。
それでも彼女は、いつもと変わらぬ表情で、型を、一つひとつ、丁寧に流していた。
しかし、その所作はどこか焦燥を孕んでいた。
静水は縁側に座ったまま、湯のみの茶に口をつける。
その眼差しは、ただ静かに彼女を見守っていた。
けれど、どこかで分かっていた。
その鍛錬は、もう“決意”ではなく、“迷い”に近づいていたことを。
型を終えた名前は、竹刀を地面に突き、深く呼吸を吐いた。
吐息が白く伸びる。
そして、ぽつりと告げた。
「……もう、やめます」
静水の手が、湯のみの縁で止まる。
「雫の呼吸では、私は……進めません」
その声は、ひどく静かだった。
冷たいわけでも、泣いているわけでもない。
ただ、張り詰めた氷が音もなく割れるような――そんな、壊れ方だった。
「護ることも、癒すことも、大切なことだと分かっています。でも私は、斬らなきければならないのです。……誰かを守っている場合ではない」
「この剣では、それができない。……だから、もう、いいです」
それだけを言い残し、名前は庵に背を向けた。
彼女の足元を、霜が静かに鳴く。
雪に埋もれそうな獣道を踏みしめ、その姿が冬の木立に沈んでいく。
静水は、何も言わなかった。
ただ、雪に点々と残された、名前の手の血豆から落ちた血の痕を見ていた。
(……それでも、剣を手放さそうとはしないのですね)
(あなたの火は――決して消えない)
風が、竹を揺らした。
葉の擦れる音が、彼女の背を追いかけるように響いていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
夜の山道には、雪が降り始めていた。
竹林を抜け、踏みならされていない獣道を歩く名前の足跡が、新雪に淡く刻まれていく。
冷たい風が吹き、肩に積もった雪を払い落とす。
(……どこへ向かうつもりだったのか)
自分でも分からなかった。
ただ、庵には戻れないということだけが、胸の奥で確かに燃えていた。
その時だった。
――ず、ずず、と。
背後の木々が不自然に揺れた。
名前は立ち止まり、振り向く。
何もない。雪と、黒い木々の影ばかり。
だが、確かにあった。
鼻をつく、生ぬるく甘ったるい“血の匂い”。
(……藤の香りが、ない)
育手を求め旅をしていた頃には常に肌身離さず持っていた、あの“藤の香”のお守り。
静水の庵を出た時、何も持たずに出てきてしまった。
今の自分は、竹刀しか持たぬ、ただの丸腰の剣士でしかない。
――ギギ、ギギ……
木の幹を裂くような、硬い音。
枝の間から、何かがこちらを見ていた。
目が、赤かった。
細く、異様に輝く二つの眼。
影が、滑るように地に降り立った。
「……ははァ、こいつは運が良い。女だ…女の肉は柔らけェんだ」
それは鬼だった。
腕は異様に長く、爪は刃のように尖っていた。
名前はゆっくりと背負っていた竹刀に手を伸ばす。
それが今、自分にできる唯一の行動だった。
鬼は笑っていた。
「おいおい…お嬢ちゃん、そんなもんで一体どうする気だ?」
「今夜は冷えるよなァ…こんな夜はよォ…あったけぇ肉が喰いてェよなぁ……」
名前は一言も発さず、竹刀を構えた。
雪が、さらさらと降る。
手はかじかみ、呼吸は冷たさで浅くなる。
だが――その目だけは、まっすぐに鬼を見据えていた。
(呼吸も、技も、関係ない。陽の光の下に、こいつを引きずり出す)
(それだけ)
(……それだけだ)
鬼が飛びかかる寸前、
名前は雪を踏みしめ、本能のままに踏み込んだ。
静水は、名前に静かな口調で呼吸の型を教えた。
動きはすべて流れるように連続し、剣の軌道は水の揺らぎを思わせた。
「これは、雫の呼吸・参ノ型――“深潭の衣(しんたんのころも)”。
気配、呼吸、足音、視線のすべてを深い水底のように沈め、敵の感知から外れる術。高い集中力を要しますが、一瞬の隙を生むには極めて有効です」
またある日は、
「雫の呼吸・弐ノ型――“垂香(すいこう)”。
気配や動きの微細な“香り”を変化させることで、敵の狙いや殺気を狂わせる幻惑の型です」
さらに次の日は、
「伍ノ型“流涙(るるい)”。
軽傷の出血を抑えるための呼吸法。痛みを散らし、しばらくの間、動きを保たせることができます」
どの型も、精妙だった。
理に適っていて、美しく、優しい。
だが――
漆ノ型まで会得した名前は、静水に問いかけた。
「……捌ノ型は、ありますか」
静水は、茶を淹れていた手を止めることなく答えた。
「ありません。七つで、終わりです」
その言葉を聞いた瞬間、名前の中で、張り詰めていたものが、音もなくほどけた。
「――攻撃の型は」
その声は、乾いていた。
「……すべてです」
静水の声が、静かにそう告げた。
「雫の呼吸は、七つの型で完成されています。そのどれもが、防御、回避、補助、癒しに特化したもの。攻撃の型は――存在しません」
名前は、返事をしなかった。
ただ、手に握っていた竹刀の柄が、かすかに軋んだ。
目の奥が、じりじりと熱を帯びていく。
(そんなはず、ない)
(私は、陽太を――)
(無惨を、必ず――)
「……っ」
音を立てたのは、握りしめた拳だった。
力を込めすぎて、手の甲に血が滲んでいた。
(何のために……ここまで来たの)
(あの時、あの夜、何を見たと思っている――)
次の瞬間。
バン――!
乾いた音が、庵の庭に響いた。
名前の手から放たれた竹刀が、地面に激しく叩きつけられていた。
土が弾け、刃の先が小さく跳ねた。
名前は、その場に立ち尽くしたまま、肩を震わせていた。
「……なんで」
小さな声だった。
「なんで、こんな……斬れない呼吸なんですか……」
その声に怒気はなかった。
けれど、胸を裂くような焦りと絶望が滲んでいた。
「……それでもあなたは、この呼吸を選んだ」
「…選んでなど、いません……」
「選ばれたのです。あなたの身体と心が」
名前は、言葉を詰まらせた。
静水は、それ以上何も言わなかった。
ただ、まっすぐに名前の背を見つめていた。
水面に石が落ちても、決して波紋を広げぬ湖のように。
名前は、崩れ落ちそうな心を押しとどめるように、ゆっくりと竹刀を拾い上げた。
震える手のまま、鞘へと戻す。
その仕草は、剣士としての誇りだけが保っていたものだった。
そして――何も言わぬまま、静かにその場を去った。
背を向けたその歩みに、
水の雫のような静かな悔しさが、ぽたりと地に落ちていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
庭の竹林に、霜が降りていた。
凍てつく朝の空気の中、吐息が白く浮かんでは消えてゆく。
冬の庵には、風の音すら重く染み込んでいた。
名前は、その日もいつものように庭に立ち、雫の呼吸・漆ノ型までを静かに繰り返していた。
足元は凍えた土。
竹刀を握る手の指先は、かじかんで赤くなっていた。
それでも彼女は、いつもと変わらぬ表情で、型を、一つひとつ、丁寧に流していた。
しかし、その所作はどこか焦燥を孕んでいた。
静水は縁側に座ったまま、湯のみの茶に口をつける。
その眼差しは、ただ静かに彼女を見守っていた。
けれど、どこかで分かっていた。
その鍛錬は、もう“決意”ではなく、“迷い”に近づいていたことを。
型を終えた名前は、竹刀を地面に突き、深く呼吸を吐いた。
吐息が白く伸びる。
そして、ぽつりと告げた。
「……もう、やめます」
静水の手が、湯のみの縁で止まる。
「雫の呼吸では、私は……進めません」
その声は、ひどく静かだった。
冷たいわけでも、泣いているわけでもない。
ただ、張り詰めた氷が音もなく割れるような――そんな、壊れ方だった。
「護ることも、癒すことも、大切なことだと分かっています。でも私は、斬らなきければならないのです。……誰かを守っている場合ではない」
「この剣では、それができない。……だから、もう、いいです」
それだけを言い残し、名前は庵に背を向けた。
彼女の足元を、霜が静かに鳴く。
雪に埋もれそうな獣道を踏みしめ、その姿が冬の木立に沈んでいく。
静水は、何も言わなかった。
ただ、雪に点々と残された、名前の手の血豆から落ちた血の痕を見ていた。
(……それでも、剣を手放さそうとはしないのですね)
(あなたの火は――決して消えない)
風が、竹を揺らした。
葉の擦れる音が、彼女の背を追いかけるように響いていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
夜の山道には、雪が降り始めていた。
竹林を抜け、踏みならされていない獣道を歩く名前の足跡が、新雪に淡く刻まれていく。
冷たい風が吹き、肩に積もった雪を払い落とす。
(……どこへ向かうつもりだったのか)
自分でも分からなかった。
ただ、庵には戻れないということだけが、胸の奥で確かに燃えていた。
その時だった。
――ず、ずず、と。
背後の木々が不自然に揺れた。
名前は立ち止まり、振り向く。
何もない。雪と、黒い木々の影ばかり。
だが、確かにあった。
鼻をつく、生ぬるく甘ったるい“血の匂い”。
(……藤の香りが、ない)
育手を求め旅をしていた頃には常に肌身離さず持っていた、あの“藤の香”のお守り。
静水の庵を出た時、何も持たずに出てきてしまった。
今の自分は、竹刀しか持たぬ、ただの丸腰の剣士でしかない。
――ギギ、ギギ……
木の幹を裂くような、硬い音。
枝の間から、何かがこちらを見ていた。
目が、赤かった。
細く、異様に輝く二つの眼。
影が、滑るように地に降り立った。
「……ははァ、こいつは運が良い。女だ…女の肉は柔らけェんだ」
それは鬼だった。
腕は異様に長く、爪は刃のように尖っていた。
名前はゆっくりと背負っていた竹刀に手を伸ばす。
それが今、自分にできる唯一の行動だった。
鬼は笑っていた。
「おいおい…お嬢ちゃん、そんなもんで一体どうする気だ?」
「今夜は冷えるよなァ…こんな夜はよォ…あったけぇ肉が喰いてェよなぁ……」
名前は一言も発さず、竹刀を構えた。
雪が、さらさらと降る。
手はかじかみ、呼吸は冷たさで浅くなる。
だが――その目だけは、まっすぐに鬼を見据えていた。
(呼吸も、技も、関係ない。陽の光の下に、こいつを引きずり出す)
(それだけ)
(……それだけだ)
鬼が飛びかかる寸前、
名前は雪を踏みしめ、本能のままに踏み込んだ。