一章
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名前は、夢を見た。
夢の中の空は、澄み切った青だった。
風に揺れる稲の葉が、音もなくきらめいている。
懐かしい――
けれど、ずっと遠くに置き去りにしたはずの景色。
(……ここは……)
気がつけば、名前は小さな足で竹刀を構えていた。
道着の袖はまだ少し長く、帯も自分で結ぶには頼りなかった。
けれど、足元はしっかりと踏み込んでいた。
目の前に立つのは、名前の父――剣の師であり、彼女が誰よりも尊敬していた男。
「もう一度」
父は言う。
その口調に、優しさはない。
けれど、彼の目は名前だけを、まっすぐに見ていた。
「はい、せんせい……!」
夢の中の少女は、竹刀を振る。
まだ力のない腕。
けれど、その目には迷いがなかった。
少女は父を、「先生」と呼んでいた。
幼い頃から、名前は無口で、言葉がうまく出なかった。
舌が重く、「師範」も「師匠」も、きれいに発音できなかった。
何度も練習したが、うまくいかなかった。
だからある日、父が言った。
「呼びやすいように呼べばいい」
それで彼女は、「先生」と呼ぶようになった。
誰に教わったわけでもない。
けれど、それが――
父と娘のあいだだけの、唯一の“敬意”の形だった。
その日の稽古が終わる頃、彼女は息を切らし、膝をついていた。
掌はすりむけ、竹刀を支える手が震えていた。
ふと、父が静かに腰を下ろす。
縁側では、まだ道着すら着られない年齢の陽太が母の腕に抱かれながらじっと姉を見ていた。
父が、名前に言った。
「陽太は、いずれ強くなる」
父の声は、低く、落ち着いていた。
決して突き放すような響きではない。
「だが、それまでのあいだ……あいつの傍にいてやれるのは、お前しかいない」
名前は、その言葉に小さく頷いた。
しばらくの沈黙の後――
やがて、彼女は、膝の上に置いた小さな手をぎゅっと握りしめて、顔を上げた。
そして、まっすぐに父を見上げて、少し緊張した声で、けれどはっきりと告げた。
「名前が、陽太を守ります」
その言葉は、小さな体から絞り出された――最初の、誓いだった。
父は、それを聞いて、わずかに目を細めた。
「そうか」
それだけ言って、静かに立ち上がり、名前の頭を撫でた。
名前の頬には汗が流れ、掌には竹刀の柄の跡がくっきりと残っていた。
縁側の陽太が、無邪気に呼びかける。
「ねぇさま」
名前は、ほんの少しだけ笑った。
その笑みは、誰にも見られないように、竹刀の陰に隠れていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
──夢が、遠のいていく。
(……陽太……)
あの声が、風のように消えていったその先で、ほんのりとした藤の香が、鼻をかすめた。
目蓋が、ゆっくりと持ち上がる。
薄明かりが差し込む部屋。
見慣れない天井。
ふかふかの布団の中、身体の重さが現実の感覚として戻ってくる。
(……ここは……)
頭が少しだけ動く。
首に走る痛み。
腕や脚には包帯が巻かれ、
身体のあちこちが鈍く疼いていた。
その時だった。
「……お目覚めになられましたか、名前様」
静かな声が、部屋の端から響いた。
視線を向けると、白い装束に身を包んだ女が、柔らかく微笑んでいた。
産屋敷あまねだった。
その佇まいは気品に満ちていながら、どこか――水のように澄んでいた。
名前は、わずかに眉をひそめた。
「……なぜ、私の名を」
あまねは、その問いに、ゆるやかに首を横に振る。
「名前様の剣の噂は、遠くまで届いておりました。そして、玖波家に起きたあの悲劇も……」
一瞬、名前の目が揺れた。
思い出す。
血の匂い。
肉を咀嚼する音。
陽太の叫び。
「……どうして……そんなことを知っているのですか」
あまねは立ち上がり、そっと彼女の枕元へ歩み寄る。
「私は、産屋敷の者。鬼殺隊を束ねる家に仕える者です」
「…産…屋敷…?鬼殺隊……?」
「はい。そして、私はあなたをお迎えに参りました」
名前の呼吸が、わずかに乱れる。
「……一体、何の、話……」
あまねは、彼女の傷だらけの手を見つめ、そっと膝をつく。
「貴女のその剣の才を、どうか……これからを生きる人々のために、振るっていただけないでしょうか」
それは――
命令ではなかった。
命乞いでもなかった。
ただ、心からの“願い”だった。
名前は、返す言葉を持たなかった。
あまねは、膝をついたまま、何も言わず俯く名前にゆっくりと切り出した。
「……これより、お話しすることは、今まで貴女が知り得なかった世界のこととなります」
「どうか、耳を傾けていただけますか」
名前は、沈黙したままだった。
あまねは、静かに言葉を継ぐ。
「この世には、“鬼”と呼ばれる存在がございます。人を喰らい、異常な力を持ち、夜の闇に紛れて生きる者たちです」
名前の眉がわずかに動いた。
その言葉が、これまで出会った“異形”と重なったからだった。
「彼らは、人の姿をしていながら、人ならざる再生能力と力を持ち、太陽の光のみが、完全な死を与えます」
(……あれと…陽太と、同じ……)
名前の脳裏に、何度斬っても倒れなかった“異形”、そして弟の姿が浮かぶ。
(あれは……鬼というものだったのか……)
あまねの声は、静かに続いた。
「そして、その“鬼”を狩る者たち――それが“鬼殺隊”と呼ばれる組織です」
「日輪刀と呼ばれる特殊な剣を以て鬼と戦う者たちが、この国に、今も存在しております」
あまりに現実離れした話だった。
だが、名前は黙って聞いていた。
否定する言葉は、一言もなかった。
あの夜、自分が見たもの。
それを、やっと誰かが“言葉”にしてくれた。
あまねの表情が、ほんのわずかに陰る。
「そして……名前様の弟君――陽太様を、鬼に変えたのは……おそらく、“鬼舞辻無惨”という存在です」
名前の目が、はっきりと揺れた。
「……鬼舞辻……無惨……」
初めて聞くその名は、音にすら“禍”が宿っているようだった。
あまねは、視線を逸らさず、静かに頷く。
「全ての鬼の始祖。己の血を分け、鬼を生み出し、支配し続ける存在。陽太様もまた――その血によって、鬼とされたのでしょう」
喉の奥に、何か熱いものがこみ上げた。
名前は、血が滲むほどに唇を噛む。
鬼舞辻無惨。
そいつが、陽太を鬼に変え、両親を食い殺し、幸せだった日常を地獄に叩き堕とした。
名前から何もかも根こそぎ奪った、全ての元凶。
「……陽太を、取り戻す方法は……」
その問いに、あまねは目を伏せた。
「……現時点では、鬼を人に戻す術は、確認されておりません。残念ながら……それは、奇跡と呼ばれるほどに困難です」
その瞬間だった。
「では…鬼舞辻無惨は…どこにいる…!」
名前が上半身を起こそうとしながら吼えた。
体中の傷が悲鳴を上げる。
包帯が引きつれ、血が滲む。
それでも、彼女はあまねに向かって、吐き捨てるように言った。
「そいつは……今どこに…!」
「今すぐ……私が…殺してやる……!」
初めての怒声。
胸の奥にため込んできた痛みが、
言葉に変わって噴き出した。
「陽太を……陽太を返して……!」
喉が焼けるように痛んでも、涙が滲んでも、名前は叫び続けた。
その叫びは――
痛みでも、後悔でもない。
「本気で殺意を抱いた相手の名を初めて知った」怒りだった。
あまねは、彼女の腕をそっと押さえた。
名前の目が、揺らぎながらあまねを睨む。
けれど――
あまねは、まっすぐにその怒りを受け止めていた。
「……貴女の怒りは、当然のことです。その怒りの矛先が、間違ってなどおりません」
「だからこそ、どうか――」
「どうか、その剣を、焦らず、正しく振るえる時を迎えていただきたいのです」
名前の肩が、震えた。
悔しさに、怒りに、今すぐにでも立ち上がって斬り伏せたい気持ちに、身体が応えてくれないことが――もどかしかった。
あまねは、そっと言葉を添える。
「必ず、その日が来ます。貴女が、無惨の首に剣を届かせるに相応しい剣士となる日が」
「その時まで、どうか――生きていてください」
その言葉に、名前の拳が、布団の上で強く震えた。
そして彼女は、傷だらけの目を、もう一度まっすぐにあまねへ向けた。
その目に宿ったのは――
怒りではなく、“決意”だった。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
藤の花が、風に揺れていた。
その色は、どこか懐かしく、けれど名前には見慣れない匂いだった。
藤の家紋の屋敷。
ここは――かつて“鬼”に救われた一族の末裔が守る場所。
それを知ったのは、あまねとの静かな会話の中だった。
「この屋敷に身を置く者は、皆“鬼を許す者”ではありません。けれど、かつて救われた命に、感謝を捧げて生きている者たちです」
名前は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが、幾度となく世話をしてくれた女中たちの笑顔や、傷だらけの自分に一度も怯えなかった目を思い返して…少しだけ、胸が温かくなった。
療養の日々の中で、あまねは名前に多くのことを教えた。
「“呼吸”と呼ばれる技がございます」
「それは人の身体能力を極限まで引き出し、
鬼に匹敵する速さと力を得る術」
「そして――その技を用いる剣士たちが受ける試練、“最終選別”という場が存在します」
全てが、未知だった。
だが、すべては
これから無惨を斬るために。
陽太と共に、罪を償うために。
必要な知識だった。
やがて、季節がひとつ移ろい、名前の身体は完全に癒えた。
両の足に力が戻り、手には新しい皮膚が張った。
かつて鬼と斬り結んだ刀傷の下に、新たな“闘うための筋”が根づいていた。
そしてある朝。
女中の案内のもと、藤の門の前に立つと。
「――あまね様。お戻りになられたのですか」
「はい。名前様の旅立ちに、どうしても立ち会わせて頂きたくて」
産屋敷あまねが静かに立っていた。
名前の療養中、彼女は屋敷に留まってはいなかった。
最初に彼女をここに運んだ後、女中たちに看病を任せ、静かに屋敷を後にしていたのだ。
そして今、名前の見送りのためだけにこの屋敷に訪れていた。
名前が深く頭を下げると、あまねは小さく頷き微笑んだ。
「育手のもとへ向かってください。呼吸を学び、自らの技を見極めてください」
あまねはそう言って、握っていた火打石と小さな鋼を差し出す。
「どうか、道中に禍事なきよう。貴女の行く手が、藤の香のように澄んでおりますように」
そして、あまねは――
火打石を、鋼に打ちつけた。
チッ――
小さな火花が、地面に弾ける。
もう一度、チッ――
澄んだ音と、きらめく火。
それはまるで、旅立ちの空気を清める祈りのようだった。
三度目の切り火のあと、あまねは名前に向き直り、言葉を添える。
「……また必ず、お会いしましょう。剣の果てにて、お待ちしております」
名前は、静かに頷いた。
その目にはもう、迷いも、痛みもなかった。
あの日、洞窟で見た絶望の涙も――今は遠い記憶だ。
門が、静かに開く。
朝の空気が吹き抜け、藤の香がふたたび彼女の背を押した。
振り返ることはしなかった。
その背中に、女中達の祈りと、あまねの切り火の音が、静かに届いていた。
あまねは切り火を終えたあとも、しばし門の外を見つめていた。
その眼差しはまるで、これから始まる旅の険しさをすべて知っている者のようだった。
そして誰にも気づかれぬように――彼女は屋敷の隅に置かれていた、布に巻かれた一本の、折れた剣へと歩み寄った。
それは、かつて名前が使っていた剣。
あの村で、鬼を討つために投げ、そして――夜明けまで何度も叩きつけ、最後は折れてしまった、父の形見の剣。
今は、ただの鉄の残骸に過ぎなかった。
けれど、あまねはそれを、まるで尊い遺物でも扱うように丁寧に拾い上げる。
重くもない。だが、重くないはずがなかった。
「……この剣も、また道を歩むのですね」
誰にも聞かせることなく、そう静かに呟いたあまねは、その折れた剣を自らの袖に包むようにして、静かに歩み去っていった。
それが、やがて日輪刀として再び名前の手に戻る剣であるとは、その時、まだ誰も知らなかった。
夢の中の空は、澄み切った青だった。
風に揺れる稲の葉が、音もなくきらめいている。
懐かしい――
けれど、ずっと遠くに置き去りにしたはずの景色。
(……ここは……)
気がつけば、名前は小さな足で竹刀を構えていた。
道着の袖はまだ少し長く、帯も自分で結ぶには頼りなかった。
けれど、足元はしっかりと踏み込んでいた。
目の前に立つのは、名前の父――剣の師であり、彼女が誰よりも尊敬していた男。
「もう一度」
父は言う。
その口調に、優しさはない。
けれど、彼の目は名前だけを、まっすぐに見ていた。
「はい、せんせい……!」
夢の中の少女は、竹刀を振る。
まだ力のない腕。
けれど、その目には迷いがなかった。
少女は父を、「先生」と呼んでいた。
幼い頃から、名前は無口で、言葉がうまく出なかった。
舌が重く、「師範」も「師匠」も、きれいに発音できなかった。
何度も練習したが、うまくいかなかった。
だからある日、父が言った。
「呼びやすいように呼べばいい」
それで彼女は、「先生」と呼ぶようになった。
誰に教わったわけでもない。
けれど、それが――
父と娘のあいだだけの、唯一の“敬意”の形だった。
その日の稽古が終わる頃、彼女は息を切らし、膝をついていた。
掌はすりむけ、竹刀を支える手が震えていた。
ふと、父が静かに腰を下ろす。
縁側では、まだ道着すら着られない年齢の陽太が母の腕に抱かれながらじっと姉を見ていた。
父が、名前に言った。
「陽太は、いずれ強くなる」
父の声は、低く、落ち着いていた。
決して突き放すような響きではない。
「だが、それまでのあいだ……あいつの傍にいてやれるのは、お前しかいない」
名前は、その言葉に小さく頷いた。
しばらくの沈黙の後――
やがて、彼女は、膝の上に置いた小さな手をぎゅっと握りしめて、顔を上げた。
そして、まっすぐに父を見上げて、少し緊張した声で、けれどはっきりと告げた。
「名前が、陽太を守ります」
その言葉は、小さな体から絞り出された――最初の、誓いだった。
父は、それを聞いて、わずかに目を細めた。
「そうか」
それだけ言って、静かに立ち上がり、名前の頭を撫でた。
名前の頬には汗が流れ、掌には竹刀の柄の跡がくっきりと残っていた。
縁側の陽太が、無邪気に呼びかける。
「ねぇさま」
名前は、ほんの少しだけ笑った。
その笑みは、誰にも見られないように、竹刀の陰に隠れていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
──夢が、遠のいていく。
(……陽太……)
あの声が、風のように消えていったその先で、ほんのりとした藤の香が、鼻をかすめた。
目蓋が、ゆっくりと持ち上がる。
薄明かりが差し込む部屋。
見慣れない天井。
ふかふかの布団の中、身体の重さが現実の感覚として戻ってくる。
(……ここは……)
頭が少しだけ動く。
首に走る痛み。
腕や脚には包帯が巻かれ、
身体のあちこちが鈍く疼いていた。
その時だった。
「……お目覚めになられましたか、名前様」
静かな声が、部屋の端から響いた。
視線を向けると、白い装束に身を包んだ女が、柔らかく微笑んでいた。
産屋敷あまねだった。
その佇まいは気品に満ちていながら、どこか――水のように澄んでいた。
名前は、わずかに眉をひそめた。
「……なぜ、私の名を」
あまねは、その問いに、ゆるやかに首を横に振る。
「名前様の剣の噂は、遠くまで届いておりました。そして、玖波家に起きたあの悲劇も……」
一瞬、名前の目が揺れた。
思い出す。
血の匂い。
肉を咀嚼する音。
陽太の叫び。
「……どうして……そんなことを知っているのですか」
あまねは立ち上がり、そっと彼女の枕元へ歩み寄る。
「私は、産屋敷の者。鬼殺隊を束ねる家に仕える者です」
「…産…屋敷…?鬼殺隊……?」
「はい。そして、私はあなたをお迎えに参りました」
名前の呼吸が、わずかに乱れる。
「……一体、何の、話……」
あまねは、彼女の傷だらけの手を見つめ、そっと膝をつく。
「貴女のその剣の才を、どうか……これからを生きる人々のために、振るっていただけないでしょうか」
それは――
命令ではなかった。
命乞いでもなかった。
ただ、心からの“願い”だった。
名前は、返す言葉を持たなかった。
あまねは、膝をついたまま、何も言わず俯く名前にゆっくりと切り出した。
「……これより、お話しすることは、今まで貴女が知り得なかった世界のこととなります」
「どうか、耳を傾けていただけますか」
名前は、沈黙したままだった。
あまねは、静かに言葉を継ぐ。
「この世には、“鬼”と呼ばれる存在がございます。人を喰らい、異常な力を持ち、夜の闇に紛れて生きる者たちです」
名前の眉がわずかに動いた。
その言葉が、これまで出会った“異形”と重なったからだった。
「彼らは、人の姿をしていながら、人ならざる再生能力と力を持ち、太陽の光のみが、完全な死を与えます」
(……あれと…陽太と、同じ……)
名前の脳裏に、何度斬っても倒れなかった“異形”、そして弟の姿が浮かぶ。
(あれは……鬼というものだったのか……)
あまねの声は、静かに続いた。
「そして、その“鬼”を狩る者たち――それが“鬼殺隊”と呼ばれる組織です」
「日輪刀と呼ばれる特殊な剣を以て鬼と戦う者たちが、この国に、今も存在しております」
あまりに現実離れした話だった。
だが、名前は黙って聞いていた。
否定する言葉は、一言もなかった。
あの夜、自分が見たもの。
それを、やっと誰かが“言葉”にしてくれた。
あまねの表情が、ほんのわずかに陰る。
「そして……名前様の弟君――陽太様を、鬼に変えたのは……おそらく、“鬼舞辻無惨”という存在です」
名前の目が、はっきりと揺れた。
「……鬼舞辻……無惨……」
初めて聞くその名は、音にすら“禍”が宿っているようだった。
あまねは、視線を逸らさず、静かに頷く。
「全ての鬼の始祖。己の血を分け、鬼を生み出し、支配し続ける存在。陽太様もまた――その血によって、鬼とされたのでしょう」
喉の奥に、何か熱いものがこみ上げた。
名前は、血が滲むほどに唇を噛む。
鬼舞辻無惨。
そいつが、陽太を鬼に変え、両親を食い殺し、幸せだった日常を地獄に叩き堕とした。
名前から何もかも根こそぎ奪った、全ての元凶。
「……陽太を、取り戻す方法は……」
その問いに、あまねは目を伏せた。
「……現時点では、鬼を人に戻す術は、確認されておりません。残念ながら……それは、奇跡と呼ばれるほどに困難です」
その瞬間だった。
「では…鬼舞辻無惨は…どこにいる…!」
名前が上半身を起こそうとしながら吼えた。
体中の傷が悲鳴を上げる。
包帯が引きつれ、血が滲む。
それでも、彼女はあまねに向かって、吐き捨てるように言った。
「そいつは……今どこに…!」
「今すぐ……私が…殺してやる……!」
初めての怒声。
胸の奥にため込んできた痛みが、
言葉に変わって噴き出した。
「陽太を……陽太を返して……!」
喉が焼けるように痛んでも、涙が滲んでも、名前は叫び続けた。
その叫びは――
痛みでも、後悔でもない。
「本気で殺意を抱いた相手の名を初めて知った」怒りだった。
あまねは、彼女の腕をそっと押さえた。
名前の目が、揺らぎながらあまねを睨む。
けれど――
あまねは、まっすぐにその怒りを受け止めていた。
「……貴女の怒りは、当然のことです。その怒りの矛先が、間違ってなどおりません」
「だからこそ、どうか――」
「どうか、その剣を、焦らず、正しく振るえる時を迎えていただきたいのです」
名前の肩が、震えた。
悔しさに、怒りに、今すぐにでも立ち上がって斬り伏せたい気持ちに、身体が応えてくれないことが――もどかしかった。
あまねは、そっと言葉を添える。
「必ず、その日が来ます。貴女が、無惨の首に剣を届かせるに相応しい剣士となる日が」
「その時まで、どうか――生きていてください」
その言葉に、名前の拳が、布団の上で強く震えた。
そして彼女は、傷だらけの目を、もう一度まっすぐにあまねへ向けた。
その目に宿ったのは――
怒りではなく、“決意”だった。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
藤の花が、風に揺れていた。
その色は、どこか懐かしく、けれど名前には見慣れない匂いだった。
藤の家紋の屋敷。
ここは――かつて“鬼”に救われた一族の末裔が守る場所。
それを知ったのは、あまねとの静かな会話の中だった。
「この屋敷に身を置く者は、皆“鬼を許す者”ではありません。けれど、かつて救われた命に、感謝を捧げて生きている者たちです」
名前は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが、幾度となく世話をしてくれた女中たちの笑顔や、傷だらけの自分に一度も怯えなかった目を思い返して…少しだけ、胸が温かくなった。
療養の日々の中で、あまねは名前に多くのことを教えた。
「“呼吸”と呼ばれる技がございます」
「それは人の身体能力を極限まで引き出し、
鬼に匹敵する速さと力を得る術」
「そして――その技を用いる剣士たちが受ける試練、“最終選別”という場が存在します」
全てが、未知だった。
だが、すべては
これから無惨を斬るために。
陽太と共に、罪を償うために。
必要な知識だった。
やがて、季節がひとつ移ろい、名前の身体は完全に癒えた。
両の足に力が戻り、手には新しい皮膚が張った。
かつて鬼と斬り結んだ刀傷の下に、新たな“闘うための筋”が根づいていた。
そしてある朝。
女中の案内のもと、藤の門の前に立つと。
「――あまね様。お戻りになられたのですか」
「はい。名前様の旅立ちに、どうしても立ち会わせて頂きたくて」
産屋敷あまねが静かに立っていた。
名前の療養中、彼女は屋敷に留まってはいなかった。
最初に彼女をここに運んだ後、女中たちに看病を任せ、静かに屋敷を後にしていたのだ。
そして今、名前の見送りのためだけにこの屋敷に訪れていた。
名前が深く頭を下げると、あまねは小さく頷き微笑んだ。
「育手のもとへ向かってください。呼吸を学び、自らの技を見極めてください」
あまねはそう言って、握っていた火打石と小さな鋼を差し出す。
「どうか、道中に禍事なきよう。貴女の行く手が、藤の香のように澄んでおりますように」
そして、あまねは――
火打石を、鋼に打ちつけた。
チッ――
小さな火花が、地面に弾ける。
もう一度、チッ――
澄んだ音と、きらめく火。
それはまるで、旅立ちの空気を清める祈りのようだった。
三度目の切り火のあと、あまねは名前に向き直り、言葉を添える。
「……また必ず、お会いしましょう。剣の果てにて、お待ちしております」
名前は、静かに頷いた。
その目にはもう、迷いも、痛みもなかった。
あの日、洞窟で見た絶望の涙も――今は遠い記憶だ。
門が、静かに開く。
朝の空気が吹き抜け、藤の香がふたたび彼女の背を押した。
振り返ることはしなかった。
その背中に、女中達の祈りと、あまねの切り火の音が、静かに届いていた。
あまねは切り火を終えたあとも、しばし門の外を見つめていた。
その眼差しはまるで、これから始まる旅の険しさをすべて知っている者のようだった。
そして誰にも気づかれぬように――彼女は屋敷の隅に置かれていた、布に巻かれた一本の、折れた剣へと歩み寄った。
それは、かつて名前が使っていた剣。
あの村で、鬼を討つために投げ、そして――夜明けまで何度も叩きつけ、最後は折れてしまった、父の形見の剣。
今は、ただの鉄の残骸に過ぎなかった。
けれど、あまねはそれを、まるで尊い遺物でも扱うように丁寧に拾い上げる。
重くもない。だが、重くないはずがなかった。
「……この剣も、また道を歩むのですね」
誰にも聞かせることなく、そう静かに呟いたあまねは、その折れた剣を自らの袖に包むようにして、静かに歩み去っていった。
それが、やがて日輪刀として再び名前の手に戻る剣であるとは、その時、まだ誰も知らなかった。