一章
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春の匂いが満ちていた。
梅の花が風に揺れ、広い庭では幼い門下生達の笑い声が響く。
「ねぇ姉上」
「なあに?陽太」
「今日は僕も道場で稽古して良い?すっごく調子が良いんだ!」
「何言ってるの、今朝咳き込んでいたでしょう」
「ええっずるいよ!新一君はやってるのに!」
「新一は貴方より二つも年上なんだから。まずはご飯をたくさん食べられる様になってからね」
「ぶぅ…」
玖波家。
剣術を家業とし、代々その技と名誉を守り続けてきた由緒正しき武家の末裔。
名前は玖波家長女として生まれ、その弟陽太は長男として生まれた。
現当主である父、澄誠は厳格にして公正。その妻、綺羅子は静かに優しく、子供達を見守っていた。
名前は縁側に正座し、陽太の髪を結っていた。五つ年下の弟は甘える様に姉に擦り寄っては、「動かないの」と窘められる。
「名前姉様。俺、素振りだけ陽太に教えてやっても良い?」
「新一」
「新一君、ほんと!?」
「なぁ名前姉様、良いだろ?無理はさせないからさ」
「…少しだけね」
「やったぁ!ありがとう姉上!」
門下生の中で一番幼い新一だったが、彼は陽太を可愛がってくれた。
はしゃぐ陽太を諌める向こうでは、澄誠と門下生の最年長である朝霧颯太郎が真剣な面持ちで木刀を立ち会っていた。
颯太郎もまた名家の長男だったが、武家として名高い玖波家に住み込みで剣を学びに来ていた。
名前より三つ年上なだけだったが大人びて落ち着きがあり、名前を何かと気にかけていた。
「姉上、姉上!」
「ん?」
「僕、姉上より強くなるからね!今は姉上が一番強いかもしれないけど、いつか僕が姉上を超えるからね!」
「…うん。きっと、陽太は私より強くなるよ」
名前は無邪気な弟に一瞬沈黙し、柔らかく笑んだ。
弟が自分を超える。それは心からの願いだった。
花壇を見ると、母が楽しそうに女中達と花の世話をしてる。
美しく穏やかで、どんな時でも品の良い立ち振る舞いを忘れない母は、名前にとって理想の女性の姿だった。
颯太郎が、稽古を終えたのか手拭いで汗をぬぐいながら戻ってきて、名前に手を差し出す。
「名前さん。少し歩きませんか。梅がよく咲いている」
「…はい」
「あっ…姉上…」
名前は少しはにかみながら、颯太郎の手を取った。
離れていく姉の背に伸ばした陽太の手は空を切った。
「桐子、陽太を少し見ててくれる?」
「任せてください、名前様」
「ありがとう」
姉を取られぶすくれる弟を仲の良い女中に預け、颯太郎に手を引かれる。
門下生達の穏やかなはしゃぎ声、父の優しい眼差し、母の穏やかな笑い声。
淡い想いを寄せ合う人の温かな手。
心地よかった。
幸せはここにあり、世界はこんなにも優しく素晴らしいのだと名前は信じて疑わなかった。
ほんの数日後、この屋敷が血に染まり、地獄と化すことなど--誰も、夢にも思わなかった。
梅の花が風に揺れ、広い庭では幼い門下生達の笑い声が響く。
「ねぇ姉上」
「なあに?陽太」
「今日は僕も道場で稽古して良い?すっごく調子が良いんだ!」
「何言ってるの、今朝咳き込んでいたでしょう」
「ええっずるいよ!新一君はやってるのに!」
「新一は貴方より二つも年上なんだから。まずはご飯をたくさん食べられる様になってからね」
「ぶぅ…」
玖波家。
剣術を家業とし、代々その技と名誉を守り続けてきた由緒正しき武家の末裔。
名前は玖波家長女として生まれ、その弟陽太は長男として生まれた。
現当主である父、澄誠は厳格にして公正。その妻、綺羅子は静かに優しく、子供達を見守っていた。
名前は縁側に正座し、陽太の髪を結っていた。五つ年下の弟は甘える様に姉に擦り寄っては、「動かないの」と窘められる。
「名前姉様。俺、素振りだけ陽太に教えてやっても良い?」
「新一」
「新一君、ほんと!?」
「なぁ名前姉様、良いだろ?無理はさせないからさ」
「…少しだけね」
「やったぁ!ありがとう姉上!」
門下生の中で一番幼い新一だったが、彼は陽太を可愛がってくれた。
はしゃぐ陽太を諌める向こうでは、澄誠と門下生の最年長である朝霧颯太郎が真剣な面持ちで木刀を立ち会っていた。
颯太郎もまた名家の長男だったが、武家として名高い玖波家に住み込みで剣を学びに来ていた。
名前より三つ年上なだけだったが大人びて落ち着きがあり、名前を何かと気にかけていた。
「姉上、姉上!」
「ん?」
「僕、姉上より強くなるからね!今は姉上が一番強いかもしれないけど、いつか僕が姉上を超えるからね!」
「…うん。きっと、陽太は私より強くなるよ」
名前は無邪気な弟に一瞬沈黙し、柔らかく笑んだ。
弟が自分を超える。それは心からの願いだった。
花壇を見ると、母が楽しそうに女中達と花の世話をしてる。
美しく穏やかで、どんな時でも品の良い立ち振る舞いを忘れない母は、名前にとって理想の女性の姿だった。
颯太郎が、稽古を終えたのか手拭いで汗をぬぐいながら戻ってきて、名前に手を差し出す。
「名前さん。少し歩きませんか。梅がよく咲いている」
「…はい」
「あっ…姉上…」
名前は少しはにかみながら、颯太郎の手を取った。
離れていく姉の背に伸ばした陽太の手は空を切った。
「桐子、陽太を少し見ててくれる?」
「任せてください、名前様」
「ありがとう」
姉を取られぶすくれる弟を仲の良い女中に預け、颯太郎に手を引かれる。
門下生達の穏やかなはしゃぎ声、父の優しい眼差し、母の穏やかな笑い声。
淡い想いを寄せ合う人の温かな手。
心地よかった。
幸せはここにあり、世界はこんなにも優しく素晴らしいのだと名前は信じて疑わなかった。
ほんの数日後、この屋敷が血に染まり、地獄と化すことなど--誰も、夢にも思わなかった。
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