IGNITE
甘寧に握られた手首は痛みを伴った。振り返ることなく凌統を引っ張り続けている。その背に向かって怒鳴ってみても止まる気配がないので、次第に凌統は黙り込んだ。掴まれた左手には部員から贈られた花束があって、暴れて散らすわけには行かなかった。
部室棟から競歩で3分。連れ込まれた先は甘寧の部屋だった。凌統が入るのはこれで二度目だった。安価な家賃の萎びたアパートの一室にある甘寧の部屋は綺麗とは言えないが、散らかっていることもない。物が少なく、目に映るのは部活の用品とほんの少しの学業関係のものだけだ。
強引に上げられて、玄関に花束が落ちた。なんとか靴は脱げたが、引く手を緩められることはなかった。奥へ入ろうとするのを、凌統も踏ん張りを聞かせて抵抗する。
「いい加減放せっての!この後新幹線乗るんだから、あんたに構ってる時間はないんだよ!」
「何時だ」
「14時」
「一発くれえヤれんだろ」
強引な言葉と共に、敷きっぱなしであろう布団に押し倒される。凌統は引き摺られている時も家に上がった時も本気の抵抗ではなかったが、遂に全力を出して暴れた。迫って来る腹を蹴り上げても、相手は呻いただけで、重たい体が押し付けるように降りて来る。顔面を殴ろうと拳を繰り出したが、寸でのところで受け止められた。無理矢理仕掛けてくるキスを首を捻って避ける。
「もう、いいだろ!卒業なんだよ」
下半身は押さえつけられ、マウントを取られているが、上体の力は拮抗している。甘寧の性欲発散を卒業にもなって面倒見てやるほど凌統は優しくないつもりだ。終わりを意識しただけに、これ以上甘寧の都合で行為に及ぶことはもう耐えられなかった。凌統に睨み上げられた甘寧は舌打ちしながら力を更に加えてくる。
「ずっと、何してたか、知らないけど。他に当てがあるんだろ?じゃあもう、体貸す必要ないだろ」
対抗して部会を荒らした日に抱かれて以来、甘寧と二人きりになることはなかった。甘寧は凌統の家に来なかったのだ。部会では同じ空間にいたものの、特に会話もしなかった。その後の追い出しコンパには顔も出さないとくる。飽きるどころか、顔も見たくなくなるのかと呆れたものだ。
体の関係を持って2年。その期間中、異常なペースで求められたことを覚えている。部活動の飲みがあった日には大概押しかけてきたし、合宿の後は気が昂っていたのか、どんなに疲れていてもやってきた。全て甘寧が来て、凌統が受け入れた形だ。甘寧が止めれば終わる。性欲の塊が2か月も我慢できるとは思えず、新たな相手がいるのだと踏んでいた。手ごろな位置から消える自分を抱く意味はもうないはずだった。
凌統は唇を噛みながら視界が滲むのが分かった。凌統は認めている。甘寧に惹かれているからこそ独占欲が湧いたこと。視線を浴びたいがために、性欲発散に乗じていたこと。最後の春休み、甘寧のことを考えないようにしては苦しんだこと。この虚しさを都会にも持っていくこと。
凌統の目に溜まる潤みを見て、ようやく甘寧の力が緩んだ。不思議と、抵抗する方も力を抜かれると同様に弱めてしまうものだ。
「泣いてんのか?」
ほとんど喋らなかった甘寧が、凌統の顔面をまじまじと見て言った。悔しさが余計に涙を生む。
「うるせえっつの。早く退けよ」
凌統の声は上擦っていた。感情の堤防が決壊して、怒鳴ることも出来なかった。甘寧の大きくため息が降って来る。失望はもうこりごりで、一刻も早くしんどい空間から離れたくて凌統はもがいた。甘寧はこれでもかというほど眉をひそめている。
「どうなってんだお前」
「なんだよ」
「ツラ、えぐすぎんだろ」
「最後のディスりにしちゃ、酷すぎるって」
「馬鹿、逆だろ。泣き顔までストライクだぜ」
疑問符のついたリアクションは音にならなかった。甘寧が顔に向かって手を伸ばしてくる。前髪を潰した後、甘寧の指先が額から頬骨を辿って顎まで下りていく。耳の下を通って項で毛先を弄んだ。
「お前の見た目、好みど真ん中っつってんだよ。切っちまいやがって勿体ねえ」
甘寧は真剣な表情のまま項をくすぐって、凌統の体が跳ねる。
「一つのもん気に入るってのは、なかったんだけどな。特別っつーのか」
真っ直ぐに目を見て言ってきて、凌統は体温が上がるのを自覚した。耳が痒くなって熱い。項から戻ってきた甘寧の手が顎を掬った。流れるように唇を食まれる。無意識に口を開くと、すぐに舌が滑り込んできた。キスはこれまで、酒が入るか行為に耽って思考が溶けている時にしかしてこなかった。
「ふ、……ぅ、んっ」
理性がある時に舌を絡められ、歯列をなぞられると羞恥で気絶しそうになる。一気に恥ずかしさが増して掌で肩を押してみたが、甘寧が退く気配はなかった。濃厚すぎる口付けから解放された頃には、凌統は意識を保つので精一杯だった。
「お前以外に興味ねえよ。顔だけじゃねえぞ。中身もすんげえ気に入ってる。上手く言えねえけどよ。俺から離れんな」
怒涛の勢いで告げられて凌統は混乱した。ただでさえ酸欠で思考が定まらないというのに、予想もしていなかった内容である。瞳をうろつかせることしかできなかった。甘寧は指の節で凌統の唇をなぞっている。ぴりっとした痛みは皮膚を噛み切ったせいだろう。見上げた先の甘寧の唇にも少し赤が付いている。凌統も無意識に手を伸ばし、親指の腹で甘寧の唇を拭った。誘いと勘違いしたのか、甘寧がまたキスを仕掛けてくる。今度はゆっくり降ってきたので避けられたが、しなかった。いつもより時間をかけた接吻に、凌統の激情が落ち着いていく。
唇が離れて目が合うと、凌統は全身が痒くて仕方がなかった。甘寧の言葉は真っすぐで、凌統に強い思いがあることが知れた。回答した方がいいのか、必要があるなら何と言えばいいのか、沈黙の裏で混乱が続く。甘寧が今度は指先で泣き黒子を弄っていた。
「っつーことで、俺も来年にはそっち行くぜ」
「は?そっちってどっち」
悩みをぶった切るようにからっとした表情で甘寧が言う。苛ついた声色で返してしまう己に、凌統は少し呆れた。素直に感情を伝えるだなんて夢のまた夢の話である。
「お前の住むらへんに決まってんだろ。追いコンん時、合説行ってた」
「あんたが!?」
企業の合同説明会に甘寧が赴いている姿が想像できず、凌統は目を丸くして笑った。そもそも正装を見たことがない。リクルートスーツを持っていたというだけで拍手したいレベルだ。馬鹿にしたように笑う凌統に、今日の甘寧はキレなかった。泣き黒子に置いていた指を頬骨から首に伝わせていく。
「お前がいねえと静かすぎてつまんねえよ」
「あっそ……」
「一年待ってろ。つか就活中は家貸せ」
「タダ宿かっつの」
「礼に全身マッサージしてやる」
「なんだいそれ。若干含みが……んっ」
伝い下りてきた甘寧の指先が乳首を弾いた。布の上からの絶妙な刺激に、凌統の体は素直に反応する。元々弱かった箇所は甘寧の手によって随分と感じやすくなっていた。責め手の主はニヤニヤと笑いながら満足そうに頷いている。
「お前もこんだけ開発されて、今更別の奴とヤれるわけねえだろ」
「う、うるせえっつの!」
「ま、諦めろや」
凌統の気を知っていてあえて「諦めろ」と言っているのか、それとも知らずに言っているのかは分からなかった。ただ、どちらにしても甘寧は凌統と離れる気がさらさらないようだ。その事実がじわじわと喜びを呼んで、凌統は居たたまれなくなった。着々と愛撫を進める甘寧を止められるだけの力は残っていないので、受け入れるしかない。渋い顔のまま、凌統は甘寧の太い首に腕を回した。顔を上げた甘寧に唇に噛みつくように口付ける。凌統の方から舌を捻じ込んで積極的に吸うのはこれが初めてのことだった。接吻を終えてから額をぶつけて、至近距離で告げた。
「精々、張り切って就活するんだね」
「へいへい」
ひねくれた男の返答だ。肯定でも否定でもない言葉の意図を汲んだ甘寧が、呆れながら笑う。限られた時間を堪能すべく、そのまま二人は慣れた行為に沈んでいくのだった。