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7 卒業




肌を突き刺す寒さは続いたが、柔らかい陽光が覗く日も時折見えてきた。降り積もった雪は少しずつその嵩を減らし、瑞々しい匂いを運ぶ。陸遜は全身で季節の移ろいを感じ取っていた。

大学に単位の結果を出力しに行った陸遜は、偶然喫煙コーナーの前を通りかかって甘寧を見付けた。向こうもすぐに気が付いて、にっと口角を上げている。たまたま他の人がいなかったので、陸遜は小さく会釈をしてから中へと入った。完全な個室ではなく、パーテーションで仕切られただけのスペースだった。

「煙大丈夫か?」
「ええ。甘寧殿、単位取れましたか?」
「おう、そこそこ取れたぜ。お前にゃ世話んなったな」

無邪気に笑う甘寧に、陸遜は苦笑した。後期も総合学科のいくつかが被っていて、試験前には後輩であるはずの陸遜が色々と教える羽目になった。陸遜の家で暮らすようになった呂蒙とも仲が良いこともあって、家にも二度ほど来た。関係を知って尚も変わらず接してくれる甘寧の磊落さも心地よく、陸遜にとっても楽しい時間となった。

「来年度はあまり総合を取らないのですが、Ⅲで気になるものがいくつかあるので、ご一緒してたらよろしくお願いいたしますね」
「俺がⅢなんか取る訳ねえだろ。つか春休みに次のこと考えっかよ」
「甘寧殿は考えた方がいいと思います。卒業できませんよ」
「卒業なあ」

ふいに出した言葉を繰り返した甘寧が少し遠くを見上げ、上空に向かって排煙する。陸遜はなぜか胸がざわついて、少しだけ踏み込むことにした。

「寂しいですね。4年生が卒業してしまわれるの」
「口うるせえ垂れ目がいなくなりゃ、部会は静かだろうな」
「喧嘩する相手がいなくて、物足りないのではありませんか」
「へっ」

鼻で笑うだけで陸遜の発言を否定せず、甘寧は黙って煙草を吸いこんだ。陸遜はその横顔を眺める。表情は変わらず、思考は読めなかった。
以前華やかなメンバーで飲んだ時に話題になった二人は、陸遜からすると『喧嘩する程仲が良い』を体現している関係だ。現に今だって、4年の卒業について言及したのに返ってきたのは凌統についてだけだった。陸遜からすれば、徐盛も周泰も孫尚香も全員孫呉に欠かせない人員で、頼りにしてきた。全員の卒業を寂しく思う。
常に争っているが、二人の間には二人なりの信頼があり、力をぶつけ合える相方のように見えた。一人残った甘寧は、余ったエネルギーをどこで発散するのだろう。陸遜は己の心配が余計なものだと知りながら、その疑問が抜けないままだ。

「俺も遂に4年か。早えな」

ふーっと煙を吐きながら甘寧が溢した。甘寧は少し唇を尖らせたまま陸遜を見やる。

「入った時おっかねえけどすげーって思ってた学年になんのは、妙な感じするぜ」
「私から見ると、甘寧殿はまさしくおっかねえけどすげえ方ですよ」
「お前俺にビビったことねえくせに」

甘寧が笑って陸遜はなぜかほっとした。楽しい表情以外の甘寧は遠い人のようだからだ。返事を受けて、陸遜は思い出した。怖いと思ったことはほとんどないが、一度だけ感じたことがある。



秋ごろの部の飲み会で、いつものように飲み比べをした甘寧と凌統はどちらもべろべろに酔っていた。特に凌統は疲労もあって、店から少し歩いた先のガードパイプに腰かけて眠ってしまっていた。呂蒙と共に水を買いに行って戻ると、凌統はサラリーマンに絡まれていた。偶然、ラブホテルの目の前で潰れてしまったことが災いしたらしい。中年の男は、凌統の身を案じながらもべたべたと肩や背中を触っていた。その手がポニーテールの毛先に触れようとした時だった。呂蒙と陸遜を追い抜かして甘寧が飛び出してきた。男の胸倉をその爪先が浮く程持ち上げる。

「失せろや」

地を這うような声だった。青ざめた中年は着地と同時に逃げていく。大きく舌打ちした甘寧が凌統の胸倉を掴んで何やら声を掛けていた。その横顔は、陸遜が見てきた中で最も鋭利な目つきだった。

「おっさん、こいつ連れて帰る」
「お、おお。お前も随分酔っていただろう。大丈夫か」
「醒めた」

甘寧は凌統を引きずるようにして夜闇に消えていった。あの時の獰猛な目つきや声は、今でもはっきりと恐怖に思える。同時に、こうして思い出してみても、甘寧にとって凌統は大きな存在なのだろうと再確認できた。


「私も先輩になります。引き続きご指導お願いいたします」

回想を終えた陸遜は、努めて普段通りの声で告げて丁寧に頭を下げた。ぐしゃぐしゃと髪を撫でられる。顔を上げた先の甘寧は、いつも通りの勝気な笑みを浮かべていた。


***


帰宅した陸遜はデスクでパソコンを起動させた。春休みではあるが、課題は山のように出ている。部活の方も、冬山登山の代わりにボルダリングや屋内でのボート練習に精を出すのに忙しい。家庭教師のアルバイトも軌道に乗ってきていて、4月から二人目の教え子を持つ。学習計画も練らなければならない。また実家に顔を出すことが難しくなった。
キーボードを打つ手は急に点いた灯りによって一度止まった。

「暗いぞ陸遜。集中するは良いことだが、目は大事にしてくれ」
「お帰りなさい、呂蒙殿!」

優しい小言を述べる呂蒙に抱き着き、ライトキスを交わした。呂蒙がこの家に滞在するようになって少し経つが、まだちっとも慣れなくて毎度嬉しい瞬間である。
呂蒙の賃貸アパートは解約しておらず、そのままにしている。一人で暮らすと契約した家で二人暮らしに変更するには諸々のハードルがあったからだ。名目上は毎日お泊りしている状態である。呂蒙が研究室で寝落ちて帰ってこない日や、陸遜が合宿で不在にすることもあるので、実質半同棲の状態である。それでも前よりぐっと傍にいる時間が増えて、互いのことが知れるようになってきた。

「陸遜、すごい報告がある」
「は、はい!」
「研究室の教授が変わる」
「……本当ですかっ!?」

呂蒙が清々しい笑みを浮かべて頷くので、陸遜も顔が綻んだ。呂蒙を疲弊させていた諸悪の根源。これまで、一応教授という立場を考慮して口には出さなかったが、陸遜はその存在を恨めしく思っていた。二人でソファーに腰かけて詳細を聞く。

「どうやら学内でも問題視されていたようでな。で、結局教授の脳に異常が見つかったらしく、入院加療することになったらしい」
「途中から、ぐっとおかしくなったと言っていましたよね。病気によるものだったのでしょうか」
「詳しいところまでは分からんが、可能性はあるだろうな。大学の方でも調整を進めていたらしく、4月からの教授もすでに決まっているそうだ」

物事が好転する時は一気に進む。呂蒙がこれまで随分長い間苦しめられたことを思うと足りないくらいだが、その表情が心底ほっとしていて陸遜も温かくなった。

「お前にも随分心配かけたな。これからは恐らく、時間が出来そうだ」
「部活も、もう少しご一緒できるのでしょうか?」
「まだ分からんが、そうしたいところだ」

呂蒙が陸遜の肩に腕を回して体を引き寄せた。自然に唇が重なる。ちゅ、ちゅ、っと小鳥が鳴くようなキスから次第に舌が絡み合って、ぞくぞくと甘い痺れが陸遜の体を駆け巡る。
最後まで挿入する、という陸遜の密かな目標はまだ達成されていない。それを果たせずとも呂蒙の愛は変わらず、性的欲求も互いに触れ合うことで満たせていた。今では時々試して、厳しければすぐに止めるようにしている。ほぼ一緒に住めるようになったことも、焦りが消えた要因の一つとなった。

「……呂蒙殿」
「どうした?やめるか?」
「その、後でまた、いいですか?レポートに没頭していて、昼も食べておらず……」

睫毛を伏せて囁くと同時に、陸遜の腹がきゅうと切ない悲鳴を上げた。呂蒙が笑い皺を深くして陸遜の頭を撫でる。自分に対して怒ったり呆れたりする姿が想像できない程、呂蒙は穏やかであり続けた。
一緒にいる時は二人で食事を用意する。火入れや調味は呂蒙の方が上手いので、陸遜は下処理や片づけをすることが多い。生活音を立てながら他愛もない話をして手を動かす時間は、かつて陸遜が望んだものだ。出会いの別荘で願った欲を叶えるために、陸遜は足を止めずにここまできた。上手く行き過ぎなところもある。共に居る時間を大切にしようと何度も胸に刻み入れるのだった。

「週末には追いコンだな。あいつらが卒業とは、時の流れにはぞっとするな」

陸遜が強く頷く。追い出しコンパという名前には初め驚いたものだが、サークル活動において卒業生に最大限敬意を払った祝宴である。

「4年生の皆さんには本当にお世話になりました。盛大に見送ってみせます」
「陸遜と朱然は初幹事だな」
「大喬殿、小喬殿と共にではありますが、緊張します」

OBを含め参加を募り、日取りを決めて予約をし、当日の流れを考える等、幹事業務は初めてのことばかりだった。特に朱然が冬山登山で忙しかったこともあり、連絡調整をすべて陸遜が担ったので、2月はあっという間に過ぎていった。
そこでようやく、陸遜は思い出した。思わず小さい声を上げてダイニングの椅子から立ち上がる。食事中に珍しいな、と呂蒙が目を丸くして見上げてきた。

「今日、甘寧殿に会ったんです。卒業の話題にもなったのに、返事を頂くのを失念しておりました」
「返事?」
「追いコンの参加の可否が返って来てないんです。もちろん、参加で数えてはありますが、確認しておきたかったんです」

呂蒙が納得したようにゆったりと頷く。陸遜は座り直して頭を下げ、茶を一口すすった。

「取り乱してすみません」
「いや、気にするな。あいつは連絡無精だからな。俺なんかメッセージの1割も返って来んぞ」
「電話の方が得意そうですよね」
「そういやここんとこ掛かってこないな。あいつもようやく自立したか」

呂蒙は満足そうに頷いている。呂蒙の苦労が減るのであれば良いことだ、と陸遜も嬉しくなった。陸遜は冬山をやっていないこともあって、最近は甘寧と共に行動することがない。だから甘寧が活動やら何やらで忙しくしているのだろう、と思い込んだのだった。


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