IGNITE
呂蒙との甘い週末を過ごした明けの部会。厳冬期らしい冷たい空気が講義室にも漂っていた。まもなく後期試験というタイミングだが、院生以外の全員がミーティングに参加している。本来ならばこの後『試験がんばろう飲み会』にでも繰り出すところだが、今日の重苦しい空気はそれを許さない。週末、甘寧を筆頭に行った合宿で事故手前の出来事が起きていたと報告があったからだ。
ホワイトボード前には甘寧、丁奉、練師の3年トリオが立っている。甘寧を除いて暗い顔つきだ。講義机の一番前は決まって1年の二人が座る。前から6列目、全体で言うと後ろの方で腕を組み、足を組み、苛々と爪先を揺らしているのは凌統だ。陸遜が見てきた中で最も機嫌が悪く、室内の体感温度を下げている。
「――で?事故の概要は分かった。何でその報告が今なのか、聞いてんだけど」
「だから、事故じゃねえ。寸前だっつってんだろ」
「へえ。ピッケル一本ぶっ壊して、アイゼン一個失くして、片手怪我しといて事故じゃないって言い張るわけ」
「こんなもん怪我に入んねえよ」
「ふざけんなっつの!」
凌統が組んだ足を解き、床に叩きつけた。轟音に女性陣や一年生は肩を揺らして驚き、身を縮こまらせた。陸遜は凌統の怒鳴り声を初めて聞いた。並々ならぬオーラも、その低い声も、威圧的で恐怖を与えてくる。いつもの飄々として皮肉を言う姿がいかに優しいものであったか知らしめられた。
「あんたがいくら平気だろうと、部としてはそうは行かない。備品の損傷紛失に部員の凍傷ってのは立派な事故だ。で、あんたは責任逃れしようとしてる腰抜け野郎ってことだよ」
「ああ?やるかテメエ!」
「やめなさい!」
怒声と共に甘寧が拳を握って一歩踏み出したのを、孫尚香が直ちに宥めた。甘寧は顎を上げて鋭い目つきで凌統を見下している。陸遜がそろそろと後ろを向くと、凌統は通路側の席で腕を組み、顎を引いて甘寧を睨み上げていた。
事故の概要は滑落である。無事に山頂へのアタックを終えたのち、一行は順調に下山していた。甘寧がロープの拠点を立てるために先頭を歩いていた際、把握できなかった雪庇を踏み抜き滑落したというものだ。冬の滑落事故は命に直結しかねない。咄嗟にピッケルを突き刺し、何とか制止したものの、靴に取り付けるアイゼン一足が途中で外れて雪山を滑り降りていった。岩肌に当たったピッケルも次回の使用は難しい状態となり、手袋をしていても尚ダメージを負った甘寧の右手には凍傷による痕が残っていた。
だが、丁奉の迅速なレスキューもあり、甘寧は直ちにコースに復帰した。甘寧が動揺していないことも幸いし、その後は無事下山することができたのである。
合宿中の部品が破損や紛失はこれまでも起きていた。その際は報告書に記載し、インシデント報告程度で済まされている。なので甘寧としては事故一歩手前であり、凌統からすれば立派な事故と両者の意見は対立していた。陸遜としては命に別状がなくてほっとするばかりで判断がつかない。
顎に手をやって長考していた孫権が立ち上がった。
「まずは合宿と報告、ご苦労だった。メンバー全員が帰ったことは嬉しく思うし、滑落して尚平常心を保って下山した甘寧を誇りに思う」
孫権はこういう時、決して声を弱めない。はっきり発声し凛々しく告げる。だから力がある。その威厳に部員が付いてくるのだ。組織として整っていると陸遜は幾重にも感動させられた。
「だが、此度の結果は思わしくない。凌統が心配する気持ちも分かってくれ」
「誰が心配なんざしますかって」
「お前の孫呉への想いはよく分かっているつもりだ。この部を清く正しく存続させるためには、起きたことの把握と反省が必要だということには強く同意する」
孫権の返しに、凌統は小さく舌打ちして矛を収めた。孫権の言葉が響いたのか、甘寧も殺気立った表情から面白くないという表情に変わっている。
「甘寧。決してお前を責め立てたいわけではないのだ。ただ、二度とこのようなことが起きぬよう、究明と今後の予防に努めたい。事故報告を上げてくれるか」
「今回の件、甘寧殿に頼り過ぎたことも一因と考えます。メンバー全員で作成致します」
「ああ。丁奉、頼んだぞ」
甘寧は無言で頭を下げた。それにて一旦、冬山合宿の件は終いとなった。練師が普段より青い顔をしながら、努めていつも通りに部会を進行させていく。陸遜はまた凌統を盗み見た。窓の方に顔を向けて睨み付けている。
結局、部会が終わるや否や、凌統は講義室を飛び出していった。合宿に行ったメンバーは前に集まり、甘寧を中心に報告書について話し合っている。その中には朱然もいたので、陸遜はぽつんと取り残されたような錯覚に陥った。その背を、とんと優しく叩かれる。振り向くと二喬が立っていた。
「陸遜、おつかれさま~。ねね、今日、この後ごはん行かない?」
「お酒なしで、少しだけどうでしょうか……?」
珍しい誘いに少し驚いたが、陸遜は快諾した。このもやもやを抱えて帰宅するのが少し不安だったこともある。もしかすると先輩の誘いは慮ってのことなのだろうか、と思うと心が温かくなった。
「ぜひ、お願いいたします」
「良かった~。徐盛殿も尚香お姉ちゃんも来てくれるよ!」
「行けそうな方から、先に行きましょうか」
すぐに頷いて帰り支度をした。講義室を出る直前、陸遜は甘寧の方を見た。既に不満などは一切見えず、真面目な顔つきでメンバーに指示を出していた。
***
陸遜らは孫呉御用達の居酒屋に来ていた。宴会では楽しく賑やかに飲み倒す場だが、今日は初めてのテーブル席で、最終的に二喬の他徐盛と孫尚香、練師という華やかな場となった。飲み屋で食事のみというのはこれまでにしたことがなく、いつもより少し新鮮で美味しく感じた。
「陸遜、だいじょぶだった?ちょっと、怖かったね~」
「凌統殿があんなに怒るなんて、珍しいことなんですよ」
「そうね。でも凌統は間違ってないわ。アクシデントとして扱うべきよ」
「甘寧殿の冬山への熱意を存じているだけに、私としては辛い一件です」
陸遜は頷くだけに留めた。冬山に参加していない陸遜が物申せることはあまりない。ただ、緊急連絡を受けた際に「下山した。合宿終了な」とだけ甘寧に言われていたので、今日の報告は陸遜にとっても寝耳に水であった。事態を軽視していると言われても否定はできないだろう。それでも、詳細な状況を聞くと今回のことは不運であり、甘寧はリーダーとして真っ当に向き合っているように思えた。事故として報告を上げるとOBにも伝わり、OBの集まりで審議されるのだという。しばらくは活動よりも今回の対応に追われるかと思うと同情せざるを得ない。
「冬山は恐ろしい。筋を通して取扱い、今後に活かす方がいいだろう」
「そうですね。幸い、丁奉殿も付いています。きっと確実な報告書を作成してくれると思います」
徐盛と練師の言葉に陸遜はまたしても頷くのみだ。色んな意見を聞いて、自分の思考と照らし合わせていくと、抱えていた不安が落ち着いていく。このことは呂蒙にも連絡が行くだろう。心労が続く呂蒙に己のケアまでさせる必要がなくなりそうで、陸遜は安堵した。
しばらく事故のことや発生したらどうするといった話題が続いたが、しばらくすると甘寧と凌統の話になった。なぜ仲が悪いのか、どうすれば仲良くしてくれるのか。まるで兄弟喧嘩を心配する親の心境である。
「ちゃんと話せば気が合いそうなのにねえー」
「でも、あの言い合いこそお二人のコミュニケーションなのかもしれないわ」
姉妹につられて、陸遜も二人のことを考えた。甘寧と凌統はお互い腹の底から言いたいことをぶつけている。それでいて活動中は息がぴったりなのだから、大喬の言うとおりいがみ合いこそが二人の意思疎通に必要なのかもしれない。
「活動は素晴らしく噛み合ってますよね。虹の沢を攻略したのはお二人だけですし」
「練師の言うとおり。合宿以外はお互い子どもなのよね。俺が俺がーって、譲る気がないのよ」
「凌統は甘寧以外には温厚だと思うぞ。だが、しょっちゅう宅飲みで一緒にいるような気がする。なあ、陸遜」
「そうですね、私は、案外仲が良いのかと思っていました」
陸遜の控え目な発言に対する反応はそれぞれだった。徐盛と孫尚香は同意し頷いているが、練師と二喬はいまいちピンと来ていないようだ。
二人には同性の後輩ということもあって可愛がってもらっている自覚がある。その分、近くで他には見せない自然な姿を見ているのかもしれない。なんにしても呂蒙に火の粉が降らぬうちに仲直りしますように、と密かに祈りながら、ホットウーロン茶に手を掛けた。