IGNITE
陸遜にとって人生初の恋人が出来た。立場が変わってからはずっとふわふわと浮足立っている。試験が終わった後で本当に良かったと胸を撫で下ろすほど、他のことが頭に入ってこない。夏合宿は無事に終えたが、呂蒙と行けなかったことが残念でならなかった。
初デートで告白を成功させたあの日は、陸遜の計画通りに一日を終えた。元々先輩後輩として気を許した仲である。互いのペースや好みを把握していたこともあり、とんとん拍子に観光と食事を終えて清らかに帰宅した。
呂蒙が多忙なことには変わりなかった。少し気の狂った教授に複雑な研究。呂蒙のいる気象学は自然と密接なこともあり、よくフィールドワークや出張があった。週一回会うのがせいぜいである。スマートフォンでのメッセージのやり取りや通話は幸せだが、目の前に体温がある幸福には敵わないものだと陸遜は学んだ。
気落ちする中で、部活動はやはり楽しみの一つだった。後期の授業登録を終えた10月、最初の部会に足を踏み入れて、いつもと違う気配に気が付いた。大きな男が泰然と腕組みして立っている。
「魯粛殿!」
「おお、陸遜。お前に会えるのを楽しみにしていたぞ」
「私こそ、魯粛殿に会えるなんて僥倖です」
かつて妙な嫉妬を覚えた相手には、今や畏敬の念でいっぱいである。目を輝かせて近づくと、魯粛が陸遜の頭に手を伸ばしてきた。避ける前に魯粛の手が止まる。
「……もしかして、手つきか?」
「魯粛殿、発言がセクハラです」
「ははは、すまん。なんとなく、お前の顔が違って見えてな」
魯粛の勘の鋭さにはぞっとしてしまう。他の誰も会話を聞いていないことを確認してから、陸遜はOBにそっと耳打ちした。
「念願叶いました」
「ほう。成就したのか。それは良かったな」
「お気遣いいただきありがとうございました」
「いやなに。可愛い後輩らが揃って幸せになるのは実に嬉しいぞ」
魯粛は顎を擦りながら目元を緩めた。笑い皺が穏やかに波打って、そんなところも少し呂蒙に似ていた。
言葉を交わす内に部会の時間となった。今日の進行は二喬だったが、魯粛は席にも座らず、前でにこにこと機嫌よく皆を眺めている。陸遜の隣にいる朱然が生唾を飲む音が聞こえた。
「総会も新人合宿も成功を収めたのに、どことなく恐怖を感じないか?」
「そうですね。やはり、OBの畏怖は凄絶です」
「お一人なのにな」
朱然の言葉は前振りになった。講義室のスライドドアが音もなく開いて、煌びやかな男が入ってきたのだ。
「すまない、間に合うかと思ったが少し遅れた」
「周瑜さま!もー、遅いんだからぁ」
「小喬。待たせたな」
颯爽と入ってきた周瑜と当たり前のようにくっつく小喬の影響で一気に講義室が華やいだ。光景が美麗すぎて照れも来ない。絵画を見ているようである。
「魯粛殿に周瑜殿がお揃いとは怖いねえ。何やらされちまうんだか」
「凌統。喜びたまえ。君の好きなことだ」
「あ?お前OBまでタラしこんでんのか」
「言葉が悪すぎ。分かってますよ周瑜殿。時期ですね」
「ああ。今年も来たな」
凌統と周瑜が目を輝かせている。魯粛はやはり腕組みして満足そうだ。陸遜と朱然は目を合わせて首を傾げ、甘寧は落ち着きなく足を揺すっていた。凌統が呆れた顔で声を掛ける。
「あんた、忘れることだけは得意だよな。それだけ能天気に生きられるのも頷けるって」
「ああ!?んだお前、喧嘩売ってんのか!?」
「大安売りだっつの」
「二人とも落ち着け。甘寧、去年凌統を怒らせたのを忘れたか?」
「はあ?こいつ四六時中キレてっからいちいち覚えてねえよ」
前で二喬が小さい頭を上下させて同意している。毎度甘寧に怒っている凌統のことか、全部忘れているらしい甘寧のことか、はたまたどちらもか。きっとこの場に呂蒙がいれば拳一つで収めてくれただろうが、生憎今日も研究で不在であった。周瑜が美しい長髪を靡かせながら腕を伸ばす。指先まで綺麗に伸ばされたポーズは、これから舞台が始まるのではと勘違いしてしまうほどだ。
「いざ、舞茸の聖地、天元山へ行くぞ!」
一瞬間が空き、講義室はわっと盛り上がった。4年生の全員が就活を終えたこともあり、今日の部会は賑わっている。陸遜と朱然は先輩方のノリに合わせて拍手したが、はっきりとは理解できていない。首を傾げて顔を見合わせる。
「えっと、つまり、登山でしょうか?」
「ただの山登りじゃないぜ。キノコ狩りだよ」
凌統が立ち上がり、ふらっと前に来た。新人二人の前に立つとより長身が目立つ。それよりさらに高い魯粛と隣り合うと、陸遜と朱然は首が痛くなるほど見上げるはめになった。
「天然のマイタケってやつは貴重なんだ。手前に群生してる奴はすーぐ採られちまう」
「だが、我らは培ってきた技術と秘伝の場所がある」
「滅多に踏み入れられない場所だから危険も伴う。あんたらの実力試しにも丁度いいってね」
凌統が得意げにウインクすると陸遜も朱然も反射的に目元を赤くした。魯粛、凌統、周瑜が前にいる光景はとても輝いて見えた。ああ、という合点がいく声が後ろから聞こえて、新人二人が振り向く。甘寧が行儀悪く両足を机に乗せ、頭の後ろで手を組んでいた。
「思い出したぜ。そういや垂れ目が激ギレしてたな」
「その貴重なマイタケを、どっかの蛮族に食い散らかされたからねえ」
2メートルは離れているのに、どちらからもピリピリとした怒りのオーラを感じる。喧嘩に発展しなかったのは周瑜がさらに強い圧を放ってやめよ、と告げたからだった。魯粛が新人二人を見ながら小声で補足してくれる。
「去年、そこそこいい量が採れたんだ。現役では凌統と練師が料理上手だろう。二人に色々作ってもらったんだが、凌統の作った方は甘寧が食い尽くして大喧嘩になったんだ」
ことの詳細の幼稚さに、陸遜は「下らない」という言葉が喉元まで来た。相手は尊敬する先輩方、と言い聞かせて飲み込む。孫尚香が通路を挟んだ向こう側からさらに補足する。
「練師のは皆で食べられたけど、凌統のは甘寧がほとんど食べちゃったのよ。味見とか何とか言っちゃって、独り占めしたかったんでしょ、もう」
「響きが悪ぃぜ姫さん。練師の作ったやつの方が多かったんだからいいだろ別に」
「……繰り返す気か……」
「そうだな。そのやりとりは去年散々聞いた。もういいだろう。甘寧、今年は気を付けよ」
孫権の一言で甘寧は引き下がった。さすが部長の一声である。だがその手元にある大きなタブレット端末はキノコ料理のレシピが広がっていた。分かりやすく浮かれている。
「これまでの活動中でも、自然の恵みを享受してきた。これからは実りの季節、感謝を忘れずに頂きに参ろう。秋の嶺には心を奪われる……美しき大地だ」
丁奉の言葉はいつだって新人二人の期待を高めた。OBと行く合宿で、レベルが高い上に得られるものがあるとくれば、二人は意気揚々と参加するだけだ。
「陸遜伯言の力、遺憾なく発揮してみせます!」
「初のキノコ狩り……ああ、熱い……熱すぎる!」
部会は大いに盛り上がりを見せたまま収束した。
***
「という、楽しい部会でした」
「そうか。行けなくて残念だった」
金曜夜、陸遜は呂蒙を自宅に招いていた。交際して一か月が経過し、家で会うのも三度目となった。
呂蒙が無理やり研究室を抜け出したのは21時過ぎ。本来であれば夕食はとうに終えているが、陸遜は食べずに待っていた。大したものは作れないが、呂蒙のことを想って作った食事だ。共に食べたいと思うのは自然なことだった。呂蒙は予想通り、待っていなくても良かったのにと謝罪してきたが、陸遜がそうしたかったのだと断言すると顔を綻ばせていた。部会の報告の声も弾むというというものである。
「天元山へは再来週アタックするとのことでした。呂蒙殿は……?」
「すまん、行けそうにない。最近輪をかけて教授が予定を詰めてくる……」
大学教授の意向なのだから努力のしようもない。呂蒙は優しすぎる人柄だが、理不尽なことはきっぱりと断れる方だ。相手はその呂蒙を以てしても止められない人間なのだ。医学部の陸遜も徐々に専門的な内容が増えてきて多忙ではあるが、研究室の話は別世界のような気がしていた。
「甘寧殿はよく同じゼミに所属してますね」
「教授と甘寧のバトルも飽き飽きだ。だがなぁ、甘寧の研究は悪くないぞ。あいつ、野性的な勘が鋭いだろう。立てる仮説が非常識で面白いんだ」
「なるほど、頭が固い人ほど理解できない御方ですもんね」
「そういうことだ。ところで陸遜、自炊が上手くなったなぁ。美味いぞ」
呂蒙は早々とつまらない話を切り上げて陸遜に向き合った。大学生にありがちな肉と野菜を炒めて市販のタレで味付けしたものだが、丁寧に下処理されているからか食感が良く仕上がっていた。ほっと胸を撫で下ろす。一人暮らし歴半年、時折合宿で教わる食事作りのお陰で、家で食べる程度のものは難なく作れるようになっていた。呂蒙の方が簡単に『美味い』飯を作れるので、陸遜としては恐縮する一方だ。
「お恥ずかしながら、実家ではろくに機会がなかったので、自炊というものの奥深さに圧倒されます」
「こだわる奴はとことんこだわるよなぁ。凌統は恐ろしく切れる包丁を買ってたぞ」
「フライパンもなんだか良いものでした」
「バイト代を食費で飛ばすと言っていたが本末転倒ではないのか」
「ふふ、凌統殿が楽しいなら、いいんじゃないでしょうか?」
陸遜は結局まだ自力で稼げていない。夏に合宿で自動車免許を取り、部活に打ち込んで後期の授業が始まるとあっという間に時間がなくなった。甘寧はあれでいてガソリンスタンドでアルバイトしているというのだから器用である。その分、単位は危機的なのだろうが。
食事を終えて二人で皿洗いなどの片づけをした後、ソファーに並んでテレビを見るのがお決まりの流れとなった。地上波よりサブスクリプションの映画が映っていることが多い。酒を好む呂蒙だが、この家では陸遜を思って飲酒しない。唇を重ねるからだ。
「ん……」
映画の内容は半分くらい入ってこない。この時間になると、手を握り合って、互いの肌の感触を確かめて、ゆっくり口唇を触れ合わせる。使用頻度の高い器官なのに、同じものを擦り合わせるだけでこんなにも気持ちいいのはなぜだろう。陸遜の考えることは、いつも少し独特だった。
目を瞑ると呂蒙の方からシトラスが香る。ゆっくり影を作って何度も降って来て、触れたところから心地よい痺れが全身に広がる。陸遜を抱き込むように回った腕は、髪やうなじ、肩や背中を撫でていく。触れられたところはじんじん熱い。耳の血管がうるさいくらいに拍動している。心臓のポンプ室もさぞ忙しいことだろう。
陸遜には恋愛経験がない。正直なところこれまでさして興味もなかったので、授業や講義で得た知識くらいしかなかった。だからこの先、どういうことが起きて何をしたらよいのかが分からない。とりあえず流れに任せる形だ。
「んっ」
いつも触れ合うだけだった唇を割って、生温いものが入ってきた。咄嗟に跳ねかけた肩を、呂蒙が優しく撫でて慰めてくれる。そのまま力を抜いて身を預けた。ぬるぬるした生き物のようなものは、慎重に陸遜の舌をつついて絡んでくる。
「ふ……ぅ……」
こんなにもぴったりとくっついてしまったら、呼吸が出来ない。溺れそうになって陸遜は呂蒙のシャツを握った。合図のように少し離れてくれ、その隙に息をする。整うのもそこそこの内にまた灼熱が触れて入って来る。興奮か酸欠で陸遜の頭はぼうっとしてきた。夢のよう、とはよく言ったものだ。現実ではないような浮遊感がある。呂蒙は何度も何度もくっついては離れ、時折舌を差し込んで陸遜の口内を愛撫した。
「すまん、大丈夫か」
「はい……」
呂蒙が肩を抱いてくれるので、遠慮なく頭を預けた。潤んで霞む視界の先はちかちかフラッシュしている。酸欠で脳に影響したのかと考えたが、液晶に映るゾンビを主人公たちが乱射して片付けているシーンのせいだった。ムードを考えないチョイスだった、と陸遜の頭に反省事項が追加された。
「初めてで、その、上手く対応できずすみません……」
「何を謝ることがある。可愛いぞ」
ちゅっと、わざと音を立てて呂蒙が陸遜の額にキスをした。大人のキスより恥ずかしい気がして、陸遜は顔を真っ赤に染めながら呂蒙の首に頭を埋めた。ハグやキスがとても気持ちいい。もし、呂蒙ともっと気持ちよくなれるのであれば、その先も陸遜は臨むところだった。
呂蒙は優しく陸遜の頭を撫でている。肌を触れ合わせることが当たり前になるように、と言わんばかりに密着して、分厚い掌でただ優しく撫で続けていた。