IGNITE
5 収穫
高所は自然音で賑わっていた。強風が奏でる笛の音が響き、植わった樹木が擦れる声が上がって、渓谷の間を流れる川は崖下遠くでざわめいている。静寂でなくて良かったと陸遜は唇を引き締めた。そうでなければ、心臓の爆音が聞こえてしまったかもしれない。
好きだと告げた。これ以上も以下もなく、はっきりとした言葉だ。敬愛だとか尊敬だとかの念で捉えられる可能性もあるが、それにしては感情的な声色と表情で伝えられたと自己分析している。魯粛からの助言では、呂蒙は鈍感だから接吻の一つでもせよとのことであったが、必要なさそうだった。その証拠に、呂蒙は目を大きく開いて固まっている。
陸遜は目を反らさないよう努めた。風が当たって目が乾き、瞬きすると無意識に潤む。ふと、握ったままの手に力が込められた。肉厚な掌が陸遜の手を包む。指先が熱く痺れて、先端まで血液が暴れているように錯覚した。
「陸遜」
「は、はい」
「真か?」
その一言で陸遜は分かった。きちんと伝わっている。昂るような緊張が続く中、少しずつ落ち着きを取り戻す。
「はい。呂蒙殿の全てに惹かれています」
今度は少し表情を緩めて言うことができた。ぎゅっと握ると触れ合った掌同士が熱を籠もらせていく。ずっと握っていたいと願ったが、すぐにその手は離れていった。替わりに、全身が熱くなった。抱擁されていると分かるまで、聡明な陸遜でも時間を要した。
「り、呂蒙殿」
返事の代わりに腕の力が強くなる。陸遜の背を包む逞しい腕の質感も、熱い体温も、シトラス系の爽やかな香りも間近にあった。ばくばくと拍動が大きくなる。密着した胸越しに気付かれてしまうのではないかと焦るが、想い人に抱き締められては治めようもなかった。
陸遜は全身を硬直させたまま目線だけをうろつかせていた。頭を呂蒙の肩に預けて良いのか、腕を背中に回して良いかどうか悩み続ける内に、温かな拘束がほどける。
「すまん……。思わず」
「い、いえ」
「痛かったか」
「全くそのようなことはありません。その、心地良かったです」
陸遜が返すと、呂蒙が大きく息を吐いた。両手で顔を覆って空を見上げている。珍しい行動を陸遜はただ見ているしか出来ない。期待と不安のどちらにも揺れる中、言葉を待ち続けた。またひとつ深呼吸した呂蒙が陸遜と目を合わせてくる。茶褐色の瞳がいつもと違って潤んでいて、とてもきれいに見えて陸遜は見惚れた。
「すまん、予想外で、何から言ったらよいのか、分からん。ただ、これだけは言わせてくれ。本当に嬉しい」
返事は出来なかった。嬉しいと言ってくれたことが嬉しくて、胸中に歓喜が広がって、声が出せなかった。こくこく頷くと呂蒙が優しく頭を撫でてくれる。ぴりぴりとした痺れがまた陸遜の全身に走った。
「ああ、色々言いたいんだが、ちっとも頭が回らん……」
「困らせてすみません。私はこのままでも十分幸せです。呂蒙殿のような優しい先輩に、部活もそれ以外も教えていただけて……とても嬉しく思います」
真っ直ぐ好意をぶつけた後だからだろうか。今はすらすらと言葉が出た。
入部当初は、姿を見ただけで固まってしまい、話題を振られただけで声が上手く出なかった。少しずつ呂蒙が傍にいることに慣れて、胸を張って親しい間柄と言えるようになった。その変化を更に進めようとしている。強欲な申し出を嬉しいと言ってくれる心の広さに、また惹かれるのだ。
陸遜は頭の上にある呂蒙の手を掴み、胸まで下ろして両手で握った。真夏の直射下、強風の中の人肌。混ざり合って、もうどんな温度か分からない。
「それなのに、もっと、近づきたいと思うのです。……呂蒙殿が大好きです」
顔面が燃えるようだった。赤くなっているだろう。わざとではないつもりだが、陸遜はもう何でもよかった。狡くてもせこくてもいい。呂蒙が少しでも自分を恋愛目線で意識してくれたら、と願って真っ直ぐ視線を向けた。呂蒙の耳もどんどん赤くなっていく。
「り、陸遜。わかった。一旦、車に戻っていいか」
呂蒙が珍しく声を震わせながら言う。
「このままだと、腰が抜けて、俺まで橋を渡れそうにない」
それは困る。陸遜が吊り橋を恐れているのは演技でもなんでもない。こんな高所から帰れないと考えただけで足が竦む。頭が一気に現実モードに切り替わって手を離した。呂蒙はすぐにその手を追いかけ、またしっかり握って、引っ張ってくれる。
二人は固く手を繋いだまま吊り橋を戻っていった。ひどくなる強風の影響もあり、他に観光客がいなかったので堂々と繋げた。
駐車場の車に戻って、ドアが閉まる音で陸遜は一気に全身が固まった。確かに今日、告白すると決めていた。しかし、できれば一日の終わりに、返事は急がないとして言い逃げする予定であった。羞恥に耐えられないからだ。勢いで告げた今、密閉空間である車内には気まずい空気が漂っていた。シートベルトを嵌める音すら立てづらい。俯いて己の足元を見る。今日に合わせて履き慣らしたハイカットスニーカー。高校の出会いの日から、呂蒙のことしか考えてこなかった陸遜は、急に恐怖を覚えた。恋情をはっきり断られた場合、果たして自分は『これまで通り』でいられるのだろうか。
「陸遜」
「は、はいっ」
闇深い思考に陥りそうになった時、名前を呼ばれた。肩を上げて返事をし、顔を上げる。呂蒙はまだ耳を赤くしながら、ハンドルの前で腕を組んでいた。
「お前は頭がいい。だからつまり、好意にも様々あることは、分かっているな」
「そうですね。学問としても分かりますし、身を以て知ったつもりです」
単に好ましいと思う人間には、心臓は跳ねないし体も痺れない。陸遜も己に起こる肉体の反応に感動を覚えた程だ。恋情はかくも不思議な状態である。
陸遜のまっすぐな回答に、呂蒙は俯いたまま唸り声を上げた。
「そうか……そうだな……」
「あの、呂蒙殿、もし体調が優れないのであれば、今日はもうご無理を」
続きを発することが出来なかった。唇を塞がれたからだ。自分の口唇に同じ部位が重なったのは人生で初めてだった。認識する前に近づいて、理解する前に離れた。ぱっと頭に浮かんだのは、温かい、という間抜けな感想だった。
「……嫌では、なかったか?」
まだ至近距離には呂蒙の顔がある。立派な眉を寄せている。陸遜の拍動は爆音になって暴れた。キスも気難しそうな照れ顔も、あまりに想定外だった。適切な返事は何一つ浮かばなかった。告げた言葉を繰り替えすのが精一杯だ。
「呂蒙殿が好きです」
体重を預けるシートは、これ以上体を後退させられない。運転席から覆いかぶさるように近づいてくる呂蒙を避ける理由はない。大きな目を瞑って待つと、柔らかい感触が唇に降ってきた。緊張と幸福を可視化できたら、花火が上がっているだろう。陸遜はいつも以上に弾けた思考を流して、呂蒙とのキスに集中した。
ただ皮膚をくっつけるだけの口付けは、体感にして一分以上。離れていくのを寂しく思うし、ようやく息が出来ると安心もした。陸遜が長い睫毛を揺らしながら目を開けると、呂蒙は見たこともないほど赤面している。
「ああ、すまん。順番を間違えた。お前の前では格好つけていたいのに、どうにもできん」
参ったというように頭をかく呂蒙に、陸遜は胸のときめきが止まない。さすがの陸遜も、キスの意味は分かっているつもりだ。
「呂蒙殿は、いつも格好いいですよ」
「そういう可愛いことを言うな……俺がおかしくなる一方だ」
動揺する呂蒙はOBの前とも少し違う姿だった。じわじわ広がる温かみの正体を紐解こうとしたが難しい。陸遜が思考に耽りかけた時、呂蒙が咳払いを一つして運転席に座り直した。背をわざとらしくまっすぐにしている。陸遜もしっかりその目を見返した。
「俺もお前が、陸遜が好きだ。可愛くて仕方がない。今、夢でも見てるんじゃないかと疑う」
理想より嬉しい言葉に陸遜は目をぎゅっと瞑った。胸がきゅうきゅう締め付けられて苦しい。出来るのは、今が現実であると伝えることだけだ。
「夢のようだと思う気持ちは、同じです。好きです。呂蒙殿と、ずっと一緒にいたいです」
「お前、すごいな……こうもストレートに来るとは思っていなかった。いや、そもそも、好かれているのも自惚れだと思ってたんだ。それが……むむう」
未だ頭を押さえながらぶつぶつ言う呂蒙が可笑しくて、胸に湧く感情のままに笑った。愛おしい。年上の頼れる男性に抱く感情として外れているかもしれない。
呂蒙が深呼吸を一つしてから、陸遜を呼ぶ。
「お前から言わせて、すまなかった。俺も、ずっとお前を好ましく思っていた。だから、そう、恋人になってくれるだろうか」
真剣そのものの目つきと、期待より遥かに分かりやすくて情熱的な言葉に、陸遜は声を張って志願した。
高所は自然音で賑わっていた。強風が奏でる笛の音が響き、植わった樹木が擦れる声が上がって、渓谷の間を流れる川は崖下遠くでざわめいている。静寂でなくて良かったと陸遜は唇を引き締めた。そうでなければ、心臓の爆音が聞こえてしまったかもしれない。
好きだと告げた。これ以上も以下もなく、はっきりとした言葉だ。敬愛だとか尊敬だとかの念で捉えられる可能性もあるが、それにしては感情的な声色と表情で伝えられたと自己分析している。魯粛からの助言では、呂蒙は鈍感だから接吻の一つでもせよとのことであったが、必要なさそうだった。その証拠に、呂蒙は目を大きく開いて固まっている。
陸遜は目を反らさないよう努めた。風が当たって目が乾き、瞬きすると無意識に潤む。ふと、握ったままの手に力が込められた。肉厚な掌が陸遜の手を包む。指先が熱く痺れて、先端まで血液が暴れているように錯覚した。
「陸遜」
「は、はい」
「真か?」
その一言で陸遜は分かった。きちんと伝わっている。昂るような緊張が続く中、少しずつ落ち着きを取り戻す。
「はい。呂蒙殿の全てに惹かれています」
今度は少し表情を緩めて言うことができた。ぎゅっと握ると触れ合った掌同士が熱を籠もらせていく。ずっと握っていたいと願ったが、すぐにその手は離れていった。替わりに、全身が熱くなった。抱擁されていると分かるまで、聡明な陸遜でも時間を要した。
「り、呂蒙殿」
返事の代わりに腕の力が強くなる。陸遜の背を包む逞しい腕の質感も、熱い体温も、シトラス系の爽やかな香りも間近にあった。ばくばくと拍動が大きくなる。密着した胸越しに気付かれてしまうのではないかと焦るが、想い人に抱き締められては治めようもなかった。
陸遜は全身を硬直させたまま目線だけをうろつかせていた。頭を呂蒙の肩に預けて良いのか、腕を背中に回して良いかどうか悩み続ける内に、温かな拘束がほどける。
「すまん……。思わず」
「い、いえ」
「痛かったか」
「全くそのようなことはありません。その、心地良かったです」
陸遜が返すと、呂蒙が大きく息を吐いた。両手で顔を覆って空を見上げている。珍しい行動を陸遜はただ見ているしか出来ない。期待と不安のどちらにも揺れる中、言葉を待ち続けた。またひとつ深呼吸した呂蒙が陸遜と目を合わせてくる。茶褐色の瞳がいつもと違って潤んでいて、とてもきれいに見えて陸遜は見惚れた。
「すまん、予想外で、何から言ったらよいのか、分からん。ただ、これだけは言わせてくれ。本当に嬉しい」
返事は出来なかった。嬉しいと言ってくれたことが嬉しくて、胸中に歓喜が広がって、声が出せなかった。こくこく頷くと呂蒙が優しく頭を撫でてくれる。ぴりぴりとした痺れがまた陸遜の全身に走った。
「ああ、色々言いたいんだが、ちっとも頭が回らん……」
「困らせてすみません。私はこのままでも十分幸せです。呂蒙殿のような優しい先輩に、部活もそれ以外も教えていただけて……とても嬉しく思います」
真っ直ぐ好意をぶつけた後だからだろうか。今はすらすらと言葉が出た。
入部当初は、姿を見ただけで固まってしまい、話題を振られただけで声が上手く出なかった。少しずつ呂蒙が傍にいることに慣れて、胸を張って親しい間柄と言えるようになった。その変化を更に進めようとしている。強欲な申し出を嬉しいと言ってくれる心の広さに、また惹かれるのだ。
陸遜は頭の上にある呂蒙の手を掴み、胸まで下ろして両手で握った。真夏の直射下、強風の中の人肌。混ざり合って、もうどんな温度か分からない。
「それなのに、もっと、近づきたいと思うのです。……呂蒙殿が大好きです」
顔面が燃えるようだった。赤くなっているだろう。わざとではないつもりだが、陸遜はもう何でもよかった。狡くてもせこくてもいい。呂蒙が少しでも自分を恋愛目線で意識してくれたら、と願って真っ直ぐ視線を向けた。呂蒙の耳もどんどん赤くなっていく。
「り、陸遜。わかった。一旦、車に戻っていいか」
呂蒙が珍しく声を震わせながら言う。
「このままだと、腰が抜けて、俺まで橋を渡れそうにない」
それは困る。陸遜が吊り橋を恐れているのは演技でもなんでもない。こんな高所から帰れないと考えただけで足が竦む。頭が一気に現実モードに切り替わって手を離した。呂蒙はすぐにその手を追いかけ、またしっかり握って、引っ張ってくれる。
二人は固く手を繋いだまま吊り橋を戻っていった。ひどくなる強風の影響もあり、他に観光客がいなかったので堂々と繋げた。
駐車場の車に戻って、ドアが閉まる音で陸遜は一気に全身が固まった。確かに今日、告白すると決めていた。しかし、できれば一日の終わりに、返事は急がないとして言い逃げする予定であった。羞恥に耐えられないからだ。勢いで告げた今、密閉空間である車内には気まずい空気が漂っていた。シートベルトを嵌める音すら立てづらい。俯いて己の足元を見る。今日に合わせて履き慣らしたハイカットスニーカー。高校の出会いの日から、呂蒙のことしか考えてこなかった陸遜は、急に恐怖を覚えた。恋情をはっきり断られた場合、果たして自分は『これまで通り』でいられるのだろうか。
「陸遜」
「は、はいっ」
闇深い思考に陥りそうになった時、名前を呼ばれた。肩を上げて返事をし、顔を上げる。呂蒙はまだ耳を赤くしながら、ハンドルの前で腕を組んでいた。
「お前は頭がいい。だからつまり、好意にも様々あることは、分かっているな」
「そうですね。学問としても分かりますし、身を以て知ったつもりです」
単に好ましいと思う人間には、心臓は跳ねないし体も痺れない。陸遜も己に起こる肉体の反応に感動を覚えた程だ。恋情はかくも不思議な状態である。
陸遜のまっすぐな回答に、呂蒙は俯いたまま唸り声を上げた。
「そうか……そうだな……」
「あの、呂蒙殿、もし体調が優れないのであれば、今日はもうご無理を」
続きを発することが出来なかった。唇を塞がれたからだ。自分の口唇に同じ部位が重なったのは人生で初めてだった。認識する前に近づいて、理解する前に離れた。ぱっと頭に浮かんだのは、温かい、という間抜けな感想だった。
「……嫌では、なかったか?」
まだ至近距離には呂蒙の顔がある。立派な眉を寄せている。陸遜の拍動は爆音になって暴れた。キスも気難しそうな照れ顔も、あまりに想定外だった。適切な返事は何一つ浮かばなかった。告げた言葉を繰り替えすのが精一杯だ。
「呂蒙殿が好きです」
体重を預けるシートは、これ以上体を後退させられない。運転席から覆いかぶさるように近づいてくる呂蒙を避ける理由はない。大きな目を瞑って待つと、柔らかい感触が唇に降ってきた。緊張と幸福を可視化できたら、花火が上がっているだろう。陸遜はいつも以上に弾けた思考を流して、呂蒙とのキスに集中した。
ただ皮膚をくっつけるだけの口付けは、体感にして一分以上。離れていくのを寂しく思うし、ようやく息が出来ると安心もした。陸遜が長い睫毛を揺らしながら目を開けると、呂蒙は見たこともないほど赤面している。
「ああ、すまん。順番を間違えた。お前の前では格好つけていたいのに、どうにもできん」
参ったというように頭をかく呂蒙に、陸遜は胸のときめきが止まない。さすがの陸遜も、キスの意味は分かっているつもりだ。
「呂蒙殿は、いつも格好いいですよ」
「そういう可愛いことを言うな……俺がおかしくなる一方だ」
動揺する呂蒙はOBの前とも少し違う姿だった。じわじわ広がる温かみの正体を紐解こうとしたが難しい。陸遜が思考に耽りかけた時、呂蒙が咳払いを一つして運転席に座り直した。背をわざとらしくまっすぐにしている。陸遜もしっかりその目を見返した。
「俺もお前が、陸遜が好きだ。可愛くて仕方がない。今、夢でも見てるんじゃないかと疑う」
理想より嬉しい言葉に陸遜は目をぎゅっと瞑った。胸がきゅうきゅう締め付けられて苦しい。出来るのは、今が現実であると伝えることだけだ。
「夢のようだと思う気持ちは、同じです。好きです。呂蒙殿と、ずっと一緒にいたいです」
「お前、すごいな……こうもストレートに来るとは思っていなかった。いや、そもそも、好かれているのも自惚れだと思ってたんだ。それが……むむう」
未だ頭を押さえながらぶつぶつ言う呂蒙が可笑しくて、胸に湧く感情のままに笑った。愛おしい。年上の頼れる男性に抱く感情として外れているかもしれない。
呂蒙が深呼吸を一つしてから、陸遜を呼ぶ。
「お前から言わせて、すまなかった。俺も、ずっとお前を好ましく思っていた。だから、そう、恋人になってくれるだろうか」
真剣そのものの目つきと、期待より遥かに分かりやすくて情熱的な言葉に、陸遜は声を張って志願した。