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8月中旬。世間ではお盆と呼ばれる時期に、陸遜と呂蒙は約束の日を迎えていた。呂蒙の研究室が休みになったのである。それまでは部会の日に会うのが精一杯で、活動を共にすることすら困難になっていた。新人合宿から2か月。待っている間は長く感じたが、振り返ると充実してあっという間だった。

待ち合わせ場所はなく、陸遜の家の前まで呂蒙が迎えに来てくれる算段になっていた。支度をとっくに終えた陸遜は、窓の外を見たりスマートフォンの画面を見たりと忙しない。何せ、念願叶って呂蒙と出かけるのである。部活動が一緒に出来ることは勿論嬉しいが、多忙の中自分だけに時間を割いてくれるというのが嬉しくて仕方がない。1時間以上そわそわして遂に窓の外に見慣れない車が見えた。呼び出しがかかる前に家を飛び出す。助手席の窓を開けて、呂蒙が朗らかに笑ってくれた。陸遜の鼓動はずっと高鳴り続けている。

「暑いだろう。乗ってくれ」
「はい! 今日はよろしくお願いいたします」
「こっちこそだ」

助手席に乗り込んでシートベルトをはめる。爽やかな柑橘の香りがした。座った先のクッションはふかふかで、車内は余計な飾りがなく、シンプルな初期装備のままだ。武骨さが呂蒙らしい。

「途中止まりたくなったら言ってくれ。部活じゃないから気楽にな」
「はい。そういえば、部活動以外でどなたかの車に乗ったのは初めてです」

陸遜の返事に、呂蒙は嬉しそうに笑った。そうか、と淡泊な単語だけだったが、目尻の皺と明るいトーンから喜びが滲んでいて、勝手に陸遜まで嬉しくなる。

「飲み物は買ってあるが、コンビニに用事はあるか?」
「お気遣いありがとうございます。今のところ大丈夫です」
「よし、じゃあ行くぞ」

呂蒙の運転技術は活動でよく知っている。不安なことは何一つない。出かける先は会えない分メッセージでやり取りをして決めた。
優しい呂蒙がどこでもいいと言うので、陸遜は悩んだ。聡明な頭脳をフル回転させ、時に電子機器で調べ、時に旅行情報誌を読み込み、時に謎の数式を書き連ねて遂に計画書を練り上げた。検索中に何度も出てくる『デート』の文字には随分思考を揺さぶられたが、これ以上ない完璧なスケジューリングだと自負している。呂蒙にデータを送ったところ『部活動よりすごいものを作ったな』と褒められ、陸遜は舞い上がっていた。

「よく調べたなぁ。虎ノ湖畔など、知りもしなかったぞ」
「県内の穴場と言う穴場を調べ尽くしました!」
「すまなかったな。お前も忙しかっただろうに」
「とんでもないことです。呂蒙殿とのお出かけを楽しみにしておりました。調べていると、試験勉強や新人合宿の不安やストレスが和らいだものです」

胸に手を当てて思い起こす。悩みはしたものの、あれこれ見て考える時間は至福であった。試験や合宿は楽しみももちろんあったが、負担もあった。呂蒙との逢瀬においてそれは一つもない。デートといえば相手がつまらなかったらどうしようと不安に思うものだが、不思議とそれを感じなかった。呂蒙が何事も朗らかに受け入れてくれると確信しているからかもしれない。

赤信号で止まった矢先に呂蒙の左腕が伸びてくる。柔らかいタッチでぽんぽんと触れた後、髪の流れにそって撫でてくる。他の者にされても得られない幸福感に内心うち震える。信号が変わったようですぐに離れていった。機嫌の良い横顔を眺めながら、陸遜はじわじわ温かいままの頭にこっそりと触れた。

「俺も久しぶりの休暇だ。楽しむとしよう」
「本当にお疲れ様でした。ずっと、研究室に詰めていたのですか?」
「教授が急に海外の研究発表に行くと言い出したり、交流のない大学の研究室に突撃したり、色々あった」

打って変わって呂蒙がげっそりした表情を浮かべる。内容もさることながら、獰猛な目つきから相当大変であったことが伺えた。

「過激な教授ですね……」
「そうなんだ。パワハラもセクハラもするし、時代に合ってない。そしてゼミ生にあの甘寧だ。事件が起きないわけがなかろう」

甘寧は見た目も行動も派手で粗暴だ。しかし懐に入ってしまえば情に厚く、センスもある男である。使いこなせれば化けるタイプだと陸遜は認識していた。しかし、聞く限りでは教授にその能力はなさそうだ。

「だからと言って呂蒙殿の負担ばかり増えるのは、勝手ながら心苦しいです」
「そういう風に言ってくれる奴がいるだけで、救われるというものだ」
「聞くくらいしか出来ませんが、ぜひ、はけ口にして頂ければ」

拳を胸に当てて張り切って伝えたが、呂蒙は釈然としない表情で顎髭を擦っている。失言だっただろうかと逡巡していると、呂蒙がじっくり言葉を選ぶようにして発声した。

「決してはけ口にしたいわけじゃない。そこは分かってくれ。ただ、お前には色々話したくなってしまうものでな。のっけから愚痴のような話題で済まなかった」

陸遜は胸が潰れそうになった。呂蒙の実直さに何度も惚れる一方で、己の青さを感じて落ち込む。そして優しすぎて己の負荷に目を向けないところはより心配になった。

「聞きたいと思って尋ねたのは私の方です。私の方こそ、呂蒙殿のお話はどのようなことでも聞きたいです。ですが、はけ口、というのは品のない表現でした。気を付けます」
「ふっ、はははは。なんだかなぁ。俺らはまだ、硬いな」
「それは私も思っていました。その、若輩から申し上げるのも妙ですが、くだけた雰囲気にしたいです」
「甘寧と凌統のようにはいかないだろうが、俺らはもう少し緩くてもいいな」
「はい。あのお二方は、ある種運命ですよね。あんなに忌憚なく言い合える関係性もなかなかないと思います」
「言うと揃ってキレるだろうがな」

陸遜は深く頷いた。二人の掛け合いがあるから部が賑やかになる。もちろん煩わしい時もあるのだが、さすがに口には出さなかった。

「新人合宿はどうだった?」
「とても充実していました。事故もなく、問題なく終えられました。……甘寧殿から聞いていたものかと」
「あいつがべらべら喋ろうとしてきたのを、パン突っ込んで黙らせておいたぞ。せっかくだからCL(チーフリーダー)から聞く方が楽しいだろう」

自然と破顔する。甘寧がしてやられているのも痛快だったし、呂蒙が陸遜から聞きたいと思ってくれたことが嬉しかった。

「熊猫沢はメンバーを考えると持て余しました。もう少し濃い所でもよかったです」
「結構滝があっただろう。俺も魯粛殿と行ったがキツかったぞ。二人だったからか」

呂蒙の言う通り滝が多かったので命綱であるザイルは必須だ。大人数いて持ち手が分散されたところも負担軽減だったかもしれない。二人でこなしたことに感嘆した。

「凌統殿と甘寧殿が岩魚を乱獲しておりました」
「ああ、想像がつくな……」
「先輩方とも、朱然殿とも、もっと色んな所へ行きたくなりました。とても楽しかったです」

呂蒙が共感しながら何度も頷いてくれた。もちろん陸遜が言う中には呂蒙も含まれる。入部当初はほとんどそれしか眼中になかったが、今は本心から色んなメンバーで活動したくなった。陸遜が孫呉に溶け込んでいることを、呂蒙も喜んでくれるようだった。

「何度も言ったが、お前が入部してくれて本当に嬉しいぞ」
「私も、この部に入れて本当に嬉しいです。呂蒙殿のおかげです」

一瞬だけ目が合う。それだけでびりっと痺れたように胸が弾んだ。
陸遜は心の内に決めていた。――今日想いを伝える。その結果がどうあれ、優しい呂蒙が自信を突き放すことは考えられないと踏んでいた。後輩の継続か、関係の変化か。心でサイコロを握り締めた。

陸遜の調べた湖には走行すること2時間で到着した。林道を縫って進んだ先にある湖畔は空と山を混ぜて溶かしたような色合いで、二人は思わずその美しさに見惚れた。ただし、車内から。

「アブがすごいですね……」
「一歩でも下りたら終わるな」
「窓、ばっちばち当たってきますね。すみません、きれいな外装が」

陸遜は分かりやすく落ち込んだ。お盆休み期間の穴場スポットに他者は見当たらない。閑散さを喜んだのは道中だけで、到着して暴れ狂う虫たちに失敗を悟った。水面は猛暑を忘れさせる涼しく美しい光景だが、近寄ることができそうにない。しかし、呂蒙は何でもないように笑った。見える範囲の鳥や植物を指して褒め、優雅な湖畔の景色に感動を述べる。

「お前のおかげで癒しをもらったぞ。車は洗えばいいし、場所を覚えたから秋にまた来てみるか。紅葉も良さそうだぞ」

責めるどころか、次の約束まで寄越してくれる。陸遜の振るサイコロが悪い出目に転んだら、この約束は消えてしまうのだろうか。そう思うと決心が揺らぎかける。このままの関係で満足出来れば、それが一番のはずだ。
だが、陸遜はもう何度も己の感情と向き合い、分析を重ねてきた。現状維持でいられないから駒を進める。自分勝手は百も承知だった。

「ぜひお願いいたします。次立てる計画には、虫も考慮します」
「期待しておるぞ。さて、次どうしたものか」
「そういえば、二つ前の分かれ道を覚えておられますか?右に来ましたが、左に行くともう一つ穴場があったように記憶しています」

呂蒙は少し上を見て考えてから、二人の間にあるカーナビゲーションの画面に触れた。地図を動かして頷く。

「山に向かう方だな。切り立った渓谷だと聞いたことがあるような……」
「わりと標高があるので、虫はいないかと」
「よし、行ってみるか」

目で湖畔に分かれを告げて再発進した。呂蒙の車は標準より少し高さのあるタイヤに履き替えてあり、悪路を難なく進んでいく。ただ車内は揺れたので、舌を噛まないように黙っていた。
舗装路に戻って山への看板を認めて進む。電波が少し生き返ったので陸遜は再検索を試みた。
――断崖絶壁の絶景スポットです!
エネルギッシュなあおり文に、陸遜の血の気が引いた。一瞬見ただけの穴場など、口に出すのではなかった。

30分程山道を登ると、駐車場と思われる開けた土地が出てきた。やはり一台も停まっていない。降り立つと高所ならではの強い風が吹いた。遮るものがないので日差しは強いが、標高のせいか気温は低い。設置された看板の案内文を読み込んで進むと、対岸に渡れる吊り橋が見えてくる。風が吹く度、高欄とも言えない縄がぎしぎし鳴っていた。

「構造計算は済んでいるのでしょうか、明らかに端と端を結ぶには強度が足りなさそうに見えますし、人が渡れるとは思えません、落ちたら即死ですよ、国家賠償請求も辞さな」
「陸遜!すごいな。こんなに高い吊り橋が県内にあったとは。知らなかったぞ」
「え、あ、そうですね。有名になってはいけないかと思います」
「知る人ぞ知る、という感じで良いな」

呂蒙が興奮気味に橋を眺めている。孫呉の部員は皆好奇心が強く、特に少しリスクを伴いそうな活動を好む。もちろん安全を確保した上で行っているので過去大きな事故は起きていない。この橋も、国の所管の名を掲げた看板があるのだから、物理的には歩行可能なはずである。しかし、密かに高所を苦手とする陸遜からすると恐ろしくてたまらない。ぶつぶつと怨言を唱えたが、きらきらした目の呂蒙を前に口を噤んだ。覚悟を決めるしかない。

「い、行きましょうか。呂蒙殿」

陸遜は震えそうになる声を律して声をかけた。呂蒙がすぐに同意し、先を進んでくれる。意を決して一歩目を橋の上に乗せた。木板は外で見るよりしっかりしており、単なる縄に見えたものもワイヤーロープの頑丈な造りであった。それでも、男二人が乗ると軋みの音がより大きく聞こえる。ずんずん進む呂蒙を、陸遜は決死の思いで呼んだ。

「どうした?」
「呂蒙殿っ、本当に、ご迷惑かとは思うのですが」

標高のせいで風が吹きつける。声を張らなければ届かない。

「手を、握っていただけませんか!」

必死過ぎて陸遜は叫ぶように懇願した。それどころではないのだ。足元の踏み場はあるが、ガードロープの隙間からは渓谷がしっかり見える。部活では飛び込みや滝登りなどの活動をなんとかこなしてきたが、一歩で分かった。気合と覚悟だけでは乗り切れないこともある。

必死にワイヤーを掴んでいた陸遜の左手が、温かい感触に包まれた。顔を上げる。呂蒙が柔らかく目尻に皺を作っていた。自分の手の筋肉が消失したようにちっとも動かない。呂蒙がゆっくりロープから己の手に握り替えてくれるのを、陸遜はただ見ていることしか出来なかった。しっかり力を込めて引かれると、体も足も自然と前に出る。

下を見ることはなくなった。ただ、繋がった手と引いてくれる腕と呂蒙の逞しい背中だけを見ている内に、あっという間に対岸に辿り着いた。延長にしてたった10m。看板にあった数字は、一歩目は長く感じ、以降はとても短く思えた。

「渡れたな。広くないようだが見て回るか」

情けないと叱責することも、孫呉たるものと失望することもない。ただありのままに受け入れてくれる。
呂蒙は未だに手を繋いでくれている。前に進もうとした呂蒙の手を、陸遜はほんの少し引いた。繋がった手が熱い。振り向いた時にかち合った眼差しが更に体温を上げてくる。

「好きです。好きなんです、呂蒙殿のことが」

目を反らさない。遠回しな言葉を使わない。いつか立てた目標をクリアして、風に持っていかれないようにはっきりと告げた。戻ってきた力を左手に込める。隙間のなくなった掌二つが火にかざしたように熱い。

賽は投げられた。後戻りはできない。



【#4 夏合宿】




〇同期の絆

新人合宿2日目。暗闇の中テントを撤収した一行は、ご来光を拝むべく山頂を目指していた。新人である陸遜と朱然が先頭を務めて列を率いている。登るペースも休憩場所の取り方も適切だ。しっかり育っている。実直で素直な後輩たちを、甘寧、丁奉、練師が殿(しんがり)で見守った。

「空に伸びる濃い緑の如く、成長を感じる」
「まずは大丈夫そうだな。調子乗ってきたら頭叩いてやっか」
「甘寧殿、時代的にはアウトよ」
「生ぬりぃ。俺は凌統に蹴られまくってるぜ」
「先輩の温かき愛情、信頼の証――」
「ふふ。そうね。お二人はまた特別じゃないかしら」

けっ、と甘寧が吐き捨てる。だが心底嫌悪しているわけではないことを二人は良く知っていた。甘寧は興味のない人間に一切関心を持たないからだ。

「練師さんや、帰りの車、俺が運転すっから隣乗ってくれねえか」
「えっ?あ、もちろん、構わないわ」

初めて甘寧から助手席を頼まれて、練師は驚きを隠すことが出来なかった。瞳を縁取る長い睫毛が何度も上下する。

「あいつら多分、余裕こいて見えっけど気ィ張りつめてるだろ。帰りは危ねえから後ろで寝かす」
「二年前、甘寧殿も爆睡でしたな」
「うるせえ。丁奉、お前も寝たって聞いたぜ」
「そういえば、それぞれ寝てしまったような……」

練師もだんだん思い出してきた。初めて自分たちだけで立てた合宿の帰り、練師は孫尚香、丁奉は徐盛、甘寧は凌統の車ですっかり寝てしまったのだ。それを見越していた先輩らが後部座席に座るよう言ってくれていたのも思い出す。甘寧も覚えていて、同じように休ませたいのだろう。言い方はぶっきらぼうだが、情が深い。練師は綺麗な唇を弧にして不器用な優しさに微笑んだ。

「あんたはナビ上手えし、体力もあっから大丈夫だろ?」

甘寧は不敵に笑って練師を覗いていた。練師に驚きと喜びが広がっていく。実力のある甘寧に信頼されていると実感したのは初めてのことだ。

「某ももう一台を運転しよう。助手席は、珍しく凌統殿など」
「やめとけ」

丁奉は記憶の限り、凌統に助手席に着いてもらったことがなかった。新鮮なメンバーで会話するのも合宿の醍醐味である。そう思っての提案がなぜか甘寧にばっさり切られ、丁奉は思わず練師と顔を合わせた。

「あいつぁ運転と違って助手はマジ向いてねえ。直前に方向指示するわ雑だわ寝るわで、役に立たねえよ。姫さんか徐盛にしとけ」

物騒な表情で淀みなく甘寧が言う。内容的には凌統へのクレームである。しかしどことなく、凌統を隣に乗せるなと言っているように聞こえた。練師と丁奉は声に出さないまま、同じ思いを頭に浮かべた。
――子供。
玩具を横取りされたくない幼子そっくりの男は、ずっしり重たいザックを背負いながらすたすたと前を歩いて行った。



   
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