IGNITE
3 OB総会
新歓合宿を大成功に収めた孫呉一行は、重大な議題の書かれたホワイトボード前でしばし沈黙していた。5月下旬の部会である。
前にいる3年の甘寧、丁奉、練師がどこか苦い顔で口を閉ざしている。新歓合宿前の部会では皆意気軒昂であったし、その後の合宿報告もそれはそれは盛り上がった。しかし今は誰が次発言するか、と言わんばかりの重苦しさだ。陸遜の隣で朱然も目をうろつかせて動向を窺っている。陸遜は一度大きな目を瞑り、気合を入れて挙手した。こういう場の空気は、よく分かっていない若造こそが壊すべきである。
「OB総会って何をするんですか」
「馬鹿お前、軽々しく口に出してんじゃねえよっ」
「き、聞こえます。静寂を切る革靴の音、破滅の調べが……」
「丁奉殿、落ち着いて。それは幻聴よ。ただ、私もなぜか寒気が……」
甘寧が責め立て、丁奉が大きな図体を縮こませて青ざめ、練師が震えている。これにはますます首を傾げるしかない。陸遜としては、議題について質問しただけである。
陸遜の後ろで苦笑する声が聞こえた。朱然と同時に振り返る。呂蒙が顎髭を擦りながら眉を下げていた。困り顔に見惚れている場合ではない、と陸遜は己を奮い立たせる。
「呂蒙殿、窺ってもよろしいですか」
「無論だ。では、俺から話そう」
呂蒙は立ち上がって前に出た。3年生を座るよう促し、教壇に上がった。本日の部会に、太史慈や4年は来ていない。特に4年生は就活で忙しいのだと、部会前に呂蒙が教えてくれた。呂蒙も相当忙しいであろうに、陸遜との約束を果たしてこの場に来てくれている。特に聞いていないが、孫権も見当たらなかった。
「孫呉はそこそこ長い歴史を経て今も活動を続けている。創部した先達たちのおかげでな。費用だけではなく、学生課への根回しなんかもしてくれている」
「先日合宿に来てくださった孫策殿や周瑜殿も、その一員ですよね」
陸遜の発言に後ろから小喬の同意が響いた。陸遜はやはり不思議に思う。部員たちが恐れるような存在なのだろうか。
「特に怖い印象は受けませんでしたが」
「そうだな。もちろん命を取られるだとかそんなことはない。ただ、当部当初の方々などは特に孫呉への思い入れが強い。その分、俺たちがしっかり活動しているかを見ている。年に一度総会を開き、活動報告と決算報告をしているのだ」
「主に3年がやんだけどよ、去年は徐盛に凌統に周泰、姫さんの組み合わせで、そりゃあもうガッツリやられてたんだぜ」
「あの、しっかりした方々が……」
「実はOBの方々の中に姫様のお父上もいらっしゃるのです。姫様の参加された合宿のヒヤリ案件については、それはそれは詰められておりました」
「某らは自然豊かな地を行きます。それ故、多少の危険はつきもの。ですが、血を分けた大切なご家族です。ご心配なのでしょうな」
なるほど、と陸遜が頷いた。安全管理が徹底されている部だと思ったが、OBの目があるかららしい。大学生のサークル活動は不祥事で吹けば飛ぶようなものだ。自分たちで作り上げた部を守るために厳しく監視する、といったところだろう。
「個人的には、かえって安心できます」
「まあ、そうだな。俺たちが安全に楽しく活動できるよう、ご卒業された今も気にかけて下さってるってことだもんな」
「ほお。二人とも肝が据わっていて頼もしい。甘寧、爪の垢を煎じて飲んだほうがいいぞ」
「んだそりゃ。気持ち悪ぃこと言うなよおっさん」
どうやら甘寧にことわざは伝わらないようだ。陸遜はまた同情した。
「んー。あたしは総会、楽しかったけどなあ。ねえ、お姉ちゃん!」
「そうですね……私も、楽しかったです。合宿について指摘を受けているのは少し、怖かったですけど……私たちを守るためですから、致し方ないと思いました」
「あっ、でもあたしたち、車で行っちゃった」
「開催地は学校じゃないんですね」
朱然の気付きに、練師が立ち上がってタブレットを見せてくれた。住宅地図のアプリケーションが起動している。ピンは現在地である建業大学に刺さっている。
「開催地はOBの皆様が決めます。昨年はここでした」
話しながら練師がピンチインした。一度や二度ではない。5回くらい指を動かしてようやくゴールのピンが見えた。全面緑色である。
「山ですね」
「ん?そして、車では、ないんですか」
「チャリ」
甘寧の回答に新入生が押し黙った。今や自転車は皆が気軽に始められる趣味の一つで、数キロ先だって気軽に行ける。しかし、去年の地は数キロでは済まなさそうな位置で、二人は良い自転車など持っていない。せいぜい大学生活に必要だからと入手したママチャリ程度だ。
「総会は、日頃大変お世話になっているOB方にお忙しい中わざわざお集まりいただき開催させていただくものだ。もてなしも必要になる」
「つまり、食材や食器、テントも含めてザックで背負って自転車を漕ぎます。40キロくらい」
「車の距離ですね」
「ストリートビュー、半分くらい坂じゃないですか?」
新入生のツッコミに先輩らは頷くだけだった。確かに気合の要るイベントのようだ。
「朝からチャリ漕いで、着いたらすぐテント立てて、青空の元報告会でお説教だ。ありがたくて泣けるだろう」
「んで、夜は接待な。飯作って酌する。俺ら以来の男子部員だ、絡まれるぜ」
「某は一人ひとりの前で自己紹介の上、特技の披露をと言われました。幸い、詩歌を嗜んでおりましたので事なきを得ましたが」
「私は食事作りに専念していたので、そこは免除されたのですが……甘寧殿は大変そうでしたね」
「甘寧はいかにもいじりやすいタイプだからな」
「一昨年は思い出したくねえ……」
磊落な男がそういうくらいなのだから、余程のことをさせられたのだろう。だんだん新入生の二人も怖くなってきた。
「更に翌朝は早朝から活動だ。OBの方々が作った計画書の通りの活動をする」
「あいつら散々危ねえことすんなって言うわりに、とんでもねえ計画持って来やがるからな」
「活動中の目も、さながら鷹のようでした。一挙手一投足を見張られている心地です」
「今年なにすっか分かんねえけど、お前らロープワークきっちり覚えとけよ。装備の確認とかパッキングの仕方とか応急処置とか天気図の取り方とか、見たり聞いたりされっからな」
「厳しいご指導を経て無事に活動を終えたら、また自転車で帰ります。40キロ」
「自信がなくなってきました……」
「俺もだ……走り込むか、陸遜……」
すっかり大人しくなった二人に先輩らは同情したが、全て事実なのだから仕方ない。知らないで臨む方が恐ろしいというものだ。消沈した空気に、突如乾いた音が響き渡った。拍手の音だ。一斉に全員が音の主を見る。こつこつと革靴の音を立てながらそれは近づいてきた。
「はっはっは。成長した後輩が見られるのは、嬉しいものだな」
「ろ、魯粛殿!!」
教壇で腕を組んでゆったりしていた呂蒙は、大声で拍手の主を呼んだ。途端に背筋を伸ばし、慌てて壇を下りて頭を下げている。呼ばれた男は鷹揚に笑いながらゆっくりと呂蒙に近づいた。低くなった頭をぐしゃぐしゃと撫で回している。陸遜に衝撃が走った。
上体を起こした呂蒙は照れたような表情で魯粛の腕を優しく払っている。オールバックに髭の男は、目尻に皺を浮かべ、顎を撫でながら何やら呂蒙をからかっていた。呂蒙の困ったような照れ笑いは後輩に向けるものとは違った。只者ではない。立ち上がった部員の様子から見ても、明らかだった。
しかし、陸遜を脅かしているのは威厳などではない。呂蒙の頭を撫でた、その親密さである。端的に言えばずるい。自分にはできない。陸遜は血の気が引いた。
「お前らも立っとけ。軽く自己紹介しろ。この間卒業した魯粛っておっさんだ」
甘寧が小声で教えてくれる。朱然は溌溂と返事していたが、陸遜は沈んだ気持ちのままだ。立ち上がった二人に気が付いた魯粛が体を向ける。
「先日入部しました、朱然と言います。新歓合宿で川活動に興味が出ました」
「おお。それはいいな。川は血湧き肉躍るだろう。俺は魯粛だ。そこの呂蒙とよく二人乗り に乗った」
「魯粛殿の教えは厳しくもあり、温かくもありました。後輩に活かしてみせます」
「お前は案外真面目だからな。さて、そっちは」
魯粛に見つめられて、陸遜は少し固まった。柔らかい眼差しだが、紅茶色の虹彩と揺らぎのない瞳孔が全てを見透かしているように感じる。暑くもないはずのシャツの中で、陸遜の背筋を汗が一筋辿った。緊張の中、喉から音を引きずり出す。
「申し遅れました。陸遜、陸遜伯言です。登山がしたくて入部いたしました」
「ほう。山も良い。山頂で呼吸すると心身が洗われるようだ。なあ、呂蒙」
「は。おっしゃる通りで」
呂蒙の声はいつもより硬く、頭をぺこぺこ下げるので珍しく映った。いつもなら普段見られない姿に喜ぶ陸遜だが、今日はそうではない。呂蒙と魯粛の心の近さが気に掛かって仕方がなかった。丁寧なお辞儀を終え、二人のやりとりをただ眺めることしかできない。甘寧に続いて二人の近くに来た丁奉が囁く。
「魯粛殿は民間企業に勤めた後、一念発起して薬学部に入学された。困難な学業の傍ら、我らが孫呉に尽くしてくださった偉大な御方だ。初代の孫堅殿とも縁があると聞いている」
「こう、上手く言えないのですが、洗練されたお方ですね」
「うむ。呂蒙殿とのダッキーは大会でも表彰台まで行っていた。ぜひ機会があれば窺うといい」
「はい!先刻は震えましたが、やはり素晴らしいOBと会うと奮起するな、陸遜!」
「はい」
燃えている朱然の横で、陸遜は笑顔を作って返事した。当然、尊敬の念があるので嘘ではない。部活動よりも個人的な感情を優先させてしまうとは、と恥じる気持ちもあるが、容易にコントロール出来るものでもなかった。
陸遜は魯粛からの視線に気が付き、顔を向けた。口にも顎にも髭があるのに、こんなにも気品溢れる人物はそういないだろう。落ち着きと威厳は周瑜にも似ているが、にこにことした笑みは人懐こさも感じさせた。――勝てない。陸遜はそう直感した。己にあるのは若さだけだ。
「あの、OB総会では、魯粛殿と活動をご一緒できるのでしょうか」
陸遜が意を決して尋ねた。魯粛は目を細めて頷いてくれる。
「ああ。俺もお前らと一緒したいぞ。二人ともフレッシュで良い。楽しくなりそうだ」
「青二才の素人ですが、ぜひご教示願います」
陸遜は再び慇懃に腰を折った。普段から丁寧な陸遜だが、わざとらしすぎる程の礼になっていることに本人は気付いていなかった。
「まあそう身構えるな。苛めたりはしないぞ。ほら、手ずから持ってきた合宿計画書だ」
魯粛は使いこなされた革の鞄から書類を取り出し、呂蒙に差し出した。綺麗にホチキス止めされた手製のそれを呂蒙が開く。甘寧が横から覗き込んでいた。
「……魯粛殿、そちら側に、行かれたのですな……」
「エグすぎね?いや、川やれんのは滾るけどよ、長江って何キロ先だよ」
「某の機器によると、C場 まで50キロあります」
「降下開始地点はさらに遠いですね」
「安心してくれ。道中さして坂がない」
青ざめる呂蒙と3年トリオに、聞いていただけの朱然の表情も硬くなる。陸遜はあまり感情の起伏が生まれなかった。魯粛の提示してきた合宿をこなす。それだけだと思っていた。
「臨むところです」
「陸遜!?」
「ほう」
思わず呟いた陸遜に、魯粛がまた顎を撫でつつ反応する。その動作が呂蒙に類似していて、陸遜の胸にピリっと刺激が走った。魯粛と目を合わせる。その強い瞳には炎が乗っていた。青く、熱い炎だ。
「どのような試練でも、受けて立ちます」
「頼もしいな。この合宿を終えた時のお前が楽しみだ」
「私も魯粛殿に撫でてもらえるように、全力で挑みますね」
陸遜は魯粛に頭を撫でてほしいわけではない。呂蒙を撫でるその手の矛先が別に向けばよいと思ったのである。
「あの」
不思議な空気を破るのはいつも新入生である。朱然がそろそろと挙手していた。二喬が声を揃えて尋ねた。綺麗なハモリを受けた朱然がゆっくりと掌を教壇の方に向けた。陸遜が誘われるように目を向ける。何かがぴかっと目に眩しい。
「先ほどからいらした、もう一名の御方は……?」
「ようやく俺に気付いてくれたかぁ。何度も声を掛けたのに」
輝きが喋った。きゃっと声を挙げたのは二喬だ。陸遜も危うく声を上げそうになったが、目を開くのに留まった。
「韓当殿!いつの間にいらしたのですか」
「最初からいたぞ」
「韓当のおっさん、シノビみてえだな」
「気配殺してないんだよなぁ」
ゆっくりと教壇から下りてきたのは男だった。広めの額がLEDライトを反射している。これが発光の正体だったのか、と陸遜が納得した。輝きが目に馴染むとようやく表情も見えてくる。重めの瞼が垂れていて、柔和な顔立ちだった。福の神に近いかもしれない。陸遜の感想が口に出されることはなかった。
「俺は韓当。韓当義公だ。初代からいる、いわば古株だな。って、自分で言うのもおこがましいか?」
「いえ、韓当殿は孫堅殿を立派にお支えになった重鎮ですよ」
「魯粛。お前が拍手なんかしながら入っていくから、俺が目立たなかったんだぞ」
「それは失敬」
韓当の口調は決してきつく責め立てるものではなく、どちらかというとボヤきに近い。眉を下げてぶつぶつ言う重鎮に、端的に謝った魯粛に陸遜は少したじろいだ。強い。
新入生の二人が先程同様名乗って挨拶をした。朱然は新たなOBに目を輝かせている。握手しようとしたその瞬間に、また軽快な靴音が講義室に侵入した。
「すまない。父上と通話していて遅れた」
殿、と一気に教室が沸いた。孫権はスマートに手を挙げてそれに応じながら爽やかに挨拶している。あっという間に場の空気を持っていかれた韓当がしょげていたことに気付いたのは朱然だけだった。
「この様子だと、既にOB合宿のことは聞き及んでいるな」
「ええ、孫権殿。俺から計画書は確かに渡しました」
「魯粛、忙しい中わざわざ済まなかったな」
「いえ、俺が部会に出たかったのですよ。病院にこもっていては息が詰まるのでね」
「父上も褒めていた。ホットな計画だと」
「孫堅殿が。それは嬉しいですな」
いつの間にか練師が計画書を複写していたようで、複製されたそれが陸遜にも手渡された。改めて目を通す。ホット、という言葉で片付けられるような内容なのか、陸遜にはまだ分からない。だが、宣言した通り全力で臨むのみである。
「今年のOB総会、必ず勝利を収める!」
孫権の高らかな宣言に、室内の全員がおお、と声を挙げた。孫権がかける号令には力がある。年齢学年共に不詳の部長に、皆疑うことなく従っている。強いカリスマ性に惹かれて、陸遜は力が湧いてくるのを感じていた。
新歓合宿を大成功に収めた孫呉一行は、重大な議題の書かれたホワイトボード前でしばし沈黙していた。5月下旬の部会である。
前にいる3年の甘寧、丁奉、練師がどこか苦い顔で口を閉ざしている。新歓合宿前の部会では皆意気軒昂であったし、その後の合宿報告もそれはそれは盛り上がった。しかし今は誰が次発言するか、と言わんばかりの重苦しさだ。陸遜の隣で朱然も目をうろつかせて動向を窺っている。陸遜は一度大きな目を瞑り、気合を入れて挙手した。こういう場の空気は、よく分かっていない若造こそが壊すべきである。
「OB総会って何をするんですか」
「馬鹿お前、軽々しく口に出してんじゃねえよっ」
「き、聞こえます。静寂を切る革靴の音、破滅の調べが……」
「丁奉殿、落ち着いて。それは幻聴よ。ただ、私もなぜか寒気が……」
甘寧が責め立て、丁奉が大きな図体を縮こませて青ざめ、練師が震えている。これにはますます首を傾げるしかない。陸遜としては、議題について質問しただけである。
陸遜の後ろで苦笑する声が聞こえた。朱然と同時に振り返る。呂蒙が顎髭を擦りながら眉を下げていた。困り顔に見惚れている場合ではない、と陸遜は己を奮い立たせる。
「呂蒙殿、窺ってもよろしいですか」
「無論だ。では、俺から話そう」
呂蒙は立ち上がって前に出た。3年生を座るよう促し、教壇に上がった。本日の部会に、太史慈や4年は来ていない。特に4年生は就活で忙しいのだと、部会前に呂蒙が教えてくれた。呂蒙も相当忙しいであろうに、陸遜との約束を果たしてこの場に来てくれている。特に聞いていないが、孫権も見当たらなかった。
「孫呉はそこそこ長い歴史を経て今も活動を続けている。創部した先達たちのおかげでな。費用だけではなく、学生課への根回しなんかもしてくれている」
「先日合宿に来てくださった孫策殿や周瑜殿も、その一員ですよね」
陸遜の発言に後ろから小喬の同意が響いた。陸遜はやはり不思議に思う。部員たちが恐れるような存在なのだろうか。
「特に怖い印象は受けませんでしたが」
「そうだな。もちろん命を取られるだとかそんなことはない。ただ、当部当初の方々などは特に孫呉への思い入れが強い。その分、俺たちがしっかり活動しているかを見ている。年に一度総会を開き、活動報告と決算報告をしているのだ」
「主に3年がやんだけどよ、去年は徐盛に凌統に周泰、姫さんの組み合わせで、そりゃあもうガッツリやられてたんだぜ」
「あの、しっかりした方々が……」
「実はOBの方々の中に姫様のお父上もいらっしゃるのです。姫様の参加された合宿のヒヤリ案件については、それはそれは詰められておりました」
「某らは自然豊かな地を行きます。それ故、多少の危険はつきもの。ですが、血を分けた大切なご家族です。ご心配なのでしょうな」
なるほど、と陸遜が頷いた。安全管理が徹底されている部だと思ったが、OBの目があるかららしい。大学生のサークル活動は不祥事で吹けば飛ぶようなものだ。自分たちで作り上げた部を守るために厳しく監視する、といったところだろう。
「個人的には、かえって安心できます」
「まあ、そうだな。俺たちが安全に楽しく活動できるよう、ご卒業された今も気にかけて下さってるってことだもんな」
「ほお。二人とも肝が据わっていて頼もしい。甘寧、爪の垢を煎じて飲んだほうがいいぞ」
「んだそりゃ。気持ち悪ぃこと言うなよおっさん」
どうやら甘寧にことわざは伝わらないようだ。陸遜はまた同情した。
「んー。あたしは総会、楽しかったけどなあ。ねえ、お姉ちゃん!」
「そうですね……私も、楽しかったです。合宿について指摘を受けているのは少し、怖かったですけど……私たちを守るためですから、致し方ないと思いました」
「あっ、でもあたしたち、車で行っちゃった」
「開催地は学校じゃないんですね」
朱然の気付きに、練師が立ち上がってタブレットを見せてくれた。住宅地図のアプリケーションが起動している。ピンは現在地である建業大学に刺さっている。
「開催地はOBの皆様が決めます。昨年はここでした」
話しながら練師がピンチインした。一度や二度ではない。5回くらい指を動かしてようやくゴールのピンが見えた。全面緑色である。
「山ですね」
「ん?そして、車では、ないんですか」
「チャリ」
甘寧の回答に新入生が押し黙った。今や自転車は皆が気軽に始められる趣味の一つで、数キロ先だって気軽に行ける。しかし、去年の地は数キロでは済まなさそうな位置で、二人は良い自転車など持っていない。せいぜい大学生活に必要だからと入手したママチャリ程度だ。
「総会は、日頃大変お世話になっているOB方にお忙しい中わざわざお集まりいただき開催させていただくものだ。もてなしも必要になる」
「つまり、食材や食器、テントも含めてザックで背負って自転車を漕ぎます。40キロくらい」
「車の距離ですね」
「ストリートビュー、半分くらい坂じゃないですか?」
新入生のツッコミに先輩らは頷くだけだった。確かに気合の要るイベントのようだ。
「朝からチャリ漕いで、着いたらすぐテント立てて、青空の元報告会でお説教だ。ありがたくて泣けるだろう」
「んで、夜は接待な。飯作って酌する。俺ら以来の男子部員だ、絡まれるぜ」
「某は一人ひとりの前で自己紹介の上、特技の披露をと言われました。幸い、詩歌を嗜んでおりましたので事なきを得ましたが」
「私は食事作りに専念していたので、そこは免除されたのですが……甘寧殿は大変そうでしたね」
「甘寧はいかにもいじりやすいタイプだからな」
「一昨年は思い出したくねえ……」
磊落な男がそういうくらいなのだから、余程のことをさせられたのだろう。だんだん新入生の二人も怖くなってきた。
「更に翌朝は早朝から活動だ。OBの方々が作った計画書の通りの活動をする」
「あいつら散々危ねえことすんなって言うわりに、とんでもねえ計画持って来やがるからな」
「活動中の目も、さながら鷹のようでした。一挙手一投足を見張られている心地です」
「今年なにすっか分かんねえけど、お前らロープワークきっちり覚えとけよ。装備の確認とかパッキングの仕方とか応急処置とか天気図の取り方とか、見たり聞いたりされっからな」
「厳しいご指導を経て無事に活動を終えたら、また自転車で帰ります。40キロ」
「自信がなくなってきました……」
「俺もだ……走り込むか、陸遜……」
すっかり大人しくなった二人に先輩らは同情したが、全て事実なのだから仕方ない。知らないで臨む方が恐ろしいというものだ。消沈した空気に、突如乾いた音が響き渡った。拍手の音だ。一斉に全員が音の主を見る。こつこつと革靴の音を立てながらそれは近づいてきた。
「はっはっは。成長した後輩が見られるのは、嬉しいものだな」
「ろ、魯粛殿!!」
教壇で腕を組んでゆったりしていた呂蒙は、大声で拍手の主を呼んだ。途端に背筋を伸ばし、慌てて壇を下りて頭を下げている。呼ばれた男は鷹揚に笑いながらゆっくりと呂蒙に近づいた。低くなった頭をぐしゃぐしゃと撫で回している。陸遜に衝撃が走った。
上体を起こした呂蒙は照れたような表情で魯粛の腕を優しく払っている。オールバックに髭の男は、目尻に皺を浮かべ、顎を撫でながら何やら呂蒙をからかっていた。呂蒙の困ったような照れ笑いは後輩に向けるものとは違った。只者ではない。立ち上がった部員の様子から見ても、明らかだった。
しかし、陸遜を脅かしているのは威厳などではない。呂蒙の頭を撫でた、その親密さである。端的に言えばずるい。自分にはできない。陸遜は血の気が引いた。
「お前らも立っとけ。軽く自己紹介しろ。この間卒業した魯粛っておっさんだ」
甘寧が小声で教えてくれる。朱然は溌溂と返事していたが、陸遜は沈んだ気持ちのままだ。立ち上がった二人に気が付いた魯粛が体を向ける。
「先日入部しました、朱然と言います。新歓合宿で川活動に興味が出ました」
「おお。それはいいな。川は血湧き肉躍るだろう。俺は魯粛だ。そこの呂蒙とよく
「魯粛殿の教えは厳しくもあり、温かくもありました。後輩に活かしてみせます」
「お前は案外真面目だからな。さて、そっちは」
魯粛に見つめられて、陸遜は少し固まった。柔らかい眼差しだが、紅茶色の虹彩と揺らぎのない瞳孔が全てを見透かしているように感じる。暑くもないはずのシャツの中で、陸遜の背筋を汗が一筋辿った。緊張の中、喉から音を引きずり出す。
「申し遅れました。陸遜、陸遜伯言です。登山がしたくて入部いたしました」
「ほう。山も良い。山頂で呼吸すると心身が洗われるようだ。なあ、呂蒙」
「は。おっしゃる通りで」
呂蒙の声はいつもより硬く、頭をぺこぺこ下げるので珍しく映った。いつもなら普段見られない姿に喜ぶ陸遜だが、今日はそうではない。呂蒙と魯粛の心の近さが気に掛かって仕方がなかった。丁寧なお辞儀を終え、二人のやりとりをただ眺めることしかできない。甘寧に続いて二人の近くに来た丁奉が囁く。
「魯粛殿は民間企業に勤めた後、一念発起して薬学部に入学された。困難な学業の傍ら、我らが孫呉に尽くしてくださった偉大な御方だ。初代の孫堅殿とも縁があると聞いている」
「こう、上手く言えないのですが、洗練されたお方ですね」
「うむ。呂蒙殿とのダッキーは大会でも表彰台まで行っていた。ぜひ機会があれば窺うといい」
「はい!先刻は震えましたが、やはり素晴らしいOBと会うと奮起するな、陸遜!」
「はい」
燃えている朱然の横で、陸遜は笑顔を作って返事した。当然、尊敬の念があるので嘘ではない。部活動よりも個人的な感情を優先させてしまうとは、と恥じる気持ちもあるが、容易にコントロール出来るものでもなかった。
陸遜は魯粛からの視線に気が付き、顔を向けた。口にも顎にも髭があるのに、こんなにも気品溢れる人物はそういないだろう。落ち着きと威厳は周瑜にも似ているが、にこにことした笑みは人懐こさも感じさせた。――勝てない。陸遜はそう直感した。己にあるのは若さだけだ。
「あの、OB総会では、魯粛殿と活動をご一緒できるのでしょうか」
陸遜が意を決して尋ねた。魯粛は目を細めて頷いてくれる。
「ああ。俺もお前らと一緒したいぞ。二人ともフレッシュで良い。楽しくなりそうだ」
「青二才の素人ですが、ぜひご教示願います」
陸遜は再び慇懃に腰を折った。普段から丁寧な陸遜だが、わざとらしすぎる程の礼になっていることに本人は気付いていなかった。
「まあそう身構えるな。苛めたりはしないぞ。ほら、手ずから持ってきた合宿計画書だ」
魯粛は使いこなされた革の鞄から書類を取り出し、呂蒙に差し出した。綺麗にホチキス止めされた手製のそれを呂蒙が開く。甘寧が横から覗き込んでいた。
「……魯粛殿、そちら側に、行かれたのですな……」
「エグすぎね?いや、川やれんのは滾るけどよ、長江って何キロ先だよ」
「某の機器によると、
「降下開始地点はさらに遠いですね」
「安心してくれ。道中さして坂がない」
青ざめる呂蒙と3年トリオに、聞いていただけの朱然の表情も硬くなる。陸遜はあまり感情の起伏が生まれなかった。魯粛の提示してきた合宿をこなす。それだけだと思っていた。
「臨むところです」
「陸遜!?」
「ほう」
思わず呟いた陸遜に、魯粛がまた顎を撫でつつ反応する。その動作が呂蒙に類似していて、陸遜の胸にピリっと刺激が走った。魯粛と目を合わせる。その強い瞳には炎が乗っていた。青く、熱い炎だ。
「どのような試練でも、受けて立ちます」
「頼もしいな。この合宿を終えた時のお前が楽しみだ」
「私も魯粛殿に撫でてもらえるように、全力で挑みますね」
陸遜は魯粛に頭を撫でてほしいわけではない。呂蒙を撫でるその手の矛先が別に向けばよいと思ったのである。
「あの」
不思議な空気を破るのはいつも新入生である。朱然がそろそろと挙手していた。二喬が声を揃えて尋ねた。綺麗なハモリを受けた朱然がゆっくりと掌を教壇の方に向けた。陸遜が誘われるように目を向ける。何かがぴかっと目に眩しい。
「先ほどからいらした、もう一名の御方は……?」
「ようやく俺に気付いてくれたかぁ。何度も声を掛けたのに」
輝きが喋った。きゃっと声を挙げたのは二喬だ。陸遜も危うく声を上げそうになったが、目を開くのに留まった。
「韓当殿!いつの間にいらしたのですか」
「最初からいたぞ」
「韓当のおっさん、シノビみてえだな」
「気配殺してないんだよなぁ」
ゆっくりと教壇から下りてきたのは男だった。広めの額がLEDライトを反射している。これが発光の正体だったのか、と陸遜が納得した。輝きが目に馴染むとようやく表情も見えてくる。重めの瞼が垂れていて、柔和な顔立ちだった。福の神に近いかもしれない。陸遜の感想が口に出されることはなかった。
「俺は韓当。韓当義公だ。初代からいる、いわば古株だな。って、自分で言うのもおこがましいか?」
「いえ、韓当殿は孫堅殿を立派にお支えになった重鎮ですよ」
「魯粛。お前が拍手なんかしながら入っていくから、俺が目立たなかったんだぞ」
「それは失敬」
韓当の口調は決してきつく責め立てるものではなく、どちらかというとボヤきに近い。眉を下げてぶつぶつ言う重鎮に、端的に謝った魯粛に陸遜は少したじろいだ。強い。
新入生の二人が先程同様名乗って挨拶をした。朱然は新たなOBに目を輝かせている。握手しようとしたその瞬間に、また軽快な靴音が講義室に侵入した。
「すまない。父上と通話していて遅れた」
殿、と一気に教室が沸いた。孫権はスマートに手を挙げてそれに応じながら爽やかに挨拶している。あっという間に場の空気を持っていかれた韓当がしょげていたことに気付いたのは朱然だけだった。
「この様子だと、既にOB合宿のことは聞き及んでいるな」
「ええ、孫権殿。俺から計画書は確かに渡しました」
「魯粛、忙しい中わざわざ済まなかったな」
「いえ、俺が部会に出たかったのですよ。病院にこもっていては息が詰まるのでね」
「父上も褒めていた。ホットな計画だと」
「孫堅殿が。それは嬉しいですな」
いつの間にか練師が計画書を複写していたようで、複製されたそれが陸遜にも手渡された。改めて目を通す。ホット、という言葉で片付けられるような内容なのか、陸遜にはまだ分からない。だが、宣言した通り全力で臨むのみである。
「今年のOB総会、必ず勝利を収める!」
孫権の高らかな宣言に、室内の全員がおお、と声を挙げた。孫権がかける号令には力がある。年齢学年共に不詳の部長に、皆疑うことなく従っている。強いカリスマ性に惹かれて、陸遜は力が湧いてくるのを感じていた。