凌雲を掴むまで


 甘寧の脳裡には赤壁大戦の記憶がこびりついていた。江の水の音、船の揺れに火の匂い。曹魏の兵たちは策により撤退していったが、当たった将兵らは皆強かった。熱い喧嘩が出来た満足は、現在の怠惰に繋がっている。命を奪い合う緊張感やひりつきが忘れられず暇を持て余していた。そんな折、朝議を前にして魯粛と出会ったので素直に本音を吐露してみる。

「ちまちま練兵ばっかじゃつまんねえぜ、なあ」
「ははは。甘寧、お前の軍の働きは見事だ。その調子で続けてくれ」
「けっ、これだから軍師ってやつは食えねえぜ。曹魏に当たるんだろ?」

 探るように尋ねたが、魯粛は鷹揚に笑むだけだ。甘寧の不躾な舌打ちにも眉一つ動かさないでいる。

「仕方ねえ、船でも出すか」
「甘寧。お前の実力、水上戦だけじゃないな?」
「はぁ? 当たり前だろ。水だろうがおかだろうが、喧嘩なら任せとけ」

 魯粛は分かった、と短く返事をして、足早に去っていった。向かう先は同じ朝議のはず、と首を傾げる。疑問はあったが切り替えて進む内に、今度は見覚えのある背を見つけた。高い位置に結われた髪、均整の取れた体躯に見慣れてきた赤い衣装。思わず乾いた唇を舐めた。
 戦の最中は喧嘩に夢中になっていて、凌統への興味関心は薄れていた。平穏退屈な日々が、歪んだ劣情を思い出させてくれる。おあつらえ向きに周囲に人影はなかった。わざと腰元の鈴を鳴らしながら、甘寧はその背に向かって走った。

「おう、凌統」
「話しかけんなっつの!」
 
 甘寧が奇襲よろしく殴りかかるのを、凌統は振り向きざまにあっさり腕で止めて見せた。甘寧は口笛でそれを称賛する。なびいた髪が美しく、苛立っている表情がますます甘寧をいきり立たせた。他者と接している時は穏やからしい目つきが細められ、実に好みだ。しかし、同時に物足りなさも感じていた。その目から、夏口で感じ取った禍々しさが薄れていることに気付いていた。

「甘えなあ」

 呟いた直後、甘寧は凌統の膝裏目掛けて蹴りを入れた。さすがの反射神経で直撃は免れたが、掠っただけで十分体勢を崩せる。その隙に左手で首を掴み、壁に押し付けた。抗う暇を与えず、唇を奪う。肩で体を押し潰すと、より口唇同士も密着した。息苦しさに悶えて開く隙間を縫って舌を捻じ入れる。己と異なる熱や甘さに、甘寧は全身に痺れが走るほど興奮した。触れた先から拒絶を感じたが、壁に縫い留めた方の勝ちだ。逃げ惑う舌に吸いつこうと試みた直後、強烈な痛みで唇を離した。舌を食いちぎられたら死ぬという俗説の真偽は不明だが、甘寧にとっては殺意を覚えるような痛みだった。

「はーっ、はーっ……」

 甘寧の殺意はあっさり消えた。潤んだ目で睨み上げる凌統の眼差しに満足したのだ。押さえたままの凌統の首からどくどくと血流を感じる。

ぬるい目ぇしてやがるから、覚まさせてやったぜ」
「甘寧……ぶっ殺してやる……!」

 我を忘れたような目が堪らなく興奮させた。口内に溢れる血もいとわず、甘寧が拳を構える。

「お前ら、何をしておる!」
「凌統殿、気を確かに!」

 狙ったように邪魔が入って盛大に舌打ちした。場所を選ばず仕掛けたのは甘寧だが、恨みがましい視線を呂蒙に送る。並の人間なら泣いて逃げ去るような目つきにも、呂蒙は一切怯まない。

「いつまで取っ組み合いになるのだ! 赤壁では上手くやっておったろうが」
「冗談じゃないっつの! やっぱり、そいつは信用できません! 俺がくびり殺してやる!」

 孫権や周瑜が聞けば相応の処分が下るであろう凌統の発言に、軍師の二人は肝を冷やした。たしなめられて仇討ちはしないと誓っていたはずである。甘寧の性格を考えると、わざと煽ったのだろうと考え、呂蒙が拳骨をその脳天に落とした。

「痛ってえ!」
「馬鹿者が! 陸遜、凌統を連れていけ。元より、今日の朝議には不要だろう」
「……かしこまりました」

 呂蒙は甘寧を、陸遜は凌統を引きずるようにしてその場を後にした。姿が見えなくなるまで、真っ直ぐ射抜くような視線を寄越してくる凌統に、甘寧は喜びを感じていた。





 議場に入った時、甘寧は刺されるような空気を感じた。ひんやりと冷たく、懐疑の匂いがする。いくつもの国を渡り歩いてきた甘寧からすると、何度も味わってきたものだ。呂蒙や周瑜は温情たっぷりに迎え入れてくれたが、どうやら全員には認められていないらしい。形式上の挨拶を済ませた甘寧が顔を上げると、鋭い蒼の目とかち合う。

「座ってくれ。……呂蒙、陸遜と凌統はどうした」
「は。それが、こやつが凌統とひと悶着しており……本日は欠席させました」
「そうか。都合がいい」

 甘寧は赤壁後の酒宴ではしゃぐ君主を思い出していた。顔を赤らめて何度も酒を注いでくれ、労われた記憶がある。だが、今日は別人のように冷徹な目だ。

「甘寧。お前が私の元に来てくれたこと、光栄に思っている」

 淡々とした声色から、到底本心とは思えなかったが、甘寧は頭を下げた。ぴりついた空気に興奮するのは水賊として生きてきた人間の性だ。

「だが、赤壁にて単騎で深追いしたこと、そして私の大事な部下と未だに折り合いがついていないこと――懸念も多い」
「おいおい殿さん。後半は、その部下とやらに言ってやれよ」
「……慎め……」

 甘寧の背後にはいつのまにか周泰が控えていた。横目に見ると、腰元の刀のつかを握っているのが分かる。どうやら君主にはまだ、疑われているようだ。蘇飛を見逃してくれたことで信頼は得ていると思ったし、赤壁でも活躍を見せたのだから、意外なことである。しかし、甘寧はむしろ楽しくなってきた。どれだけ疑われようとも、今のところ大きな喧嘩のできる孫呉に居座るつもりである。
 辺りを見ると、呂蒙は苦い顔をしており、周瑜も整った眉を寄せていた。腕を組んでいる魯粛は、口角だけを上げて目は笑っていない。張昭や程普などの古参はいつも通り渋い顔つきであった。

「皆の者、聞いてくれ。赤壁での勝利の熱がある内に、南郡へ侵攻する」

 場内はざわついた。保守派の張昭は立ち上がっている。周瑜や魯粛が静観しているので、そこが発信源であることは甘寧にも伺えた。孫権は赤壁大戦の時よりも威圧があり、他者の意見は寄せ付けぬ空気をまとっていた。その自信に満ちた眼差しが、再度甘寧を見る。

「南郡を奪取するには、夷陵城を押さえる必要がある。曹操自慢の盾、曹仁のいる場所だ」

 曹仁のことは甘寧もよく覚えていた。曹操に常に張り付き、とげとげしい衣装と目線で威嚇してきた男であり、いつか本気で喧嘩したいと思っていた相手である。

「甘寧。夷陵城を取ってこい」

 場内に再びざわめきが広がった。甘寧はどっしりと腕を組んだまま、周囲を伺う。古参らの反応は様々で、驚きと不安、不快に見える表情が多い。魯粛の口角が先ほどよりも上がっていることに甘寧は気が付いた。さっきの妙な問いはそういうことか、と頷いた。一人納得している間に、周瑜が端正な眉を下げて口を開く。

「殿、私は確かに、南郡侵攻を提案しました。夷陵城が足がかりとして必要なことも。ですが、甘寧のみにそのような危険な命を出すなど、得策でしょうか」
「周瑜殿。お言葉ですが私から。甘寧の実力は確かです。軍紀を乱す荒れくれ者などというろくでもない風評は、一捻りにしてやれましょう」
「と、弟子が強く言うのだ。周瑜殿を差し置いて恐縮ですが、私からも殿へ進言した次第です」

 周瑜の心配に対し、呂蒙と魯粛が順に説明した。孫権はゆったりと視線を動かし、それぞれを見やる。室内は軍師への賛同と反論に分かれた。密かに甘寧を疎ましく思う者らは、主君の命令に背くのか、と分かりやすい煽動を行っている。
 甘寧は慌てもせず、ぎょろりと眼球を動かして周囲を見た。魯粛に視点を合わせ、顎でしゃくって見せると、魯粛は堪え切れないといったように大口を開けて笑った。

「はっはっは! 豪胆な男だ。皆よ、甘寧を見ろ。殿の命に対し、微塵も動揺がない」
「世辞はいらねえよ。説明しろや」
「ふ。まあ、聞け。さて、孫呉は先の戦で大勝した。内政も人材もかつてなく整っている。この好機に南郡を取ることに異論はありますまい」

 魯粛はそう言って張昭ら保守派に笑顔を振りまいた。甘寧からすると胡散臭い笑みだが、古参は深く頷いている。

「理解が早く感謝申し上げます。そして、殿や周瑜殿のお言葉通り、夷陵城が肝要となります。奪取は一日でも早い方がいい。今、英傑らの中において最も俊敏で、強く、曹仁を恐れぬ将が、甘寧の他にいるでしょうか」
「魯粛殿、確認ですが、まさか単騎で行かせることはせぬでしょうな。言い出した俺も甘寧と共に曹仁攻略へ参ります」
「呂蒙よ。お前には南郡侵攻の指揮を周瑜殿と共に取ってもらう。行かせることはできん」
「魯粛……君は、何を考えている?」

 周瑜の問い掛けに、室内が少し静まった。魯粛はゆっくりと両手を広げる。

「もちろん。孫呉の栄進です」

 魯粛の提言に誤りはない。しかし、朝議が孫権の厳しい言葉から始まったことを考えると、まるで『手柄を取って信頼を回復せよ』という無茶振りに聞こえてならなかった。
 静まり返った室内に、手のぶつかる音と、派手に椅子が転がる音が響いた。甘寧が勢いよく拱手して立ち上がっていた。その目は、ぎらぎらと輝いている。

「いいぜ! やってやろうじゃねえか。あの曹仁と喧嘩できるたあ、願ってもねえ」
「甘寧! いくらお前でも、危険というものが分からんか!」
「おっさん、暴れてた頃を忘れたのかよ? こんなに滾ることはねえぜ」

 組んだ手指の骨を鳴らす甘寧からは、既に異様な圧が滲み出ていた。肌に乗る刺青の龍が飛び出してきそうな気迫は、誰も制止出来そうにない。孫権は終始凛とした態度でやり取りを眺め、甘寧に命じた。

「鈴の甘寧の力、存分に発揮せよ。軍は早さを重視し、少数精鋭で組め。いいな」
「おうよ!」
「城内攻略には、丁奉も行ってくれ」

 甘寧の隣で大人しく議事を聞き入れていた丁奉は、短い返事で魯粛に恭しく頭を下げた。甘寧から選ばれなければ勝手に追いかけようと考えていたところだ。軍師に認知してもらえていたことは望外の喜びだった。

 その後は淡々と会議が進められ、終了の合図とともに孫権はすぐ退室した。周泰だけが静かにその背を追っていった。


***


 駐屯地を設けた孫呉軍は、静かな覇気に満ちていた。少数での突入を危惧していた周瑜や呂蒙も、甘寧軍の姿を見て感服した。魯粛の言う通り、最も騎馬が早く豪胆な精鋭たちが選ばれていた。一足先に夷陵城の偵察を済ませた丁奉が戻ると、より一層頼もしい軍勢となっている。

「おう、丁奉。様子はどうだ」
「敵は籠城し、防戦の構えです。正面から打ち崩すのは難しいかと。また、劉備軍も布陣しているようです」
「あん? なんだそりゃ。一緒に戦うって話なのかよ」
「……いや、そのような約束はしていない。諸葛亮め、何を考えている……」

 美周郎が目を細めて不満を露わにしている。甘寧には複雑なことは分からないが、劉備軍に良い気はしない。曹操を見逃した関羽もそうだが、劉備の人徳とやらを疑っていた。

「劉備軍も一緒なんだ。また、会えるといいなあ……」

 少し離れたところで孫尚香が呟くのを、甘寧は耳ざとく捉えていた。赤壁大戦の時も尚香だけは純粋に劉備軍との共闘を楽しみにしていた。再会を楽しみにする、という点だけで言えば、甘寧にも覚えがある。夏口で凌統を見つけた時、己もそう思ったものだ。

「姫さん、劉備軍に意中でもいんのか」
「あら。甘寧珍しいわね。そういう話、嫌いなのかと思ってた」
「そうでもねえぜ。惚気は勘弁だが、姫さんみてえに前向きな奴は応援してえしよ」
「良いこと言うじゃない!」

 ばしっと尚香が甘寧の背を叩く。弓腰姫の張り手は強烈で、甘寧は思わず苛立ちかけるのをなんとか抑えた。孫尚香の瞳がかつてなく煌めき、はつらつとしていたからである。相手が劉備軍の中にいるという厳しさも感じさせない強さがあった。
 甘寧は自身の胸元を見てみた。険しい装飾と刺青の踊る肌が見えるだけだ。心の内は見えることがない。続いて、親指で唇を擦った。南郡侵攻が示される直前、凌統に口付けた。恨みから目を反らして単なる同属にしようとしていることが許せず仕掛けたものだ。眼差しや触れた感触に今でも興奮できるほど満足していた。この感情は簡単に名付けられないが、少なくとも尚香のような甘さは持ち得ないものだった。

 甘寧の元へ魯粛がやって来ると、尚香はすっと音もなく離れていった。

「どうだ甘寧。行けそうか」
「へっ。聞くまでもねえ」
「頼もしいぞ。丁奉も頼む。さて、聞き及んだと思うが、劉備軍がいるようだ。先ほど周瑜殿よりそちらの偵察を命じられた。俺も途中まで同行しよう」
「魯粛のおっさん、付いて来れんのか? 早いぜ、俺らは」
「ははは、精進しよう。夷陵城が見えてきたら、一度俺が西門へ陽動を掛ける。その隙に、南側から侵入できるだろう」
「だってよ、丁奉」
「承知しました」

 甘寧の頭にも一応地図は入っている。土地勘がなくとも大抵の戦場は問題なく駆け回って来られたが、今回の策は迅速さが要点となるため、先導は丁奉が行うこととなった。
 銅鑼が鳴り、甘寧軍と魯粛は一気に駆け上がった。


 夷陵城はあっさりと甘寧軍によって落ちた。魯粛の陽動も見事に決まり、気を取られている隙に驚異的な速さで鉤縄を駆使して城壁を上り、奇襲をかけた。怯む拠点兵長らは、抵抗する間もなく甘寧の鎖鎌に捕らわれていった。

「へへえ。これでここは俺らのもんだな」
「見事です、甘寧殿。龍の如き迫力でした」
「おう、お前もよくやってくれたな」

 部下らを労う甘寧が、急に顔を上げた。気配がしたのだ。駆け出すのと、外から全ての門が閉まるのは同時のことであった。

「妙に静かだと思ったんだよな。曹仁が籠もってやがるってのは、どうやら違えようだ」
「これは、まさか、かえって某らが閉じ込められたのでしょうか」

 大きな体躯で動揺を見せる丁奉の背後で、叫び声が響いた。二人が駆けつけた先には、数少ない味方が矢を受けて倒れている。目を細めて城壁を見上げると、隙間から弓を構える兵が見えた。一人ではない。

「面白え」

 甘寧の瞳がギラリと光った。

 
 
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