凌雲を掴むまで



 烏林での戦いは苛烈だった。次々伝令が飛び込んでは叫ぶように情報を渡してくる。一軍を率いる身として、凌統はそれらを精査しつつ次の動きを命じ、また自ら武器を振るっていた。夏口以来の大戦は非情で、必死に敵を屠り足掻き続けてもみるみる部下が倒れていく。凌統は己の無力さに唇を噛んだ。

 日が暮れ、敵兵たちの気配がなくなったのを確認して一度幕舎に戻った。凌統は直前まで節棍を振っていたのでまだ肩で息をしている。差し出された水を一気に飲んで息を吐くと、幕内の様子が視界に入ってきた。甘寧が木箱に腰かけ、腕を組んで凌統を見ていた。全身の疲労が強く、仇へ向ける熱量は一つも残っていない。凌統はその存在を無視して腕の小手を外し、濡らした布で首や腕を拭いていった。

「黄蓋のおっさん、派手にやったな」
「……ああ」
「苦肉の策つったか。ありゃ全部周瑜の知恵か? 怖えなぁ。大都督ってやつぁ」

 気軽に話しかけられて舌を打ちそうになるのを、凌統は堪えていた。幕内には互いの副将や別の隊の隊長もいる。特に蔣欽は呂蒙や周瑜から言いつけられたのか、甘寧と凌統の言動を監視するように眺めていた。
 居心地の悪さに辟易としながら、凌統は努めて冷静に返事をした。仲間割れしている場合ではない程敵は大軍で、凌統にとって今は曹魏だけが敵である。

 黄蓋が降伏を装って火をまとった船をぶつけた。龐統の連環の計や、酒の振る舞いも効いて曹操軍は船上でひたすら翻弄された。その上で諸葛亮の祈祷が効果を見せ、東南の風が吹いた。江の遠くが目視で分かるほど赤や橙に包まれぞっとしたのが先刻のことである。溢れる情報に耳を疑ったが、全て事実だと分かった時、凌統は背筋が震えた。かつて乱世に染まりたくないと吠えた若い自分が陰っていく気がしたのだ。

「今が好機だと思わねえか」
「はっ?」
「曹操はずらかる気だ。船の奴らはじきに燃えるが、カシラ取んなきゃ意味がねえ」
「……何が言いたい」

 甘寧の姿を目に入れることは苦痛だが、それでも凌統は目を向けた。額当てを外した頭は微動だにせず、瞳だけが凌統を睨み上げている。恐ろしい表情にも怯まず凌統は一歩踏み出した。嫌な直感があった。

「曹操に当たりに行く。大方東に逃げて、その先で船に乗るんだろ。その前に潰す」
「それは、お偉方のご命令なわけ?」
「はっ、指図されなきゃ動けねえような臆病者と一緒にすんなよ」

 破裂音を立てて、甘寧の座っていた木箱が壊れた。凌統の蹴りが届く寸前に跳ねるように避けていた甘寧は、獰猛な目つきで口元だけを歪めて笑っている。蔣欽や周囲の制止の声が響くのを捉えた凌統の耳は、何とかそれ以上の暴走を食い止めた。ただし、体は抑えられても口だけは言う事をきかない。

「随分功を焦ってんじゃねえの。あんたみたいな半端者が、鬼の首取ったところで果たして認められるかねえ」
「んだと!?」
「やめよ!」

 わらわらと湧いてきた兵らが二人を背後から抱え込む。先ほどまでは口をきくのも億劫だったはずの凌統だが、業腹は疲労をも吹き飛ばし、煮えたぎるような熱が言葉を生む。

「一歩でも勝手な行動してみろっつの。軍紀違反であんたはお役御免だ」
「舐めた口ききやがって。喧嘩は実力と結果が全てだぜ。お坊ちゃまにゃ分かんねえだろうがな!」
「やめよというのが分からぬか!」

 蔣欽の怒鳴り声と共に、口論が終わった。甘寧が背後の兵を背負い投げ、自由になった身を幕の外に向ける。ちりちりと腰の鈴を鳴らしながら出て行った背を、彼の副将が追いかけた。

「ちっ……。呂蒙殿のところへ急ぐぜ」

 凌統は三白眼を細めて、乱暴に幕を上げた。


***


 凌統の報告を聞いた呂蒙は頭を抱えた。曹魏への作戦は全てはまり、敵の軍勢はみるみる力を失っている。総大将である周瑜も胸を撫で下ろしたばかりだ。気味の悪い祈りを成功させた諸葛亮も、今しがた安全な地に送り届けたところである。
 曹操の首は逃がすつもりだ。それが周瑜、そして諸葛亮の目論見の一つでもある。このまま一息に壊滅させられるのであれば苦労しない。孫呉の力を見せしめたという結果が最重要で、曹操の首を取ることが勝利ではない。国同士の争乱は今後も続いていく。政治と財界のしがらみが出す結論に、呂蒙は吐き気を覚えるばかりだ。
 そんな中、甘寧が敵本陣目掛けて突出したという。正確にはしそう、という段階だったが、凌統が報告する間に伝令が飛び込んできて決定的なものとなった。

「呂蒙殿。やっぱりあいつは信用できません。好き勝手動いて軍を乱すような奴は、孫呉に不要でしょう」

 凌統はあくまで、国の忠臣として進言している。しかしその声が随分と高揚しているのは、私情を含んでいるだろう。呂蒙はこっそりとため息を吐いた。ここまで、近接に置いた二人は上手く動いてくれていた。協力して闘ったとは言い難いが、少なくとも互いの邪魔をすることなく、力を発揮していた。だが、やはり水と油なのだろう。凌統がはっきりと排斥すべきと告げて来るのを、手で制する。

「お前の言いたいことや、甘寧のことは分かった。あとは俺が預かる」
「あいつの首を刎ねるってんなら、後生ですから俺にやらせてください」
「過言だ。控えろ」
「……出過ぎた真似を。失礼しました」

 凌統が形ばかりの拱手をして立ち去っていく。呂蒙はその背を再度大きなため息で見送った。

「……いかがするおつもりですか」

 黙って傍で控えていた陸遜が口を開いた。凌統からは見向きもされなかったが、さして気にしていないらしい。凛とした声で呂蒙の考えを尋ねている。

「甘寧は言って聞くような男ではない。放っておけ」
「真ですか? 曹操の首はそこらの存在とは違います。苦々しいことですが、戦が起こって賑わう懐もある――彼の首は残すべきという諸葛亮先生と周瑜殿の結論には理があります」
「陸遜。ではお前は甘寧が本当に曹操の首を持って来られると思っているのか?」

 呂蒙が鋭い目つきで陸遜を見た。はっと我に返った陸遜が、丁寧に手を組んで頭を下げる。呂蒙は渋い面のまま、虚空を睨み付けた。

「強い男なのは確かだが、力だけであの曹操が討てるほど、乱世は温くあるまい。強靭な守衛もおる」
「……曹仁、ですか」
「唸る程優秀な盾だ。この戦、どんなに甘寧がいきろうとここまでだな」

 呂蒙が低い声でまとめるのを、陸遜は頷いて聞いた。小石が跳ねたところで、船は転覆しない。かといって制止も効かないので放置するという呂蒙の考えは、よく知らない者からすると冷たく映るだろう。だが、心配するような素振りもないことから、甘寧が返り討ちに合うことはないと確信しているようだった。

「騎馬隊を二隊向かわせろ。甘寧の気が済んだら引き摺ってでも戻って来させる」
「承知いたしました。ただ、凌統殿は面白くないでしょう」
「国家間の政治に面白いものなどあるか。もし会ったら、あの馬鹿には俺が拳骨を入れるとでも言っておけ」

 今でこそ呂蒙は軍師だが、元は甘寧並みに血気盛んだったと聞いている。そんな呂蒙の拳骨を想像し、陸遜はぶるっと体を震わせた。


***


 赤壁の戦いで勝利を収めた孫呉一行は湧いていた。凱旋ののち連日宴が開かれ、大いに賑わっていた。あの周瑜ですら、多忙な中宴会に顔を出しては得意の笛の音を響かせていた。
 華やかな喧噪の中で壁の花となっていた凌統は、何度目かのため息を吐いた。手にしている杯は随分前に空のままだ。愛する国が曹魏の大軍勢に押し勝ったのだから、いつもであれば凌統も涼やかな顔を崩して杯を重ねている。だが、宴会場の端にいる存在が気に掛かって、今日はそのような気分になれなかった。薄灰色の目立たない色合いの衣装でじっと周囲を眺めるのが精いっぱいだ。
 勝利は嬉しい。敬愛する主が無傷で、周瑜らの策が見事にはまり、黄蓋も多少の怪我はあるが甕を一気飲みできる程には元気な状況である。嬉しくないはずがない。それでも、騒音をかき分け、鈴の音を拾う度に凌統は舌打ちしたくなるのをぐっと堪えていた。このような場に相応しくない態度に、自ら人と飲むことを諦めてしまった。
 腕を組み、背を壁に預けたまま、凌統はまた考えに耽った。甘寧のことだ。考えたくなくとも、姿形態度どれをとっても強烈な存在感で、思考に混じって来る。

 烏林で敵船を退けた後に、単騎で曹操を追った甘寧は程なくして陣中に戻ってきた。甘寧は怒りの形相で幕をめくり、乱暴に武器を地に投げ、頭をかきながらむしろに腰かけた。兵卒程度では側に立つことすらままならないような威圧がある。幕内にいた陸遜は少し怯えたが、呂蒙と凌統は平然としていた。凌統は咄嗟に顔を背け、距離を取った。呂蒙が態度の悪さを指摘しつつ尋ねると、甘寧は唾を吐いてから低く答えた。

『関羽の野郎が、曹操を逃がしやがった』

 幕中にいた人数は数えられる程だが、ざわめきと動揺が広がった。凌統も、声や態度には出さなかったが、酷く驚いた。

『軍神っつったか。そんなに偉いのかよ。なあ?』

 ぎろりと呂蒙を睨み上げる。大きい魚を味方によって逃された猫が逆毛を立てて怒っているようだ。呂蒙は顎髭を擦りながら思案していた。戦には政治だけではなく、人情も絡む。関羽が一時曹操に身を寄せていたことを考えると、恩義を返す手段として見逃したのだろうと予測出来た。だが、呂蒙には甘寧の気持ちもよく分かった。立場が変われば見えてくる景色は異なる。

『甘寧。一人で無茶をして深追いしたのは頂けん』
『あ? 今気が立ってんだよ。おっさんでも容赦しねえぞ』
『だが、その情報は有利になる。先ほど、功労者であられる黄蓋殿もお戻りになられた。皆で祝宴だ。とっとと来い』

 呂蒙は甘寧の眉間の皺をあっという間に解き、幕外に連れ出す事に成功していた。凌統が肩を下すのと、陸遜が音の鳴らない拍手をしたのは同時だった。

『甘寧殿の実力、そして機を掴む運――素晴らしいとは思いませんか』
『喧嘩売ってます、軍師殿? まったく思わないね。勝手に飛び出してその辺で消えてりゃ、俺だって喜んで拍手しますけど』

 痛烈な皮肉に対し、陸遜は苦笑だけに留めていた。

 結局、甘寧は五体満足のままだ。今は宴会場の対角の方で大声を上げて勝利の酒を浴びている。凌統は頭を振って回想を断ち切った。ざわめきが却って集中できてしまい、少し思考が整理されていた。勝手に命令を無視した甘寧にも、軍紀違反をあっさり見逃す呂蒙にも、信用できない劉備軍にも、苛立っている。時は乱世で、多くの人間の欲や野望のせいで敵も味方も混沌としている。今日殺した人間の軍が、明日には味方になっていることもある。だが、凌統が身内を喪った無念は凌統だけのものだ。恨みと嫌悪の混じった感情はいつまでも胸のうちに残り続ける。そう思うと、また、深くため息を吐いた。

(……上がるか)

 結局、勝利を祝う気持ちには染まれなかった。孫権は周泰の腕を抱えながら楽しそうに飲んでいる。挨拶しようにも暗い顔のままでは、主君をがっかりさせてしまうだろうと判断し、遠くでこっそりと拱手し、頭を下げた。

 建業の城は広いが、凌統にとっては庭のようなものだ。慣れたように回廊を歩き、階段を上って展望の良い露台にあっという間に辿り着いた。美しい意匠の滑らかな欄干を掴み、月を眺める。高い位置から眺める城下は、そちらも勝利の噂を聞きつけたのか、賑わいの灯りがあちこちで揺らいでいた。

「あれ~? 凌統、こんなとこで何してるの?」

 頬杖をついていた凌統は、背筋を正してすぐに振り向いた。にこにこと笑顔を振りまくのは、周瑜の妻である小喬だ。夜でも目立つ華やかな衣装に緩く結んで下ろした彼女に、凌統は毒気を抜かれたように表情を緩めた。

「そりゃ、こっちの台詞ですよ。いいんですか、ご活躍された大都督様の奥方がこんなところにいて」
「周瑜さまがもう遅いから先に戻ってなさいって言うんだもん! もうちょっといたかったのにー! だから護衛巻いてきちゃった」

 花のような笑顔でとんでもないことを言うのが可笑しく、凌統は喉で笑った。忠臣としては護衛の元へ連れ返してやるべきだが、凌統は張っていた背筋を少し緩めて小喬に向き合った。表面上は変わらずに見えるが、気掛かりだった存在である。孫策の死を契機に、彼女の双子の姉が故郷へ帰ってしまったからだ。

「大喬殿はお元気ですかい」
「うん。お手紙だけだけど、元気だって」
「そりゃなにより。けど、妹君は元気なさそうだね」
「凌統にはばればれかぁ。お姉ちゃんに会いたくて、寂しくなっちゃうんだ」

 名を出しただけで大きな両目に涙が滲み、素直な言葉と共に雫が落ちた。感情をそのまま出すというのは、簡単に出来ることではない。美しい姿に少しだけ羨望を覚えた。

「宴会の夜は、周瑜さまが楽しそうで嬉しいよ。でも、あたしは輪に入れない。お姉ちゃんがいたら、ずっと二人で、眠りにつくまでお喋りできるのに」

 その疎外感は先ほどの心境と近しく、共感できた。甘えていた相手がいなくなってというのも少し似ている気がした。頭でも撫でてやれば多少の安心は与えられるだろうが、さすがに人妻に触れるのは躊躇われ、ただ黙って頷いた。

「こんな弱いとこ、皆に見られたらがっかりさせちゃうね。周都督の妻なのに」
「まさか。こんな可憐な方の涙を見て、惚れちまうならまだしも失望する奴なんざいませんよ。いたとしたら、余程感性がいかれてるね」

 はっきりとした口調で言い切ると小喬が笑った。遠回しな言い方の中に、凌統なりの励ましが込められている。感じ取ってくれたなら良かったと安堵していると、小喬が涙を拭って顔を上げた。続いて腰元を探り、細長い棒を取り出した。

「お礼に、あたしの内緒、教えたげる」

 花が描かれた可愛らしい笛を小さな手で構え、口元に寄せた。遠くで聞こえる喧噪をかき消すように、澄んだ音色が響き渡る。周瑜が笛や箏などをを嗜んでいるのはよく知っていたが、小喬が演奏できるのを凌統は知らなかった。ところどころ消えたり音が飛んだりしているが、純粋な音色にただ感心させられた。短い曲が終わると、凌統が大きな手で拍手し演奏を讃える。

「へえ。驚きましたよ。お上手だ」
「ほんと? 良かったぁ。これね、皆にも、周瑜さまにも内緒なの。びっくりさせたくて練習してるんだ」

 満足そうに微笑む彼女に、凌統も唇を弧にして笑う。姉がいなくて寂しい間にも前に進む小喬を見て、勝手に勇気づけられていた。甘寧ばかり意識して足踏みして過ごすことが格好悪く思え、身が引き締まった。

「俺も、頑張らないとって思いましたよ」
「凌統は頑張り屋さんだよ」
「お褒めいただき光栄です。小喬殿、不躾ながら、一つだけ良いですかい?」

 小さな頭が軽く傾げられ、こくりと頷いた。凌統は形ばかり手を合わせて顎を引く。

「俺には十分素敵な演奏に聞こえました。度肝を抜いてやりたいお気持ちは分かりますが、すぐに、聞いてもらってもいいんじゃないですかね」
「え?」

 きょとんとした顔に、凌統はどう言ったものかと内心苦悶した。自分にもあったのだ。父に強くなった姿を見せようと隠れて奮闘した時期が。機を逸して、あっという間に乱世に飲まれた虚しさを、小さな乙女には感じてほしくない。しかし、周瑜の没を匂わせるような不敬は取ることが出来なかった。

「愛する奥方の演奏でしょ。練習だろうと何度だって聴きたいんじゃないでしょうかね」

 小喬は大きな瞳をぱちぱちと瞬かせて、ぽつりとわかった、と返事をした。

「凌統は、好きなひとが頑張ってたらうれしい?」
「そりゃあもちろん。残念ながら情を交わすような方はいませんけど、敬愛する方の奮起する姿はいいもんです。小喬殿の演奏を聴けて、俺は励まされましたよ」
「えへへ、そっか。うれしい。ありがとう!」

 奥の方から複数の足音が聞こえてきた。笛の音が届いたのか、護衛がこちらに向かっているようだ。凌統は丁寧に拱手を施して挨拶を済ませた。小喬も手を振ってから歩き出したが、三歩進んだ時にくるっと振り向いた。

「凌統。あなたは大丈夫」
「え?」
「だってとっても強いもん。ね?」

 小喬はそのまま小走りで足音の方に向かって行ってしまった。言い逃げされた凌統は、短い言葉を頭で繰り返す。強い、大丈夫。ありふれた陳腐な言葉が、誰に言われるよりも素直に胸に響いた。

「感謝しますよ。小喬殿」

 こぼれた呟きはじんわりと夜に溶けていった。

  
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