凌雲を掴むまで
建業は慌ただしくざわめいていた。曹操はあっという間に領地を広げ、遂にその侵略を南に向けてきた。曹操の軍勢は数十万。対する孫呉は二万。降伏か戦闘か。苛烈な選択は君主や軍師に留まらず、武将や兵らを越えて市井の民すらも討論の種となっていた。
戦があろうとなかろうと、凌統に出来るのは己の鍛錬と軍の調練だけだった。凌統は判断出来る立場にない。ただ、訊かれると開戦一択ではあった。曹操に頭を下げる姿が想像できなかったからだ。劉備という小心に見える男と手を組んで共に散る方がはるかにましだと考えていた。
凌統は骨身から孫呉の人間であり、国の軍師のことは信頼している。個人感情を抜きにすれば、猛将を何人も味方に引き入れて軍力を上げていく手腕に感嘆していた。もちろん孫権の人柄あってこそだが、都督らの知恵は肝要だ。周瑜や新しく加わった魯粛、呂蒙に陸遜と多くの頭脳が参集しているのだから、最善の判断を下すと確信していた。
黙って汗を流す凌統の元に、陸遜が足を運んだ。熱気に包まれる鍛錬場の中で、一人爽やかな顔をしている陸遜に苦笑する。そんな凌統を気にせず、若き軍師は興奮気味に声を弾ませていた。
「諸葛亮先生には圧倒されます。単なる知恵や経験だけではありません。どこか浮世離れした、稀有な先見の明をお持ちなのだと思います!」
日頃淡々としていることの多い若者が年相応にはしゃいでいる様子に、凌統は顔を綻ばせた。乱暴に頭を撫でてやっても、陸遜は楽しそうだった。
「上せてるねえ。珍しいんじゃないの」
「はい! 直接お話できて本当に光栄です。周大都督が畏怖の念を抱く程の人材ですよ。ご一緒出来る内に、未熟者の私にも色々ご指導いただきたいのです」
「俺は頭が良い方々の会話なんざさっぱり分からないから、陸遜も凄いと思うぜ」
「凌統殿にお褒め頂けるのも嬉しいですよ」
笑顔で照れもせず言える素直さが凌統には眩しかった。目を細めて身を離し、壁にもたれる。視線の先には凌統の軍が調練を続けていた。凌操譲りの、猛攻を得意とした軍団だ。若くして継いだ己が、全員の信頼を得ているとは言い難いものの、殆どが凌統に従順である。凌統は誇らしい部下たちを眺めながら若き軍師に探りを入れた。
「烏林で当たるとしたら、
「ええ。幸い、こちらは長江に守られています。曹操にこの地を踏ませなければ、我々の勝利です」
「俺の軍は先駆けも小回りも得意だ。だが、水の上はそこまで強くない」
「……指示されずとも、お気づきということでしょうか」
凌統の不躾な探りに対し、陸遜は鋭敏に反応した。先ほどまでの興奮はどこへやら、途端に落ち着き払って大きな栗色の目で凌統を見ている。その視線を横顔に浴びながら、凌統はゆっくりと息を吐いた。嫌な予感は当たるものだと知りながら、否定を求めてしまう。
「あいつも出すのかい」
「曹魏に対抗するため、甘寧殿のお力は必須です」
「……ま、先陣切って派手に散ってもらうのもありか」
「いいえ。恐らく甘寧殿を使うとすれば、横腹を突いていただくよう配置するでしょう。そしてそれは、貴方も同じです。此度は、お二人を近接地に置かざるを得ません」
凌統の腹がかっと熱くなった。反射的に鋭い目つきで睨みつけたが、陸遜は顔色ひとつ変えずに綺麗な瞳を向け続けている。可愛げのなさに凌統がわざとらしく舌を打った。
「親の仇と肩並べて戦えって言うのか? 冗談じゃないっつの……」
「足手まといになるなら降りろや」
凌統が吐き捨てた直後に、鈴の音が鳴った。忌まわしい声は、雨の日の夏口と同じものだ。何度も呪いのように夢に出て、忘れさせてくれなかった。ざわっと凌統の全身が毛羽立つ。掴んでいた自らの前腕を握り潰さん勢いだった。壁に背を預けたまま、凌統は虹彩だけを声の主へ向けた。甘寧殿、と陸遜が溢した声も驚きに満ちている。
「わざわざ気配まで消して盗み聞きか。水賊に戻った方がお似合いだぜ」
「通りがかったら
「なんだって……?」
凌統が弾かれたように壁から背を離し、勢いのまま甘寧に掴みかかった。斜め掛けの赤い衣装を破く勢いで捻り上げる。この世で最も憎い顔が間近にあって、凌統は急速に頭に血が上るのを感じた。君主へ捧げた拱手も、孫呉への忠誠も忘れて睨み付ける。至近距離でかち合った瞳は、ぎらぎらと獣のように光っていた。やめてください、という陸遜の制止が遠くに聞こえる。
「やっと目合わせたな」
獣が目を細めて言う。黄祖討伐の幕舎のことが凌統の脳裡に浮かび、布を掴む拳に力が入った。瞼が痙攣し全身に寒気が走る。
「でっけえ喧嘩が出来るって時に、ぐだぐだうるせえ奴は士気が下がんだよ」
「はっ。その程度で下がる士気なら元々ないんじゃないの」
「ああん?」
「ですから、おやめください!」
芯のある叫びが聞こえるや否や、凌統の手首に冷たいものが触れた。激昂している体が熱いせいか、握って来る陸遜の手がやけにひんやりしている。凌統は腕を振り、陸遜の手と甘寧の布を力任せに剥がした。
「敵が味方になんて珍しくもねえ。みみっちい男と一緒なんざこっちこそ勘弁だぜ」
わざとらしい煽りであることは明確だ。戦でも煽動は常套手段で、間違っても乗ってはならない。しかし、今は戦場ではないせいで、凌統は己の
陸遜や周囲の兵の叫声や怒号は凌統の耳には入らなかった。音の消えた世界で、凌統は仇だけを見て、再度拳を握った。一発では到底気が済まない。しかし、それを構える前に、急に右の頬が熱くなった。鍛えた体幹と両脚で飛ばされるのをせき止めたが、じんじんと痛みが走る。殴ってきた男は口元の血を拭いながら目を輝かせていた。まるで構ってもらえた子供のようだ。その愉快そうな表情がまた凌統を苛立たせる。次の殴打を繰り出したが、肩に強い抵抗があって届かなかった。誰かが凌統の肩を押さえつけていた。
凌統は抑止を無視して、今度は脚を伸ばした。沓の先が甘寧の腹を掠めると、楽しそうな顔が一瞬歪む。
――もっと、もっとだ、こんなもんじゃ足りない。俺の、父上の無念は、こいつの首を取らなければ――。
理性を失った頭は仇討ち一色の思考となる。しかし、実行は敵わなかった。両者は大勢の男に囲まれ、それぞれ引き離されて壁に体を押し付けられる。狭い鍛錬場はざわめきと焦燥で溢れていたが、凌統はそんな空間に気圧されず、甘寧だけを睨み続けていた。先に視線を外した方が負けと言わんばかりに、甘寧も目線を向け続けた。
***
形と色の良い唇から、ふうと吐息が漏れた。眉を寄せ、緩やかに下げた困り顔は美しく、国が傾くとはこのことではないかと凌統は逃避的に考えた。口に出すとさすがに鉄槌が下ると分かっており、黙って膝を着く。
「凌統。君はもう少し冷静な男だと思っていたが」
「器用じゃないもんで。兵の前で騒ぎ立てたことは、申し訳なく思ってますよ」
凌統の悪びれない返答に美周郎はまた嘆息した。全知を掛けて共に駆けた相方・孫策を喪ってますますその美しさには磨きがかかっている。国を継いだ孫権を全力で支えるべく、大都督として多忙な日々を過ごしている周瑜に無駄な心労を掛けていることは、凌統も自覚している。特に今は保守派と戦闘派で国内が荒れている真っ只中だ。仲間うちの私闘はそこらで溢れている。
「凌統。君に辛い思いをさせていることは、私も殿も理解している。しかし今は、孫呉の存続が危ぶまれているのだ。どうか私情を抑えてはくれないか」
「……殿にはきちんと伝えてあります。仇討ちをするつもりはありません」
はっきりと言い切った凌統に、周瑜は瞠目した。凌統の目は真摯に周瑜を見つめている。垣間見える孫権への忠心に息を飲んだ。
「新参者のくせに、でかい口きくのが気に食わなかったんですよ」
「甘寧の粗暴さは聞いている。私からも改めて、接触を控えるよう釘を刺しておこう」
「俺自身を馬鹿にされたから切れた訳じゃありません。そこは分かってくれせんかね。俺は、いつだって、殿のために出陣できる」
孫権も周瑜も迷い続けている。曹操は大軍だ。みすみす対峙して国が滅ぼされることは、孫堅や孫策の望むところではない。人々の命あっての国だと考えると、降伏を訴える臣下を無下に出来なかった。
しかし、孫呉には闘える者がいる。凌統の覚悟に改めてそれを知った。
「君はどう思う。曹魏は大勢だ。まともに当たろうなどと、気が触れたと思われてもおかしくない」
「周瑜殿の中には答えがあるんでしょう。俺は従うだけですよ」
凌統が何でもないように返す。孫権や周瑜の考えを全て受け入れてくれる将がいるというのはかくも頼もしいことか、と周瑜は体の芯が温まるのを感じた。純粋な忠誠心は国にとって貴重な力だ。感動し続ける周瑜に対し、凌統は片眉を上げて顎を上げて得意げに唇を開いた。
「ただ、奴が近くに配置されたら、手が滑っちまうかもしれませんけどね」
騒ぎの報告を聞いた時、周瑜はやはり両名を使うのは難しいのかと絶望していた。二人の力があれば曹操を追い返す大きな助力となるが、そうでなければ新たな配置を考えねばならない。諸葛亮や黄蓋に大役を任せている以上、作戦を確実にするための盾が多く必要になる。
凌統の表情と声色で発言が冗談であると伝わり、周瑜はふっと口元を緩めて笑った。
「闘志はお父上譲りだな」
「そう仰っていただけて光栄です」
「君の懸念通り、此度は甘寧と共闘してもらうつもりだ」
淀みなく伝えると、片膝を着いたままの凌統の髪が揺れた。覚悟はあったのだろうが、動揺は隠しきれないようだ。しかし周瑜は堂々と本音をぶつけた。
「私は君の力を信じている。無論、殿もだ」
軍師とは
凌統が恭しく頭を下げた。ゆっくりと顔を上げて立ち上がる。ぱし、と音を立てて拱手した。
「この俺が、調子乗ってる曹操を蹴散らしてやりますよ」
「ああ。期待している」
「勿体ないお言葉で」
軽やかに身を翻して室を出る凌統の背を、美周郎はじっと眺め続けた。
回廊を歩きながら、凌統は周瑜との会話を反芻していた。信頼も期待も重責だが、わざわざ掛けられた言葉に喜びを感じていた。単純な幼心に恥ずかしさはあるものの、国に必要な存在だと認められて闘志に火を着いた。
凌統にとって親仇は甘寧一人だ。存在そのものが腹立たしい男である。しかし、顔を上げた先に大軍が見えるとあっては、たった一人に執心している場合でないことは明白だった。大切な父から教えられた通り、主君が斬れと言うものを斬る。その順序や対象を間違えてはならない。
拳を握ってずんずん進む凌統の耳に、ちりんと鈴の音が飛び込んできた。続いて、怒声も聞こえてくる。通り掛かったのは呂蒙に宛がわれた執務室だった。
(お互い、お忙しい軍師殿に迷惑かけて、ろくでもない存在ってか)
せめて戦では心を殺して、敵だけを見よう。凌統は拳を握り直し、足早にそこを立ち去った。