凌雲を掴むまで

 

 久方ぶりに赴いた夏口城の周辺はうだるような暑さだった。
 甘寧は黄祖の元にいて見知った情報の内、渡しても良いものは全て告げていた。その上で、自ら黄祖の首を取るべく独断で動いた。いくつかの命令は無視した。手柄を挙げたいというよりは、この手で黄祖を切ってやりたいという幼稚な欲だった。
 蘇飛は頭脳戦などと言っていて、孫呉の軍師もあれこれと策を練っていたが、黄祖の元にいた甘寧には必要ないものだった。肌で分かるのだ。腰の抜けた男が逃げる先などたかが知れている。

「き、貴様、甘寧……! 食わせてやった恩も忘れた裏切り者が!」

 直感通り、西はずれの林道を走っていた黄祖に追いついた甘寧は、一言も返さずに得物を振り下ろした。あっけなく元の主が気絶する。一応、恩を売るために孫権の前まで引きずって持っていった。驚いた孫権だったが、すぐにその首を刎ねて掲げた。部下らが勝利を喚いている。伝令兵が信じられないといった面持ちの後駆け出して行った。すぐに全軍に勝鬨が上がることだろう。
 甘寧はつまらなさそうに刀を振って血を飛ばした。求めているのはもっと血が滾るような喧嘩だ。命の奪い合いによる真剣勝負がしたかった。黄祖のように甘寧の姿を見て怯えるような軟弱者では相手にならない。

 凌統。甘寧は声に出さずにその名を呼んだ。己を親の仇として恨んでいる男とは、未だ孫呉に来て対面できていなかった。儀式のときに一部ざわついているのは分かったが、彼だったかは分からないままだ。仇が手の届く位置に来て、目の前に現れてくれるかと期待して過ごしたが、ついぞその機会はなかった。周囲が勝利に浸り、甘寧を称賛する中、張本人だけが物足りなさにむくれていた。

 部下に孫呉の美味い酒を分け与えるべく、駐屯地に足早に戻ってきた。建業まではまだ少し遠い。勘だけで入った幕舎にいたのは副将ではなく、美麗な大都督と待ち望んだ人物だった。
――こいつだ!
 肌が粟立って目を剥きそうになった。甘寧の背筋が興奮で痺れる。だが、戦場を生き抜いてきた直感から、驚きを一切表に出さず、飄々と周瑜にのみ話しかけた。仕掛けてこいと願ってわざと会話を延ばしたが、横目で見た凌統は微動だにしなかった。座ったまま固く腕を組んで顔を伏せ、毛先の一本も揺らさない。
 内心舌打ちして、甘寧は幕舎を出た。黄祖の首も褒章もどうでも良かった。凌統が、恨みを抱いたあの目が、己に向かって欲しい。それをねじ伏せて、組み敷いて、暴いてやりたい。狂暴な欲が甘寧の胸中に渦巻く。
 立ち止まって幕舎から出るのを待ったのは気まぐれだった。予想に反してすぐに幕が動いて、赤い胴着の男が現れた。高く結った黒茶の髪、整った顔立ちに付く目立たない黒子は離れた夜闇では視認できない。記憶より背が高く、均整の取れた体躯だった。
 凌統はすぐに甘寧に気付いて、すぐに目を反らした。掴みかかって来ることも、怒鳴ってくることもなく、空を睨み付けている。甘寧はじろじろと頭の天辺からつま先まで眺め下ろしたが、視線が絡むことはなかった。舌打ちして腕を組み、わざと鈴の音を鳴らしたが反応はない。
 凌統が遠くを睨み付けたまま地を踏み出した。一歩一歩近づくが、やはり目は合わない。凌統は結局一度も甘寧を見ずに離れていった。その思考を読むことは出来ない。不自然なまでの無視に苛立って、甘寧は燭台を一本蹴り倒した。部下と合流しても、酒は進まなかった。


***


 建業で開かれた宴では、孫呉の多くの者が甘寧の功績を認めて声を掛けてきた。黄祖の首を取った際には得られなかった充足感がじわじわ上って来る。黄祖の冷遇に慣れ過ぎていて、こうも厚遇されるとむず痒いものだ。呂蒙や周瑜は特に安心したように喜び、共に杯を重ねていた。
 宴会場は広く、大勢の者がいて意中を見つけることは出来なかった。戦に参戦したとはいえ、仇が讃えられるような宴は共にしたくないということだろうか。無意識に探して考えていたことに気付くと、舌を打って杯を空にした。

 孫権の高らかな声で空気が変わった。黄祖の首を詰めた箱。いい趣味してるぜと甘寧は嘲笑う。しかし、次の瞬間に杯を投げ捨てて立ち上がった。蘇飛の首を入れるというのだ。
 甘寧の脳裡に蘇飛との会話が浮かび上がった。

『ならば、私が頭脳戦に敗け、黄祖様が破られた時は――私に味方してくれるか。甘寧よ』

 軍師ってやつはどこまで見えてんだ、と甘寧は面白くなった。蘇飛への義理を果たすために跪くのは容易い。

「殿。蘇飛の処遇は俺に任せてくれねえか」

 辺りの騒音も長身の護衛が向けてくる刃も気に掛けず、甘寧は君主の碧い目を見た。孫権は眉一つ動かさずに、淡々と言葉を返す。

「甘寧。お前は孫呉の人間であり、蘇飛は黄祖軍の者だ。己が何を言っているか分かっているのか」
「蘇飛は俺の恩人だ。あいつがいなきゃ、あいつの手引きがなきゃ、俺はこの孫呉に来れてねえ。無理を承知で頼みてえんです」
「奴をどうするつもりだ」
「決めてねえ。けど殺すつもりはない」

 甘寧の無謀な申し出に場はさらに怒号で溢れた。孫権の瞳が薄くなる。甘寧は拱手し、再度頭を下げた。己に出来るのは頼み込むことだけだと割り切っていた。

「上げよ」

 元は少し高めの声だ。その孫権の声色が、じっとりと低く告げてくる。確かな威厳を伴った命令に顔を上げると、碧眼と視線が絡んだ。甘寧は直感した。この国では、面白い喧嘩が出来る。

「此度のお前の功績は素晴らしいものだった。蘇飛は甘寧に託す」

 会場は一気に沸き立った。そのほとんどは非難する声であったが、甘寧が再び頭を下げてから立ち上がると、圧倒されて萎んでいった。孫権は早々と空箱を撤収するよう命じている。意思の強い主に、甘寧は惹かれつつあった。


 牢を教えられたのは翌日のことであった。早朝から呼び出された甘寧は、遂に蘇飛と対面した。黄祖の元にいた頃よりも髪や髭が伸びてやつれた姿であったが、息はあった。

「よう。あんたとの約束は果たしたぜ」
「ああ。お前を信じていたぞ」

 弱々しく笑う顔に、甘寧は呆れたようにため息を吐いた。牢の護衛が閂を抜いて蘇飛を開放する。蘇飛に武力などなく、手錠も足枷も不要だった。甘寧が黙って背を向けて歩き出すと、ゆっくりと付いてくる。

「で? 冴えてるあんたには、俺が生かすことくれえ見えてたんだろ。この先どうすんだ」
「ははは。お仲間には入れてくれないのか」
「そりゃてめえの胸に聞いてみな」
「違いない」

 孫呉は常に人材不足だ。蘇飛を帰属させることは不可能ではないだろう。それも含めて丸ごと託されたのだから、孫権の懐深さは計り知れない。だが、甘寧は蘇飛の本心を見抜いていた。蘇飛に江東で暮らす気は一切ない。

「お前に生かされた身だ。恩を返すべきだろうに、すまない」
「あんたにゃ世話になったからな。恩に恩を返す必要はねえよ」
「甘寧。お前は独善的で縛られない男だ。上手く、孫呉で活かせよ」
「へっ。うるせえよ。てめえの生き方に口出されんのはうんざりするぜ」

 会話はそこで終わって、以降言葉は交わされなかった。甘寧が城門で腕を組んで立ち止まると、蘇飛は一度甘寧に拱手し、後は振り向くことなく地平線に消えていった。ろくに金も武器もない貧相な身だ。生きて故郷に帰れるかどうかも分からない。甘寧はただ、見送るだけだ。

「逃がしたのか」

 気配から近づいてきているのは分かっていた。声を掛けてきた呂蒙に、甘寧が頷く。

「一晩で死ぬか、老衰するか、分かんねえけどな」
「知恵は惜しい男だった」
「あいつの主は黄祖だけらしいぜ」

 甘寧が断言して、呂蒙はやはり、と呟いた。時は乱世だ。国を興そうと多く者が名を挙げる。不思議なもので、心身を捧げる主は人によって異なる。悪逆非道の暴君と言われた董卓に心陶した者がいたように、黄祖にもまたいたということだ。

「お前が孫呉に来てくれてよかった」

 呂蒙の平易な言葉に、甘寧は気が抜けた。単純でお人好しな髭面の男は、真っ直ぐに甘寧を見ている。これでいてかつては自分のように武力だけで生きていたらしい。面影のない呑気さが、少し気に入った。

「おし、おっさん。飯食わしてくれや」
「お前、余りに無遠慮だとは思わんのか」
「朝っぱらから起こされて腹減ってんだよ」
「ええい、暑苦しい、ひっつくでない!」

 つま先立ちで肩を組むと、鬱陶しそうに呂蒙が言って来る。蘇飛とは違うが、気の置けない距離感の人間がいて、甘寧は満足そうに頷いた。


 
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