凌雲を掴むまで
甘寧は根無し草と罵られるのを鼻で笑ってきた人生だった。決まった寝床があるってのがそんなに偉いことなのか、と今でも思っている。甘寧にしてみれば錦帆賊を名乗って水の上で暴れている時が最も楽しかったのだ。
徒党が増えたので劉表や黄祖に仕えてみたが、彼にとってはまるで失敗だった。黄祖は甘寧の動きを一切評価せず、甘寧の手下にまともな褒賞も与えなかった。何度その首を刎ねてやろうかと思ったか知れない。
不満が募りつつあった頃、江東の軍とぶつかるようになった。甘寧は黄祖に欠片の敬意もないが、大きな喧嘩が出来るとあって胸を弾ませていた。崖上から見た相手方の大群に舌なめずりする。
その熱意を冷ますように大雨が降ったが、甘寧には関係なかった。どんな天候であっても普段と変わりなく動けるのは賊徒の経験からである。それなりに信頼している蘇飛に「夏口城を覆う一派を強襲せよ」という命令を下され、甘寧はすぐに頷いた。
動きは想定より早く看破され、敵総大将である孫権は早々と撤退したものの、殿を務めた将の動きは良く、甘寧を唸らせた。刀剣がぶつかり合う金属音、相手の攻撃を読み寸前でかわす時の緊迫感、己の得物を思う存分振るえる環境の全てが甘寧は好きだった。一度この滾りを覚えては戦場でしか発散できない。
敵将に痛手を与えたが、相手も引き際の見極めが上手いようであった。馬に乗って去ろうとする背を、矢尻が捕らえる。甘寧は弓矢も一等の腕前だった。
「敵将、討ち取ったぜ!」
甘寧の勇姿に手下の男共も吠えている。ひりひりとした高揚が堪らず、甘寧は太刀を振った。まだ暴れ足りないと思っていた。そこに叫び声が聞こえ、赤い胴着の男が飛び込んでくる。反射的に受け止めた甘寧は、ぎらぎらと殺気の乗った目に闘志が掻き立てられた。
相手の男は妙な武器だった。あまり見ないややこしそうな得物を簡単そうに操るのを面白く眺める。男が指差してくるのも黙って見ていた。長身で高い位置で髪を結っている。この鈴の甘寧にろくに構えず向かってくるとは若い男だな、と内心見下した。
「俺は、そこまで乱世に馴染んじゃいないんでね」
印象的な煽りとともに一騎討ちが始まった。かっちり着込んだ戦装束が雨を吸って随分重たそうだが、予想より身軽に動いていて好奇心が湧いた。重たい一打を受け止め、甘寧は口笛を鳴らす。青臭い男だと
しかし結局甘寧の煽動にあっさり乗った男の動きはどんどん大回りになっていった。それを面白くも残念にも思いながら得物を男の腹当てに叩き込む。崩れた態勢を良いことに、髪の根本を掴み上げる。苦痛に歪む顔はそこらの男共より格段に綺麗に見えた。
「くっ……」
「へっ。いきってた割には、だな」
「なんだと!?」
かっとなって拳を腹に入れてくるが、甘寧からすると蝿のようなものだ。頬を殴ると男が痛みに呻いている。雨や血や泥で汚れた男の顔を甘寧は無遠慮に手で挟む。潤む男の右目の下にぽつんと泣き黒子が浮いているのが見えた。雨か涙か分からない雫が触れるのを見て、甘寧は戦闘と異なる興奮を感じた。
「お前、結構そそる顔してるな」
潰した頬に接近し、口付けた。このまま姦淫でもすれば一層面白い反応が見られるのではないか、という甘寧の野心は退却という伝令に阻まれた。
「せっかく滾ってきたところだってのによ……仕方ねえ」
盛大に舌打ちしてから男を投げ捨てる。泥まみれになった顔をもう一度拝みたかったが、雨足が強く、相手の前髪を垂れさせていて表情が読み取れない。
「じゃあな。次はもっと愉しく喧嘩しようぜ」
せっかく生かして去るのだから、もっと強くなって戦いたい。甘寧なりに評価して投げかけた言葉は、相手に耳に届いたのか分からなかった。撤退しながら雑兵を斬っていると、部下が話しかけてくる。
「兄貴、やりやしたね! 兄貴が射たのは凌操ですぜ!」
「あー、蘇飛がなんか言ってたやつか。確かに強かったな」
「ええ! あの黄祖も黙ってねえですよ!」
甘寧はさして自身の評価に興味がない。懸命についてくる手下たちへの褒美があればいいと思っていた。討ち取った武将が強敵だったのだから、黄祖も十分な褒賞を与えてくるだろうと期待した。
だが、黄祖は冷遇を続けた。水賊ごときが付け上がるな、と吠えている。甘寧は苛立ちが止まず、いつ黄祖の元を離れるかだけを考えるようになった。
程良くして蘇飛が声を掛けてきた。
「甘寧。孫呉に帰順するか」
呆気にとられた。黄祖への翻意は隠したつもりだった。友と言える蘇飛にはお見通しだったのかと思うとやや気恥ずかしく、甘寧は後ろ頭を大げさに掻いた。
「あんたにゃ、黄祖に愛想つかしてんのはばればれか」
「いやなに、実はお前の気持ちだけじゃあない」
「ああん?」
含みのある笑みを浮かべる蘇飛に、甘寧は素直に首を傾げた。軍内で希少な本音を出せる相手である。蘇飛は後ろ手に隠していた酒を甘寧に放り、座るように告げた。得意げに笑って二つ杯を満たしてから甘寧は顎をしゃくって続きを促した。
「黄祖様の対応は目に余る。お前には離れる道理がある」
「共感してくれて嬉しいぜ」
「そんなお前を、孫呉が欲しいと言ってきた。周公瑾と呂子明、どちらも孫呉の都督だ」
「お偉方ってことか?」
「お前と違って頭の良い奴らだな」
遠慮のない蘇飛の言いように甘寧が天井を見て笑った。こういうところが蘇飛の信頼できるところである。
「そんな奴らが俺を気に入ったってか。おもしれえ」
「ああ。ここ最近怪しげな者も見かけた……黄祖様がお前に冷遇していることが伝わったのかもしれぬ」
ふうん、と一言だけ溢した甘寧は一気に杯を呷った。またとない好機である。乗っかる外ない。決心はすぐついたが気掛かりが一点だけある。
「あんたは?」
「ん?」
「あんたはそれなりに黄祖に可愛がられてるだろうけどよ。あっちに行かねえのか」
「なんだ、寂しくて引っ越せないとでも?」
物言いにはかちんときたが、それなりの付き合いで蘇飛の気持ちが分かった。蘇飛にも立場や家族がある。自分とは違い、地に根差した人間なのだ。分かっていても、親交を深めただけに残念な気持ちがあった。
「東呉の孫権は黄祖様を親の仇として憎んでいると聞く。再び侵攻してくるのは間違いないだろう」
「あんたと刃交えんのか。そりゃ勘弁だぜ」
「ほお。敵味方をはっきり区別するお前がなあ」
「今はまだ味方だろうがよ」
「ならば、私が頭脳戦に敗け、黄祖様が破られた時は――私に味方してくれるか。甘寧よ」
蘇飛が言っているのがどのような状況なのか、甘寧には分からなかった。だが、孫呉へ渡るにしても、黄祖の裏をかいて実行するには蘇飛の力が要る。出来る恩返しがあるならば、困った時には助けると決意した。
***
甘寧は
「甘寧。待ち受けたぞ。呂子明だ。お前の力、期待している」
「おう! よろしくな、おっさん!」
甘寧は快活に返事をした。自身が水賊の出であることは伝わっているはずだ。多少の粗暴さは容認されるだろうという甘い考えは、呂蒙の痛烈な拳で破られた。脳天に鈍い痛みが響き渡る。
「ってぇええ……なにすんだよおっさん!」
「俺は呂蒙だ、おっさんではない!」
「だからって初対面に拳骨寄越すかぁ!?」
「初対面をおっさん呼ばわりする奴に言われたくないわ!」
甘寧の凶悪な目つきに睨まれても、呂蒙は全く怯まない。今でこそ学を見につけ軍師としても数えられるが、元は武一辺倒の人間である。かえって甘寧の態度に燃えてくるというものだった。
その後、甘寧は呂蒙の気回しで大都督である周瑜とも早々と顔を合わせた。噂には聞いていたものの間近で見ると驚くほどの端整な顔立ちで、甘寧も思わず圧倒された。
「甘寧だな。聞いていた通り精悍な顔つきだ。君の力、頼りにしているぞ」
「おうよ!」
むず痒くなるような謝辞に、甘寧はあえて無礼を承知で一言だけ返した。呂蒙に厳しく言われていたので甘寧なりに拱手はきっちり施した。隣で呂蒙が慌てたように一言二言詫びを入れて頭を下げている。
周瑜は甘寧の粗暴さを知った上で実力を買っている。構わないと頭を上げさせて、微笑んで新参を迎え入れたのだった。
甘寧は新しい地を踏みながら、ほんの少し動揺している己に気が付いた。本音を言えば、孫呉に一生居付くつもりはない。ただ黄祖にうんざりしていたのと、向こうよりもこちらの方が軍勢もあり、派手な喧嘩が出来そうだと思ったから波に乗っただけだ。しかし、そんな甘寧を周瑜も呂蒙も想像以上に温かく迎え入れてくる。賊徒時代からの仲間も皆まとめて面倒を見てくれる手筈となり、驚きを隠せない。懐深い軍だと感心するとともに、早く武器を振るいたい気持ちが湧き上がった。
***
甘寧が孫呉に来て数日が経った。甘寧の存在はまだ国内で機密として伏せられている。腰元の鈴を外すように言われ不快に思ったが、呂蒙の必死さに甘寧はしぶしぶ従った。暴れるだけの人生の中で様々な国事情を見てきた。勢力を急速に拡大している孫呉では複雑な事情があるらしいことも、呂蒙の顔から伺えた。
そんな甘寧の帰順に対し、儀礼が開かれるという。わざわざ要らねえと甘寧は一度拒否したが、それもやはり必要なしきたりなのだという。辟易としたが、己を必要としてくれていること、確かな喧嘩の舞台がこれから用意されることを理由にしぶしぶ受け入れた。全てにきっちり従えるかと言うとそうではないが、少しの我慢で派手に暴れられるのであれば仕方ない。熱心に面倒を見てくれた蘇飛のことを考えると今更止めたとは言えなかった。
翌日に儀を控えた晩、呂蒙が甘寧の元を訪れた。馬が合うのか、二人は既に意気投合している。酒を掲げた呂蒙を甘寧は喜んで室に入れた。挨拶もそこそこに杯を合わせる。温められた液体が喉を通り、芳醇な香りが鼻を抜けていった。
「酸っぺえ酒ばっかり飲んできたからなぁ。うめえや。おっさん、孫呉が気に入ったぜ」
「おっさんではない! 全く、お前の馴染み方も如何なものか」
「でけえ国ででけえ喧嘩が出来る。滾ってくるぜ」
酒と肴を交互に味わいながら言うと呂蒙は呆れたように笑う。そして流れるように二杯目を注いだ。面倒見の良さに甘寧は舌を巻く一方である。杯を持ち上げて謝意を示し、甘寧は腰を据えて尋ねた。
「まずはどことやり合うんだ?」
「無論、黄祖だ。奴は先代の仇。この間随分と手痛くされたお返しもせねばならん」
「俺もあいつの面ぶん殴ってやりたかったとこだ。へへ、楽しみだな」
骨を鳴らして唇を舐める。拳だけで生きてきたせいか、甘寧は戦のことを思うとすぐに発火する性質である。二杯目を一気に傾けて、乾いた喉を酒で無理やり潤した。呂蒙は顎髭をしきりに指で撫でている。
「お前のおらぬ黄祖軍など赤子のようなものだろう」
「買ってくれるじゃねえか」
「我が孫呉がこっ酷くやられたのはお前がいたからだぞ、甘寧」
「だよな。よく分かってるじゃねえか。安心しろ、あいつに未練は欠片もねえ。間違いなく首を刎ねてやれるぜ」
「あぁ。信頼しておるぞ。お前は孫呉の一員だ」
呂蒙がじっくりと言うと、甘寧は全身が痒くなった。期待も信頼も正面切って言われると気恥ずかしいものだ。甘寧が落ち着きなく杯を弄んでいると、呂蒙さらに低い声でだがな、と続けた。
「お前のことをそう思っていない者がいることも確かだ」
その物言いに甘寧は眉を上げた。呂蒙と知り合ってまだ日は浅いが、ぼかして言うのは珍しいような気がした。
「んだよ。裏切りもんってことか? 間違ってねえだろ」
「帰順者がすぐ寝返るとは思っておらん。将の中にはかつて敵だった者も多くいる。そうではなく……」
呂蒙の歯切れが悪くなる。甘寧がじろじろと眺めてやると、すぐに降参したようにため息をつき、視線を合わせた。甘寧からするとそんな些細な動作も信頼されているようで悪くない。目つきも態度も粗暴なので、他人とあまり目が合わないからだ。甘寧が密かに感心する一方で呂蒙は未だ忙しなく髭を擦りながら口を開いた。
「お前に恨みを持っている人間も少なからずいるということだ」
「そらそうだろ。ついこの間まで喧嘩してた相手だぜ。俺が何人こっちの奴斬ったかも知れねえよ」
「伝聞以上に厄介な男だと思ったものだぞ。無論、それを承知でお前に力を求めたのはこちらの方だ」
甘寧は大きく頷いた。武将として誇らしい思いだ。
「恨まれようが憎まれようが関係ねえ。孫呉に敵対する奴を斬ってやるよ」
「お前がそれだけ割り切れる男で良かった。そのまま前を向いて力を発揮してくれ」
呂蒙からの期待は痒いが嬉しいものだ。温かい酒器を勝手に手にして三杯目を注ぎ、また一気に呷る。船上で飲む発酵しすぎた酒もどきと比べると格段に美味だった。顎を下して呂蒙の方を見ると、未だ呂蒙は杯を揺らしている。せっかくの熱燗も台無しだ。舌に残った酒の味を転がしながら、甘寧は呂蒙の発言を追想していた。所々にある違和感を繋ぎ合わせる。
「割り切れねえ奴がいるってことかよ」
酒を飲んでもいないのに、呂蒙がむせた。図星なのだろう。慌てて胸を叩いている様子に、甘寧はやっぱりおっさんだな、と内心呟いた。実年齢が想像より若くて驚いたのはつい昨日の話だ。
「わざわざ雑魚のこと気にかけて言わねえよな。重臣か?」
「お前の妙に勘のいいところは、良いんだか悪いんだか分からんな」
力のない声と表情で呂蒙が続ける。
「……お前が討った武官の息子が、軍にいる」
張りのない声だったが、甘寧の耳にはしっかり届いた。
その瞬間に、今のこの時まで忘れていた映像が浮かぶ。降雨の中で燃えるような赤い胴着。変わった武器の、黒子が艶めかしい男。得物を交えた時の滾りが戻った気がした。
「将ってのはあいつだな。
「そうだ。覚えておったか」
「強い野郎だった。周りがすげえ手柄だって興奮してたがよ、帰ってみたら黄祖が見向きもしねえ。野郎共が怒り狂ってたぜ」
「先鋒でも殿でも頼りになる御仁だった。あの孫策様が認めていた方だ。それをお前は討った。ああ、待て、俺を睨むな。いいか、お前はもう孫呉の者だ。大方は凌操殿のことも含めて認めている。だが、息子となると簡単には受け入れられんだろう。分かってくれ」
呂蒙の真剣な眼差しに対し、甘寧は怠惰な態度を取り続けた。甘寧は人からどう思われようと興味がない。むしろ他人事についてここまで必死に仲介役に回っている軍師のことをうすら同情したくらいだった。
「なるほどな。親の仇と一緒に飯食えねえってゴネてやがるわけか。んなもんとっととぶん殴っとけよ」
「お前は孫呉に必要な人材だ。しかし、それは凌統も同じ。奴は忠義に篤く、父親譲りの武才がある。冷静な判断力や瞬発力もだ。もし、お前らが二人で先鋒を務められたら、どんなに良いか……」
呂蒙が顎を擦りながら話し続けているのを、甘寧は聞き流した。軍師というものに馴染みがない彼は、絵空事のように描かれる戦略だの兵法だのを嫌厭していた。
うんざりしている甘寧を無視して、呂蒙は独り言を続ける。
「凌統は初陣で父親を喪い、年若くして凌操殿の軍を継いだ。父上の仇を取ると息巻いて、厳しい鍛錬に励んできた。そこにお前が降ったとなると、果たして受け入れられるものか」
呂蒙の話を流し聞きながら、甘寧は雨の邂逅をまた思い出していた。目が良かった。激情をはらんだ必死な眼差しを今でも覚えている。破裂しそうな程の恨みを糧に鍛えてきたのかと思うと、今すぐに喧嘩を吹っ掛けに行きたくなった。目の前に現れたら、どれだけ楽しい喧嘩が出来るだろうか。思わずにやにやと口を緩める。
「しかし、甘寧は我が軍に必要だ。覚悟を決めてもらわねば。明日、明日の儀の前には、告知せんとならん」
せっかくの愉快な空想は呂蒙の一言で吹き飛んだ。目を剥いて呂蒙を見る。
「はあ? どういうことだよ。俺が降ったって、そいつにはまだ言ってねえのか」
「事前に言うつもりだった。俺も周瑜殿も気を揉んだ。しかし、殿は反対していてな……どうにもならんかった」
甘寧の浮ついた気や暴走しそうな熱や酒精は全て醒めた。呂蒙の漢気を買っていたが失望した。男――凌統に同情した程だ。甘やかされているようで、最も苦しめられている。今この瞬間も仇を取らんと息巻いている男は、明日、突然、その願望を刈り取られるのだ。
「おっさん、鏡で顔見てみろや。だせえぜ」
「なっ……」
「そいつの意志ぶち壊すのが怖くて逃げてただけじゃねえのかよ」
「……お前に、俺らや殿の苦悩は分からん」
「知るかよ。けど、その坊ちゃん一匹を随分気にかけてやる
甘寧はわざと音を立てて乱暴に立ち上がった。後ろ手に戸を閉める寸前、目を合わせてあらためて告げた。
「俺は俺の思うがままにやらせてもらうぜ」
答えを聞く前に遮断した。足音を立てながら歩くと、金属の装飾も不機嫌そうにがなっていた。