凌雲を掴むまで


 再来した夏口城の周辺は土埃が舞い、むっと暑苦しい熱気が立ち込めていた。あの雨の日と同じくらい視界は不良だったが、凌統軍の功績は凄まじかった。軍師たちの描く戦略から外れすぎない程度の中腹で、本陣に敵がなだれ込んでくるのをせき止めていた。
 伝令兵が凌統の元にも走ってきた。孫権様、敵将黄祖を討ち取ったり。その報告に思わず凌統も吠えた。勝鬨があちこちで上がる。ついに達成された悲願の瞬間に戦場で立ち会えたことが心から誇らしく、凌統は馬上でほんの少しだけ目を潤ませた。土が入ったのだと言わんばかりに乱暴に袖で拭う。

「上出来だね。さ、帰るとしますか」

 すぐ普段の冷静さを取り戻した年下の上司に、隣の副将が微笑んでから返事をした。

 突如上官を喪った副将は、自身が次代を支えてやらねばと思っていた。雨の夏口で、凌統に対し「戻れ」と叫んだことを後悔していたのだ。凌操を首の繋がったまま建業に帰してやりたいという思いが先行してがなり立てたが、その身柄を預けられた後凌統が視界から消えて、副将は血の気が引く思いがした。凌操がなによりも大事にしていた子息まで黄祖軍に奪われてしまうのか、と生きた心地がしなかった。その後、びしょ濡れになりながら生還した凌統を見て号泣した程だった。

 しかし、副将はその後拍子抜けした。支えてやらねばと意気込んでいた自分だけでなく、凌統軍の者は皆一様に驚かされた。凌統は思っていた以上に成熟していたのである。軍を背負う覚悟、孫権を主とし支える忠孝、なにより仇討ちへの強い意志があった。その熱意に引っ張られるように修練に励んだ日々だった。
 それが甘寧の帰順で一度崩れた。凌統の精神が崩壊しかかっているのは、彼の血の滲むような努力を間近で見てきた軍の者が一番よく分かっていた。皆は自分らも甘寧を討つことを諦めさせられながらも、凌統を酷く心配した。儀礼の直後に青い顔で指揮を執る姿に涙した者もいた。副将は傍に居続けた。結局上手い声かけは出来なかったが、傍に立つことで支えになればと思っていた。

 凌統は強靭な心身で復帰した。武力を以て殿のお力になるという凌操の遺志を継いだ姿に、副将は深く胸を打たれていた。明確に彼の口から仇討ちを諦めるということは聞いていないものの、同じ戦地に立つ決心は同義である。軍の中には未だに甘寧を敵視し続けている者も多いが、副将は自身の役割を凌統軍の鎮静に振り切っていた。凌統が覚悟を決めて甘寧が孫呉に降ることを受け入れたのだ。下の者が横槍を入れるわけにはいかないだろう、と強く思っていた。

「若様、やりましたな」
「あぁ。軍の皆もよく動いてくれたしね。……お人よしの右腕のせいかな」

 馬首を並べて話し掛けると、凌統からはそんな皮肉が帰ってきた。素直ではない彼なりの謝意だろうと慇懃に頭を下げると、凌統は嫌そうに顔を歪める。時折見せる若さが副将にはたまらなく眩しい。

「あんたのそういうとこ、こっちの青さを見せつけられて嫌になるっての。……とりあえず黄祖は討った。父上に報告しないとな」
「はい。きっとお喜びになります」

 凌統は少し遠くを見て、曖昧に目を細めるだけだった。


***


 建業に戻るには二日以上かかる。孫呉の一行は先発を除き、一度簡易に設営された駐屯地にて野営することが決まっていた。
 凌統は与えられた幕舎で俯いて座していた。同じ空間にいる周瑜とは挨拶以降言葉を交わしていない。じっと足元を睨み付けて思考していた。

 此度の戦において、凌統は確かな功を実感していた。しかし、表立って武勲を与えられるとすれば、甘寧であろうことは耳に入る伝令で分かっていた。元は懐にいた身である。甘寧にしか知り得ない情報は多く、孫呉軍は容易に黄祖軍の弱点を突き、あっという間に瓦解して見せた。
 甘寧は軍師に必要不可欠な情報を渡していたが、重要拠点の強襲などは誰にも言わず決行していた。結果として軍全体の邪魔をしなかったが、凌統からすると足並みを揃えられない時点で同朋とは思えない。ただ、徹底的に敵を屠っていたという報告には凌統も少し笑った。必死に孫呉軍の者であると宣伝しているように思えたのだ。
 そんな風に内心であざ笑っている時だった。鈴の音が凌統の耳に飛び込んでくる。それは幕をめくって足音と共に鳴り響いて近づいてきた。

「あん? 俺んとこのじゃねえな」
「甘寧。君の幕舎は隣だ」
「おう」

 凌統は気配を消し、髪の毛の一本すら動かぬよう息を殺した。身じろぐ音で周瑜が一瞬動揺したと分かったが、大都督はすぐに冷静を装って返答している。空気に徹している内に立ち去るだろうと期待したが、鈴の音は何故か動く気配がない。凌統は落ち着きなく動き出しそうになる手指を押し留めるしかなかった。

「周瑜さんや、俺の動きはどうだった」
「あぁ。孫呉の将として申し分ない。此度の戦、君の活躍あってこその勝利だ」
「そうだろ。あんたや呂蒙のおっさんの決断、後悔させねえぜ」
「ぜひ、頼む」

 凌統は喉まで言葉が出かかったのを必死に制した。口を開くと、押し殺したはずの怨恨が噴き出てしまいそうだ。黄祖征伐の鬨を思い浮かべて自制を続ける。目を閉じたかったが、瞼一つすら動かしてはいけないと思った。
 凌統にとって忌まわしい音を立てながらようやく甘寧が出て行った。鈴の声が聴こえなくなってから握った拳を腿に叩きつけると、戦で負ったどんな傷より痛みを与えてくる。

「凌統、よくぞ耐えてくれた」
「己の健気さに涙が出そうですよ」
「だが、今回で甘寧の実力と意思が分かっただろう」
「どうですかねえ。俺は、逆賊なんざ信用できません」

 副将が慌てて凌統の傍に来る。凌統はほんの少し顎を引いただけで頭を下げなかった。

「大都督殿が若造の戯言なんざ聞くべきじゃないですよ」

 低い声で紡ぎ、立ち上がって乱暴に幕をめくった。その背後では狼狽した副将が何度も詫びているのが聞こえたが、凌統は倣う気持ちになれなかった。己の青さも相まって苛立ちが収まらない。

 景気づけに酒でも貰おうかと顔を上げた時だった。隣の幕舎に向かったはずの甘寧が立っている。
 心臓を刺されたような衝撃を受け、凌統は思わず動きを止めた。甘寧の鋭い目は凌統を捉えて一心に見つめている。凌統は咄嗟に視線を外へ向け、濃紺の空を睨み付けた。星を隠すように灰色の雲が流れている。
 一時、静寂が訪れた。簡易とは言え駐屯地である。人は大勢いて、あちこちで火が焚かれている。しかしどの音も凌統の耳には入らなかった。
 リン。鈴の音がした。甘寧が腕を組んだ時に鳴った微かな音だった。いやに耳について凌統は我に返った。努めて目を合わせないようにして、無言で甘寧の脇を通り抜ける。手も口も出さない己を褒めながらじっくりと時間をかけて歩いた。決して振り返らず、意識もしないように。
 その後凌統がようやく口にした勝利の酒は、思っていたほど美酒ではなかった。ほろ苦く、舌触りが悪くてなかなか進まなかった。


***


 行軍は無事に建業に戻った。最低限必要な報告を済ませた君主孫権の命により、幕舎での打ち上げなど比ではない祝宴が開かれることとなった。酒好きの孫権は大喜びで酒を振る舞って歩いている。
 浮かない顔の凌統の隣には太史慈が腰かけ、穏やかな手つきで杯をあおっていた。

「あんたも大変だ。同士討ち防止のお目付け役ってかい」
「まさか。俺は単にお前と飲みたくて座っている」
「そりゃ光栄ですよ」

 流れに乗って酒を注ぐと、太史慈は心底嬉しそうに笑っている。物好きだなと捻くれた感想だけが出てきた。太史慈は泰然と座って凌統に対する戦評を繰り広げた。あの動きは良かった、ここはもう少し待った方が後続と連携が取れる、等々を語っているので、凌統は嘆息した。この詳しさからするやはり見張られていたのでは、と勘繰ってしまうのだ。
 凌統は孫権から信頼されていると自負している。しかし、古参や智将らからは不審に思われているだろう。戦に乗じて仇討ちする人間だと危険視されているのは釈然としないが、それだけ仇討ちへの意志が伝わっていたのだと思うことにした。
 楽が奏でられ、美しく着飾った女性たちが舞っている。国が望んだ快挙に、美酒と美食を味わう皆は笑顔だ。その浮かれた空気に馴染めない己は卑小さを凌統は恥ずかしく思う。
 打倒黄祖は父の宿望でもあった。それを叶えたというのに達成感が得られないのは、実の仇が別にいると脳に刻まれているからだろうか。いつまでも浮かない顔を太史慈に晒しているのも悪い気がして、軽く詫びを入れて退散しようとした時だった。

「皆の者、これを見よ!」

 孫権が赤い顔で声を張り上げている。酔っ払っても君主だ。皆が一斉に注目する。孫権の前に大きな木箱が二つ置かれていた。うち一つを指さす。

「ここには黄祖の首が入っている」

 ざわ、と周囲が騒がしくなる。よくぞやってくれた、と野次を飛ばす重鎮もいた。張昭や程普が恐ろしく眉をひそめているが、宴会場はこれ以上ない熱気に包まれていた。孫権が赤ら顔で続ける。

「そしてもう一方の箱。ここには蘇飛の首を入れるつもりだ」

 黄祖軍の参謀で、孫呉が生け捕りにした男だ。黄祖軍を壊滅させるためには当然蘇飛の存在も消さなくてはならない。おお、と低いどよめきが広がり、更に盛り上がっていく会場内で、澄んだ鈴の音が孫権に近づいた。

「殿さん。勝手だが願いがある」

 甘寧が跪くのと周泰が刀を構えるのは同時だった。孫権は微動だにせず、碧眼を眼下の男に向けている。甘寧は向けられた刃を物ともせず顔を上げ、君主と視線を合わせた。

「蘇飛の処遇は俺に任せてくれねえか」

 宴会場には様々な反応が同時に上がった。ふざけるなという怒号、新参者がという侮蔑、面白そうだから聞いてやれという煽り、周囲に対する鎮まれという喝破。そのほとんどは非難だが、孫権と甘寧は意に介していないようだった。

「甘寧。お前は孫呉の人間であり、蘇飛は黄祖軍の者だ。己が何を言っているか分かっているのか」
「蘇飛は俺の恩人だ。あいつの手引きがなきゃ、俺はこの孫呉に来れてねえ。無理を承知で頼みてえんです」
「具体的に教えよ。奴をどうするつもりだ」
「決めてねえ。けど殺すつもりはない」

 どこからか飛んできた杯は、甘寧に当たる直前に周泰の刀が叩き割った。長い得物を易々と扱う姿に、踊っていた女たちが陶酔したような息を吐く。

 その流れを呆然と見ていた凌統は、大丈夫かと声を掛けられ我に返った。首を隣へ向けると太史慈が珍しく焦ったような表情をしている。一連の騒動に対しがなり立てた訳でもないので理由が分からなかった。

「血が、凄い。拭うぞ」

 太史慈は卓にあった布巾を凌統の口に押し当て、存外優しい力加減で叩いてきた。処置が終わった布にはべっとりと血液が付着している。凌統にはまったく自覚がなかったが、いつの間にか唇の表皮を噛みちぎっていたらしかった。無意識の自傷に気付かされると、頭痛まで感じるようになってくる。

「……重ねてすみませんけど、気分が優れないんで抜けます」
「あぁ。顔色も随分悪いぞ。安静にな」

 凌統は無言で手を合わせて頭を軽く下げた。会場の騒音は一向に止まず、将一人が抜けても目立たない。痛む頭を乱暴に掻きながら凌統はのっそりと酒宴を後にした。孫権の返事は、聞かずとも分かっていた。
 最初から最後まで享楽にふけることができず悔しい気持ちもある。女を抱きに行こうかと考えたが気乗りせず、凌統は結局まっすぐ私邸に戻ることにした。

 黄祖の討伐後、初めて顔を合わせた女官長は泣きそうな顔をしていた。武将と違い、女の手の届く位置には仇も仇討ちも存在しない。遠くで大切な者を奪われ、遠くでその仇が息を続ける。その虚しさに凌統は少し同情した。
 女官長がゆっくりと頭を下げてくるので、凌統も同じように従った。小さい頃は見上げるだけだった頭ははるか下にある。凌統が素直になれる数少ない相手だ。ここまで育て上げてくれた恩義を可能な限り返したいと思った。

「黄祖は討った。向こうさんもほとんど散らしてきたが……殿のもう一方の願いは、叶いそうにないね」
「もう一つの願い、ですか……?」
「黄祖の側近の首さ。殿は気に入った奴にお優しいからね」

 君主への痛烈な皮肉に対し女官長は咎めるような視線を送ったが、口には出さなかった。この女官は頭が鋭く、情報収集も上手かった。こと凌操に関しては熱心で、蘇飛の存在も聞き及んでいたはずである。生け捕りにされたその命をみすみす逃す羽目になるということを理解して噤んだ様に、凌統は深く感心していた。

「俺には君主の器も先を読む力もない。殿が判断したことに従うまででだ。頭じゃ分かってる。それでも、俺は、蘇飛の首も――甘寧の首も、取ってやりたい」
「若様」
「今日はもう横になるよ。忘れてくれ」

 立ち尽くしたままの女官長の脇を抜ける。世の中ままならないことばかりだ、と嘆いて髪留めを解いたが凌統の頭痛は治まらない。
 凌統は精鋭の武将である。宴会の陰で蘇飛を討ちに行くことも出来た。正真正銘敵の参謀として捕らえられたのだから、孫権の決断を聞く前に殺してしまえば反逆行為には当たらないだろう。だが、現実にそんな行動は出来なかった。
 凌統には孫権の選ぶ道が容易く想像できる。その決断が凌統にとって厳しいものであってもその背を支えたいと思うし、邪魔する奴を蹴散らすのが自分の仕事だと思っている。植え付けられた忠誠心なのか、心から孫権を慕っているからなのかは判断もつかない。
 寝台で孤独に横たわると疲弊を感じた。凌統は滅多に弱音を吐かない。だが、悲願の達成やら戦の高揚やら仇敵の見苦しい請願が、複雑な感情を生んで襲ってくる。
――殿、あんまりじゃないですか。あなたの仇討ちを達成しておきながら俺の仇討ちを禁じて、一緒に戦えなんてさ。そんで、あいつに味方して、蘇飛は生かすんでしょう。やってらんねえっつの。
 割り切ったはずの想いまで一緒に溢れた。再び唇を噛み、うつ伏せになった拍子に敷布に血が付着する。凌統は自分の中にあるもの全てが汚く思えた。子どものようにわんわん泣いて器用に出し切ることができればよいが、涙の流し方も忘れている。溜まった汚泥を抱えながら、皮肉屋は一人苦しく敷布の海でもがいていた。


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