凌雲を掴むまで
窓から差す陽光を感じ、凌統は重い瞼を抉じ開けた。皆に等しく時は流れ、どんな気分であっても朝は来る。心地の悪い目元を擦って体を起こすと、鈍い頭痛と胸やけのような気持ち悪さが残っていた。ろくに衣服をまとっていないせいか寒さを感じ、慌てて衣掛けから引っ張り出して平服に着替える。
次に、古くから凌家に仕えてくれている女官長に、顔を清められるだけの湯を頼んだ。よく見ると女の顔もどんよりと重たい。甘寧の従属を聞き及んだのかもしれない、と凌統は思い至った。凌操を慕っていて、凌操の好む味付けの料理が上手い女だ。凌統とは違った苦しさを抱えているかもしれなかった。だが、凌統こそまだ昨日の傷が塞がっていない。何一つ言ってやれることがなく、両者はほとんど無言のまま頭を下げた。
湯と共に、頼んでいない朝餉が用意されていた。顔を拭いた後それを無理やり流し込む。凌統のことをよく分かっている量と味付けで、手指に少し体温が戻っていた。他人の思慮が心地よかった。
水盆を覗いた凌統は自身の不甲斐なさに思わず自嘲した。理想とはかけ離れた姿である。気分転換に外に出るため、きっちりと髪を結い上げた。歩き始めた私邸の周りは日頃と同じ光景が続いた。木々も花々も、忙しなく働く者たちも、気ままに生きる動物たちにも穏やかな時間が流れている。気持ちの良い晴天で走り出すとすぐに汗が滲んだ。
そうしていると、昨日のことが非現実的に思えた。凌統の周辺は何一つ変わってない。仇を恨み過ぎた結果の悪夢なんじゃないかと期待した。ここ最近夢見が悪かったが、ついにありもしない最悪の事態まで見るとはね、と己を呪う。息が切れ、喉から血の味がせり上がって来ても、戒めのように走るのを止めない。気が付くと城門をくぐっていて、賑やかな音が耳に入ってきた。急に止まったせいか、滝のような汗が流れ落ちる。袖で乱雑に拭い去っても溢れ出てきた。
この姿では登城できない。城の私室にも武闘衣を掛けていたはずだと凌統は足を向けた。
――リン。
異質な音が鳴った。これまで、建業の城では宴会場の楽くらいしか聞いたことのない音だ。じゃり、と地を踏みしめる音で凌統は我に返った。
『甘寧は、孫呉に帰順した』
記憶に残る言葉に拳を握り締めた。短く整えている筈の爪が己の肌に刺さったが凌統は痛みを感じられなかった。せめてその姿を視界に入れぬように、凌統は全速力で走って自室へと向かった。途中ぶつかった文官に詫びを入れることは出来なかった。
私室に着き、息を切らしながら壁に頭を付けた。勢い余って鈍い音がしたが、やはり痛みは感じなかった。内側からの頭痛の方がよっぽど酷かった。息が苦しく、凌統の目には自然と涙が滲む。
親の仇が手の届く範囲にいながら逃げるとは生き恥を晒しているようなものだ、と自虐する。とんだ親不孝だと笑われることだろう。一度自責の念に駆られると止まらなくなった。故郷の者の顔や父の亡骸まで思い浮かべてしまい、凌統の体が小刻みに震える。走ってかいたはずの汗が引いて、強烈な寒気を感じた。
振り払うように衣服に手を掛ける。全てを脱ぎ散らかし、凌統は己の体を見下ろした。武器を振るい、敵を倒すために鍛えてきた。昨今は父の無念を果たすべく随分無茶もした。それらが全て無駄になったかのだろうかと自問する。
己が消え去るような虚無感に襲われた。地を踏んでいるはずの足の感覚がなく、足指を動かして木肌を撫でて取り戻す。凌統に出来るのは、決まっている予定をこなすことだ。凌操から譲り受けた軍だけが味方だと考えた。深呼吸を一つして、着慣れた戦闘着に手を伸ばした。
***
甘寧が投降して一週間が経過した。凌統は努めてその件に触れず、考えないようにしていた。傍目には普段通りに修練する凌統を、軍は高く評価していた。
そんな時、ついに凌統は孫権に呼び出された。日頃は気軽に話せる主君だが、凌統の足取りは重い。そんな思考は碧眼にも明け透けに映ったようで、拱手から顔を上げた凌統を見て孫権は眉を下げた。
「凌統。すまないな、呼び立ててしまって」
「孫権様とお話しできるのは光栄ですよ。普段ならね」
腹に渦巻く不満がちらつき、君主相手に皮肉を言ってしまうのが凌統の青いところである。自覚はあるが止められない。孫権の背後に立つ周泰からの鋭い眼光が刺さってくる。
「お前には苦労を掛ける」
孫権は視線を外さずに告げてくる。その強さに凌統は鼻がつんとするのを感じた。怒り、悔しさ、畏怖、感動――色々な感情がない交ぜになって泣きそうになった。唇を噛んで堪える。
孫権は分かっているのだ。凌統の怨恨が己の仇討ちで生まれたこと。凌統の悲願が達成されないこと。部下に私情を捨てさせてでも甘寧の従属を求めている理不尽さ。その上で、凌統を信じてくれていること。
凌統もまたそんな孫権の想いをよく分かっている。だからこそ苦しかった。鈴の音が降ってきた日から今まで、甘寧のことを考えないようにしていた。しかし、結局関係することばかりが頭に浮かんだ。孫権を裏切って仇討ちを果たすか、国を捨てるか、いっそ武官を辞めて故郷に帰るか。そのどれもを、凌統は選ぶことが出来なかった。
一度凌統は罪を犯したことがある。同士を斬り殺した凌統を、孫権は功を以て許した。そして、そんな経歴がある凌統の目の前に親の仇の首をぶら下げておきながら、凌統が二度と同士討ちしないとを信じているのである。妄信といっても過言ではない主君の想いを、凌統は無下にできなかった。親不孝者だと笑われようと罵られようと、凌統は孫権の手を取り、その威光を支えたいと思ったのだ。
「貴方が君主じゃなけば、俺は仇討ちを諦めずに済んだんですけどね」
凌統の可愛げのない返答に、孫権は破顔した。まるで君主の風格がなく、幼少期に仲良くしていた頃のようで、凌統もつられて少し口の端を上げた。それからじっくりと時間をかけて、頭を下げた。
***
甘寧が呉に来て数か月が経過した。
孫権に誓ったように、凌統は心の中で仇討ちは諦めることに決めている。だが、それを表に出したことはない。諸将からどう思われているかは分からなかったが、軍を率いての訓練は各々遠方に配置され、軍議に甘寧が現れることもなかった。視界に入らなければ、味方にいないも同然である。
凌統は普段通りを装ったが、周瑜と呂蒙のことは無意識に避けていた。敬意はあるものの、二人が甘寧を熱望していたと聞き、直視出来なかった。甘寧を武力の駒と一つと考えていることは理解できるが、あれだけ仇討ちに燃えていた自身の姿を知っていながら、という思いが抜けなかった。
また、帰順の儀まで伏せられていたことも気掛かりだった。機密情報であっただろうし、凌統の耳に入れば黙っていられないだろうという判断も理解はできた。しかし、やはり胸中で、儀礼の衝撃は大きな傷となっていた。
国を支えると言いながら甘い考えの残る己が嫌で、凌統は両者を避けて過ごす羽目になっていた。
「凌統殿、修練お疲れ様でした」
そんな凌統の前に、よく顔を出すようになったのは陸遜だった。爽やかな笑顔で清潔な布を差し出している。丸く大きな瞳に整った顔立ちの後輩からにこやかに見つめられて、悪い気になる者はいないだろう。かくいう凌統も陸遜のことは好ましく思っていた。
「どうも。なあ、あんた俺に惚れてたりする?」
「凌統殿の武闘は素晴らしいですね。見惚れてしまいます」
隙のない笑顔で即答されて凌統は笑った。妙な感情は全くないという態度が清々しい。布を受け取り、汗を拭いていく。手際よく水の入った杯を差し出してくるので、かえって凌統が惚れてしまいそうだった。陸遜に良い人がいなければ立候補したのに、と唇を尖らせる。
「本当に、お元気になられたようで、安心いたしました」
陸遜が独り言のような声量で呟く。零れ出た本音に凌統は肩を上げて照れを隠した。普段通りに振る舞っていたつもりが、やはり聡明な軍師の目には無理をしたように映ったらしい。水を一気飲みしてから、陸遜を見つめ返す。
陸遜自身、孫呉に与するのは相当な苦痛があっただろう。今は陸家復興をと息巻いて孫権に尽くしているが、そう決断できるまでに如何ほどの葛藤をしたのか、と思いを馳せた。辛い思いを知っている者からの同情は、凌統にとってそう悪くはなかった。
「ああ。迷惑かけたかい? 手は抜いてないつもりだったんですけどね」
「あっ、もちろんそれはありません。凌統殿はいつも完璧に我々の要求をこなしてくださっています。心より感謝しています」
「そこまで言わせるつもりもなかったけど、嬉しいぜ。励みになる」
珍しく素直に返すと陸遜も朗らかに笑う。穏やかで心地の良い時間だった。だが、今日は何かが違う、と凌統は勘付いた。
「出陣ですかい、軍師殿」
「凌統殿にはお見通しのようですね。……ついに黄祖を討ちます」
名が出た途端に凌統の全身がざわつく。無意識に力を込めたせいか杯が割れた。地に砕け散ったそれを睨み付ける。
――ようやくだ。ようやく黄祖を討つ時が来た。
甘寧が凌統の仇であることには変わりなく、それを黄祖に置き換えろというのは土台無理な話である。しかし、黄祖一派が孫堅を射たことが怨恨の始まりだと考えると個人的にも、臣下としても放ってはおけなかった。
「凌統殿、出てくださいますか」
「訊かれずともね」
「正しく問います。凌統殿、出てくださいますか。甘寧殿と一緒に」
全身の悪寒と相反して、腹に燃えるような熱が生まれた。親の仇と肩を並べて戦えというのか、という言葉が喉まで出かかった。陸遜に言っても仕方のないことだと飲み込む。
「……奴は信用できない」
「凌統殿」
「だってそうだろ。ついこの間まで向こうにいた奴が、向こうの人間を切れるのかい? 俺は反対だ。大人しく留守番させとけっての」
「出来ません。此度の戦、甘寧殿の情報と動きが鍵になります」
三白眼に睨まれても端整な顔は崩れなかった。陸遜は年齢や可愛らしい顔つきに似合わず、智将として芯の通った男である。古参に睨まれようと仲のいい兄のような者に皮肉られようと決して怯まない。鋭い目つきで視線を合わせたまま、陸遜ははっきりと口に出す。
「私ごときの言では信頼できないかと存じますが、大都督周瑜殿の代わりに告げさせていただきます。甘寧殿は、孫呉の人間です」
言い切ってから陸遜は黙って頭を下げた。ただでさえ身長差のある二人である。凌統の視界には陸遜の後頭部だけが映っていた。どいつもこいつも俺に遠慮がないよな、と凌統は内心で嘆息し降参した。返事をしてやらないと陸遜の背が曲がったままになりそうだ。
「命じられた動きはしますよ」
ぱっと顔を上げた陸遜の表情は、先ほどまでの智将としてのものではなかった。琥珀を埋め込んだような大きな目が見開かれて零れ落ちそうだ。安心が全面に出た反応に、凌統は思わず手を伸ばした。力を込めて撫で回してやったが、さらさらの髪は乱れても端整さを失わせなかった。緊張した空気が一気に飛散していく。
「あんた、どうなったら容姿端麗じゃなくなるんだい?」
「そうですね、仮面でも被りましょうか」
「ははっ、いいねそれ。お忍びしやすくなるんじゃないの」
「では今度、一緒に仮面で逢引きしましょうね」
「何で俺を巻き込むんだっつの」
軽口にひとしきり笑い合ってから、凌統は拳を握った。手指は変わらず傷だらけで、皮膚も所々硬化して変色している。これらのほとんどは鍛錬によるもので、戦場に立つのは二度目の青二才だ。だが、実績は夏口で得るつもりでいる。味方に誰がいようと、次の戦で黄祖の首を取る。
決意が燃える眼差しを陸遜は下から眺めた。凌統の強さにこれまでも何度も圧倒され、助けられてきた。次の戦もそうなるに違いないと確信し、また一度腰を折るのだった。