凌雲を掴むまで
戦場の地図はいつも頭に叩き込んである。おびただしい量の伝令も、全て耳には入れていた。凌統が北上する最中、甘寧軍が西の砦に進軍したという情報があったのを、馬で疾走しながら思い出した。蛮王については、警戒すべき異民族として事前に知らされていた相手だ。だが、あの趙子龍や周倉、関羽の息子らに比べると名は大きくない。あの甘寧が油断していたということはないだろうが、だからと言って、負かされるとも思えない。
(誤報だろっ……)
噴火のように湧き上がる怒りと焦燥で、凌統は叫び出しそうになった。悪路を走らせている馬上だったため出来なかったが、おそらく走り回っていたら、連呼していただろう。仇であり、仲間であり、恋人である、凌統の人生をめちゃくちゃにした男の名を。
下火になりつつある戦火の中を、ひたすら駆け抜けた。西拠点は死体の山で、その中には見覚えのある顔もあった。甘寧軍の一員だ。甘寧がやたらと大事にしていた手下がまた一人減ってしまった――。凌統はやがて馬を下り、拠点につないで水をやった。高揚して鳥肌が立ちっぱなしのまま歩き始める。今、大声で名を呼びたかったが、喉がカラカラで張りついて音にならない。激しい戦のあとで疲労困憊のはずなのに、それすらよく分からなかった。勝手に聞き伝えられた方へ足が向かっていく。
そうして、一般的な視力ではありえない程遠くから、凌統は甘寧を発見した。腰の鈴が鈍く光るのが見えたのだ。
伝令兵は、最後の目撃情報の位置をおおむね正確に伝えてくれた。地図でも見た池のほとりの大木に、甘寧は寄り掛かっていた。座位をかろうじて保っているが、自慢の鎖鎌は転がり落ちている。愛馬は見当たらなかった。
「……甘寧」
一歩手前で止まり、乾いた喉から無理やり声出す。返事はないが、凌統には分かった。甘寧はまだ、生きている。
「甘寧っ」
「……っせえな、でけえ声は、閨だけにしとけ」
ぼそぼそと返ってきた音は掠れていて聞き取りづらく、脳内で繰り返して繋いで、やっと意味が分かった。こんな状況になっても間抜けな発言に、凌統は困惑した。呆れ返って笑い飛ばしたいのに、だらりと座る男から香り立つ死の気配にざわざわと寒気が止まない。
「なに、してんだっつの、皆待ってるぜ」
甘寧はぜえぜえと荒い息を吐くのみだ。目が合わないことに苛立って、片膝を付けてしゃがみこんだ。乱暴に前髪を掴んで顔を上げさせる。血の気が引いた顔面は、煤や土で汚れていた。凌統が見たかった煤けた顔とは雲泥の差だ。甲手の革を外して、布の部分でごしごしと強く擦る。黒い部分が消え去ると、ますます血色の悪さが分かるようになった。うっすらと開いた目は凌統を映しているのかいないのか、虚ろなままだ。
「おいっ、早くしろって。殿からあんたと帰ってくるようにって命を受けてるんだ」
だんだん早口になり、凌統の手元は焦って震えるばかりだ。甘寧は時々苦しそうに痰の絡んだ咳をして、刺青の泳ぐ胸を震わせた。返事のない体躯に向かって急かし続けたが、制御を失った凌統の声は、上擦って揺れていた。
「……へっ。泣くんじゃねえ」
「はあ? どこのどいつが泣いてるって? あんたこそ間抜け面とっととやめて、立てっつの」
甘寧はまた不快な音で呼吸している。凌統は頬を引きつらせながら、頭に浮かんだ言葉を立て続けにぶつけた。
「ったく喧嘩好きだとかほざいてこうも無様になってるだなんて、いよいよ殿も呆れるぜ。わざわざ出ていかなくても追い出されるんじゃないのかい。そうすりゃ俺も大手を振ってあんたをぶん殴れるけどさ」
甘寧が咳込む。凌統は掌でそれを受けてやって、また腕で口唇を拭いてやった。何度擦っても紫色のまま血色が戻らない。普段溌剌と暴れている甘寧の唇が、凌統は結構好きだった。甘く口説いてくる方ではないが、体を繋いでいる時にその口から溢れる吐息は、なかなかに色っぽい。不謹慎な場面が浮かんで、凌統はますます焦ってきた。ともすれば、甘寧をひどく罵倒するか、女のように感情に身を任せてしまいそうだ。
日も落ちてきて、薄暗さが木々をまとう。静かな空間でばくばくと己の心音がうるさく、凌統は色んなものが一気に迫ってくることに怯えた。手が震えて仕方がなかった。
「なあ、いい加減、指の一本くらい動かしたらどうだい。別に俺があんたを姫抱きしたっていい。けど、下からってのはさすがにきついから、立ってもらわないと」
「りょうとう」
「な、なんだよ」
ようやく意味のある言葉が出てきたというのに、凌統は動揺して声がひっくり返った。もう、この場面で、この男を相手に格好つける必要はない。必死に顔の近くに耳を持っていく。
「……ありがとな」
荒い息の中で紡がれた言葉に、凌統は絶望した。甘寧という男は自分勝手で、人の気持ちを考えられない。こと凌統に対しては、実に傲慢に過ごしてきた。そんな男の放つ素直な感謝は、分かりやすく別れを突きつけてくる。
「……やめろ」
「おっさんの時に、死ぬってのは嫌なもんだと思ったけどよ、お前にも背負わせちまうな」
「やめろ黙れ、さっさと立てって!」
「逃げてねえで、聞け」
「逃げてんのは、あんだだろ!?」
甘寧が掠れ声で言うのに対し、凌統はほとんど絶叫していた。会話になっているのかなっていないのか、凌統は半狂乱になって甘寧の顔を掴み、指で目をこじ開けようと擦る。薄目の奥の虹彩は動かない。
「俺の人生ぶっ壊して、敵だの仲間だの立ち替わって、距離なしでずかずか入ってきて、あんな、妙なことばっか、そんでもう終いにすんのかよ、なんなんだっつのっ」
明らかに取り乱している凌統に、甘寧が少し笑ったように息を吐いた。顔を凝視しても、その表情は変わらないばかりか、日の入りに合わせてどんどん色を失っていく。
「勝手ついでに、もう一個聞いてくれや」
「建業帰るってんならいくらでも聞いてやるから、いくなって!」
「俺はいかねえよ。お前が、つれてけ」
ぼた、と甘寧の頬に雫が落ちた。しゃくり上げずに甘寧の言葉を耳に入れるのが困難になってくる。甘寧の言いたいことがようやく分かって、凌統は思わず唖然とした。
「……は?」
「とどめ、さしてくれや。最期に、お前の願いくれえ、叶えろ」
誰がそんなことを頼んだ、とカッとなりかけた凌統だったが、どんどんと落日していく景色に圧されて黙り込んだ。戯言のように国を出るだの殴り合うなど言っていた頃がいかに平和だったか、つくづく乱世というものは凌統に厳しい現実を押し付けてくる。
凌統は返事をしないまま、顔を掴んでいた手を下ろして首にかけた。指に力が入りそうにない。凌統の絶望とは裏腹に、甘寧はやや嬉しそうな雰囲気を見せた。
「……そうだ、この鈴と、おれんとこの、ガキもな」
「……あんた、昔数字いじってたんじゃねえの。一も数えられないのかい」
鼻で笑ってやってから、凌統は腕で自分の目元を擦った。甘寧の血と土埃が染みついた布は、凌統の顔を遠慮なく汚した。
最後の気力を使い果たしたのか、甘寧はそれ以上喋らず、ぜいぜいと荒い呼吸に戻った。間隔が開いてきて、不規則になっていく様を見てから、凌統はゆっくりと唇を重ねた。冷たくて硬くて、血生臭い最低最悪の接吻。凌統の人生で最も長く、静かな口付けだった。
*
とっぷりと暗くなった頃、勝利の宴が響く幕営地に凌統が戻った。最初にその姿を認めたのは丁奉だった。夜警の番をすると自ら申し出て、食事もそこそこに立ち続けていた彼は、蹄の音と鈴の音が聞こえて飛び出した。しかし目に映ったのは、顔まで汚れた凌統一人だけで、その手にある鈴は、明確に甘寧の不在を示していた。
「……凌統殿」
「ああ、丁奉。丁度良かった。殿や陸遜に、報告してもらえないかい。甘寧は死んだ。西砦の傍で」
「……甘寧殿の軍の者で、生存した者からも、同様の報告が……。沙摩柯の矢が当たったと。ですが、誠に、信じられぬものです。あの甘寧殿が、蛮王ごときに」
丁奉が拳を震わせながらこぼすと、凌統が口の端を上げて笑った。
「そりゃあ違う。あの鈴野郎に止めを刺したのは、この凌公績だぜ?」
少し下にある凌統の表情は歪で、笑っているようにも泣いているようにも見えた。丁奉がごくりと唾を吞む。
「なんだって報告してくれていい。……俺は、ちょっと横になる」
ちりちりといつもより鈍い音を立てながら、凌統が丁奉の前を去った。その背には強い覚悟がいくつも折り重なって乗っているように見えて、丁奉は自身の思考の整理がつかぬまま腰を折って拱手をした。他の誰にも口外するつもりはない甘寧の最期。二人の関係性を丁奉が理解することはできないが、甘寧と凌統の強さは知っているつもりだ。二人が決めたことに口出しする権利はない。
警備に立ち続ける丁奉の元に、甘寧軍の兵士がやってきた。腹積もりはあっただろうが、甘寧の死を伝えるとその男は膝をついて泣き崩れた。ややしばらくそのまま泣き、嗚咽を交えて戻っていく。まもなく、生き残った甘寧の手下たちに訃報が伝わるだろう。素直な男の反応と皮肉屋の反応を頭で比べて、丁奉はどちらにも向けて詠った。――荒波を泳ぎゆく龍は誰にも止められぬ。さすれば、落ちた鱗を胸に抱かん。
かつて、荒れた濡須の水上で、丁奉は甘寧に問うたことがある。死ぬ時はどう死にたいか。甘寧は笑って「そりゃあ、喧嘩で派手に散りてえな。あとはこいつが、空まで連れてってくれるだろ」と刺青の龍を叩いて即答したのだ。そのことをふと思い出した丁奉は、その内この話を凌統に教えようと胸に決めたのだった。
***
孫呉はやがて曹魏と確固たる調停を結び、河北と河南で天下を分けて実質の平和を得ていた。劉備らは成都にとどまり、西側の管理を任される結果となった。孫尚香はそんな劉備の傍を強く希望したことから建業へは戻らなかったが、年に一度荊州で宴会を開き、互いの交流を保ち続けた。
穏やかな風が吹く小丘で、凌統は酒を呷っていた。本当は陸遜も誘って共に呂蒙を想いたかったのだが、丞相という位は想像を絶する多忙さで、このところ顔を見るのも難しいほどだった。
枝に括り付けた甘寧の鈴は、綺麗に磨き直されて陽光を反射し、時折風に揺れて美しい音色を奏でている。その下で、子どもたちがはしゃいで跳ね回っていた。
「ちちうえ! かんれいがおれのぶき取った!」
「りょうとう、こいつが先におれのたてを取ったんだぜ!」
ああでもないこうでもないと言い争う姿に呆れ笑う。かつて甘寧と交わしてきた下らない口論も、程普や黄蓋らから見るとこう見えていたのだろうか。そう考えただけで穴に埋まりたくなるので、凌統は意識的に首を振って思考を中断した。
乱世を経て、多くの死に直面してきた。大切な存在を引き離される苦しみは、何度経験しても心を抉ってくる。だが、凌統はもがいた。彼らの死を背負い、偲び、生き続けることで、全員の存在を意味のあるものにしたかったのだ。こうして生き長らえているのは、自身の努力と鍛錬の結果だけではなく、一時を共にした人々のお陰だと凌統は胸を張って言える。
甘寧の子は、そのまま夫人が邸に残れるよう取り計らった上で、孫呉の者全員が面倒を見た。なかでも凌統は足繁く子供たちの様子を見に行き、時に子供だけを引き取って邸宅に止まらせ、我が子と遊ばせるなどして可愛がった。孫権らはその慈悲深さを最大限の褒め言葉で称賛したが、陸遜だけは含みのある笑顔を向けていた。
りんりんと澄んだ音を聞きながら杯を重ねる。ふと空を見ると、白い煙が立ち昇っていくのが見えた。まるで龍が泳いでいるようだ。甘寧は龍に乗って空へ昇ったのだと吹聴する丁奉に、凌統は思わず渋い顔をしたが、言い得て妙だ。だから、甘寧の子らにはそう伝えてある。手を伸ばして掴み取るように握ってみると、偶然その白煙は消えていった。
「悪いけど、お迎えはまだまだ早いぜ」
凌統の独り言は、子どもたちの声にかき消された。だが、一層強い風が吹いて強く鈴が鳴いたので、どうやら届いたようだ。自身の妄想に笑いながら、凌統は盃を空に掲げた。
「少し、やることがあるんでね。そっちで大人しく留守番してなよ」
凌統の心の中だけで決まった定めがある。それを達成しなければ、九泉には向かえない。鈴はややしばらく風に乗って暴れたが、ようやく聞き分けたように黙り込んだ。
「もう少し――凌雲を掴むまで」
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