凌雲を掴むまで



 軍神が麦城で散ってから二年が経過した。この間に、凌統は第一子をもうけ、甘寧には第二子が生まれていた。呂蒙のいない日々を埋めるように根を詰めて働く陸遜を、凌統も甘寧も兄のように支えてきた。朱然との切磋琢磨の末に陸遜は実力を見せつけ、周囲の反乱を冷静に鎮圧して見せた。両輪の二人の後押しもあり、孫呉の大都督は、ついに賛成多数で陸遜が務めることとなった。

 任命の儀で端整な姿を見せた陸遜を思い出し、甘寧がけらけらと童子のように笑う。

「いや~あいつのかしこまった顔、見物だったぜ。なぁ?」
「鈴のなんとか様だけだぜ、陸遜のことそんな風にいじるの」
「お前もちょっと笑ってたろ」
「あんたにはお見通しってかい」

 どちらからともなく唇が重なり、舌が絡み合う。凌統の手にあった地図は、甘寧の手によって地に落とされた。乱暴な動作にお咎めはなく、どころか、凌統は自ら衣服を脱いで甘寧に跨り始めた。情愛を認めた当初は受け身一択だった行為も、慣れてしまえば恥じらいは必要ない。女とする性交とは全く違う快楽が甘寧との行為にはある。手の届く位置にあるそれを、わざわざ逃す気はなかった。
 時折、行為の途中に甘寧が笑う。積極的になった凌統に対するものだが、それは侮蔑というより歓喜によるものだった。今日も互いを貪り合い、思う存分吐き出して寝台に横たわった。凌統が長い腕を伸ばして床に落ちた地図を手にする。横目でそれを見た甘寧はひどく嬉しそうだ。

「そーんなに戦が好きかね」
「おうよ。それも、関羽の仇討ちに燃えてる劉備とだろ。でけえ喧嘩上等じゃねえか」

 わくわくと楽しそうに目を輝かせる甘寧に、凌統は思い切りため息を寄越した。孫呉の武将として戦に立って何年も立つが、やはり凌統にはない考えだ。誰かが死に、誰かが仇討ちに武器を持つ。途切れることのない輪廻の先に天下泰平があると信じてきたが、いい加減うんざりしているというのが本音だった。

「……随分怒ってるらしいぜ」
「義兄弟ぶっ殺されて、あの張飛も死んで、当たり散らしてえんだろ? にしても部下の意見全部無視して突撃ってのはビビったよな。ンな肝あるたぁ見直したぜ」
「……いいよな」
「あ?」

 腰から下を掛布で覆っただけの無防備な姿で凌統がぽつりとつぶやく。声の大きさ、張り、雰囲気から面倒な話だと甘寧はすぐに分かったが、先ほどたっぷりと体を堪能したこともあり、黙って隣に寝転がる。

「君主なら、自分の仇討ちを無理やりにでも通せるだろ。うちの殿もそうだった」
「俺はできなかったって拗ねてんのか?」
「まあ、そうだよ。俺は孫権様を裏切れなかった。忠と孝で揺れて、結局何もしないっつう楽な道を選んだわけだ。親不孝の腑抜け野郎って揶揄されても言い返せない」

 ぼそぼそと、だが途切れることなく凌統が言う。時々入る自虐の時間は、どんなに年数が経っても色褪せない。凌統はいつも真剣に、新鮮に後悔をし、父を偲んで傷付いている。

「そういうのってよぉ、てめえじゃ出てこない言葉だよな? どこの屑が言ってんだ? 得物の錆にしてやるから言えよ」
「さぁてね。たくさん言われすぎて忘れちまったっての」

 甘寧が凌統の髪を取って弄び始めた。痛いと言う声を無視して編んでいく。長くてこしのある髪は、存外手入れされていていつも美しく光を反射した。凌統は突っ込みを諦めたのか黙って受け入れている。その代わり、尖っている口はまた呪詛を吐き出した。

「俺はあんたみたいに割り切れる性格じゃないんでね。一生、父上のことを思い出しては落ち込むわけ。たとえば出奔して国を興して、鈴の甘寧を討つ……そんな道もあったんじゃないかってね」
「はっ。面白えじゃねえか。劉備ぶっ倒したらやるか?」
「俺は国を興せるような器じゃないけどね」
「俺が出てきゃあやりたい放題か?」
「そりゃいい」

 三つ編みにされたへんてこな頭でからからと笑う凌統に、甘寧はまた火が着いた。すぐ起き上がって凌統の口を塞ぐ。妙なところで興奮する甘寧に慣れて来たのか、凌統は驚きもせずに接吻を受け入れ、首に手を回した。

「あんたのおかげで俺が生きてるってのは事実だ。だから、出てって、満足行くまで喧嘩したら、また戻ってきてもいいぜ」
「んじゃ、そん時はお前を孕ませっかな。子宮作っとけ」
「馬鹿じゃねえの」

 声を上げて笑った凌統の掛布を剥ぎ取り、甘寧は再度その全身を味わった。凌統のことは、愛だの恋だのという感情では説明できない。ただ、必要不可欠だ。この刺激的な存在を本気で捨て置いて出るなどできないことは、甘寧自身勘づいていた。


 *


 夷陵の地へ向かうまでの軍議は荒れた。好戦派は徹底的に前進して蜀軍を潰すべきだと豪語し、孫権の妹・孫尚香の身を案じる穏便派は躊躇ぎみだ。この会議で、凌統はどちらかというと積極的に戦う意思を見せた。赤壁の戦いでの孫呉の攻撃力を引き合いにし、攻め入るべきだとした。
 陸遜はその意見に共感しつつも、頷ききらなかった。蜀軍の感情を見落としてはならないとし、季節や地形から見ても、進軍は慎重に行くべきだと発した。意外なことに、甘寧はその意見に賛成した。劉備と戦いたくてたまらないはずの男がなぜ、と周囲はややざわついたものだが、甘寧は陸遜を信じていたにすぎない。どうせ劉備との喧嘩は避けられない。ならば、少しでも味方の被害が少なくなるよう、陸遜の考えに従う。これは、少し前の甘寧であれば採れない選択だ。呂蒙の死が、甘寧に確かな影響を与えていた。
 結局、孫権は陸遜の意見を通した。劉備らが挙兵してから一月ほど泳がせ、引きつけて、疲弊するのを待った。川沿いに並ぶ兵たちが蠢いているのが櫓から見え、凌統が口笛を吹く。隣に佇む陸遜は、爽やかな笑みを携えたままだ。

「敵さん、お疲れだって聞いたけど。まあ大層な数だねえ」
「それだけお怒りなのでしょう。大切な存在を奪われ、その無念を晴らしたい気持ちは、凌統殿がよくお分かりなのでは?」
「大都督殿も一緒でしょうよ」
「ふふ、どうでしょう。私はもう、孫呉の陸伯言ですから」
「それも同じく。俺はずっと、孫権様の駒ですよ」

 皮肉気に笑う凌統に、陸遜は丁寧な拱手を施した。一時好戦的な意見を推した凌統は、文句も言わずに命じられた期間の待機を守り、結局先走りたそうにし始めた甘寧を宥める役も担っていた。陸遜からすると恩人の一人だ。

「……この戦が終われば、あとは曹魏と戦うのみです」
「まあ、泰平になったとしても、あんたは丞相殿になって忙しいんだろうけど」
「望むところです。暇が出来ると、呂蒙殿を思い出して悲しくなりますから」
「おっと。急にぶち込んで来るね」
「凌統殿も、きちんと後悔なく日々を過ごしてくださいね。甘寧殿にたっぷり甘えておかないと行けませんよ」
「いやどっちかっつうと俺は甘えさせてやってる方……じゃないって。大都督殿が何言ってんの。それを言うなら嫁子どもの方でしょ」

 凌統の淀みない乗り突っ込みに、陸遜は嬉しそうだ。子どものように無邪気に笑われると、皮肉屋も毒気を抜かれて黙らざるを得ない。
櫓上で行われた密談は終始、大都督に軍配が上がっていた。


*


 櫓談義ののち、梯子を下りて幕営地で支度をしている凌統の背に聞きなじみのある声がかかった。孫権の声で名を呼ばれると背が伸びるのは、もはや本能に近い。

「誰かと思えば君主殿。こんな一介の将に声掛けてる場合じゃあないでしょうに」
「凌統。お前のことは大切な臣下であり、友だとも思っている。だから、忌憚なく答えて欲しい。私は、間違えているだろうか」

 おや、と肩を竦めそうになって、凌統は慌てて力を抜いた。孫権は基本的に無礼講で、凌統の行きすぎた皮肉すら笑って流してくれる方だ。だが、いつもその背後に立つ護衛からはびしびしと厳しい視線が来る。凌統は涼しい顔の裏で頭を働かせ、言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。

「姫さんのことですか?」
「……分からぬ。父上や兄上たちが作り上げたこの呉を率いて長いというのに、私は未だに、迷ってばかりだ」

 青い目を揺らす孫権を、人目も憚らずに抱き締められたらどんなにいいだろうか。凌統はほんの少し眉を寄せてから、頭を振った。今は非現実的なことをする余裕はない。凌統に出来るのは、揺るぎのない献身を伝えることだ。

「殿は、孫権様は、いつも俺たちの道を切り拓いてくださってますよ。こんなことを今更言うのは照れますけど、感謝してます。俺だけじゃなく、貴方のために武器を持つ奴は皆、同じ気持ちです」
「凌統……」
「それに、どうせ姫さんのことだって、本気じゃないんでしょう? 我が妹だろうと粉砕するとか言ってましたけど、声、震えてたってね」
「真か……?」

 愕然とする孫権に、殺気立つ護衛。いつか甘寧のことを尋ねられて笑い飛ばされたことをずっと覚えていた凌統は、仕返しとばかりに口の端を上げて笑った。

「皆、殿のことを信じて着いていきます。この身に代えても、なんて言いません。全員で勝って、姫さんも守ります」
「ああ……そうだな。そうだ。こんな簡単なことを見失うなんて、私はどうかしていた。……この戦、頼むぞ」

 ぱし、と凌統の拱手する音が響いた。


*
 


 ぱちぱちと木が焼け、弾ける音が響く。陸遜の策により火計が行われ、蜀軍陣地は炎の渦に巻かれた。元々の数が少ないであろう兵糧が焼け、主たる拠点を失い、蜀軍兵士らの士気がみるみる落ちていくのが目に見えて分かった。

「ふう……こんなもんか。しかしまぁ、関羽の娘やら息子やら手強かったね」
「見事な手腕でした」
「あんたも。良く戦って、生きてくれた。ありがとな」

 合肥の戦で凌統は大事な右腕を失った。幼い頃から己を見てくれた副将との最期の別れは今でもありありと思い出せる。悲しまなかった日はない。一方で、濡須口再戦の際に編成された新凌統軍は活気にあふれ、突破力のある男らが多く、棟梁を安心させた。労いをかけた新たな副将は、凌統が療養していた間に周泰が面倒を見ていた男で、賑やかな連中の中では口数が少ない方だ。所作が丁寧で、洗練された動きが多く、よく回りが見えている。そういった点を挙げて副将にした凌統は、その決定に満足していた。狙い通りしっかりと軍や凌統自身を守ってくれている。厳しい時には撤退を決断してきちんと生き延びている。命あることの重要性は、他でもない凌統が一番よく分かっていた。

「凌統様、状況を見るに決着がついているかと。一度本陣隊に合流しましょう」
「ああ、そうしようか。どっかの馬鹿の煤(すす)けた顔も見物だろうし」

 葦毛の馬に跨りながら返事をした凌統は、副将の視線に気が付き振り向いた。寡黙な男はじっと凌統の顔を見つめている。思い当たる節のない凌統は軽く首を傾げた。

「俺の顔こそ煤でもついてるかい?」
「いえ。仲が良いのは存じ上げておりましたが、これ程とは、と」
「これ程ってどれ程? つうか、馬鹿で思い浮かんだ奴も一応軍隊長だぜ? 不敬になるんじゃないの」
「これは失礼いたしました」
「いや、まあ。あいつ馬鹿だから、よくダチだのなんだの言ってるだろ。……割とその気になるっつーか、揶揄(からか)ってケンカしてる方がすっきりするっつーか」

 甘寧の存在をつい出したのは自分だというのに、過剰反応になって脅しまで入れてしまったことに後悔しつつ、凌統はぼそぼそと言い訳を口にした。副将以外誰にも聞こえないような長々とした弁解に、滅多に笑わない男もついに噴き出した。

「おい何笑ってんだっつの」
「す、すみません。憧れだった凌将軍にこんな面が、と今、思いまして……」
「そりゃどーも。行くぜ」

 肩を震わせて笑う副将を置き去りにして、凌統は焼け野原を進んだ。孫呉の勝利は確実だ。孫尚香の存在が気がかりではあったが、孫権や陸遜がうまく手を差し伸べているだろうと予感していた。だから、凌統はいつもの輪に帰るだけだ。曹魏との戦いがまだあるが、確実に孫呉は道を拓いている。あと少しで甘寧と交わした約束の通り、本気で殴り合う日も来る。そう思うと、自然と口角が上がった。生温い風を切って、凌統軍は本陣へ向かっていった。


*


 凌統が交流した頃には、副将の見立て通り雌雄は決していた。孫呉が劉備軍を下し、終戦の伝令が散り始めている。蜀軍を傘下に迎え入れることとし、劉備・孫尚香夫婦を手厚く迎えると孫権が決めたようだ。劉備は膝をつき続け、孫尚香は泣いて頭を下げていた。凌統としては、強気で溌剌とした彼女だけを見ていたいような気になって、目を逸らした。勝手な考えだが、緑の服は彼女に似合わないと思った。

 陸遜と朱然は火計の成功について語り合い、盛り上がっていた。その傍には徐盛や丁奉がいて、年下の活躍を笑顔で労っている。後進らの輝きの奥では韓当が腕を組んで頷いていた。周泰と練師は大役を終えた孫権の傍に控え、主を支えている。いつもの温かな孫呉の風景だ。呂蒙や魯粛が見れば穏やかに笑って喜んでくれることだろう。孫家を率いてきた偉大な父・孫堅や彼らを支えた重鎮の程普や黄蓋、苦労を負った小覇王・孫策についていった周瑜や太史慈、その妻ら。たくさんの顔が一気に浮かんで、凌統は少し胸が締め付けられた。
 これまでの軌跡の中で、凌統も必死に戦ってきた。敬愛する父の背中を見て育ち、ついて回って武芸を覚え、迎えた初陣で父を喪った。必死にもがいて立ち上がったかと思えば、仇が目の前に来て、討つなと命じられ、何日も苦しみもがいてきた。
 しかも仇本人は妙な男で、何故か凌統に興味を持ち、近づいてきた。初めは殺意と嫌悪で溢れていたはずなのに、圧倒的な武力を見せられ、その上瀕死の後に励まされ、立て続けに窮地を救われ、いつの間にか凌統の中で甘寧という存在から目が離せなくなってしまった。一つ許すも十許すも同じだ、とばかりに、結局全てを持っていかれた。
 甘興覇という男の人情に圧されたことを、凌統はもう認めている。粗雑なところや考えなしで喧嘩っ早い性格は相容れないが、甘寧の人望や突破力は凌統にはないものだ。あの目に捕らえられると、余計な疼きまで得るようになってしまった。こうなっては言い訳の仕様もないほど、唯一無二の存在だ。嫁子どもは可愛いが、それとは全く異なる深い情が甘寧に対してある。

(ったく、どこほっつき歩いてんだか)

 だから、本陣に戻ってきた時に甘寧がいないことにすぐ気が付いていた。続々と各隊が並び、幕を張って野営の準備に入っている。きょろきょろと探し回りたい気持ちをぐっと堪えて、凌統は努めて冷静に幕営地の支度を進めた。
 そんな凌統に、ついに陸遜が声を掛けてきた。甘寧が戻らないことに、大都督である彼も気付いていたのだろう。

「どっかで油でも売ってるんじゃないですかね」
「凌統殿、心配でたまらないでしょうから、首根っこ捕まえてきてください」
「よし、引きずってくりゃいいわけね……いや心配とかじゃないっつの」

 いつもの軽口の応酬に、伝令兵が飛び込んできた。

「もっ、申し上げますっ! 甘寧様が、……っ蛮王、沙摩柯に討たれました……!」

 ざわめく本陣は、その伝令で一気に静まった。大将である孫権まで走ってやってくる始末だ。

「誠か!? その者、所属を述べよ」
「殿、この者は私の部下です。諜報に長けており……誤った情報は運びません」
「陸遜の……。今、甘寧はどこにいる。う、討たれたということは」

 孫権と陸遜に詰められた男は、顔面蒼白のまま知りうる情報を丁寧に述べた。凌統はすぐそばで、それを聞いた。真っ白な頭の中に一度、リンと鈴の音が鳴り響く。ふらりと踏み出した一歩に、陸遜と孫権が同時に声を掛けた。

「す、みません。俺、ちょっと信じられないです。あの甘寧が死んだ? 亡骸拝むまでは、確信できませんね」
「凌統殿……」
「いや、凌統の言う通りだ。お前に甘寧の探索と救援を命じる。いいな」
「はい」

 すぐ馬を読んで鞍に手をかけた凌統に、孫権が声を掛ける。

「お前の気持ちを汲んで一人で行かす。残党に気を付けて、生きて帰ってこい。甘寧も共にだ」
「お気遣い、痛み入ります」

 凌統は普段であれば必ず孫権に丁寧な拱手をする。だが、混乱が強く、頭を下げただけで馬に鞭を打って行ってしまった。孫権はその行動を咎めず、目を細めて見送った。これ以上大切な仲間を失いたくない。そんな表情の孫権に、隣に立つ陸遜も拳をぎゅっと握りしめた。


    
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