凌雲を掴むまで
甘寧が馬を走らせて呂蒙と合流したとき、既に雌雄は決していた。挟撃に成功し、麦城から飛び出してきた呂蒙と陸遜が関羽を捉えたようだった。
「孫呉の知勇と覚悟、拙者の義を上回ったか……。無念なり。兄者……関雲長、お先に失礼つかまつる」
捕縛ではなく、討ち取ったのか、と甘寧も驚きを隠せなかった。散々首を取ると宣言していたが、生かせば己のように戦力になると気付いていた。国同士の喧嘩は相変わらず分からないが、個人としては、関羽とぎりぎりの戦いを繰り広げてから捕まえるものだと思っていた。しかし、ただちに理解した。関羽の忠心は本物だ。劉備以外に付き従うことはあり得ないのだろう。
(一生守りてえモノ、か)
甘寧なりに孫権を敬い、認めているつもりでいる。だが、甘寧は雁字がらめの生活は好きではない。喧嘩に手を貸す気概でいるし、味方は守るものだと決めているが、一生涯続くかは断言できなかった。唯一、引っかかるとすればやはり凌統の存在だ。もし、国を出ると甘寧が告げても、凌統はあっさりと了承して手を振るのだろうが、それが面白くなかった。
(とりあえず帰ったら、狂うくれえ抱き潰す)
大事な存在を想っているはずだが、なぜか物騒な予定に変えてしまうのが甘寧だ。だが、その空想の続きは、陸遜の叫び声で閉ざされた。
「呂蒙殿!」
見れば、呂蒙がふらふらと体勢を崩し始めている。
「これで孫呉の地盤は、より盤石となろう」
その呟きが甘寧の耳に入る前に、駆け出していた。呂蒙が地面に倒れ込む直前に追いつき、体全体で受け止める。雨で濡れた体は重く、冷たいものだった。おっさん、といつもの呼称を使うが、呂蒙はぜいぜいと苦しそうな呼吸をするだけで、叱ってこない。傍にいた陸遜が、放心気味に片膝を着く。
「呂蒙殿、なぜこのようなご無理を?」
「……最後に汚れ役をかぶるのも良かろうと思ってな」
呂蒙を地に転がすことが憚られ、横抱きの姿勢で座り、甘寧は呂蒙を支え続けた。もうあまり力の入っていない呂蒙の手を、陸遜が握っている。
「後は任せたぞ、陸遜。鼎立の時代、お前たちが切り開け……」
「呂蒙殿、私は、まだあなたから学ぶ事が……」
雨が酷くなった。だから、甘寧は呂蒙を覗き込むようにして、顔に雨が当たらないようにした。意味が無いと分かっていても、そうし続けていた。弱々しく動いていた唇が動きを失い、目が薄く開いた状態で止まって、生命の終わりを間近にした。陸遜はひたすら呂蒙の手を握り、時に擦って名を連呼した。陸遜が取り乱す姿を初めて見た甘寧は、自身の体も冷たくなっていくのを感じた。恐ろしく寒い。死ぬということの残酷さを、甘寧はこの時初めて思い知ったのだった。
建業に戻ってからも、多忙な日々が続いた。関羽の死と呂蒙の死は世間に瞬く間に知れ渡り、各々の軍勢が足を止めた。また、関羽への重いが強かったあの曹操も、ついにこの世から去った。三分された国々は主力を失い、新たな悲しみと憎しみを抱えることとなった。
甘寧はしばし無気力だった。体を鍛えることは呼吸のようなもので当たり前に続いたが、軍議には顔を出さず、奔放とした日々を過ごした。城のあちこちに呂蒙の影がある錯覚がして、かえって不存在を実感するのが嫌だった。弔い酒すら一滴も飲まなかった。
凌統からは心配しているような怒っているような手紙が届いたが、会いに来たり呼び出したりしてくることはなかった。甘寧の出方を待っているようだった。
甘寧をこの孫呉に招き、立場をくれたのは呂蒙だ。凌統への激情とはまた違う大きな存在を失って抜け殻状態の今、大事にすればするほど失った時の代償も大きいと知り、接し方が分からなくなっていた。頭の中がまとまらず、甘寧は凌統をわざと避け続けた。このまま、孫呉への念も終わりにして、出奔して気ままに過ごすのもいいかと考えた程だった。
数多の執務を放り、登城せずに数ヶ月が経った頃、久方ぶりに甘寧の元に手紙が届いた。凌統からのそれは初回ぶりで、躊躇いはあったが紐を緩めて目を向けた。
『直接伝える暇がないからご報告。今日、俺の婚儀がある』
育ちの良い凌統は筆記が上手い方だ。にも関わらず、この筆跡は随分と乱れて見える。少し走っていて、字と字が線で繋がっている。よほど急いで書いたのかも知れない。思いついてすぐ実行したような字に、やれやれという呆れた表情すら浮かんだ。簡易服でまったく祝辞に向かない姿だが、甘寧は気にせず飛び出して馬に跨がった。熱いのか寒いのか分からないが、脳が沸騰しそうだった。
馬に鞭を打ち続け、一心不乱に城に向かった。途中で鈴を忘れたことに気付いたが、後戻りせずに突き進み続けた。自身も婚儀を挙げたため手順や場所などは分かっている。今になって面倒ごともやっておくもんだ、と甘寧はぎらぎらとした目のまま自身を褒めた。
門番に驚かれながら城内に入り、馬を繋いだ後はひたすら走った。なるべく他者に見られないように潜入し、目的の部屋を目指す。大概婚儀は女の用意に時間がかかる。新郎の方は支度が終わると暇なもので、甘寧も一人待たされた部屋で苛々としていた記憶があった。これまでの奇襲の経験も生かして忍んだ甘寧は、ついに誰にも会わずにその部屋に到達した。窓からの強引な侵入に、新郎はすぐに戦闘態勢に入ったが、相手が甘寧と分かると力を抜いた。
「焦らせるなって、盗賊かっつの。つうか、あんたやっと顔出して……わっ」
高い椅子に座っていた凌統の腕を引いて、大きい体を壁に押し付けた。被らされている冠も、やたらと装飾で飾られた衣装も、少しだけ粉をはたかれた顔も、全て壊してやりたかった。衝動的に口付ける。凌統の方が背が高いので、無理矢理するときはいつも大変だ。顎を上げて凌統の首も強引に引っ張る必要がある。舌を絡めると、異様に甘く感じ、甘寧は一気に股間が熱くなった。
ばかもん、と呂蒙の叱る声が頭に響く。大切な儀を打ち壊すなどあってはならないことだ。凌統だけでなく、多くの人が関わっているだろうから、取り返しのつかないことになる。亡くなってからも呂蒙の存在は緩衝材だ。甘寧は少し笑いながら、凌統の裙を割った。困惑したような目とかち合う。
「……甘寧」
「おう。久しぶりだな凌統。綺麗だぜ」
「はぁ……そりゃ嫁さんに言う台詞でしょうよ」
大きくため息を吐いた凌統だが、眉を下げて困ったように少し笑っている。ぐっと来た甘寧が再度顔を近づけて接吻をねだると、凌統はすぐに首を傾けて唇に触れてくれる。自ら口を開いて舌を出してきて、甘寧は思う存分凌統を味わえた。びりびりと心地よい痺れが全身を駆け抜け、生きているという喜びを実感した。
「って、待ちなよ。おい、尻触んなって。さすがに最後まではまずいっつうか、こっちの不貞ってどうよ」
「知らねえよんなもん」
「冗談じゃない。俺が無理。抜いてやるから、勘弁してくれないかい」
甘寧はいつも型破りで、人の命令など聞く方ではなかった。しかし、今は違う。周瑜と呂蒙がくれた道で、本物の主を知り、背中を預け合う人間がいる。その中で全力で暴れられるのだ。ここを捨ててどこかに行ってしまおうなどと、よく考えたものだ。自虐気味に笑って、甘寧はもう一度凌統に口付けた。
「さすがにさせねえよ。こんなの咥えた口で、嫁と接吻できんのかお前」
「いや、手でいいでしょ」
「お前の咥えてる顔が見てえ。明日、寝処来い。仕方ねえから今息子は宥めとく」
凌統の目が点になっている。甘寧が引くなどあり得ないと思っている顔だ。祝い事がなければ引っ叩いてやりたい程憎たらしい表情だった。最後に裾を持って凌統の逞しい太ももを見ている内に、悪戯心がもたげる。
「けど、やーっぱ妬けるからよ、俺のもんって印付けとくわ」
「は? あんただって妻子がいるくせに、え、ま、待って、何を……っん、あ!」
「へへ。んな色っぺえ声出しやがってよ。甘寧サマの理性って奴に感謝しろよ?」
「馬鹿死ね好き勝手しやがって、おい、待てっつの!」
甘寧は振り返らずに窓から飛び降りた。器用に枝を伝って地に下りていく。成功した悪戯が楽しくて仕方が無い。いつもスカしている凌統の焦り顔が、何よりも甘寧をわくわくさせる。めくった着物の中に潜り込み、脚を上げさせて、内腿の際に思い切り吸い付いてやったのだ。一瞬見えた赤い痣が、白い肌に映えていた。凌統はあの印を付けたまま女と婚姻し、初夜を迎える。気付かれることはないだろうが、本人は意識しまくって過ごすのだろう。そう思うと可笑しくて可笑しくて、甘寧は歌い出しそうだった。
婚儀は興味がないので欠席し、馬に乗って部下のいる領地まで駆けた。兄貴、と慕ってくれる子分たちが出迎えてくれて、甘寧はまた立ち直ることができた。
***
再び孫呉の将として立った甘寧は、陸遜の執務室を訪れた。入室を許可する声も、顔を上げた時の表情も凛としていたが、来たのが甘寧だと分かると、少しだけ脱力が見えた。甘寧は観察眼に優れた方で、陸遜の安堵を些細な顔の動きですぐに察知した。陸遜が弱みを見せてくれるなら、甘寧も素直に謝罪出来る。
「……サボって悪かった」
「甘寧殿」
「つうか、お前の方が辛えのによ、放っといてすまねえ。大丈夫か?」
まっすぐ、目を逸らさずに甘寧が陸遜に言う。凌統から聞いた話では、表向き陸遜に沈んだ様子はなく、次の大都督候補に選ばれて前向きに働いているようだ。孫呉には朱然もいて、互いに切磋琢磨し知を磨き上げている。どちらかが軍師の頂点に立つのだが、甘寧個人としては陸遜を推していた。
「はい。お気遣い痛み入ります」
「お前がおっさんのあれこれを受け継いでるってんなら、俺はお前の背中を押してやる」
本当はもっと、呂蒙のことを聞いたり話したりすべきだろうが、甘寧には細やかな配慮は難しい。その辺りは凌統が上手くやっているだろうと決めつけて、甘寧はただ孫呉のことを考えた。推薦というほど大げさなことは出来ないが、陸遜に味方だと伝えたかった。
「どうだ? お前におっさんのとこ立つ覚悟はあんのかよ」
「……ふふ。お厳しいですね。呂蒙殿がいなくなって、意気消沈して消息不明になっていた甘寧殿が、戻ってきて早々そのようなお言葉を」
「ぐ、お前、言い方にトゲしかねえぞ」
「もちろんわざとです。私は心配しましたから。呂蒙殿と共に甘寧殿までこの孫呉から消えてしまうなど、大打撃です」
陸遜は溌剌に言葉を紡ぎ、甘寧にぶつけてくる。だが、この毒舌とも言える話しぶりは本当に身近な人間にしかしていない。甘えている証拠だと凌統が言っていたのを思い出し、甘寧は怒りを押しとどめた。良く見れば、陸遜はなにやら活き活きと甘寧との会話を楽しんでいる。反抗する気も起きないほどだった。
「ですが凌統殿が、甘寧殿は戻ってくると言い張るものですから。そこでようやく、私は私の立場に集中できたということです」
「へーへー。ご心配おかけしましたぜ」
「なので、覚悟は出来ています。殿からも大都督の任命についてはほのかにお話を頂きました。ですが、この年若い私では、周囲がまだ納得できないでしょう。呂蒙殿から教わった知識と判断力をお見せして、皆に受け入れられるようになってから、拝命賜りたいと考えています」
淀みなく言い切る陸遜がきらきらして見えた。難しい話や周囲の濁った目に興味は無いが、陸遜の出してくる戦の指示は楽しみだ。甘寧はひたすら暴れることしか出来ない。陸遜なら熱い喧嘩の場を用意してくれるのが、肌で分かった。
「おっしゃあ! いつお前がどうなろうと、陸遜は陸遜だ。気張ってけ。俺や凌統は、お前の号令で暴れ回ってやる」
「はい! 両輪のお二方のお力、お借りします。全力で次の戦に臨みましょう!」
甘寧が勢いよく拱手するので、陸遜もつられたように立ち上がって拱手した。顔を上げると、二人で笑い合う。呂蒙がいなくてこの世に絶望を覚えた甘寧だったが、こうして残った呂蒙の欠片を守っていくのは、生きて孫呉にいる間にしか出来ない。再び情熱を灯し、甘寧は執務室を飛び出した。自身の執務も溜まっているのだが、体を動かしたくてたまらないのだった。