凌雲を掴むまで
生ぬるい風が首を撫ぜた。じめっとした空気は士気をも削ぎそうな不快さだ。早朝に出立し、江陵の付近まで辿り付いた凌統らは、見張りの櫓を二棟倒してから一度立ち止まった。部下に補給をしつつ、小声で打ち合わせる。だが、甘寧の鈴はいつもの位置にくくりつけられていて、奇襲には向きそうになかった。
「こっちはこっちで城内立てこもりかぁ? 正面突っ切ってぶん殴りゃいいか」
「良くないっつの。糜芳と傅士仁なんざどうにでもなるが、一番厄介なのはこっちに向かってる周倉だね」
「脚が早えってだけで、えらい注目されてんな」
「赤兎馬並って怖いだろ。ところであんた、その鈴って外せる?」
「ああん?」
いつもの小言が始まったとばかりに顔を顰める甘寧が、あまりに分かりやすくて凌統は思わず少し笑った。それから、ゆっくり近づいて耳打ちする。その光景の穏やかさに部下一同が驚愕していたのだが、当の二人は気付かなかった。昨晩、うっかり最後まで行為に耽ったせいか、距離感が分からなくなっている。
「へっ、仕方ねえ、貸し一つだぜ」
「俺あんたにいくつ貸してると思ってんの。酒屋のツケも」
「細けえこと気にすんな! おっし、野郎共、聞け! 江陵ぶん取るぞ!」
「おい馬鹿声がでかいって!」
抑えるのを忘れた甘寧の声は辺りに響いたが、幸い周辺に動く気配はない。ほっと息を吐きながら、凌統も自軍の兵を呼んだ。
――江陵城内。糜芳と傅士仁は今後についてを延々と語らっていた。主に関羽の愚痴だ。美髯公と呼ばれ、劉備には厚い仁義で与しているが、彼らへの当たりは強い。やれ守備を貫け、やれ兵糧を確保せよと、次々に厳しい指示を出してくる。周倉のように敬えれば馬車馬のようにこき使われても苦しくないのだろうが、糜芳と傅士仁には辛いものだった。
「孫呉とは盟があるってのに、国境際で盗みやっちまったしよ」
「仕方ねえだろ、あれがなきゃ、樊城攻めの飯が足りねえってんだ……俺らが叱られる」
「もうやってらんねえ。髭が長けりゃ偉いのかよ」
思い詰める二人の元に伝令が駆け込んだ。
「申し伝えます! 赤い旗と鈴の音が城外に……呉の、甘寧やもしれません!」
「なに!? 盟はどうした!」
「やはり孫劉同盟など、もはや無かったのだ……! しかし、みすみす殺される訳にはいかぬ。奴はどっちから来た!」
「東門です! 南北の見張りがやられた模様!」
「西門に手が伸びる前に脱出しよう。周倉にさえ伝えれば、関羽様に伝言出来よう」
二人はすぐに武器を持ち、応接間を出た。石垣で区切られた街路を抜け、西門に近づく。耳を澄ませば、りんりんと慣れない鈴の音が聞こえた気がした。
「関羽といい甘寧といい、おっかねえ人間が何人もいるな」
「魏には張遼がいるだろ? 乱世ってのは狂ってるぜ」
「んじゃ、その張遼とやり合った男も追加しといてくれる?」
糜芳と傅士仁は知らない声にはっと顔を上げた。赤い旗には凌の字。高い位置で括った長髪を靡かせ、腕を組んでゆったりと城壁に寄りかかっている。寛ぎっぷりは自邸の庭のようだ。
「孫呉の、凌統――」
「おっと、知ってくれちゃってるのかい? 光栄だねえ」
「あの鈴の甘寧とは不仲と聞いたが、両名で裏切りとは仲が良い」
「悪いけどそういう煽り、俺には効かないぜ」
つい先ほどまで壁に背を預けていた凌統は、すっと離れて宙を返り、あっという間に糜芳の背後を取った。刃は持っていないが、節棍の鎖が首に当たっている。一瞬のことで、反応はできなかった。がらんと武器を落とす。効果が無いと言い張りながら、やはり甘寧とのことは禁忌なのではないかと察知した傅士仁が咄嗟に叫ぶ。
「父親を殺されたんだろ? 親不孝ものが、よく仇と一緒にいるな!」
「ごちゃごちゃうるせえ」
鈍い音がして、傅士仁が吹っ飛んだ。やはり音もなく背後を取られ、仕上げとばかり甘寧が蹴り飛ばしたのだ。びっしりと入った刺青におののきながら、糜芳がしゃがれた声を出した。
「す、すずが、ない」
「へえ、結構冷静だね。やっぱ刺青だけで特定されてんだ、あんた」
「おいおい、この男らしいツラと鍛えた体! 全身で鈴の甘寧様だって知れ渡ってんだろ」
「馬鹿そうに羽根刺した半裸の男じゃ、間違う奴もいないよな」
「凌統てめえ! やんのかおらぁ!」
「上等、手緩い策に飽きてたとこだっつの」
やいやいと耳元で言い合う凌統に押さえ込まれた糜芳は、絶望的な状況に顔面蒼白となっていた。樊城攻略の要である江陵を落とした。この失敗を関羽は決して許さないだろう。もう終わりだ――舌でも噛み切ろうか、という時に、副将らに宥められたらしい両輪が糜芳らを見てくる。
「さて、冗談はさておき、あんたらが捕縛されりゃ江陵はおしまいだ」
「んでよ、お前ら、関羽の髭にムカついてんだろ? 一緒にぶん殴りに行こうぜ」
「なんかなぁ。皆そういうもんなのかい。ちょっと前の上司と喧嘩ってさ」
「お前の上が恵まれ続きなんだよ。おい、どうする」
青ざめる二人と違い、軽快な会話を続けていた二人だったが、糜芳を押さえつける凌統の手や、傅士仁を蹴り倒した後鎌を向ける甘寧の目は決して緩まなかった。早々と二人は脱力し、抵抗せず、降伏の意を示す。
「孫呉に降る」
「俺もだ。……この城は好きにしてくれ」
「理解が早くて助かるねえ。じゃ、一芝居打ってもらいますか」
「鈴の甘寧様が睨みきかせてっからよ。ふざけた態度取るようなら、分かってんだろうな?」
甘寧が姿勢を低くして下から睨み上げる。水賊時代の癖なのか、その素行の悪さが甘寧に似合っていた。凌統はからかうように鼻で笑う。
「ま、鈴なしの甘寧サマだけどね」
「やべ、馬に括ったままじゃねえか!」
「馬に付いてりゃ可愛いのに、あんたに装備されてると喧しいって、不思議なもんだ」
「お前の嫌味の方がいちいちうるせえんだよ!」
隙あらば言い争いになる孫呉の両輪に困惑し、糜芳と傅士仁はそろりと目を合わせるのだった。
その後、甘寧と凌統は二人に芝居を命じた。孫呉の将が手助けに来てくれた、と。甘寧軍と凌統軍がいるのは奇襲ではなく、樊城を落とすための救援だと流布させた。見た目には穏便に江陵を奪取した両輪は、堂々と城壁の物見に上がった。
「こりゃ景色がいい。さて、戦況はっと」
「軍勢までは分からねえが……魏にゃ援軍が来てるんだったよな」
「徐晃軍が着いてそうだね。北から攻めるのか、城内を救うのか……お、あれ、もしかして」
江陵に近づいてくるのは、馬の先頭を走る男だ。上からでは大きな帽子に阻まれて顔が見えないものの、特徴から周倉だと特定できた。
「いくら脚が速くても、体力考えりゃ馬使った方が賢いでしょうよ」
「はっ、言えてらぁ」
「俺はあいつに当たる。あんたはどうよ」
「そらもちろん、美髯とか言うのを眺めに行くぜ」
甘寧は当初から軍神との喧嘩に前のめりだった。これ以上は止められないだろうと判断した凌統が、うんざりした表情を隠さず頷いた。欲を言えば凌統も関羽と一討ちしたかったのだが、ここは譲るほかない。
「俺あんたに譲歩しっぱなしだぜ。たまには譲ってくれてもいいんじゃないの」
「ああん? しゃあねえ、今度は頭イカれるくれえ気持ち良くさせてやる」
にやにやと含みのある目は、明らかに下世話な話だと示している。見張り台から落とす勢いで背中を蹴りつけてから、間髪入れずに鉤縄を石垣に引っかけた。朱い服をはためかせて、凌統は一気に城壁を下りていく。懸垂下降を恐れた時期もあったが、場数を踏んで相当上手くなった。上空からの奇襲は、さしもの韋駄天も足を止めざるを得ない。
「うぉおおっ!? なんだ、上から!?」
「どうも。蜀の手助けにと思って、参上しましたよっと」
軽々着地した凌統が、涼しい顔で言う。武器を持たず、平然と言う様子に周倉は目を丸くした。騎馬兵らがひそひそと怪訝な声を上げている。
「孫呉が、俺らに?」
「ああ。関羽殿が樊城を攻めてるんだろ。曹魏にはでっかい借りがあるもんでね。俺らもお返ししないと。なあ?」
凌統が後ろを振り向くと、城門の方から糜芳がやってきた。笑みを浮かべて頷いている。
「周倉殿、兵糧はもう安心ですぜ! 孫呉軍が補給路を繋いでくださったもんで!」
「そりゃ、親分も喜ぶ」
ぽつりと呟くように周倉が返答する。その目は笑うことなく、慎重に探りを入れているようだ。凌統はすぐに察知した。恐らく、周倉は謀反に気が付く。後は、関羽の元に甘寧が先に着くか、周倉が先に着くかの競い合いだ。となると、ここは少しでも時間を稼いでおきたい。
「あんたや後ろのお馬さん方も、少し休んでいけば? 城に米も持ち込んでるぜ。煮炊きを待つ時間はあるのかい?」
「そりゃあ、ちいっと厳しいな。親分や関平殿が必死に戦ってるんだ、俺らばっかり休めねえ」
「ふうん。走ってきたんだろ? 沓を脱いで五分でも横になれば? この凌公績様が揉んでやってもいいけど」
「そこまで尽くしてもらう必要ないぜ。糜芳殿、兄上殿が成都で首を長くして待ってる。親分のために、踏ん張れよ」
周倉がぎらりと糜芳を睨みつけた。あの軍神を慕うだけ合って慧眼がある。凌統は素直に実力を認め、軽く手を打った。
「韋駄天・周倉だなんてご立派な呼び名だから、頭は悪いかと思ったんだけどねえ。どっかの鈴野郎よりよっぽど冴えてる」
「……糜芳殿、まさか」
「……周倉殿、貴殿が慕う関羽殿に、俺たちはもう、疲れたんだよ」
「チッ、裏切りかよっ!」
振り向いて騎馬隊に江陵城の確認を命じた周倉が、すぐに樊城の方へ走り出した。
「逃がすと思うかいっ」
懐から得物を取り出した凌統がそれを追いかける。しかし、さすがの俊足だ。凌統の脚力でも追いつかない。入れ違いに向かってくる騎馬隊の馬を一頭奪いったが、それでもぐんぐんと離された。凌統が軽く背後を見ると、糜芳がきちんとついてきている。
「なあ、あいつ本当に人間?」
「奴の脚力は異常だ。赤兎馬並というのも詭弁ではない」
「ったく、化け物並が何人もいちゃ敵わないっつの」
馬に鞭打ち、揺れで舌を噛まないように気を付けつつ、凌統は器用に愚痴をこぼした。
結局、周倉は取り逃がしたが、その取り巻きは全て排除した。関羽の元に甘寧も着いている頃だ。凌統は部下や糜芳の状態を確認し、水を補給させてから、先駆隊への合流を目指した。傅士仁は凌統軍の一部と共に江陵に残った。蜀軍が戻ってきた時にまた一芝居打って、取り込むか斬り捨てるかを担う算段だ。凌統の元に南からの伝令兵が追いつき、公安奪取も告げられた。曹仁を樊城に追い詰めていたつもりの関羽軍は南北から挟まれ、追い詰められたことになる。
いよいよ軍神が近づき、凌統は高まる緊張を自覚した。胸のあたりがざわつき、手足が冷たくなる。凌統は元よりさして戦闘が好きなわけではない。時代に吞まれ、父より教えられて、君主を守るために身に付けた武術だ。甘寧のように強い誰かと戦いたいとは思わない。だが、負けたくない。敗北の屈辱を味わわないために、泥をすすってでも鍛錬に励んできた。父を喪い、親仇が投降して惨めな気持ちの時にも、決して鍛錬に手を抜かずに今日まで来た。その結果が、仕上がった肉体と武力だ。十分に戦える。ふう、と一息吐くと、もう拍動は落ち着いていた。
馬を走らせる内に、激しい金属音が聞こえてくるようになった。人々のざわめきや叫び声、鬨もあちこちで上がっている。その中で、目立つわけでもない鈴の音を凌統の耳は捉えていた。先ほど囮にすべく馬に付けた鈴は、元の持ち主の腰紐に括られ元気に鳴いている。
「よっ、楽しそうなとこ悪いけど、俺も混ざって良いかい」
「へっ。サシ邪魔されるなんざ許せねえが——お前なら良いか」
「……良かろう。拙者がまとめてお相手致す」
関羽の持つ偃月刀がきらめいた。降雨で陽の光はないというのに、まるで龍に睨まれたようだ。だが、龍なら甘寧の体にも住んでいる。目つきの悪さはそれぞれお相子だ。
甘寧と凌統はそれ以上無駄話はせず、戦闘に集中した。関羽の一薙ぎで多くの歩兵が吹き飛んでいく。間合いを慎重に計りながら凌統は節棍で近接し、関羽に守りの体勢を取らせた。その隙に甘寧が鎖鎌を伸ばす。凌統はもちろん飛距離などを把握しているので、見なくともそれらを避けられる。攻撃力は関羽を下回るが、俊敏で連携の取れた両輪の攻めに、関羽は苦悶を露わにするようになった。
「成る程……見事。ここでの決着は見送ろう」
「待ちやがれっ!」
「父上っ、ここは拙者が!」
「邪魔だっての!」
一時混戦状態となった。水責めの任を終えた関平が追いつき、関羽の前に出たのだ。闘志に溢れた義息子の頭を一撫でし、関羽は赤兎馬を呼びつけて逃走した。
「くそっ、とんだ化け物だぜ! おい、どうする!」
「俺たちは江陵を取ってる。今頃樊城は魏軍が救い出してるだろ? で、呂蒙殿と陸遜が麦城を抑えてる。つまり」
「追う必要はねえってか? ここまで来て、あの髭の首取れねえのかよ」
甘寧は苛々と鎖鎌を振ったが、気付きの通り追うことはしなかった。凌統の知る甘寧は、好き勝手に行動して軍紀も作戦も乱す男だ。珍しいな、とやや驚いたが、すぐに呂蒙の名を出したからだと腹落ちした。この野蛮な男は、これでいて呂蒙を厚く慕い、尊敬しているのだ。
「いいぜ、あんたは行けよ。たまには目の前で呂蒙殿に譲ってやりなって。これまでの恩返しの半分にもなんないけどさ」
「凌統」
「俺はあんたほど関羽と打ち合ってないんでね。まだ十分有り余ってるわけ。ほら、さっさと」
「ありがとよ、凌統! 帰ったらおっさんと三人で飲もうぜ!」
「だから、陸遜省くなっつの」
軽口の応酬を続けている間にも、関平は大剣を素早く振るって打ち込んでくる。凌統は受け止めたり受け流したり避けたりと大忙しだ。甘寧のことは見なくても動作が分かるので、あくまで関平とだけ目を合わせて返事をした。その様子をじっと眺めていた関平が口を開いたのは、甘寧が馬に乗って消えてからだった。
「……和解されていたとは、周倉の目は正しかったのか」
「和解ねえ。そう見えるわけ。俺とあいつに怨恨はないって?」
関平も凌統も素早い攻撃を控えて、しばし冷静な打ち合いが続いた。慎重に間合いを見極め、切り込み時を伺っている。甘寧にはついムキになりやすい凌統だが、敵からの煽りは一切通じない方だ。好き放題煽り返せるのでむしろ活き活きしてしまう。
「随分と心を許しているように見える。拙者には理解できない。義父を討った将が降ってきたら、その場で仇討ちを果たす」
「そりゃ親孝行だ。いいんじゃないの、君主より
「……何?」
ちょっとした挑発だったが、関平の眉がぴくりと動いたのを凌統は見逃さなかった。腕を狙って節棍を振り、防御の構えをした隙に足払いで姿勢を崩す。完全にとは言えないが、傾いたところで立て続けに節棍を叩き込んだ。どすんと鈍い音を立てて、大剣が地に落ちる。
「理解なんざ、してほしくないね。別にあんただけじゃない、誰にも」
「ぐっ……!?」
馬乗りになった凌統が、片手で関平の首を絞めた。関平はじたばたと暴れ、両手で凌統を引き剥がそうともがくが、冷たい目に見下ろされながらぐっと力を込められ、抵抗しきれず気を失った。緑の鉢巻きがだらんと地に広がった。
「……関平殿」
「……ああ、ごめん。あんたの元同僚だっけ。あんたが首取るかい」
皮肉げに口元を歪ませる凌統に、糜芳はぞっと背筋を凍らせた。静かに首を振るくらいでしか返事ができない。
「冗談だっつの。捕縛しといてくれ。呂蒙殿の指示に従わないとね」
時は乱世だ。敵味方が入り乱れ、正義とは何かを互いに主張し合い、武器を持つ。誰もが正しいし、誰も正しくない。凌統はまた一つ乱世を呪ってから、縛り上げられている関平に拱手をした。軍神の子が生かされる世ではないと重々分かっていた。
周囲に銅鑼が鳴り響いた。伝令兵が大声で関羽捕縛を伝え、駆け回っている。凌統は、すぐ近くで縛られている関平の顔を見ることが出来なかった。違う場所で会っていれば、互いに武を競い合う男だったかもしれない。ゆるぎない正義感と義父への孝心は見事だった。ゆるやかに降り続けていた雨が酷くなってきた。戦装束が濡れることも厭わず、帰還命令も無視して、凌統はしばらく暗い空を睨み付けていた。
(次、隠れ処に行く時に、奴に言うか。結婚するって)
思いつきの予定は、思いのほか凌統を救った。手足が動くようになってするすると支度が進む。
(相手を聞かれたら言いますかね。近々、どっかの女とって。あいつどんな顔するんだか)
凌統は規律を守る方であり、日頃から緊張を絶やさないようにしている。その甲斐あって、楽しそうな空想は表に出ることは無かった。凌統は一人こっそりと頭の中で甘寧との対話を想定し続けて、戦後の重苦しい気持ちを昇華させていった。