凌雲を掴むまで




 手の届かないところで世は乱世を極めていたが、少なくとも孫呉にとっては一時の平和が訪れた。曹魏と不可侵条約を結び停戦にこぎつけ、巴蜀とはかつてからの孫劉同盟がある。名ばかりの盟約だとしても、孫呉はまだ反故にしてはいない。曹操から命じられた関羽討伐まで、入念な準備が必要であると孫権が判断したためだった。
 この間に、甘寧は呂蒙の取り計らうがままに豪族の女と結婚し、子をもうけた。甘寧自身はあまり女や子を構いに行かなかったが、凌統から見れば、ほんの少し顔つきが柔らかくなったように見えた。
 その後も凌統は高頻度で連れ出され、遊んで、飲んで、抱かれるという生活が続き、共にいることが当然になっていた。甘寧とは考え方も生き様も正反対だ。言い合いや殴り合いの喧嘩も日常の一つだったが、争った直後の性交は天にも昇るほど気持ちがよく、凌統はすっかり甘寧に振り回される日々だった。

「ったく、手加減しろっつの」

 ぶつぶつと独り言を零しながら、凌統は領地内を馬で闊歩していた。もはや通い慣れた隠れ処からの帰りだ。朝日が昇る中、朝から求められそうだったところを必死に制して出てきた。凌統とて、甘寧に抱かれるのは決して悪いものではない。むしろ、もう手放せない刺激の一つではある。だが、今日は朝から孫権の呼び出しを受けていた。これに遅刻するわけにはいかないし、朝から情事に耽った顔を孫権に見せるのは耐えられないと判断したのだ。甘寧は随分と拗ねていたので、後日埋め合わせを求められるのだろう。昨晩も、それなりに奉仕してやったつもりなのだが――締まりのないことを考えた凌統は、首を振ってそれらの回想を撥ね除けた。五分間隔で再度思い出しては髪を振って忘れようとする、などという奇行を繰り返す主を、馬はゆったりとした速度を崩さぬまま優しく運び続けた。

 
***


「凌公績、馳せ参じました」
「うむ、入ってくれ」

 丁寧に拱手を施し、儀礼として膝を着いて挨拶をした凌統は、孫権の一言を受けてから主人の前にすっくと立った。もう長い付き合いだ。孫権の言い出しそうなことが概ね分かっていた。

「凌統。最近は甘寧との連携も、力強いものとなったな」
「ええ、まぁ、ぼちぼち。孫呉の両輪とまで言われちゃむず痒いもんですが……あの馬鹿も、殿のために張り切ってる。とくれば、俺が手抜くわけにはいきませんから」

 意外なことに、甘寧にも孫権を主とし敬う気持ちがきちんとあった。投降当初はぴりぴりと不信感を露わにしていたようだが、呂蒙、周瑜と続いて少しずつ関係を緩和させ、南郡で己を救う指示を出したことをきっかけに孫権に対し従順になったらしい。呂蒙の譲り受けなので凌統としては疑いもあったが、今はそれなりに納得している。

「ああ。お前らの力、存分に奮ってくれ。……聞き及んでいると思うが、我ら孫呉はまもなく劉備との同盟を断つことになる」
「……はい」
「……私とて、迷わぬ訳ではない。乱世とは、嫌なものだな、凌統」

 凌統は、青い目が揺れる主を見て、胸が抉れそうになった。かつて、孫権のことを羨ましいと思ったこともあった。自らは父親の仇討ちを果たし、臣下にはその歪みで起きた報仇を我慢せよと言うからだ。口に出せば不敬罪に当たるので、なんとか心の中に収めてこれまでやり過ごしてきた。だが、今孫権は時代と立場に追い込まれ、国同士の約定を破ろうとしている。魯粛が必死に繋いできた糸を、己の妹ごと斬り捨てようというのだ。

「荊州は肥沃な地です。孫呉としても、奪還しなければならない理由があります。――なーんて、呂蒙殿が毎日唱えるもんですから、うちの武官連中は全員、分かってますよ。もちろん、殿のお覚悟もね」
「……お前には救われてばかりだ」

 くしゃりと眉を下げて言う孫権を、凌統は抱擁してやりたくなった。もちろん出来るはずもないので拱手に留まるのだが、いつか乱世を制した後には不敬上等で抱き締めに行こうと決めた。

「荊州攻めの方は、ご指示通りに。それ以外に何か、説教でもありました? 先に言ってもらったように、奴との関係はまあ、それなりに清算してますし、罪も犯してないはずですけど」
「ああ。これは君主としてではなく、個人的な思いに近いのだが……凌統、お前に良い人はいるのか」

 やっぱりな、と凌統は片眉を上げた。特に孫権は凌家への思い入れが強い。子孫繁栄を願うのも無理はなかった。

「……ま、これまでは多忙だったもんで。特定の御方はいませんね」
「では、紹介したい娘がいる。……会ってみるのはどうだ?」 

 正直なところ、凌統は今甘寧で手一杯だった。陰でも陽でも激情を抱えるのは疲れる。そんな中でも孫権の気持ちは嬉しく、凌家の存続は凌統こそ守りたいものの一つだ。答えは決まっていた。

「ありがたくお受けしますよ」
「真か!? ああ、こんなに嬉しいことはない。早速手配させる。追って連絡をするようにするからな」
「あ、ただ一つお願いが。このことって内密に出来ますかね。呂蒙殿とか、あいつ……甘寧にも」
「それは構わないが、婚姻の儀はどうする」
「きちんとやりますよ。ただ、今はどっちにしても江陵への出陣も控えてます。浮かれるのは、関羽を討ってからでもいいんじゃないでしょうかね」
「それはまあ、そうだが」
「世話になった方には、自分の口から報告しようと思いまして。甘寧とは結局口論になっちまうかもしれませんけど」
「はははは! 婚姻の報告で何を言い争うことがあるのだ」

 大口を開けて笑う君主に、凌統も口元を緩める。立場は随分違うのに、気の置けない様子で接してくれることが心から喜ばしかった。凌統の申し出を快く認めた孫権だったが、周泰からの報告をなにやら受けて真剣な表情に戻っている。ここが引き時と判断し、丁寧に挨拶をした凌統は足早に室を去って行った。


 ***


 劉備が漢中を平定させると、関羽が北上する気配を見せ始めた。曹仁を樊城に包囲し、許都に攻め上がるようだ。曹操から報せを受けた孫権は決断した。もはや孫呉と巴蜀の盟は叶わない。呂蒙を大都督とし、関羽討伐の戦が始まった。
 呂蒙の考えで、まずは公安と江陵を取ることに決まった。

「もちろん俺は呂蒙殿の考えを支持します。足下崩されりゃ、あの軍神だって転ぶかもしれない。とっとと江陵を落とすべきでしょう」
「ああ? そういう長えのはおっさんのだけでいいんだよ。さっさと行こうぜ」
「ただ、なーんで甘寧と一緒なんです? こいつ、戦じゃ突っ走っちまって策なんざ成りませんって」
「うるせえな! お前こそ何度やべえ目に遭って、誰に助けられてると思ってんだ?」
「はあ? 俺が毎度あんたの尻拭いしてるってのに、たった一回窮地を凌いだ程度でえばるなっつーの」
「そこまでだ!」

 ごん。呂蒙の拳骨が同時に落ちた。甘寧と凌統は低く呻いて頭を抑えている。呂蒙の制裁は手加減がなく、相当痛い。傍で見ていた陸遜は苦笑しながら一歩引いた。

「まったく、ようやくお前らが上手くまとまったと思ったらこれか。いいか、お前らの戦力は欠かせないものだ。今や孫呉の両輪とも言われている。だが、少しでも異なる方角を向いてみろ。俺たちはまともに進めぬのだ」
「呂蒙殿……」
「おっさん。……へっ、わーってるって。こいつも照れ隠しで噛みついてるだけだ。一緒に暴れてやるよ」
「誰があんた相手に照れるかっつの」

 小競り合いを続ける二人に頭を抱えつつ、呂蒙は地図を見下ろした。あの関羽を討つことは、孫呉全体の悲願だ。呂蒙個人としては、身を捧げてでも討たねばならぬ存在である。卓上を睨む呂蒙の元に陸遜がそっと近寄った。

「呂蒙殿のお言葉はいつも精錬されていらっしゃる。あの二人がすっかり言いなりです。私も見習わねば」
「言いなりになっているかは分からんが、お前はもう十分励んでおる……んんっ」
「呂蒙殿、水を」

 喉の違和感を察知した陸遜が、小さな器に水を入れ、呂蒙に差し出した。両輪を背にした呂蒙が一気に呷る。病の手が伸びていることは、呂蒙自身気が付いていた。あとは近しい仲である陸遜だけが知っている。呂蒙は陸遜に全てを託すつもりで、これまでに覚えたことは惜しみなく伝えている。

「助かった。俺の後を継ぐことになったら、あいつらの扱いが最も厄介かもしれんな」
「ええ。ですから、まだまだ呂蒙殿には、孫呉にいて貰いたいのです」
「……そうだな。ちなみに、お前個人としてはどうだ」
「関羽など捨て置いて、呂蒙殿と二人で生きていきたいですね」

 期待した言葉より遙かに熱烈で過激な反応に、呂蒙が腕を組みながら天を仰いで笑った。陸遜という男は可愛い顔をして豪胆だ。だから呂蒙は、安心して関羽討伐に全力を注げる。

「お前のような愛い者を差し置いて髭の大男に構うとは、俺は酔狂だな」
「あっ、そう言われますと、大変殺気……いえ、やる気が出てきました。私も全力を尽くします。可能な限り早く、養生しに戻りましょう」
「ふ、その時には傍にいてくれるのか」
「当然です。どんな時にも、呂蒙殿のお傍に。それが私の使命ですから」

 溌剌と言い切る陸遜が眩しくて、呂蒙は目を細めた。奥では甘寧と凌統がまだ言い争いを続けている。この幸福は長く続かないからこそ、愛おしいのかもしれない。顎髭を擦りながら自身の立っている地を踏みしめた。


***


 結婚については自ら伝えると決めた凌統だったが、その機会はなかなか訪れなかった。まず、荊州を取る第一歩として江陵に向かうよう命じられたからだ。これは甘寧と共に赴くものだが、部下も多くおり、真剣な戦の最中に私事には構っていられなかった。なにより、今回は細やかな気遣いのいる策だ。江陵を守る糜芳と傅士仁は関羽に不満があるというのでそこを突くことになる。
 樊城で于禁を討ち取った関羽軍が、堰を壊し樊城を水浸しにしたという報せが入り、これには孫呉軍もどよめいた。守りの堅い曹仁は耐え忍んでいるようだが、長期戦にしてはならない。呉蜀の境界では食糧の略奪なども行われ、関羽軍への補給となったと聞き、甘寧は怒り心頭であった。

「あいつら、先に裏切ってんじゃねえか。あの偉そうな髭面、ぶん殴ってやる」
「あんたのがさつな考えにはいつも苛々するが……今回は同意。俺は背中を蹴ってやりたいね」
「ちんたら寝返らせてねえで、俺らで関羽んとこ乗り込もうぜ、なあ」

 こんなに砕けた軍議はあるだろうか、と凌統はため息を吐く。甘寧の考えは至極簡単で、とにかく突っ込んで総大将を討ち取りたいのだ。猛将との一騎打ちが叶えばこれ以上の喧嘩はないだろう。一応そこに自分を含めてくれていることには安堵するのだが、どう聞いても甘寧は関羽とのタイマンを期待している。

「あのねえ、これは俺の策じゃないっての。呂蒙殿のお考えなわけ。保護者の言うことくらい聞けって」

 あえて名前をゆっくり発言し、煽るように保護者という単語を使ってみたが、甘寧はあまり乗ってこず、口を尖らせて西方を睨んだ。なにがなんでも関羽とやり合いたいらしい。
 甘寧の実力は本物だ。特に戦場では、いつもの勘が更に研ぎ澄まされて冴え渡っている。先鋒でのびのび突っ走るか、奇襲隊として暴れ回るかのどちらが多く、後方支援に回ったことはあまりない。今回はまず敵を寝返らせ、江陵を奪取して後ろ盾を無くすのが仕事となるのだが、遠回りな策が甘寧には退屈に感じるのだろう。

「まあ、あんたの気持ちも分かる。けど、万が一にもあんたが一人で関羽んとこ行っちまって、もしやられちまったら、呂蒙殿は二度と起き上がれないぜ。あんたのこと、随分可愛がってんだろうし」
「俺が関羽に負けるって言ってんのか?」
「可能性の話をしてんだっての。もちろんあんたがきっちりあの髭を土産にしてくるかもしれない。けど、呂蒙殿は……いや、孫権殿は、皆で関羽を倒して、皆で祝杯をあげたいんだ。分かるかい?」

 孫呉の在り方は、かつての近親と縁者で立ち上がった頃からは変わってきている。だが、孫家の温かさは変わらず受け継がれていた。何度かばらばらになりかけたが、今や立派な一枚岩だ。その中には当然甘寧も入っている。誰一人欠けてはならないのだ。
 凌統の諭しが響いたのか、甘寧は呻きながらも頷いた。まるで野犬だ。手懐けるのも苦労する、と呂蒙に同情する。またため息が出そうになったときに、隣からむんずと尻を揉まれ、妙な声が出そうになった。

「っ、おい!」
「あー? んだよ、分かったって。早くまとめろよ」

 今簡易に張った幕舎内は甘寧と凌統が隣り合わせて卓前にいる。最奥で立っているから背後に人はいないが、前にはそれぞれの副将や部隊長らが並んでいた。呂蒙の策を地図を通して動きを確認し、命じなければならない。だというのに、甘寧の手が後垂れを避けて、布越しに臀部を撫ぜてくる。明日が開戦でなければ殴り蹴り追い出しているがそうも行かず、凌統はきつく甘寧を睨み付けてから、卓に手を伸ばした。さっさと終わらせるに限る。

「戦況としては、関羽軍が曹仁をこの樊城に追い詰めてる。水攻めに兵糧攻めとやりたい放題だ。于禁はやられちまったが、徐晃軍がまもなく北に着くらしい。兵力差を考えると、この援軍で関羽を城から引き剥がせそうって算段だ。他の逃げ道はそれぞれ陸遜が封じてる。つまり、ここ江陵に逃げてくるしかないわけだ。俺たちが怠ると、みすみす関羽を逃しちまう。糜芳と傅士仁への説得は俺らがやるから、状況を見て付いてきてくれ。質問あるかい?」

 一気に説明しきった凌統は、両手を卓に着けて部下たちを見上げている。その目の圧力は甘寧の手下も息を吞むほどだ。

「明日は全力で行く。んじゃ、解散。夜警は決めたとおりに順次頼む。あと、俺と甘寧、もう少しだけ説得の仕方を詰めるから、この幕は放っといてくれ」
「か、かしこまりました」
「おっかねえか? お前らの上官気合い入ってんなー。へへ、おい野郎共、俺らも負けてられねえぜ!」
「おお!」

 勢いの良い号令で全員が撤収していった。聞き分けのよさは水軍時代の賜だろう。凌統軍は合肥の戦の後に再編されたので、まとまりとしては甘寧軍に劣る。しかし今、凌統にとってそのようなことはどうでも良かった。

「ふざっけんな! 重要な場面であんたとどうこうする気はないんだよ!」
「おいおい期待しすぎだろ。別になーんにも考えてねえぜ? ただ、良い尻だなーと思っただけでよ」

 歯を食いしばって怒りを逃そうとしたが、かえって甘寧の手を許容しているようになってしまった。撫ぜて揉む手つきは止まず、むしろ背後から抱き込まれて、手が前にも伸びている。

「なあ、本当に……っ!」
「こっちも期待して起きちまってんなぁ。仕方ねえから慰めてやるよ」
「っ!」

 あっという間に姿勢を崩され、卓上に転がされた凌統は、手で視界を覆って唇を噛んだ。甘寧の手が意図的に触れるだけで、しっかりと発情する体になってしまった。そのことが情けなく、悔しく思いながら、這いずる手を止められないでいた。
 


  
22/26ページ