凌雲を掴むまで
憧れていた父と遂に同じ轡を並べられるとあって、凌統は燃えていた。亡き孫堅の仇を討つため、孫権軍は夏口城への進軍を決行していた。
「公績、随分浮足立っているぞ。
「ですが父上。ようやく目の前で活躍を見てもらえるんですよ。はしゃぐなという方が無理ですって」
「まったく」
凌統は皮肉や冗談を好み、年の割に大人びている。その彼も敬愛する父を前に、幼子のように目を輝かせていた。しかしその視線が向く先は戦場である。命の奪い合いを前に爛々とする息子を見て、凌操はため息を吐いた。頼もしいような無謀なような、とにかく逸りすぎないよう注視していくしかない。
軍団を見渡すと、兵達もどこか落ち着きがなかった。凌統を幼少の頃から知っている者たちからすると初陣が心配で堪らないのだろう。そうは言っても凌統も武闘衣に身を包んで長い。調練の様子からしても、彼らに引けを取らない動きをしている。父親としても孫呉の一員としても凌統のことを頼もしく思い、凌操は頭を撫でてやった。
「父上……いつまでも子ども扱いはよしてください」
「ならば、武勲を立ててみよ。だが、決して無理はするな」
「分かってますって」
軽口で返してくる息子に苦笑を送り、馬の歩みを進めた。
先陣を任された凌操は順調に夏口城前に到達していた。少し後ろを付いてくる凌統一派も、危なげなく黄祖軍を蹴散らしているようだった。夏口城の付近は不気味な程静かだった。追い付いた凌統が声を掛けてくる。
「敵さん、びびって出てきませんね」
「こういう時には裏があるものだ……殿の到着を待とう」
静かに頷いた凌統は周囲を警戒しつつ大人しく馬上に留まっていた。得物を振るって敵兵を地に沈め、体は十分温まって来ていた。やや前のめり気味だった気持ちも落ち着いてきている。この調子で、親子で城を奪取し黄祖を捕らえる。凌統がそんな確信に近い期待を持った頃、孫権らも合流した。
「凌統。随分張り切っているようだな」
「お忙しいのにお声がけくださって。ま、今んとこ上々です」
「頼もしいな」
目尻を下げて笑う君主に、凌統こそ目を綻ばせた。その時だった。銅鑼がけたたましく鳴り響き、伝令兵が飛び込んでくる。
「敵襲、敵襲です! 鈴の甘寧が向かってくる模様!」
遠くから不穏な地鳴りが聴こえる。
危険を察知した孫呉軍は一度引き下がることを決めた。孫権の身柄が無事でなくては、仇討ちは達成されない。
「ちぇ。仇の首を目の前にして下がるってのも、悔しいね」
「公績、我々は重要な
「はい、そこは抜かりなく。鈴の、なんでしたっけ。そいつ、強いんでしょう」
「甘寧。黄祖の傘下に入った男だ。水賊ごとき、叩き返してやるとするか」
凌統は眉を上げた。父親が何かをこき下ろすことが珍しく思えた。何かしら水賊に対して良くない思い入れがあるのかもしれない。思い返すと、孫権の腹心である周泰にも少し冷たい態度の時があったような気がした。凌統の思案は、頬に当たる粒で中断された。
「降ってきちまいましたね」
「あぁ。雨は視界が悪くなる。慎重にな」
凌統は手にした節棍を握り直した。温まっていた体は冷えてきていて、装飾を撫でた指先は余り凹凸を感じられなくなっていた。人や馬、地面や木々に当たる雨の音が集中を途切れさせる。凌統は落ち着きなく足や節棍をぶらつかせ、目を左右に振って索敵した。
前の部隊が引き上げたのを見て、凌統も続くことになった。遠くでざわめきは聞こえるが、敵の姿形が目に入らない。不気味に思いながら馬を進める。
不意に、ざわめきは近くにやってきた。雨音に交じってリンリンと不釣り合いな音が凌統の耳にも聞こえた。
振り向いた時には、少し離れたところで既に凌操が打ち合っていた。丁度豪雨となり、視界を奪われて凌統は近づくことができない。だが、何十合めかで、押し負けて退却を決めたように見えた。
兵達が叫んでいた。凌操の名を繰り返し呼んでいる。勢いの落ち着いた冷たい雨を浴びながら、凌統は馬の腹を蹴らずにゆっくりとそちらへ向かった。
横たわっているのは、つい先刻まで会話をしていた相手だった。衛生兵が何やら叫んでいるが、凌統には分からない。何故頸部に矢が刺さっているのかも理解できなかった。ほとんど無意識に父親を呼んだ。凌操が目を開く。その息は酷く荒い。
凌統は慎重に馬を下り、父の傍で膝をついた。複雑な意匠の膝当てが泥に
「不覚だった……水賊……ごときに……だが、この矢は、見事だった……」
「父上、余計な事を喋らないでください」
「公績、逃げろ。生きて、俺の軍を、孫権様を、頼んだぞ……」
凌操の目が濁り、握った手が動かなくなるのを凌統はただ微動だにせず目の当たりにした。動くことが出来なかった。到底受け入れられなかった。だからただ、眺めていた。
周囲が騒がしくなってきて、凌統はようやく現状を認識した。凌操が戦死したのだ。
「父上ぇ――!」
凌統の叫びと共に、雨脚が強まった。
兵達は退散を叫んでいる。凌操の亡骸を綺麗なうちに城に帰すべきだ、とがなり立てる副将に頷き、凌統はその体を男に預けた。しかし、その退却命令に背いて駆け出す。混乱した軍団の中で、凌操の体を支える男が必死に制止したが、その声は凌統には届かなかった。
凌操の歩兵達は尽力して敵将を留めていたようだった。最後の一人が吹き飛ばされたのを目に入れた凌統は高く跳び、節棍をその頭に向かって振り落とした。
――獲った!
しかし、あっさりと青龍刀に受け止められた。雨に動じない立った髪、赤い鉢巻に差した羽、刺青の踊る体に大きな鈴――戦前に聞いていた風貌と一致し、凌統は唇を噛む。鈴の甘寧、黄祖軍で唯一警戒すべきとされていた男であり、今や凌統の親仇となった。渾身の一撃を受け流された凌統は、悔しさと怒りを隠すことなく相手を睨み付けた。
「んだあ? お前、何いきり立ってやがる」
「あんたは、親の仇相手に涼しい顔が出来るのかい?」
節棍を構え、鎖を張る。凌統は自身のことはもう何も分からなかった。体温も、得物の感触も、体に当たる雨の音も興味を無くしていた。父を射殺した猛将を前に恐怖すら湧かなかった。あるのは仇への憎悪だけ。だが、斜に構えて生きてきた彼の口をつくのは日頃と変わりない皮肉だった。
「俺は、そこまで乱世に馴染んじゃいないんでね」
言い切ったと同時に一騎討ちが始まった。凌統自身は気付いていないが、これまでの攻撃より格段に重たい一打となった。甘寧の唇から口笛が漏れる。馬鹿にしたような態度にかっとなり、凌統は手足をがむしゃらに動かした。大きくなった立ち回りはすぐに読まれた。甘寧が
「くっ……」
「へっ。いきってた割には、だな」
「なんだと!?」
不利な体勢でも構わず、凌統は拳を男の胴に入れた。力は弱く、反撃にはならなかった。甘寧がお返しとばかりに頬を殴る。髪を掴まれているので吹き飛ぶことはなく、凌統は痛みと情けなさで視界が滲むのを感じた。親の仇を取るどころか、敵わないことを実感させられる悔しさに舌を噛んでしまいたかった。しかし、張られた頬を今度は潰される程の力で掴まれる。
「お前、結構そそる顔してるな」
強引に顔が寄せられ、唇を奪われた。殺される前に侮辱まで浴びようとは――。凌統は遂に涙した。降り続ける雨がそれをかき消していく。
「兄貴! 退却です!」
「ああん?」
「黄祖様が、危機とのこと!」
「せっかく滾ってきたところだってのによ……仕方ねえ」
凌統の体は捨てられるように解放された。甘寧が刀を抱え直し、馬に乗る姿を絶望のまま眺める。
「じゃあな。次はもっと愉しく喧嘩しようぜ」
笑って掛けられた言葉が、この世のどれよりも酷いものに思えて凌統は耳を覆った。仇に生かされた事実が胸を刺す。喉がつかえて苦しいが、体の動かし方を忘れてしまったように身動きが取れなくなった。味方兵はようやく追いついたが、凌統は一言も喋ることがなく、状況を把握できないまま退却した。
孫呉軍は仇討ちを果たせず、夏口城を落とすことも出来ないまま、一度建業に戻ることとなった。
***
夢見の悪い日々が続いた。鬱陶しい雨が降り、どす黒い雲が空を覆う。その下に横たわっているのは父親で、首に刺さった矢を放ったのは鈴を携えた敵将。討つことは叶わず、どころか実力の差を思い知らさた日の夢である。決まって脂汗をかいて飛び起き、その記憶を打ち消すように鍛錬に励むようになっていた。
親の仇を討つというのは何を差し置いても優先すべきことだ。凌統の中にはその信念がより強く刻まれた。孫権の仇討ちの助力にもなるとして、故郷で喪に服すべき期間も、無理を言って建業に居続けて鍛錬に励んでいた。凌統の鬼気迫る勢いに圧倒され、彼の
武に励みながらも、一軍を担う棟梁として国の情勢は積極的に耳に入れている。黄祖を、そして甘寧を討ち果たす日を刻一刻と待ち構えている凌統は、その日が来たのかと期待しては落胆していた。
聞こえた話では、進軍ではなく近々大規模な帰順があるようだ。凌統は自身の軍を率いるのがやっとである。国の駒のことは都督らに任せるべきだと考え、特段詳細を尋ねることはなかった。その中枢である周瑜や呂蒙らと稀に顔を合わせると、二人はよく凌統に話しかけてきた。時折何かを言いかけては言葉を詰まらせている。凌操を喪った自分を労っているのだろうと深く踏み込まないようにしていた。
大広間に鈴の音が響いた時、凌統は衝撃で身動き出来なかった。頭が真っ白になるとはこのことで、凌統は自身がなぜそこに立っているのか、なぜ大勢が頭を垂れているのか、歩いてくる者は誰なのか、分からなくなっていた。
――これで終われる。
思考が繋がった。戦地に赴かねば取れないと思っていた首が目の前にのこのこと現れたと分かった。
一歩踏み出そうとした凌統の肩を大きな手が制止する。隣で深く拱手していたはずの太史慈の手がなぜ自分の肩にあるのかが理解できず、凌統は眉をひそめた。肩だけを動かしてその手を払おうと試みたが上手くいかない。その間にも鈴の音は一歩一歩と前に進んでいるようで、君主である孫権の方へ向かっていた。焦りが凌統の中に生まれる。動こうとした体はやはり太史慈により止められてしまった。
「離してくれって」
「待たれよ。大事な会だ。台無しにする気か」
密やかな会話は君主や付近の古参には聞こえていないようだった。幸い凌統や太史慈は前列ではない。諸将らが立ち並ぶ厚い層に阻まれて、凌統が鈴の音の主を直接見ることはなかった。それでもこの鈴の持ち主が、憎き仇の者であると確信していた。
「奴がいますよね。公開処刑なら、適任は俺しかいないでしょう」
「凌統。甘寧は、孫呉に帰順した」
凌統は太史慈の腕を握り潰さんとばかりに掴んでいる。その力をものともせず、太史慈が小声で事実を告げた。耳元に落とされた音が意味を運んでくるまで、かなりの時間を要した。どくどくと不穏な拍が鳴っている。
太史慈はそんな凌統を見て、次の行動を悩んだ。この場にいることはやはり得策ではないと判断し、凌統の腕を引く。出入口から最も近い位置に配置された意味を今更理解して、嘆息した。このような衝撃を与えるくらいなら事前に言っておけばよいものを、と珍しく軍師に
腕を引き、共に広間を出て、天井の高い回廊の壁に凌統を突き飛ばす。ようやく凌統は太史慈と目を合わせた。大男の目は真っ直ぐ凌統を貫いている。
「凌統。分かるな。仇討ちは諦めよ」
「……冗談きついっつの」
「俺も、孫策殿に敵対している間は多くの者を討った。だがこうして、受け入れられている」
凌統は眉を吊り上げて唇を噛み、几帳面に結い上げられた頭を乱暴にかいた。
「落ち着かれよ」
「あんたは恨まれる立場だから分からないでしょうけど、急に仇が現れて、落ち着ける奴がいますかね」
「そうだな。俺では適任ではないかもしれない。だが、事実を受け止めろ、凌統。甘寧は今を以て孫呉の人間となった。殿のご意向だ」
少しも目を反らさず、じっくりとした低音で太史慈は事実だけを告げた。冷たいくらいの淡々とした言葉たちは無遠慮に凌統を刺す。恨みや怒りの矛先を強引に変えさせるという気概からだったが、凌統はまるで理解できないというように頭を振った。
結局そのまま凌統はふらふらと広間を離れていった。その背を太史慈が複雑な思いで見守る。昨日まで敵だったものが味方になることは珍しくない。太史慈も孫策が伸ばした手を取って孫呉の人間となった。もしかすると国内には凌統と同じように恨みを抱きながら我慢を強いられた者もいたかもしれない。
しかし、今必要なのは孫呉を盤石な国にするための人材である。甘寧ほどの猛将が味方に加わるのは喜ばしいことこの上ない。拳を握って、虚空に向かって手を合わせ、軽く頭を下げた。凌統の強さを信じている太史慈が、最大限払った敬意だった。
屋敷に戻った凌統は、無言のまま私室に籠った。忠孝篤い凌統が儀式を勝手に抜け出したのは初めてのことである。その罪悪感すら今は浮かんでこない。かえって、儀を台無しになかっただけ偉いとすら思っていた。
強引に髪留めを外す。何本か抜けた髪と一緒に床に放り投げた。ぶつかった音が立てる音にすら苛立ち、凌統は壊しそうな勢いで寝台に腰かけた。
――理解できない。認められない。父上を討った奴だ。親の仇だ。仇討ちを遂げられない武将がどこにいる。武将凌操を喪って泣いた人間がどれだけいると思っているんだ。俺は、凌家当主として、あいつの首を取ると決めたんだ。
凌統は拳を見下ろした。あちこちにまめが出来て不格好である。節々は固く、籠手の痣も至る所にあって肌が変色していた。紛れもない努力の証であり、父の仇を取るために生まれたものだ。
太史慈の言葉が凌統の頭に響く。甘寧は、今を以て孫呉の人間となった。
「うっ……」
凌統は足先から痺れが駆け上がってくるのを感じた。自身の体のはずなのに、乗っ取られたように勝手に震え出す。せり上がってくる吐き気に自然と涙が滲んでいった。体温が奪われて指先の感覚がなくなった。まるで凌操を喪った日のようだった。
恐怖を感じ、寝台の横に備え付けた棚の上に手を伸ばした。凌操が凌統に与えた二節棍で、今は使っていないものだ。強く握ったつもりだったが、すぐに手から零れ落ちた。寝台の端にぶつかって跳ね、足元に乾いた音を立てて転がった。それが記憶の中の亡骸と重なって、凌統は嘔吐した。喉を焼く感覚がきつく、止まない寒気も頭痛も、全てが彼を攻撃した。
全てを出し切った後、着ていた服を脱いで乱雑に清拭してから寝台に転がる。寒いのに新たに服を着る気力もない。指先一つ満足に動かせない。凌統の意識がゆっくりと暗闇に沈んでいった。