凌雲を掴むまで



 凌統軍は順調に馬を進め、曹操軍本陣へ向かっていた。途中、拠点を奪取し休息していたところで、伝令が飛び込んでくる。

「お伝えいたします! 甘寧様の軍が奇襲に成功、李典軍に勝利!」

 わあ、と凌統軍も歓喜に沸いた。特に甘寧から直々に修練を受けていた者らは素直に破顔している。以前までの軍にはない空気に、凌統も思わず苦笑した。必要な伝令を全て聞いて返す頃には、拠点の中はすっかり祭り騒ぎになっていた。

「いいとこ持って行きやがった。……やっぱり、呉に甘寧あり、なのかね」

 独り言として呟く。甘寧の地位や役割が羨ましいとは思っていない。呂蒙や、これまで命じてきた魯粛、周瑜の采配はやはり正しかったのだと再認識し、力一つでのし上がってきた甘寧のことを認めざるを得なかった。色々と面白くない気持ちはあるが、孫権を支える担い手となったことは確かだ。
 掌を眺める。長年の鍛錬でまめだらけになった手。君主のために、この手で数えきれない程の命を奪ってきた。甘寧と同じように、敵対した相手を叩いただけだ。敵味方が入り乱れる世界を受け入れる覚悟が決まると、凌統の中に不思議な気持ちが湧いた。
(あの極悪面が見たいだなんて、俺も相当疲れてるな)
 たとえば今、目の前にひょっこり甘寧がやってきたらどうするか、と自問した。突然頬を引っ叩けば、きっと目を吊り上げて怒るだろう。皮肉たっぷりに煽り文句をくれてやれば、いまいち理解はしていないだろうがきっと眉間に皺を寄せて嫌がるに違いない。
 その想像はどちらも凌統を楽しませた。拠点のど真ん中で口角を上げている隊長に、周辺の兵は首を傾げつつ束の間の平穏を味わっていた。

 賑やかな時間を終えて進軍するとすぐに敵軍団が見えてきた。旗色は深い青で、刺繍は張の字だ。腰元から三節棍を取り出して構える。

「呉の将は皆、震えていると思っていたが、貴公は違うようだな」
「あいつに負けない活躍をしないと、俺も立場が無いからね」

 張遼が馬上から双戟を軸に回転して着地した。不安定な重量を物ともせず、そのまま突進してくる。鬼神の如き迫力に気圧される軍を、凌統が鼓舞した。

「ここで引いてられないぜ!」

 凌統は冷静に三節棍を操り、懐に入られないよう距離を取った。風を切る音に張遼が動きを止め、戟を構えて防いでいる。

「む……一節増えておらぬか」
「何が、って、節棍のことかい。あんた、お堅い顔して面白いこと言うね」
「面白い、とはこれまで言われたことがないな」
「人望ないんじゃないの」
「痛烈なことを。深く傷付いた責任、取ってもらわねばならぬ」

 双戟と節棍が激しく打ち合う音が辺りに広がる。強風を上回る激しい打撃音に、周辺の歩兵らがおののいた。複雑な動きをする三節棍を凌統は自在に動かしてみせた。ある時は目に見えぬ速さで振って盾のように、ある時は胴を突く槍のように、またある時は死角を狙う矢のように、その特性を存分に生かし攻め立てた。張遼は大きな体や武器にもかかわらず俊敏に動き、それらに対処している。勘の鋭さに凌統は舌を巻いたが、決して怯みはせず、強気に当たり続けた。
 強風により弓兵は機能していないが、張遼軍の一派が凌統軍の歩兵を威嚇するために、連矢を放った。ほとんどが吹き上げられて飛んで行ったが、内一本が流れ矢として凌統の背後めがけて飛んでくる。

「凌統様っ!」

 副将が叫んだのと、鎖鎌がその矢を折ったのは同時だった。

「よお、張遼だっけか。その喧嘩、俺も混ぜてくれや」

 水龍を身に纏い、鈴を連ねた男が快活に笑っている。その名を、凌統と副将が呼んだ。凌統は甘寧の顔を見て覚えた安堵を胸中で押し潰し、必死に睨みつける。

「なんの真似だ。俺一人で十分だっつの」
「俺ぁただ暴れ足りねえだけだ。独り占めは良くないぜ、凌統」
「はあ。喧嘩馬鹿はこれだから手に負えないんだよ」
「ふむ……聞いていたよりも随分和解されておる」
「してないしてない。あんた勘悪いって言われないかい」
「ここでまとめて、お相手願うっ!」

 張遼が双戟を構えると、軍団の兵が雄叫びを上げて総攻撃を仕掛けてきた。凌統は多くの兵や張遼の激しい攻撃に対応する内に、自然と甘寧と背中を合わせていた。
 甘寧の動きは目に見えなくても分かった。その呼吸も、獲物を振る瞬間もはっきりと把握できた。良くも悪くも最も甘寧を観察してきたのは、他でもなく凌統だ。

「痛って、おい凌統、前だけぶっ叩けや!」
「あんたこそ鎖鎌全方位に振り回すのやめてくれない? 背が高いもんで、ぶつかるんだよ」
「いちいち嫌みったらしいぜ!」
「あんたはがちゃがちゃうるさいんだよ!」

 事実、甘寧が動くたびに身に着けている装備や鈴が鳴り、嫌でも存在を意識させられた。動きや次の攻撃が分かると、なぜか呼吸を合わせることすら出来た。傍から見ても息の合っている動きは、次々に張遼軍を倒していく。

「く……これでは太刀打ちできぬか」

 さしもの張遼も二人の勢いに圧されていた。鎖鎌と三節棍の壁に阻まれ、将本体に武器が届かない。一人に気を取られていると、もう一方の得物が狙ってくる。一度でも絡まれば共倒れしそうな状況であるのに、二つの武器はまるで生きているように互いを避け、張遼軍だけを狙ってくる。背と背が触れそうな至近距離で時折肘ら足やらをぶつけ合っているのは、もはや仲の良さを主張されているように見えてならなかった。

「くっ……。今は退こう。いずれまた、戦場で武を競わん」

 張遼が宣言すると、ぞろぞろと兵が退散していく。凌統は息が上がったままその光景を眺め、胸を撫で下ろした。あの張遼を退けた、という安堵が一気に全身の力を奪っていく。

「凌統!」

 甘寧の怒鳴り声が響いて、凌統はいつものように文句を言おうとした。なにやら温かいものに顔が埋まり、声が出せない。どころかうまく息が出来なくて、戦闘後の苦しさと混じる。反射的にもがいて近くにあったものを掴むと、甘寧の腕だった。酸素が回らない頭で逡巡し、甘寧に抱き留められていることが分かった。腕を引っ張られ体勢を崩していたので、肩に唇が当たっていたようだった。熱かった体温がより一層上がり、一気に汗が噴き出してくる。

「なっ、ば、何して」
「気ぃ抜いてんじゃねえよ」

 眼前で睨みつけられ、凌統は不快に眉を寄せながらも背後を見た。一人、新たに地に伏している。張遼軍の者が退却命令に背いて、死に物狂いで突出したようだ。――甘寧に庇われたのだ。そう分かると、凌統は屈辱と悔しさでめまいがして、足元がふらついた。甘寧が腕を背から腰に下ろして支えてくる。

「あんたに、助けられるとはね」
「ったく、俺が助けなきゃ今頃あの世だぜ」

 うんざりする様子も見せず、甘寧が快活に言うので、凌統の中の恥辱は少し薄れた。甘寧という男は、この腕の中の人間が誰であったとしても、こうやって全力で守るはずだ。自分ばかりが劣等感を抱いて反発するのは、やや格好悪い気がした。視界が戻り、呼吸を取り戻して甘寧の腕を払う。

「ああ、はいはい。そういうことにしておいてやるよ」
「……おお。随分素直じゃねえか」
「感謝してるんだっつの。あんたも、大人しく感謝されとけよ」
「へっ。口の減らねえ野郎だぜ」

 互いに拳を向けてぶつけると、じんと痛みが響く。鈍い痛みが生きている証だった。
 凌統がそろそろと周辺に目を向けると、凌統軍と甘寧軍の兵たちはすでに大将らのやりとりを見ておらず、互いの軍の損害を確認したり、無事を讃えあったりして、忙しなく動いていた。

「つうか、感謝してんなら、肩じゃなくてこっちに口付けてくんねえ?」

 甘寧がぶつけた拳を口元に持っていく。誰も気にかけていないとは言え、衆目のあるところで接吻をねだる甘寧の頭を、凌統が遠慮なく叩いた。

「痛ってええ……てめえ、それが命の恩人に対する態度か、あぁ!?」
「あんたの図々しさ、治してやろうと思ってね」
「絶対ひいひい言わしてやるから建業戻ったら覚悟しとけよ」

 凌統はそれには返答せず、無視を決め込んだ。敵本陣の近くで妙に気の抜けた面持ちなった時に、伝令が飛び込んでくる。

「伝令っ! 総大将・孫権様が……曹操に」

 凌統は再び、視界が暗くなるのを感じた。血の気が引いて、息の仕方が分からなくなる。ふらつきそうになるのを、なんとか堪えた。


***


 伝令が告げたのは、孫権は生きているものの、曹操軍の主将と大軍が取り囲んでいるという状況であった。呂蒙の落石策や甘寧の奇襲、そして凌統の猛進が成功しても、大将が取られては孫呉軍の敗北である。
 生きた心地のしなかった凌統だったが撤退の指示は冷静に出した。先ほどまで茶化し合っていた甘寧も、物騒な顔つきでてきぱきと後退の準備をしている。本陣に戻ると、青い顔をした呂蒙が立っていた。無事の合流を喜ぶ暇はないようだった。

「甘寧、凌統。此度はよくやってくれた。だが、聞き及んだかとは思うが……この戦、我が軍の負けだ」
「なぜ、そんなことに……てっきり順調かと思っていたんですが」
「お前らに非はない。読みが甘かった俺の責任だ」

 唇を噛む呂蒙の背を、甘寧が力強く叩く。

「おいおい、おっさんだって一生懸命やったんだろ? 殿さんも俺らも生きてんだぜ、落ち込むなよ!」
「一生懸命って……ガキみたいな励ましだねえ」
「うるせえ! とにかく、俺らはどうしたらいいんだよ。殿さん、今どこでどうしてんだ」

 突っ込みは入れたが、甘寧の疑問は最もである。凌統も佇まいを正して呂蒙に向き合った。もし、君主が酷い有様で拘束でもされていたら――そう思うと、怒りと絶望で凌統の手が震える。

「まず、殿はご無事だ。曹操に歓談という名目で連れられ、その身を寄せているが、周泰殿も練師殿も一緒している。危険が及ぶことはなかろう」

 最も知りたいことが分かり、安堵で凌統の膝が笑っている。孫権が無事なのであれば、他になにもいらない。改めて認識して、鼻がつんとした。

「曹操の野郎、何が狙いなんだよ」
「――関羽だ」

 呂蒙の顔はまだ青い。げっそりと目の下に窪みを作っている。伸び放題の無精ひげも相まって、その顔は実年齢よりもずっと老けて見えた。

「曹操は関羽の首を取ることを条件に、我ら孫呉と手を組みたいと言っている」

 どくどくと血脈の音が聞こえる。これだから、乱世になんか染まりたくなかった。凌統が真っ先に思ったのはそんな抗議だった。

   
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