凌雲を掴むまで

 

 一時生命が危ぶまれた凌統は、適切な治療を受けて驚異的な早さで回復した。段階的な訓練であっという間に筋力や体力を取り戻して、孫権の前に立ってみせた。合肥の戦にて掛けてもらった上衣を差し出し、腰を折って手渡す。

「殿、長らくお借りしました」
「律儀だな。やったようなものだ」
「いえ、さすがに畏れ多いもんで……って、半年も借りておいて言えたことじゃありませんけどね」
「凌統。武官としてのお前の姿を見ることが出来て、本当に嬉しく思う」
「ありがたいお言葉、嬉しく思いますよ。殿に掛けて頂いた服と言葉、忘れません」

 命に代えても孫権を守る。その意気は変わらないのだが、凌統の中で一つ決めたことがある。生涯をかけて傍にいるために、自分も生き延びる。どれだけ辱められ、虐げられたとしても、命ある限り孫権に尽くすことができるのだと気が付いた。そのためにも、修練を重ねるだけでなく、一層健康に気を付けるようになった。

「明日の軍議で先鋒を決める。お前の意気込み、しかと聞かせてもらうぞ」
「はい!」

 勢いよく拱手し、深々と頭を下げた。本来、開戦前の慌ただしい時に臣下に割く個人的な時間はないはずだ。それを許された立場である喜びを噛みしめながら、凌統は室を去ろうとした。

「時に凌統、甘寧とはどうだ」
「は?」

 思わず素のまま返事をした凌統は、慌てて正面を向き直し、詫びの礼をした。孫権はよいと言って笑っているが、その背後に立つ強面の長身からの視線が痛い。

「どう、とはどういうことです? 随分前に殿に誓ったはずです。仇討ちはしないと」
「そこは一点の曇りもない。お前を信じている」
「なら、なんです。ちょっとした言い争いはしますけど、軍を乱すことはしませんって」

 じっと蒼い目で見られると、凌統は居心地が悪くなってきた。まさか、妙なことは悟られていないだろうが、何を確認したいのだろうか。背を汗が伝う。

「そりゃ、甘寧のことは気に食わないですよ。つうか、好き勝手行動して周りに迷惑かけて、素行が荒くて風紀が乱れて、声だの鈴だの姿だのうるさくて、最悪です」

 君主相手に一体何をぶちまけているのだろうか。頭のどこかでは冷静に言えるのだが、体は乗っ取られたように思いの丈を吐き出す。

「ただ……強さは認めてます。馬鹿正直でぶれない芯に部下がついていくことも、熱意に引っ張られる人間が多くいるってことも、分かっちゃいます」

 甘寧が親の仇であり続けることと、同じ孫呉の武官であることは、今になって自然と同居した。事実は変えられないし、凌操の仇を討てなかった悔いはあるが、最も父が求めていた忠義に尽くすことはできる。

「濡須口では、俺もあいつも、全力を出します」

 先ほど勢いよく音を立てた拱手を、今度は静かに時間をかけて行う。孫権に向けて告げたはずなのに、自身の脳に沁みていくようだ。甘寧と共に闘う覚悟が決まったのか、とようやく自覚した時、孫権の高笑いが室内に響いた。反射的に顔を上げると、孫権は台座で腕を組んだまま天を仰いで笑っている。大口で笑う姿は久方振りで、焦りよりも懐かしみを覚えた。

「ああ、腹から笑ったのは久しぶりだ。感謝するぞ」
「あの、お言葉ですが、何ひとつ面白いことは言ってませんぜ」
「なに、感動したのだ。お前は、お前らは私の宝だ。どんな財宝も、玉璽すら敵わない――最高の臣下だ」

 立ち上がった孫権が拱手をする。その姿こそ、凌統が見てきたどの景色より美しいものだった。きれいな目を見つめると、屋内であるというのに涼やかな風が駆け抜けて、心が洗われるようだ。

「未だに情けない姿ばかり見せて心苦しく思うが、お前たちに付いてきてほしい。父上と兄上が望んだ天下を掴むまで」
「御意。……殿の天下、どうか俺たちに支えさせてください」

 こんなにも清い方に尽くせる。これを越える喜びを凌統はまだ知らない。今後も知らなくていい。素直にそう感じた。


***


 回廊を歩いて中庭に着く。庭師が手掛けた花々を見ながら、庭石に腰かけた。とても爽やかな気持ちで孫権の室を後にしたというのに、なぜかどっと疲れている。明日に向けて、今日はもう調練も政務もない。たまには自室で書簡でも読むかと考えた時、鈴の音が飛び込んできた。いつも他人の人生を勝手に変える音だ。

「よお凌統! 奇遇だな」
「まさかあんたに自然を愛でる趣味があったとはね。俺が計算違いだった」
「はあ? ねえよんなもん。おっさんのとこと飯処の行き来すんのに近道だぜ」

 凌統は己の見解が間違っていなかった安堵と偶然の不運を味わった。次からこの庭には来ない。決心の最中に甘寧が髪束を掴み、地に向けて引っ張った。上を向かされると嫌でも目が合う距離だ。

「んだあ? まだ辛気くせえ顔してやがんな」
「ちょっとした気疲れだよ。放せっつの」

 目の前の腹を殴ってやると、甘寧は一瞬むっとしたが、すぐに切り替えて楽しそうに笑っている。ころころと表情が変わるところは子供のようなのに、戦場では凶悪な圧を放って戦うのだから恐ろしい。凌統にとっては、機嫌よく近づいてくる方がぞっとする。

「快気祝いでもしようぜ! サシで」

 うんざりするほど直球だ。甘寧の行動力と向こう見ずなとところにいつも呆れてしまう。それなのに凌統は、もうこの目の圧に捕らわれているような錯覚に陥っていた。

「なーんてな。どうせぐだぐだ言うんだろ、明日は軍議だからとかこの甘寧様とサシ飲みなんて恥ずかしくてできないっつのーとか」
「そう。明日は軍議だ。酒の匂いをさせながら先鋒買って出るなんてことはしたくないんでね」
「言っとくが、俺も先駆けを譲る気はねえぜ」
「ま、そこは殿の判断ってことで。この時間ならせいぜい酒瓶一本ってとこかい」
「へっ、一本程度じゃあ、飲んだ気にもなんねえな」
「へえ。それなら、行く意味ないね。じゃあな」
「…………あん?」

 凌統はあくまで、悠然とした表情のまま立ち上がった。髪束を揺らしてくるっと背を向ける。颯爽と歩き出すとリンリンと忙しなく鈴が追いかけて来た。

「待て待て待て、なんだ、あれか、いいのかよ!?」
「あんた、いちいち喧しいよな。女に嫌われるだろ」
「馬鹿てめえ、鈴の甘寧様だぜ、泣きながら抱いてくれってしがみ付かれるに決まってんだろ!」
「おモテになるなら何より」
「お? 嫉妬か? 妬いてんだろ」
「心配ご無用。俺もそこそこモテるんでね」
「そっちじゃあねえんだよなぁ」

 軽口の叩き合いはこれまでの人間関係にないものだった。素を見せると大抵は凌統の斜に構えた態度にうんざりする。継続した縁を持つには、それなりに気遣いが必要であると気付かされた。だが、甘寧にはその必要がない。そもそも凌統は関わりたくないし、嫌われてもむしろ喜ばしい程だ。他者と比べると皮肉も五割増しだが、あまり効いていないらしい。どんなに距離を取ってもずかずかと入り込んでくる甘寧が、なぜか少し面白いと思った。
 勝手に腰を抱いてくる腕を抓って退かし、睨みつけると、甘寧は笑いながら先を歩いた。


 もっと賑やかなところだと思ったのに。凌統は着いてきたことを後悔した。
 甘寧が誘導してきたのは町の外れにある店で、小ぢんまりとしていた。木造の建物は黒い塗料で重厚に構えていて、中はそれぞれ小さく区切った完全個室だった。

「随分雰囲気ある店だね」
「悪くねえだろ。詳しい奴から仕入れたとっておきの店だ」
「少なくとも、あんたとは来たくなかった」

 こういう店は、良い感じの関係にある女か、もしくは内密の話をする相手と来るものだ。ため息を吐きながらも凌統は逃げ帰らず、さっさと卓に着いた。一度した約束は守る方である。

「へっへえ。そうこなくちゃな」

 機嫌よく甘寧が隣に着いた。二人掛けの席は向かい合わせではなく、隣り合うように設計されている。本当に密事に使われているのでは、と凌統は壁に耳を付けてみたが、ささやかな男女の声のみが聞こえた。悪行ではなさそうだ。
 凌統が探っている間に注文を済ませたらしく、すぐに酒器が運ばれて、流れるように甘寧が注いだ。杯を掲げており、明らかに乾杯を求められると分かったが、凌統はそれに応じず空に杯を持ち上げた。

「献杯」
「……誰のだ?」
「誰だと思う?」

 眉を上げて煽る。ぐいと飲み干し、お代わりを要求すると、甘寧は顔を顰めながら応じた。少し嫌味を言うとすぐむっとする甘寧の反応は分かりやすい。凌統にはない素直さがほんの少し羨ましかった。無駄な羨望を打ち消すようにすぐ答えを提示した。

「太史慈殿だよ。俺は結構、世話になってね。なのにくたばってて、葬儀も行けなかったもんだから」
「なるほどな。……あの太史慈が死ぬなんざ、考えたこともなかったぜ」
「強い人だった。孫策様と拳でやり合ってるところ、見物だったぜ。やっぱ、もう会えないってのは、寂しいね」

 目線を卓に落としてちびちびと二杯目を飲む凌統を、甘寧が肘をついてじろじろと眺めてくる。

「なんだよ。幽霊でも見えてんのかい?」
「いや、お前ホントに見目がいいよなぁ。店に合うぜ」
「はっ、胸焼けするような口説き文句どうも」

 室を区切る簾の奥から静かな女の声がして、肴が運ばれた。甘寧がさっさと中央に置き、食器を配る。意外な面倒見の良さだと思ったが、よくよく考えると部下にはやたらと慕われているので、慣れているのかもしれなかった。きっと日常的に宴会をしているのだろう。

「そういうあんたは、もっとがちゃがちゃした店の方が合うんじゃねえの」
「まあ、あながち外れてねえ。野郎共と飲む時はうるせえ店ばっかだ。椅子も机もねえ、床に座って浴びるように飲んで騒いで、ってのが馴染むもんでな」
「……建業にもそういうとこがあるのか」
「お坊ちゃんにゃ、縁がねえだろうな」

 喉で笑われたが、凌統は全く悔しい気にはならなかった。粗雑な店で飲んでみたいという願望もない。それよりも、手元の酒が妙に口に合って驚いた。

「美味い」
「良い舌持ってんな。久々の南の酒はどれもうめえけどよ、ここのは極上だぜ」

 凌統は身の振り方を考えた。今日ここに来たのは甘寧と親交を深めたい訳ではない。あくまで借りを返しに来ただけだ。合肥の後、失意と絶望の底にあった凌統は、甘寧の言葉と態度に腹立たしいながらも救われた。甘寧は愚直なまでに、凌統が戦場に立つ男だと認めている様子だった。苦痛な機能訓練を乗り越えられたのは甘寧の喝があったからだ。もちろん、それを教えるつもりはないのだが、借りを作ったからには返したいと思っていた。それでほんの少し、お喋りをしてやろうと言う気になった。

「久々ねえ。あんたこっちにいたことあんの?」
「おう。東じゃなくて、あっちな。益州」
「今は劉備のところかい」
「こう見えて会計齧ってたんだぜ」

 不敵な表情で決める甘寧に、凌統は大笑いした。似合わない、と本来内にしまうべき感想が堂々と出る。

「ったく、どいつもこいつもよぉ。けどまあ、結果的に役に立ってるぜ」
「あぁ、腹痛いって。まあ、戦場じゃあ物数えらんない奴なんざ足手まといだ」
「金の動きやら物の動きやら見んのも、まあまあ面白かったしな」

 酒を舐めながら凌統は頷いた。凌統こそ、二世軍人とあって小さい頃から政を見てきた。大人のまねごとをして孫権や朱然と遊んでいた時期もあり、享楽で読んでいたものが今になって助けになることもある。

「なーんでそこからこんなんになっちまったわけ」
「じっとしてんのは性に合わなかったな」
「ははっ、生まれつきの性格なんだろ? 就く前に分かんなかったのかねえ」
「うっせ」

 甘寧の半生などどうでも良かったはずだが、こうして聞くとなかなかどうして興味深い。甘寧とは父親の件を抜きにしても性格が合わないものの、いち武将として強さの一端が気になった。

「親とか、本当の稚児の頃は何も覚えてねえ。腹減ったら盗んで生きてきた。今でこそ、良い体になったけどよ、骨同然のガキだったぜ」

 自信過剰な言葉は無視することにしたが、凌統は言葉に詰まった。過酷な幼少期だ。凌統の知らない世界にはこういった生活が溢れている。坊ちゃんという揶揄も否定はできない。

「悪さするにも字は読めた方が上手く行きやすかったからな。取り立てに回ってた役人を脅して、教えてもらったぜ」
「その役人ってのは不運だな」
「よく知らねえけど、その前は結構重てえ賦課があったらしい。俺の脅しが効いて生活が楽になったって、村の奴らからはありがたがられたもんだ」
「見方変えれば善悪も変わるもんだ。で? あんたは義賊になったって言い張りたいのかい」

 生まれについては同情するものの、凌統は非道な行いを好む方ではない。尖った声色で詰ったが、甘寧は気にした様子もなくからりと笑っている。

「てめえで義賊なんざ名乗れるかよ。錦帆賊ってのは、気が合った野郎共で好き勝手暴れてただけだ。お前みてえなお綺麗な奴から見たら良いもんじゃねえ」

 凌統は甘寧が食えない男だと実感させられた。身の程知らずという訳でもないらしい。ただ、これまでの人生を己の足で踏んで、きっちりと受け入れている。流されて生きているのは、むしろ自分の方かもしれない、と凌統は唇を噛んだ。

「あん時はまあ、自由で楽しかったな。けどよ、手下が増えちまったら暴れるだけじゃあ食っていけねえ。そんで、士官した。最初は劉表。そん次が奴だ」
「……へえ」

 甘寧が名を出さないことに、うっかり感謝しそうになったのを思い留めた。甘寧の仇討ちが成されない代わりに、凌家では黄祖の名は今でも禁忌とされていた。

「けど、あっちはつまんなかったな。結局、ろくに食わせてやれなかったしよ」
「あんたってさ、自分のことはどうでもいいのかい。喧嘩できればそれで十分ってのは腑に落ちない。部下のためなんて格好つけちまって、気に食わないね」

 これまで凌統は、甘寧が自己中心的に生きていると思っていた。強欲で傲慢で悪逆を尽くし、軍紀も弁えずに突っ走っているだけだと。そう思い込みたかった部分もある。憎き親の仇で、嫌っていたい相手だからだ。

「俺はいつだってやりたいように生きてるぜ」

 言うや否や甘寧が後頭部を掴んで強引に口付けてきた。店構えを見た時から予感していたものではあるが、急に来たので防ぐ暇がなかった。

「む、う」

 がっちりと頭を固定され、奥の壁に肩を押し付けられて逃げ場を失った。無様に息継ぎの隙を作ると、生温い舌が入って来る。

「ふ、っう、んん」

 その舌を噛み千切れば仇は討てる。そう過ったが、どうにも卑怯に思えて出来なかった。孫権の顔もちらつく。美しき碧眼に立てた誓いは本物だ。甘寧と共に闘うと決心したのだから、まさか早々とその晩に殺す訳にはいかない。それが、今この接吻を拒めないことへの言い訳だった。
 ぴったりと塞がれた口唇は焼けそうな程熱い。弄ばれるように舌や歯列を舐られて、ぞくぞくと背を駆け抜ける感覚が生まれた。冗談じゃないと思うのに、凌統の身体からは力が抜けていく。

「っ!!」

 甘寧の左手が、あろうことか胸を揉んできた。そこでようやく目が覚めて、肘を甘寧の胴に思い切り叩き込んだ。

「っぐ、て、めえ!」
「こっちの台詞だっつの! ふざけんな鈴野郎が」
「けっ、ちっとは乗り気だったくせによ」

 甘寧はむせながら凌統から距離を取った。息苦しい灼熱から解放されて凌統は内心安堵した。甘寧の武を認めているし、大敵と戦うために必要な存在だとは思うが、個人的な情は真っ平御免であった。

「まあいいぜ、十分貰った。続きは曹魏ぶっ潰してからだな」
「ねえよ、続きも今後も。一切合切、未来永劫」
「へえへえ。ま、お前はやっぱそうやって噛みついて来てんのがいいぜ。もうあんな風にくたばんなよ」

 さらっと望んでくる横顔に腹を立てた凌統が、机の下で隣の脛を蹴った。痛みに呻く顔に少しだけ、胸がすっとしていた。

  
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