凌雲を掴むまで



 孫呉一行は一度建業に戻り、軍の再建に追われた。甘寧も部隊の立て直しや船舶の補修に奔走していた。君主である孫権は臣下を次々と失った悲しみを胸に抱きながらも、すぐに立ち上がって前を向いていた。一時は批判や離反のあった軍も、凛と立つ君主に引っ張られるように盛り上がりを吹き返していた。

 凌統が目覚め、順調に回復しているという話は各方面から甘寧の耳に届いた。呂蒙、陸遜、周泰らが主であったが、すれ違っただけの君主からも直々に名を出されて、甘寧はばつが悪かった。国としては二人の協力が鍵になるとさんざん言われているが、変に期待されてはむず痒い。甘寧が凌統を気にかけているのは国の為などではなく、己の直感に従ったまでだ。これを機に、甘寧は己の本心を凌統以外に晒さないと決めた。


 多忙な日々と凌統の私室の警護を搔い潜り、ようやく凌統と顔を合わせることができたのは、建業に戻って三ヶ月が経つころだった。

「おう、どうだ」
「……わざわざどうも。ムカつく顔見たらぶん殴る気力も出たし、もう帰っていいぜ」
「へへ。やっぱお前はそうこねえとな」

 活き活きと飛んでくる皮肉は痛烈で、嫌そうにしかめられた表情も決していものではないはずなのに、これまでの人生で一番喜ばしい光景だった。寝台の隣に置かれた椅子に勝手に腰かけると、きつい目つきで睨みつけてきたが、それ以上の拒絶はなかった。

 甘寧は不躾に凌統の姿を眺め回した。日頃高く結っている髪は下の方で緩く縛られており、瀕死時よりもこしを取り戻していた。肌はやや痩せたが、唇の血色はいい。質素な寝間着で上体を起こした凌統は、派手な衣を掛布かけふに乗せて握り締めている。
 自分からやってきた割に、甘寧から話しかけることはなかった。姿を見ただけで満足していた。やがて、黙って視線を受けていた凌統がぽつりと話し出す。

「……軍は、どうだい」
「おう。取り戻してきてるぜ。騎馬隊が大方無事だったのがでかい」
「歩兵は?」
「そっちは足りてねえな。大分やられた」
「そう」

 それっきり凌統が黙ってしまったので、甘寧は頭を掻き、一度息を吐いてから、話し出した。

「船も粗方無事だったが、今急ぎで造船と補修をしてるぜ。あちこち人は足りねえんだろうが、なんとかするしかねえ」
「あんたの奇襲が成功したってのは聞かされたよ」
「いや、結局あれも、向こうの策とかいうのにはまっただけだろ」

 甘寧はこれまで、やり方を考えて喧嘩をしたことはなかった。だが、今や大規模になった国同士の争いにおいて、軍師連中の考える机上の論議がいかに重要かを突き付けられた。敗戦を悔いた呂蒙がほとんど寝ずに机に齧りついている姿にも影響された。
 曹魏の策にしてやられた忸怩じくじたる思いを、今は受け入れている。敗けは敗けだ。ただ、命ある限り、次は勝つ。甘寧は自らに喝入れしつつ、凌統を真っ直ぐに見た。

「凌統、さっさと治せ。次こそ曹魏をぶっ潰すぞ」
「……は、こんなぼろぼろの人間に鞭打つわけ。酷い野郎だな」

 覇気のない声で返してくる凌統に腹を立て、甘寧は相手が怪我人ということも配慮せずに胸倉に手を伸ばした。襟を掴み上げると、凌統が目を合わせてくる。自信に満ちた姿が思い出せそうにない程荒んだ目だった。

「あんたも知ってるだろう。俺は敗将だ。殿を窮地に陥らせ、父から譲り受けた部下も壊滅させた。こんな情けない武官を登用させる君主があるかい?」

 刺々しい自虐を吐く凌統が許せず、甘寧は頭を振り下ろした。頭蓋同士がぶつかり、鈍い音と激しい痛みが響く。

「い、った! おい! 重傷だぜ、ふざけんなっつの!」
「うるせえ! とっとと目ぇ覚ませや!」

 至近距離で恫喝を受けた凌統が首を竦ませたのを見て、甘寧は余計に苛々してきた。己の良さが分からない人間が許せなかった。

「お前は殿さんを守り抜いた猛将だ。お前と親父の軍が強かったのも国中が認めてる。今のお前の顔、散った奴らに見せられんのか、ああ!?」

 くしゃりと凌統の顔が歪んだ。ぐっと襟を掴む力を強めて甘寧が続ける。

「いいか、殿さんは次こそ曹魏をぶちのめして、濡須口を取るってよ。お前には倍の兵を与えるっつう話だ」
「……孫権様が……」
「次、温いこと抜かしやがったら犯すぞ」

 凌統がぎょっとしように目を見開き、襟ぐりを掴む甘寧の手を叩いた。あえてあっさりと払われてやり、椅子に浅く腰かけて睨み上げる。しばらくうろうろと視線を彷徨わせていた凌統が、手元の布をぎゅっと掴んだ。

「殿が俺を見捨ててないってんなら、俺はいくらでも戦う」
「当たり前だろ。ったく、死にかけて頭やられたのかと思ったぜ」
「言ってくれるじゃねえの。にしても……殿の度量には驚かされるって」

 凌統が虎柄の衣を握り締めたまま、目を瞑って何度か深呼吸した。戦後に見た青白い顔や、先ほどの腑抜けた表情を思えば、生気が戻っている。甘寧はその横顔を見ながら怠惰な返事で同意を示した。

「……倍の、兵か」
「今は俺と周泰の野郎で面倒を見てる」
「そりゃ、頼もしいこって」

 声色と口角が上がって、凌統が少し笑ったのが分かった。しかし、見つめ続けていると、みるみる俯き、握った拳が震えるようになった。

「…………俺さ、嫁も貰ってないし、こう見えてまだ若いわけ」
「あ?」
「なのに、随分、色んなもん失っちまってさ」

 乾いた目で自虐を吐いた時と同じくらい覇気はない。だが、今回は怒りが湧いてこなかった。出来るだけ口を挟まずに喋らせてやろうと、甘寧はただその横顔を見つめた。俯いていると垂れた髪が邪魔をして、表情はよく分からない。

「その度に、思うよ。悔しい。誰かを守る力も、上に立つ器量も足りてないって、突きつけられる」

 手を握った拍子に伸びた爪が皮膚を傷付けたようで、布を掴んでいない方の凌統の手から血が滲んでいた。甘寧は深く考えずにその手にてのひらを被せたが、振り払われることはなかった。

「くそっ……! 悔しい、くやしい」

 凌統の声はくぐもっていて、泣いているのが分かった。甘寧は慰めに来たわけでないし、その方法も持ち合わせていない。ただ、這い上がって来れる男だと確信していたので、腹が決まるのを待つことにした。右手で触れている凌統の手は冷たく震えている。嗚咽に混じって副将の名が零れ出たのを、甘寧の耳は捉えていた。

 駐屯地で会った時の硬い表情と丁寧な礼。二代に渡り凌家を支えてきた右腕だと聞いていた。気風の良い男だったし、練兵場で見かけた時も動きは良かった。失うのは惜しい存在である。あの男こそ、凌統の成長や活躍を見守り続けることが出来ず、悔しい思いをしていることだろう。そう思うと、甘寧はますます自身の想いを確固たるものにしていった。

 しばらくして静かになると、触れ合っていた手が払われた。日頃の一割ほどの力だ。

「はぁ。こんな無様なところ見せるのが、よりにもよってあんたってのがまた、情けないっつの」
「ああ?」
「あんただってそう思ってんだろ。笑えよ」
「笑うかよ。あの張遼とやり合ったんだろ。んで、殿さんもお前も生きてる。胸張れ」

 逃さないとばかりに再度手を握り、少し身を寄せて告げた。目を合わせて言うと凌統が分かりやすく狼狽える。

「突っ走るだけの奴ってのは、真っ直ぐすぎるね」
「おう。お前もそろそろ認めろ。よりによって俺、ってんじゃなくて、俺だからこそ吐き出せるものもあんだろ」
「どっから来るんだよ、その自信……」

 じわじわと凌統の目元が赤くなっていく。甘寧から見た凌統はやはり分かりやすい。そういう表情をするから期待したくなるというものだ。指先で凌統の手の甲を撫でると、今度はいつもの強さで振り払われた。

「つうか、お前いつまで殿さんの衣持ってんだよ」
「良いだろ別に。ちゃんと返すっつの。なんとなく、まだ、手離せなくて」

 上衣を掛ける瞬間に立ち会っていた甘寧は、孫権が凌統に対して「お前が生きていればよい」と涙ながらに伝えていたのを覚えている。心から喜んでいる凌統が単に忠心深いことは知っているが、面白くなかった。羽織っていた朱色の衣を脱ぎ去って押し付ける。

「寒くて掛布が足りねえってんなら、これやるよ!」
「いらねえってこんな汗くせえの!」
「いいから被っとけ、おら!」
「うわっ、やめろ馬鹿、こっちは怪我してんだよ」

 強引に肩に上衣を掛けたり振り払われたりを繰り返す内に、至近距離でも避けられていないことに気が付いた。もちろん怪我の影響もあるだろうが、甘寧は好機とばかりに凌統に口付ける。掠った程度の接触に凌統が固まっていたが、絶望的な拒絶は見えない。続けざまに口唇を押し付けると、ほとんど力のない抵抗で肩を押してくる。眉を上げて感嘆を示すと、凌統が赤い顔のまましかめっ面を見せた。

「動くと、傷が痛いんだっつの」
「なら、仕方ねえな」

 強く拒めない理由を立ててきた凌統にぐっときて貪ってやりたくなったが、甘寧は努めて優しく、触れるだけの接吻を繰り返した。最初掠めた時は冷たかった表面はだんだん温まっていく。童の遊びのような触れ方が妙に心地よかった。回数が片手を超すと、いよいよ凌統が首を捻って避けるようになった。始めから出来たはずの回避行動を取らなかったことは、責めないでやることにした。赤くなった耳に向かって本音を告げる。

「凌統、お前が戦場から外される訳がねえ。これからも、お前は全力で殿を守れ。俺は、お前と殿を全力で守る」

 驚いて振り向いた顔に、もう一度奇襲のように口付けた。凌統が腕で振り払うのに合わせて立ち上がる。甘寧の気は済んだ。室を出ようとした背に、「勝手にすれば」と返事がかかる。

 部屋の前の警備に戻っていたらしい兵に驚かれたが、甘寧は無視してその場を走り去った。じっとしてはいられない。あの凌統が寄越した返事は、甘寧を認めるものに他ならなかった。体中を血液が駆け巡って沸騰しそうだ。

「おおっしゃあーーーー!!!!」

 大声で叫びながら鈴を鳴らして駆け回る。今なら、曹操の首も討てそうだった。


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