凌雲を掴むまで
「貴殿らの勢い、断ち切らせていただく」
「そりゃこっちの台詞。殿には指一本触れさせるわけには行かないんでね」
間近で対峙した張遼の威圧に、凌統は唾を飲んだ。双戟を軽々と両手に持ち、一切ぶれることなく馬に跨っている。着込んだ鎧は強固な壁を思わせるほどで、相当な鍛錬を積んでいると一目手で分かった。
一気に詰めてきた張遼が双戟を振った。地に立ったままの凌統が節棍の鎖でそれを受け止める。衝撃で腕が痺れ、重さで押されたが、流せない程ではなかった。受け止められた張遼の片眉が上がっている。油断に付け込むように、受けた力を横に流し、手首を狙って足蹴りを決めた。姿勢を崩した張遼が馬を手放す。
「なるほど。一筋縄ではいかぬということだな」
「呉郡余杭が生まれ、凌公績。覚える必要はないけどね。今、この場であんたを潰すからさ」
「ふ。孫呉にも熱き魂がいるということか。并州雁門郡馬邑県が生まれ、張文遠! いざ、お相手願う!」
双戟は武器の中では長さがある方だ。凌統が得意とする速さにはついてこれまい、と冷静に軌道を見た。一撃、また一撃と振りかざされる得物を避け、機会を伺う。甘寧の鎖鎌より重量級に見えるが、甘寧のような機動力がない分凌統にとってはやりやすかった。
(いや、こんな時にあいつの顔が浮かぶなんてね)
凌統は笑いながら、最悪、と呟いた。一度身を屈ませ、足払いをする。張遼が跳んだのを確認してから、手を地に付けて捻りながら回転し、その胴に足底をぶつける。
「っぐ、お見事」
もちろん鎧を着た相手に与えるにしては、些細な打撃だ。凌統は続けざまに両節棍を入れたが、あっという間に立て直した張遼がそれを弾いていく。凌統の動きは俊敏だと評判で、初対面でここまで捌かれたことはこれまでなかった。
「は、さすが鬼神の元右腕」
「ほう。存じていたか」
「泣く子も黙るなんとやらでしょ」
「童子には優しくしている」
「へっ、どうだか、ね!」
上下左右に、速度や荷重に緩急をつけて、両節棍で畳みかけるが張遼はあっさりと全てを弾いてみせた。ほとんど隙がない中、一瞬を見極めて双戟を振り下ろしてくる。凌統も当たらずに避けてはいるが、打ち合いの度に精神が擦り減らされるような緊張が続いた。
互角だった盤面は、少しずつ張遼軍に勝機が傾いていた。凌統軍が少しずつ、地に伏すようになったのである。隊長である凌統は戦いつつその状況を把握していたが、動揺しないように努めて背後を振り返らなかった。
「でっ、伝令! 退路である小師橋が、落とされています!」
「殿はっ!」
「迫りくる敵兵を払っておりますが……!」
目の前にいる張遼は笑いもせず、恐ろしい迫力で得物を振って来る。上向きの髭が気に食わない、と余計な感想を抱きながら、これまでで最も苛烈な踵落としを決めた。空中高くからの攻撃に、さしもの張遼も呻き声を上げ後ずさった。
即座に馬を呼んだ凌統は張遼に背を見せ、孫権の方へと馬首を向けた。一瞬振り向くと、副将が頷いていた。頼む、と一言だけ置いて君主の援護に急いだ。大きな音で拍動する心臓が、痛みを伴った気がした。
死体やその寸前の人々を縫うように馬を進める。退路として決めていた橋が見えてくると、孫権が剣を片手に奮戦しているところだった。幸い猛将が見えなかったため、孫権と敵兵の間に馬を滑り込ませ、その勢いで節棍を振って何人かを撃破する。
「凌統!」
「殿、ご無事でなによりです。この馬に乗って橋を跳んでください」
「なに……?」
「時間がない。急いでください! 孫権様ならこんな橋、跳べるでしょうよ」
槍を構えた五人組が突進してくるのを、両節棍で凌ぎながら凌統は吠えた。もう悠然と会話をしている暇はない。一刻を争う状況で孫権は覚悟を決めたようだった。凌統の乗ってきた白馬に跨り、助走を付けられるだけの距離を取っている。まとめて十人ほど片付けてから、凌統は拱手した。蹄が土を蹴る音が響き、粉塵が上がって、凌統が顔を上げた時にはもう美しき君主の姿はなかった。
「さて……改めてお相手願おうか」
追いついてきた張遼に、凌統が飛び掛かった。
***
呂蒙、甘寧らの合肥城への奇襲は滞りなく成功していた。孫呉の船は速く正しい航路で敵の横面をつき、驚きと恐怖におののく曹魏軍を圧倒した。呂蒙と共に拳をぶつけ合ったが、甘寧はどこか落ち着きのなさを感じていた。
「あとは後続が追い付いてくりゃ、曹操の野郎も余裕って話なんだろ」
「おお。甘寧、ついにお前も味方の重要性が分かったか。単騎突入は最もしてはならんからな、立ち止まるようになって俺もいたく感動」
「おかしくねえか?」
涙を拭うふりをしながら甘寧の肩を叩いた呂蒙だったが、遮られた一言に目を合わせた。同じ高さの鋭い目つきが呂蒙を透かすように見てくる。
「ぶんどったはいいが、想定より城は空いてたよな」
「ああ。奇襲を見抜かれて返される時もあるから、周辺を探ったが、今のところ、順調に行っている」
「俺らは確かにすっ飛ばしてきた。けどよ、そろそろ後続の頭が見えてもいい頃じゃねえか」
甘寧の指摘は最もだった。行程にずれがあるのはある程度仕方のないことだが、歩兵はまだしも、騎馬隊の到着が遅すぎる。呂蒙も内心肝を冷やしていたところだ。
「おっさん、長い縦隊の弱点はなんだ?」
「……もちろん、分断されることだ」
その時だった。背中いっぱいに矢を受けた瀕死の伝令兵が馬にしがみついてやってきた。
「……奇襲、殿の、中腹に、……チョウリョウ」
「しっかりしろ!」
甘寧がその身を抱え上げたが、伝令兵は息も絶え絶えに状況を呟いた。
「最後尾、タイ……ジ、さま、……楽進、リテン」
敵兵らの名が連なったのを最後に伝令兵はこと切れた。呂蒙が瞬時に撤退を叫ぶ。
「城は捨て置け!! 一斉に退く!!」
「おっさん、
「俺が魏軍なら、橋を落とす。船の機動が早いお前の軍は河から行け! 俺は殿を探しに上から行く!」
命令を受けた甘寧は抗うことなく部下に指示を出した。君主を守っているのは凌統である。その実力を知っているからこそ、今甘寧がすべきは異なる路で軍を守ることだ。
「行くぞおめえら! ちんたらしてる奴は置いてくぜ!」
甘寧の雄叫びを追って甘寧軍が続々と河川へと馬首を向けた。
*
最後尾である朱然隊に追いついた甘寧は、派手に楽器を鳴らし、声を張って、曹魏軍を追い返した。だが結果的に、孫呉軍は敗北した。合肥城を奪取した喜びは一時のものとなり、多くの者を喪った軍は大きな痛手を負うこととなった。
「太史慈が……私の、せいで」
「殿。それは違います。戦の采配を任されたにも関わらず、このような結果を招いた俺が……」
「……殿の、御身が、何よりです……」
一行は味方の死を嘆き、己を責め、深い悲しみに包まれた。更に、建業からの使いが来て、程普と黄蓋の病死を伝えてきた。君主である孫権の悲痛は筆舌に尽くしがたいものだった。
甘寧が血塗れで陣地に帰った時、凌統はずぶ濡れで横たわり、救命措置を受けていた。水を吐き出して意識を取り戻した時には、君主が真っ先に自らの上衣をかけて、涙ながらに生存を喜んでいた。
近寄れないでいる甘寧の耳にも悲惨な状況が伝わってくる。凌統軍は壊滅。命を張って孫権を守った凌統も、重傷の状態で川を泳ぎ、命からがら味方の船まで辿り着いたのだという。
甘寧は戦後の疲労で重たい身体から熱が湧き上がって来るのを感じた。腹が煮えたぎりそうなほど熱く、上腕や
「……殿、甘寧殿!」
はっと甘寧が我に返ると、焦ったような朱然の顔が目の前にあった。周囲は割れた壷の破片やに貯蔵されていた干し肉や酒が散乱していた。
「敗戦は悔しいものだ……気持ちは分かるが」
朱然が苦痛の表情を浮かべるのを、甘寧はぼんやりと眺めた。国同士の喧嘩に負けたことは悔しいが、今しがた理性を飛ばしてまで怒ったのはそこではない気がした。自身でもうまく理解できず、首を傾げて後ろ頭を掻く。何にせよ、朱然のおかげで頭が冷えたので、甘寧は一言謝辞を述べてその場を去った。この時、甘寧に出来るのは運ばれてくる負傷兵の救護を手伝うことくらいであった。
激しい戦闘にも屈さず、猛攻を繰り広げたことで、甘寧自身は功を認められていた。敗戦が決定した二日後、褒美として与えられた湯で体を清めた後、救護者のいる幕舎を訪れた。入口の兵は驚きつつも、拒むことが出来ずに甘寧を通す。
寝台に横たわっているのは凌統だった。音もなく眠っている。敷布に広がる髪は艶を失っており、その顔面も青白かった。乾いた唇を指で撫でてから、湿らせた布をそこへ乗せる。誰か個人の面倒を見てやりたいと思ったのは甘寧にとって初めてのことだった。
寝台の傍に腰かけ、甘寧は凌統の髪を手に取った。以前触れた時とは違うごわつきに、勝手な苛立ちを覚える。甘寧が惚れたのはとかく自信に満ち溢れていて、身なりがやけに整っている男だ。甘寧に対しては終始渋い顔ばかりだが、怒りの表情も今思えば生気に満ち溢れていた。今は全てが失われ、静かに微弱な呼吸を見せるだけだ。
「こんなとこで、くたばるんじゃねえぞ」
重い瞼に向かって吐き捨ててから、甘寧は凌統に口付けた。割れている皮膚の表面を舌で撫でるように舐める。目が覚めていたら、ひどく怒っているだろう。整った眉をこれでもかと吊り上げて、三白眼で睨みつけて来る。その表情が見たくて、甘寧は何度も凌統の口唇を舌先でなぞった。舌が痺れるようになって離すと、ぐったりと眠る凌統の唇だけが赤く潤んでいて妙に目立つ。死に際の状態にそぐわぬ艶めいた姿に腹が立って、甘寧は舌を打ち、鈴を鳴らしながら幕舎を出て行った。