凌雲を掴むまで
荊州論争は一度激化した。劉備軍が益州を取って拠って立つ地を得たのである。にもかかわらず、約定を違えて荊州に居座る劉備軍に、孫呉陣営からは強い反発が上がっていた。現地では呂蒙、陸遜らが剣を握って力を示したが、劉備軍には錦馬超や趙雲がいる。結局、武力でも拮抗を見せ、追い出すことは敵わなかった。竹林をなぎ倒しての大混戦であったと聞いて、凌統は自分も出陣すれば少し力になったのではないかと悔しさを滲ませていた。
巴蜀を得た劉備らはますます勢いづいている。荊州は劉表から譲り受けたという言を続けているが、孫呉としても重要な地をおいそれと渡すわけにはいかない。平行線を辿る両者の主張に、国内もざわめきが止まらず、内政の統治も上手く進まなかった。
呂蒙の戦闘の後、魯粛が陸口で関羽と対話することを決めた。もう何度も行ってきた話し合いに意味がないとして反発する者もいたが、互いに武力が削られた今が好機とし、魯粛は丁重にもてなしの準備をして場を設けたのである。
「で、見事、活躍したわけだ。韓当殿が」
「ああ。俺は以前から韓当殿は凄い方だと思っていた。日頃は穏やかな灯りで皆を知らぬうちに照らし、いざとなれば業火となって周囲を焼き尽くす。ああ、熱い……熱すぎる」
朱然の瞳が輝くのを、凌統は呆れ半分、羨ましさ半分で眺めていた。
荊州問題に終着をもたらしたのは、意外にも孫呉の古参である韓当だった。緊張状態が続く対談でやはり同じ論争を繰り返し、こちらは呂蒙、相手は関平や周倉らが武器を持ち、一触即発の空気であったという。そこに同行していた韓当が割って入った。魯粛の手腕を認めた上で孫劉同盟の大切さを説き、本当に策はないのか、と尋ねた。
結果的に荊州を二分し、江夏・長沙・桂陽は孫呉が、南郡・武陵・零陵は劉備軍が領有とすることで片が付いたのだった。
「取り合いの末の半分こねえ。子供かっつの」
「拗ねたくなる気持ちも分かる。ただ、韓当殿の言は正しいだろう」
「まあね。何のために姫さんが嫁いだんだって話だし、きっと殿が一番安心したんじゃないの」
「そうだろうな」
「だろうって。学友だった殿の本心くらい聞き及んでないのかい」
凌統と朱然は武器庫で点検をしながら言葉を交わしていた。手元の書面と武器を交互に見ていたので互いに顔は見えていなかった。が、朱然からの返答がなく、首を傾げてから二つ向こうの棚を覗いた。朱然は唇を噛んで俯いている。
「不備でもあった?」
「そうじゃない。俺は、孫権様に気軽に話せるような、そんな立場じゃない」
「昔、仲良かったろ? 俺も何度か一緒させてもらった時、小難しい話で盛り上がっててのけ者にされてた記憶あるんだけど」
「昔は昔、今は今だ。また孫権様のお傍にいられることは嬉しく思うが、縁に縋って登用されたと誤解されては困る。俺はあくまで、俺自身の力で立つ。誰もが実力を認められる人間になって初めて、孫権様と対話できるだろう」
朱然は口を挟む余地を与えず言い切ると、すぐに点検作業に戻っていった。凌統は眉と肩を上げてその頑固さに呆れを示したが、朱然がその姿を見ることはなかった。
朱然の態度はやや行き過ぎているとも思ったが、理解は出来た。凌統だって、父の威光で重用されたとなれば己の矜持が許さない。孫権が軽率に登用する人物でないことは近くにいる者ほどよく知っているが、市井の者や古株の重鎮らに誤解の隙を与えまいとする献身ぶりは朱然らしかった。
凌統も自身の割り当てられた作業場所に戻った。ここ最近になって、馬やら武器やらを
「で、次はどっちと
「明日、大規模な軍議があるだろう。そこで恐らく告げられることになる。韓当殿にも呂蒙殿にも当たってみたんだが、二人とも口が堅くて聞き出せそうにない」
「ふうん。未来を託される朱義封殿はどうお考えなわけ?」
「曹魏だろう」
朱然はきっぱりと言い切った。見えはしないだろうが、凌統も大きく頷く。先刻の話を聞いて、孫劉同盟の保持が決まったことから見ても、孫権がそれをひっくり返すとは思えない。巴蜀を得たばかりの劉備軍とは言え、猛将を多く抱えている。むやみやたらに当たることが得策とは思えない。
それに、水軍がやたらと騒がしいことは気付いていた。おかげで甘寧と接触する機会が減っているので、凌統は。船の出番と言えば長江を挟んだ向かいにいる曹操軍との対戦、ということになる。
凌統は気合を新たに、深い息を一つ吐いてから業務に向かい直した。
***
孫呉は関羽からの条件で曹魏と当たることとなった。荊州の半分を渡すかわりに、合肥を攻め立てよというのである。曹操が漢中を制し、劉備の喉元寸前まで刃を突き立てたことから、関羽は漢中に向かわなくてはならなくなった。軍神の出撃となれば、曹魏も相応の体勢を敷く。その隙をつく形で合肥を奪取せよというのだ。
もちろん、魯粛は一度笑顔を作って尋ね直した。約束を破って荊州に居座った挙句、返還は半分で、さらに曹魏を攻めよというのは真かと。関羽が澱みのない目で再度繰り返したので、魯粛は呆れをひた隠してその条件を呑んだ。北岸にある合肥城は曹魏の重要拠点であり、ここを取れば曹魏攻略の足掛かりとなるだけでなく、建業の防衛や新たな兵糧の進路が確保できる。互いの利害が一致している以上、頷く他なかった。
建業で行われていた大規模な軍議でその経緯は諸将らに伝えられたが、眠気により話半分で聞いていた甘寧は今でもあまり理解していない。どんなやり取りで、どういう理由で誰と戦うのか、甘寧は興味がない。とにかく暴れられる場があって、喧嘩ができるならば何でもよかった。命の奪い合いである戦地のひりついた空気を一秒でも早く浴びたかった。
「曹魏が相手ってんなら、不足はねえ。なあ、丁奉」
「青き
「お。ちったあいい面構えになったじゃねえか。戦場にまで筆持ち込まれちゃあ敵わねえからな」
「美しき景色を詠うのに、道具など不要。ですが、この地は……どことなく、不穏な気配がします」
巨体がぎょろりとした目を遠くに向けるので、甘寧も
ふと視線をずらす。幕営地の隅の方で、凌統が副将と話している姿が見えた。湧き上がる衝動を止められたことはあまりない。丁奉を置き去りにして、甘寧は足を向けた。
甘寧が近付いてきたことが分かると、凌統の副将は分かりやすく緊張を見せた。強張った顔を伏せてすぐに拱手し、去っていく。凌統は腕を組んで足を地に叩きつけ、堂々と苛立ちを見せていた。
「なんだよ。奇襲の隊長ってやつは暇なのかい?」
「今更慌ててすることもねえよ。お前、どこだ?」
「どこって。ほんと軍議寝てばっかの奴はお気楽でいいよな。こんな奴が先陣なんて、悔しくて泣けるっつの」
不快感を隠そうともせずに次々と音にする凌統に、甘寧は思わず笑った。いくつか戦場を共にしてきたが、今が最も口を開いてくれている。姿を見なかったことにされた夏口や、言葉少なに言い合った赤壁、戦後に激昂した南郡を思い出すと、皮肉だらけの言葉も随分と可愛らしく感じた。
「とにかく俺は殿のお守りだよ。後方支援。ご自分の方が活躍できそうで満足かい?」
「功にゃ大して興味ねえ。お前と同じとこで戦いたかったぜ」
「はあ?」
「乗るか? 船」
甘寧にとって軍略も戦況も重要ではない。己がいたいと思う男と共に闘えたらどれほど滾るだろうか。純粋なまでの我欲で告げた提案に、凌統は珍しく無防備に、ぽかんと口を開けて驚きを見せた。甘寧は凌統の強さや意欲を見抜いているつもりだ。大将の護衛だけで満足するような男ではない。もう少し押せば行ける、とつま先に力が入った時に、腹に衝撃がきた。冗談のように軽い力で、凌統が拳を入れている。
「俺は真面目なんでね。軍紀違反なんざごめんだっつの」
「堅物」
「戻ったら本気で殴るぜ」
「おう。戦後、頼むわ」
凌統は眉を盛大に顰めて奇妙なものを見る目をしていた。一方の甘寧は、喜びに目を細め、口角を上げていた。互いが生きて戻ると確信している凌統の甘さが妙に好ましい。周囲の兵達は関係性の悪い二人を案じてこちらを気にしていたが、距離はある。囁き声ならば聞こえることはなさそうだった。
「……すっげえ口吸いてえ」
凌統にだけ聞こえるように言って、まだ腹の近くに合った拳に触れる。凌統は飛び跳ねるように後ろへ下がり、口の開きだけで「しね」と言ってきた。さっき戦後の約束をしたばかりだろうと笑うと、凌統はもう聞いていないようで、長い髪の束を揺らし、肩をいからせて去っていった。
その背を見ながら、甘寧なりに少し考えに
「滾ってきたぜ」
凌統に軽く殴られた腹から、火傷しそうな程の熱が上がって来るのを感じていた。
***
凌統は、己の顔面が少し熱いことに気が付いていた。怒りだ、そうに違いない、と掌で自らの頬を軽く打つ。甘寧が凌統の立ち位置を尋ねたのは、決して馬鹿にしたわけではないと今なら分かる。あの男は、本心から共に奇襲するのを望んだに違いない。ただ、凌統にはやはり理解が出来なかった。常に甘寧に向ける目線は厳しく、言葉も穏やかなものではなく、態度は悪いはずだ。何をどうしたら色のある興味を向けられるのか、余りに謎であった。
一方で、認めている部分もある。いくつかの戦と、先日の手合わせで甘寧の実力は現状の孫呉に必要なものであると分かっていた。彼の勢いを以て本陣に攻め入れば、喉から手が出る程欲している合肥城も陥落させられるのでは、という期待が呉軍全体にあるのも理解していた。
「随分難しい顔をしているな」
「太史慈殿」
すぐ近くに大柄の男が近付いていたことも分からず、凌統は己が思考に没頭していたことを知って幻滅した。大切な一線の前に、仇に気を取られ過ぎている。振り切るようにわざとらしく丁寧に手を合わせると、太史慈は困ったように笑っていた。
「合肥城を主に守っているのは張遼、李典、楽進の三将。だが、仲違いの噂も聞こえる」
「ええ。そういう綻びは突いてやりましょう。うちは皖城も取って勢いがあります。合肥城を押さえれば、河北への足掛かりにできるってね」
「ああ。孫権殿は素晴らしい。孫策殿とは違った才をお持ちだ。己のやり方で立ち上がり、前を向く姿、見習いたいものだな」
「まあ、太史慈殿が心折れてる姿も見たことはないですけどね。……以前は、迷惑かけました」
凌統が太史慈と邂逅したのは随分前のことだった。赤壁の戦いに参戦したのち、太史慈が遠方に配置されたこともあって、凌統の中では時が止まったままだ。甘寧の投降時に取り乱し、黄祖討伐後の宴会時に面倒を見てもらった記憶がこびりついている。太史慈は肩を上げて、なんのことだ、ととぼけた。
「敵の仲違いはつけ入る隙となる。が、味方のそれは危機の元だ。……どうだ?」
太史慈は凌統の絶望を間近で見ていた。だからこそ、あえて甘寧の名を出さずに尋ねている。今度は凌統が肩を上げてとぼける番だった。
「さてね。少なくとも俺は、手元が狂って味方を討つようなヘマはしませんよ」
「そうか」
「それに、殿や呂蒙殿の命令なら、何だって従います。誰と共に闘おうとね。それが武官ってもんでしょう」
凌統は背筋を伸ばして、自戒を込めて発言した。父から継いだ立場と殿、そして部下を守る。それが凌統の譲れない矜持だ。太史慈は少しだけ目元を緩めて喜びを見せ、その後大きな音を立てて手を合わせた。
「よし。いっちょやるか!」
「ええ! 痛い目見せてやりましょう」
丁度、集合の銅鑼が鳴った。開戦を目の前に、凌統はこれ以上なく士気を高めていた。
***
鏑矢が放たれて、十日が経過した。本陣周辺は重要な戦を前に緊張を保ちつつも、ほとんど動きがないままであった。
「報告! 呂蒙様、甘寧様らが合肥城に到着した模様。ですが、敵将が見当たらないとのことです」
「なに? では、城は我が軍の手に落ちたのか」
「包囲していた兵らは制圧しておりますが、兵の数が多く城内には至っておりません」
孫権の元には続々と
「聞いていた話と違いますね。まるで、夷陵城の時のような」
「……凌統。私も同感だ。恐ろしい予感がする」
「殿のことは、俺がこの身に代えてもお守りします」
ぎゅっと力を込めて節棍を握り、目の前に翳して頭を下げる。孫権は頷かず、また名を呼んだ。
「お前がいなければ、私の描く天下はならぬ。いいな、決して死ぬな」
「殿のご命令ってんなら、もちろん」
片目を瞑って見せると、蒼い目が細められた。武将としても個人としても求められている喜びが、また力をくれる。次の伝令兵が走ってきた時、凌統は覚悟を決めていた。守り切る。それが、凌統の宿命であった。
伝令の報告は絶望的であった。先陣であり奇襲隊である呂蒙、甘寧軍との間に伏兵が現れ、孫権軍は大きく分断された。また、最後方で兵糧を守っている朱然や太史慈らの方にも、大規模な伏兵が現れたようだった。
「遼来々!!」
さらに、悲鳴のように告げられたのは、曹操軍の中でもひときわ強い男が孫権の元に迫っているという情報だった。
「撤退する」
「殿」
「これは勝ち戦などではなかった。私の判断が甘かった。全軍撤退を告げよ!」
孫権は叫び伝えた。伝令兵が蜘蛛の子のように散っていく。同時に幕内の動きも激しくなった。騎馬や歩兵が撤退に向けて支度を始めている。凌統は自軍を引き連れ、拠点を飛び出した。右方から軍勢が迫る音がする。
「若様」
副将が隣に立ち、一礼した。凌操を喪った夏口の日からずっと、凌統を支えてくれた男だ。
「来るぜ。しっかり構えて、落ち着いて対処しよう。誰一人欠けるな、なんて無茶は言わない。けど、一人でも多く残って、孫権様の酒、飲みましょうや」
「はい」
「あんたのことは、これまでも、そんでこれからも、世話かけたいんでね。頼むよ」
「……はい」
副将の声が揺れているのは武者震いではなく、感動に近いものだった。きっと心の内では、立派になって、などと成長を喜ばれているのだろう。そう思うと痒かったが、感謝も覚えていた。凌統はここで立ち止まる気はない。これからもっと立派になって、この副将が老衰で息を引き取る瞬間まで見守ってもらうつもりでいる。
「行きますか!」
おお、という鬨は士気に満ち溢れていた。