凌雲を掴むまで
甘寧は船団の先頭に立ち、長江の対岸を睨み付けていた。水の匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる。派手な喧嘩の前でも落ち着けているのは、やはり、水の上が己の本分だと物語っているようだった。
「敵の規模は四十万と推測されます。当たるは濡須が河口。北風は真冬の如く冷たく、我々にも厳しく当たりましょう」
「丁奉。でけえ図体でなよなよしいこと言ってんじゃねえ。水の上で鈴の甘寧様が負けるかよ」
「某も甘寧殿がみすみす討たれるとは思えません。ですが、合肥城侵攻に当たるには、手厳しい初手かと」
「へっ。どれだけ殺ろうが殺られようが、最後にどっちの大将が立ってるかだろ」
自身すら駒とするような発言に、丁奉は目を細めた。これでいて、甘寧は投降時よりも随分丸くなったように思う。最初はもっと、全てを食い荒らすような獰猛さがあった。変わったのは、南郡で周瑜が負傷した時、ひいては全軍が甘寧を救援するために動いたあの時からだと、丁奉は推測している。
丁奉はふと、左後方の船を見やった。呂蒙がいる船である。この戦の指揮は全軍呂蒙に任されていた。魯粛は建業に残り、内政を整えつつ、時折荊州東部で西側に睨みを利かせている。今回の出陣は水軍を主力とし、蒋欽や董襲らが共に参じていた。相手は大軍とは言え、小回りの利く勢力が得意とする水上の戦ならば、勝機は十分にあった。
「あいつ、何してっかなぁ」
ふと甘寧が呟いた。丁奉は前を向き直し、言葉の主の背を眺める。風に煽られて額止めの布がひらひらと泳いでいた。
「あいつ、とは」
「凌統」
「は。凌統殿は、建業にて研鑽をお積みになっているのでは」
「んなこた分かってる。俺が近くにいなくて、さぞ退屈してんだろうな」
盛大に首を傾げたくなった丁奉は、なんとかそれを引き留めた。甘寧は自由人だ。そこらの常識は通じない。丁奉から見た凌統は甘寧のことを酷く嫌っている。親の仇ともなれば当然であろう。多くの者から諌められてなんとか仇討ちは諦めたようだったが、お世辞にも仲が良いとは言えなかった。合同の調練ともなれば、こちらが参る程の緊張が走ったものである。あの視線を浴びておきながら平気で退屈させていると宣う上官の認知の歪みに肝が冷えた。
「甘寧殿。面白がって触れてはいけない物もありましょう。下手をすれば、童が高価な壷を割ってしまうような、取り返しのつかない事態になり得ます」
「あいつはちょっと揺すったぐらいで落っこちるタマじゃねえよ。もう少しくれえ、緩くてもいいのになぁ?」
「悪き癖ですぞ。……夜風は冷えます。明日に向けて、どうか休息を」
甘寧は鼻で笑ってから、丁奉の言うとおり船室に引っ込んでいった。
濡須口での戦いは苛烈なものとなり、結果として孫呉は敗北した。闇夜に乗じた甘寧隊の奇襲は成功したものの、気候に恵まれず、強風に苛まれて転覆する船が相次いだのだ。董襲も冷たい水に沈められた。双方共に大きな痛手を負った戦は、孫呉一行が引き下がることで手打ちとなった。
甘寧は戻りの船で、静かに夜空を睨んでいた。己の喧嘩は敗けていない。しかし、国という大きな組織同士で見れば、敗けた。もっと前であれば、悔しさに居ても立っても居られず、単騎で曹操の陣営を走り回っていただろう。しかし、今になってあの曹操の強靭さが分かるようになっていた。引きずり下ろして首を取るのは、甘寧一人では到底敵わない相手だ。
「……冷えますぞ」
沈んだ面持ちの丁奉が甘寧に上衣を掛けた。図体の大きい者同士、董襲と丁奉は仲が良かった。もちろん甘寧も気に入っていた。凌統より余程話が合った。船の操舵が上手かったこともあり、その董襲が転覆して死したとは如何ほど厳しい天候だったかが遠く建業にも伝わっていた。
「俺らは小せえな、丁奉」
「はい。夜空の星を眺めていると、某らの儚さを教えられます」
「ああ。けどよ……てめえの手の届く範囲くれえ、守りてえんだ」
「甘寧殿の背中は、水龍の泳ぐその体躯は、とても大きいものです。双龍の手ともなれば、多くの者が救えましょう」
「……あんがとよ。お前の鳥肌もんの喋りに、助けられるとはなぁ」
嬉しそうにしている丁奉に苦笑を浮かべ、そのゆっくりと船室に戻った。
これまで、自身の考えのみに従い、あまり他者の言葉に耳を傾けない人生だった。蘇飛の言うことは少し聞いていたが、今思うと半分以上は聞き流している。少し勿体ないことをしていた。今、呂蒙の策略や丁奉の言葉を聞いていると、決して自分からは生まれない考えばかりで、面白いと思うようになった。
いつか、凌統の話を聞くことが出来るだろうか。または、あのしかめっ面に言葉を届けることは出来るだろうか。ふとした思い付きが奇妙で、甘寧は自嘲し、頭を掻いて横たわった。
*
建業にいた凌統の元にも、濡須口での戦績が伝わってきた。――董襲、水死。――甘寧、奇襲に成功。無意識に凌統の耳は甘寧の情報を余さず捉えていた。暗闇に乗じて奇襲を仕掛けたようだが、甘寧軍の損害は最小限だ。恐らく功を讃えられるだろう。
もちろん甘寧の活躍は気に食わなかった。だが、同じ軍人としてはよくやった、と思う。呂蒙の采配あってこそだが、甘寧の実力そのものは、凌統の中でも確かであると認めていた。
早朝、凌統は鍛錬場に赴いていた。入り口に差し掛かったところで、先客に気が付いた。甘寧だ。昨日建業に帰ったはずだ、と元気の良さに落胆する。身を翻すのは格好悪く思え、凌統は足を止めて腕を組み、睨むように甘寧の動きを眺めた。
戦場に立つ者は様々な武器を手にする。夏口で敵対した時、甘寧が握っていたのは青龍刀だった。南郡では鎖分銅を振り回し、今は鎖鎌を操っていた。扱いの難しい節棍という武器種を使っている凌統だからこそ、甘寧の動きが簡単なものではないことを見抜いていた。
軸を握ったまま、重量級の鎌を自由自在に振れるのは、甘寧の腕力あってこそである。凌統も腕力や脚力、体幹には自信がある。だが、甘寧のどっしりとした筋肉から繰り出される攻撃は重く、弾くだけでも体力が削られるだろう。刃が蛇のように向かってくる様は恐ろしく、更に男が動く度に肩口の龍が睨み、腰元の鈴が鳴るので、異名を知っている者が逃げ出すのも無理はない。
気配を殺して観察していたが、ばちっと目が合った。指先だけで呼ばれる。盛大に舌打ちを一つ落としてから、凌統は節棍を構えた。今日は両節棍、最も手慣れた武器で、体は絶好調である。
ガキン、と金属がぶつかる音が響いて、凌統はぞくぞくと肌が粟立った。武将同士の手合わせは珍しくないが、当然鍛錬では模擬得物を使用する。それが今は本物の武器で、ぶつかる相手は憎き親仇だ。仇討ちの感情を殺したとは言え、気に食わない相手を伸せるまたとない機会である。
「らぁっ!」
凌統は初手から攻めた。地面すれすれまで屈み、足払いを仕掛ける。膝裏に当たれば高確率で姿勢を崩せるが、甘寧は冷静に一歩下がって回避した。地に手を付いて体を跳ね上げさせ、今度は顎目掛けて脚を伸ばす。甘寧が腕を構えて受け止めたので、一旦凌統は後回転して体勢を整え直した。
「へっ。朝から気張ってるじゃねえか」
次は甘寧の方から仕掛けてきた。後頭部を狙うように鎖鎌を回して寄越す。軌道を見極めて避けた先にも器用に向けてくる。節棍同士を繋ぐ鎖で受け止めると酷く両手が痺れた。
攻撃と防御が何度も交替した。相手が激しく打てば武器を構えて防ぐか回避する。隙が生まれれば突く。何往復もやり取りをする内に、息が切れ、汗が滴るようになった。
凌統は甘寧の実力を知らしめられていた。決して劣っているとは思っていない。だが、甘寧に勝てるかというと、五分五分だろう。薄々感じていたことだ。勢いに任せて突っ込み、押し倒された夏口の時よりは成長しているとも言える。それでも、あのがむしゃらな鍛錬を積んだ結果が互角かと思うとまた落胆した。視線を一瞬地に落としたのが、最後の隙となった。
「貰った!」
甘寧が蹴りを手首に入れてきた。これまでの動きに足蹴りがなかったことが油断に繋がり、両節棍が吹っ飛ぶ。思わず武器を目で追いかけると、掌底を鳩尾に決められた。胸にも壁に激突した背にも痛みが走る。
すぐに甘寧が距離を詰めた。顎を掴まれ、上を向かされると嫌でも目が合う。
「ごちゃごちゃ考えんのは自由だけどよ、喧嘩中には向かねえぜ」
「うるさい、放せっつの、馬鹿力」
「がちがちな癖に隙があんだよなぁ。つい口付けちまうくれえ」
わざとらしい宣言があってから顔を寄せてきたので、凌統は遠慮なく腕で防ぎ、空いた胴に膝蹴りを入れた。むせる声も至近距離にあって、凌統の眉は寄りっぱなしである。甘寧は一歩下がったもののそれ以上離れようとはしなかった。
「痛ってえ、お前、そりゃねえだろ」
「こっちの台詞だね。好き勝手触ってくんな!」
勢いよく頭を振るとがつんと鈍い音がして痛みが響く。頭突きは効果的で、甘寧は手を離して額を押さえている。情けない声を聞きながら距離を取ると、ようやく息がつけた。
飛んだ両節棍を拾いにいく間、凌統は手合わせを回想した。甘寧は強い。悔しくてたまらないが、それは事実だ。もっと励まなければ勝つことが出来ないと思い知った。拳を握ると、朝から酷使した筋肉が痙攣し、思うように力が入らない。
「っと、もう少しいてえところだが、邪魔もんが来たな。凌統、喧嘩出来て楽しかったぜ」
誰があんたを楽しませるために、と言いかけたが、凌統が顔を上げた時にはもう背を向けていた。誰の趣味か知らないが、甘寧の腰から上には大輪の花が咲いている。その花を燃やす勢いで睨み付けていると、軽やかな足音が鍛錬場に入ってきた。
「凌統殿。今、甘寧殿が出て行かれましたが……ご一緒だったのですか」
「これは軍師殿。心配しなさんなって。同士討ちなんてしてないぜ」
「あ、いえ。そのような懸念はしておりませんが」
陸遜は大きな瞳でしげしげと凌統を眺めた。朝からきっちりと結われた髪に整った胴着。表情はいつも通り澄ましていて落ち着いているが、その頬には地に触れたであろう土が付着していた。ひと悶着あったことは明らかだが、凌統から以前までのような殺気めいた苛立ちは感じられない。怨恨のわだかまりが少し解けたのであれば、これ以上ないことだと結論付けた。
「いつも鍛錬に励まれていて、私も見習わなくてはと身が締まります」
「あんたも随分励んでると聞くけどね。……荊州に行くのかい」
陸遜は静かに頷いた。現在、孫呉の大都督は魯粛が担っている。交渉や駆け引きに長け、これまでに何度も関羽との談義を行ってきた。話し合いだけでは済まず、現地で諍いになる回数が増え、呂蒙が起兵することは凌統の耳にも聞こえていた。可愛い後輩を連れていくところに呂蒙の陸遜への並々ならぬ情愛を感じる。
「魯粛殿、そして呂蒙殿の傍で勉強させていただける機会です。断る理由はありません」
「俺は寂しくなるけど?」
「それは申し訳ございません」
照れるでも謙遜するでもなく、笑顔で断りを入れて来る陸遜に、凌統の顔が緩んだ。武官と軍師という立場は違えど、ほんの少し事情の似た、心許せる間柄は貴重である。目の前の頭をぐしゃぐしゃと撫でる内に、掌の力が戻っていることにも気が付いた。
「このまま劉備と当たるのかねえ」
「我が軍は偉大なる周大都督を喪い、内政は未だ落ち着きません。曹魏の南進も再び警戒しなければ。本音を言えば、劉備軍に当たる余力はないでしょうね」
「ただ、荊州はうちにとって重要な領地だ。みすみす明け渡すってことにはならないだろ」
「妥協点があればいいのでしょうが」
政は凌統の分野ではない。当然奇才が浮かぶこともなく、憂い顔をした若軍師の頭を撫でることしかできなかった。
「ま、とにかく俺は軍師殿らの命令に従うだけだ。留守はお任せくださいってね」
「はい。仲間割れの懸念が減っているのであれば、これ以上ない僥倖です」
「……奴がムカつくのは変わりないけどね」
凌統は自身で発言しながら、先ほどの陸遜の言を思い返していた。北に西にと脅威や懸案が多い今、先代までと違って降将で構成されてきた孫権の軍は、結束を深める以外に選択肢がない。身内で争っている場合でないことは、肌で分かっていた。つまり、領地を離してくれと言い出せる状況ではない。舌を打ちそうになる衝動を堪えて、陸遜の柔らかい髪を撫でることに徹した。
「こういうことを申し出る立場でないことは重々承知しているのですが、凌統殿は身を固めないのですか」
「はっ?」
「いえ、こうして撫でて頂けることは嬉しく思うのですが、少々、気恥ずかしいなと」
凌統にとって陸遜は気の置けない友人であり、愛玩に近い対象であった。甘えている自覚はあったが、こうも直接告げられると、凌統の方こそ恥じらいが出て来る。
「ごめん。確かに、あんたに癒しを求めすぎた。女ね、そうか、まあ、そりゃそうだ」
「出過ぎたことを申しました」
「俺の方こそ。荊州、気を付けて」
どことなく気まずい空気のまま、凌統は慌てて得物を脇に挟み、陸遜に拱手した。逃げるように鍛錬場を飛び出る。
凌統は若い男だ。性欲だって人並みにあり、以前は遊郭を利用することもあった。それが、思い出してみれば凌操を喪った日からずっと、そういったことを忘れていた。朝に生理的な現象が起きても、淡々と処理をするか、少し間を置いて収めてきた。
昔から負けず嫌いで、一人で抱え込む
少しむず痒い身体を走って誤魔化し、凌統は自邸に戻ることとした。誰かに触れたいなどと言う甘えた欲が出た自分が、どことなく許せなかった。