凌雲を掴むまで


 大都督周瑜の葬儀は、荘厳かつしめやかに行われた。
 凌統の心はずっと燻ったままだ。孫策の志を支え続けた、あの周瑜が永眠したことが信じられず、毎日がむしゃらに鍛錬を続けていた。凌操の死から七年。甘寧が降ってから三年。その間に情勢は変わり、凌統も南郡での功が認められ承烈校尉の位を賜っていた。かつて凌操二世軍と揶揄された軍団も、凌統軍として地位を確立している。

 甘寧の存在は小骨のように引っかかったままだ。孫呉にいることが当たり前になっただけではない。南郡の戦いで主君の命令通り・・・・・・・夷陵城を奪取し、籠城戦にも怯まず猛攻を耐えたことが知れ渡ると、甘寧は孫呉に欠かせない人材とすら評価されるようになった。甘寧の行動が暴走ではなかったことを知っても、凌統は納得できなかった。結果として周瑜は夷陵城で傷を負い、癒えぬままに荊州論争で心を痛め、最期は病魔に連れ去られた――そう思ってしまう。
 魯粛が後継となることや、孫劉同盟を保持して対曹操に当たるべきことは、飲み込めている。それでもこの国に周瑜がいないことが信じられず、漠然とした不安を抱えていた。

 回廊の先から笛の音が聞こえてきた。凌統の足は自然と音へ向かう。とても美しく、澄んだ音色に心当たりがあった。奏者は気配に振り向き、ゆったりと唇を弧にした。

「驚いた。よりお上手になられましたね」
「ほんと? うれしい」

 大きな目を細めて笑う小喬に、凌統はほっと胸を撫で下ろした。葬儀の際、はらはらと静かに涙しながら妻として勤め上げていた小喬のことを心配していたのだ。天真爛漫さが封じられた対応は正しい姿だったが、小喬を知る者は胸を締め付けられる思いであった。

「凌統、ありがとね」
「えっ?」
「前にここで、教えてくれたでしょ。すぐにでも聴かせてあげたらーって」

 赤壁合戦後の宴会の夜のことだ。二年も経っていないのに、小喬は随分と大人な顔つきになった。振る舞いも言葉もぐっと落ち着いていて、凌統は少し寂しくなった。背伸びしたような動作は凌統にも覚えがある。大事な人を喪った者が背負う気持ちは、当事者以外に分かりようがない。
 小喬は欄干に小さな手を乗せて、つるりとその表面を撫でた。労わるような動作がとてもよく似合うようになった。

「あれからすぐ、周瑜さまに聴いてもらったよ。とっても褒めてくれて、いろんなことを教えてくれた」

 滑らかな頬を雫が伝う。凌統はその横顔を、神妙に眺め続けるしかできない。

「笛だけじゃなくて、箏とか、きれいな絵とか。いっぱい一緒にいられたよ。凌統のおかげ。ありがとう」
「とんでもない。小喬殿の明るさに、周瑜殿も元気を貰っていたんじゃないですかね」

 静かに答えると、小喬は眉を下げて唇だけで笑った。大粒の涙がどんどん淵に溜まり、ぽろぽろと零れていく。

「最期は、聴きながら、だったの。あたしの笛。嬉しかったかな」
「はい。これ以上ない旅立ちですよ」
「そうだったら、いいな。向こうには、孫策さまもいるもんね。さみしくないよね」

 小喬の言葉は少しずつ掠れ、しゃくり上げて話すので途切れていた。凌統は聞き逃さないよう集中しながら、ゆっくり頷く。弱っている彼女を抱き締めて頭を撫でることは、物理的には可能だ。だが、本当に出来るのはこの世にいない彼女の夫だけだと理解している。せめて、突っ張った緊張が少しでも解れ、本心が出せるよう願うだけだ。

「でも、あたしは、さみしいよ」

 凌統の心が通じたのか、小喬は素直な言葉を吐露し、周瑜の名を繰り返し呼んで泣き続けた。大都督の妻ではなく、一人の女として夫を喪った悲しみを吐き出している。凌統も次第に瞳が潤んできた。

「俺も、寂しいです」

 凌操を喪った武将としてではなく、父親を喪った息子として、もっと悲しみを吐き出しておけばよかった。小喬の姿にそう気が付いた。喪った理由や経過に関係なく、もう会って話す事ができない現実に涙するだけで、がちがちになっていた心が少し、緩和されるような気がした。

 そうして二人はしばらくの間立ち続け、別れの際に互いの赤い目を指摘し合って、笑うのだった。


***


 秘密の追悼を終えた帰途、木陰から鈴の音が聞こえた。思わず立ち止まってしまい後悔する内に、主が顔を出す。

「……暗殺でもする気かい」
「はっ。お前を殺す理由がねえよ」
「随分情けをかけるもんだ。気に食わない奴は容易に斬ってきたんだろ」

 凌統の耳にも甘寧の噂はよく聞こえてきた。粗暴で浅慮、腹が立てば殺す――そのような評価を聞いて、凌統はかえって安心していた。人が良く、誰もが慕うような人間が仇であれば憎み続けることは苦しかっただろう。甘寧は一部の似たような荒れくれ者どもには好まれているようだが、嫌悪し続けてもおかしくない程の悪評判っぷりである。精々認められるとすれば武力のみだ。
 凌統の煽りに対し、甘寧は乗って来ない。ぽりぽりと後ろ頭をかきあらぬ方向を見ている。いつもすぐ逆上するのに、と口上では皮肉を述べながら凌統は動揺していた。

「なあ、酒でも飲まねえか」
「……はっ?」

 さらに調子を狂わせるような予想外の言葉が出て来て、凌統は素で反応した。固く結んでいた腕組みも緩み、目を瞬かせる。辺りは既に暗く、静かで、瞬きの音すら聞こえた。甘寧の派手な出で立ちや時折鳴る鈴の音があって目立つというのに、人気ひとけのない空間が不気味に感じる。

「なんで、俺が、あんたと」

 素のままで答えた凌統は、甘寧がまっすぐ視線を向けて来るのを見て、口を閉ざした。夏口での戯言や南郡前の、思い出すだにぞっとするような口付けが思い浮かぶ。無意識に首を振った。

「あんたが何考えてるか知らねえが、俺はあんたを許してない。認める気もなければ関わる気もないっつの」

 ここではっきり伝えねば理解できないのだろう。凌統はそう直感し、真正面から甘寧の視線を受け止め、突き放すように言葉をぶつけた。

「んだぁ? 親父のこと、まだごちゃごちゃ言ってんのかよ」
「父上のことだけじゃない。あんたの軍紀を乱す行動も、趣味の悪い出で立ちも全部苛立つんだよ。戦以外で、関わらないでくれますかね」

 誤解の余地を与えずに突っぱねた。近々、無礼を承知で領地を離してくれと請願しようと案じていたところだ。姿さえ見えなければ、武力としては存在意義がある。
 背を向けて去ろうとしたが、並々ならぬ圧を感じてすぐに振り返った。甘寧は笑っていた。

「やっぱいいよなぁ、お前。俺相手に怯えもしねえしよ」
「誰があんたなんかに、怯えるかっての」
「その目。たまんねえぜ」

 甘寧が大股で歩み寄り、あっという間に距離を詰めて来る。凌統は目を開いて甘寧の動向を探った。甘寧がゆっくりと腕を伸ばし、凌統の長い後れ毛に向かう。振り払うことは簡単なはずだが、色素の薄い甘寧の瞳とかち合った凌統は身を硬くしていた。

「許されようなんざ思ってねえ。詫びる気もねえ。けどよ、俺はお前が気に入ってんだ。逃がさねえぜ」

 毛束を掴んでいた手が滑るように落ちていき、爪先が顎に触れた。ぴりっと痺れるような刺激がきて、凌統は反射的にその手を力強く払った。夜だと言うのに体は熱く、しかし肌の表面はぞくぞくと鳥肌を立てている。
 何も返さぬまま走り出した。鈴の音が追って来る気配はなかったが、凌統は自邸までの距離を全速力で走った。着く頃にはぜえぜえと息が切れ、喉の奥から血の味が上って来る。

「若様、いかがいたしましたか……!」

 女官長が飛んできて、あれこれと世話を焼く。大丈夫だと言いたいのに、何も返すことができなかった。ただ、混乱していた。
 甘寧から向けられる目線や言動の意味が分かって、無意識に首を振っていた。
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