凌雲を掴むまで
結果的に、孫呉は曹仁を退けた。展望通り総攻撃を仕掛けてきた曹仁を、甘寧・魯粛・周瑜が見事に跳ね返したのである。しかし、曹操の盾はしぶとく堅い。捕縛までは叶わず、孫呉はその地を押さえたものの、曹仁を逃すこととなった。
「ちっ、待ちやがれ!」
「待て、甘寧。深追いはならぬ」
「あんたまでつまんねえこと言うのかよ。好機なんだろ!」
魯粛は甘寧に鋭い目つきで睨まれても表情を変えない。ゆっくりと振り向いて周瑜の肩を支えた。先ほどより、顔色が悪いようだった。魯粛は早い段階で真実に気が付いていた。
「……おいおい、重傷ってのは、策じゃあなかったのかよ!?」
「我が身を使ってでも南郡を取れたのならば、本望よ……」
「いかん。熱が出てきている。すぐに本陣へ戻るぞ」
救援してくれた周瑜を見捨てる訳には行かない。甘寧はすぐ頷き、自らの馬に周瑜を乗せて慎重に歩を進めた。
夷陵城で感じたむず痒さはすでに全身を通り抜け、孫呉への熱い思いに昇華していた。孫呉に尽くすということは、時に己の欲を押さえてでも、国の人間を守るということになる。一度だけ振り向き、曹仁の逃げた方角を睨み付けてから、ことさら慎重に大都督を運んでいった。
本陣に戻ると、周瑜は護衛兵に連れられて行った。陣中は曹仁撤退に喜ぶ声や周瑜の身を案じる声で騒がしい。頭を冷やしたくなった甘寧は、外した籠手を副将に押し付けてから幕の外に出た。井戸の桝の前に、長い髪の男が見える。向こうもすぐに気づき、つかつかと音を立てて近づいてきた。予想外の行動に、甘寧も驚き目を見張る。
「おう凌統。お前が居残ったおかげで、」
甘寧の言葉は遮られた。凌統に胸倉を掴み上げられ、つま先が浮く。
「……けるな……」
「へっ。今日も随分苛ついてんな」
「ふざけるなっつの!」
凌統の拳が頬目掛けてやって来る。腕で阻止したが、当たった箇所はひりひりと鈍い痛みがある。凌統の睨む目つきは三白眼が一層強調され、ぞくぞくと甘寧を興奮させた。連続する殴打を片手で凌いでいく。力は強いが、殺気はない。憎悪よりも純粋な怒りの様に、首を傾げた。
「なーにキレ散らかしてんだよ。美人が台無しだぜ」
「あんたが飛び出したせいで……周瑜殿が……!」
ぎゅっと眉間が寄るのが分かった。物騒な顔つきのまま凌統を睨むと、きつく
「好き勝手行動して、孫呉の大都督様を危篤にした。その自覚はあるのかい」
今回は君主の命令通り行った奇襲だったはずだが、と不快になったが、凌統が朝議に欠席したことを思い出した。他でもない甘寧が諍いの理由を作ったことや、口付けの甘さも。凌統の唇は怒りで食いしばったせいかやけに血色がよく見えた。締め付けられた首をごくりと生唾が通る。
「あんたは……何人孫呉の人間を殺せば気が済むんだ? あのまま、あんただけが……」
甘寧は舌を打ちたかったが叶わなかった。ぎりぎりと締め付けられた首が苦しく、舌が回らない。狭まる視界で凌統の顔だけを見続けた。憤怒に
甘寧の中にまた理不尽で狂暴な欲が湧く。乱世においてまだ青臭い考えを持つ凌統を、この手で暴いて力を知らしめ劣情をぶつけて、喘がせてやりたい。腕を伸ばした時に、幕舎内から怒号が聞こえた。思わず、二人で幕を見る。
「……魯粛殿?」
「……おっさんの声もするな。仕方ねえ、喧嘩はお預けだ」
甘寧の言葉を無視して凌統が駆け出す。揺れる毛先を、今はまだ眺めるだけだ。だが必ず物にする。妙なところで決意が固まった甘寧は、同様に幕舎に駆け込んだ。
「やられた。劉備軍が、荊州に居座っている」
魯粛から遅れてその報告を聞いた甘寧は、腹から怒りが上がって来るのを感じた。横取りとは良い度胸だと手指の骨を鳴らす。ちらと見た呂蒙も同様に腹に据えかねているようで、戟をぶん回している。だが、魯粛は虚空を睨みながら首を横に振っている。
「張飛と趙雲がいるようだ。周瑜殿が負傷しており、そして曹仁と当たった直後の我らは分が悪い。孫劉同盟のこともある。今すぐどうこうできる話ではない」
「ああん? 何が同盟だ。あいつらが破ってんだろ」
「……とにかく、今は周瑜の療養を優先しよう」
ゆっくりと閉じていた目を開けた孫権が言う。いきり立っていた軍勢も、君主の命令があっては落ち着くほかない。孫呉一行は一旦建業への帰還を決めた。
甘寧はぶすくれた表情を浮かべながらも命令に従った。南郡の地での戦いで覚えたことがある。それは、軍師は軍師なりの喧嘩があるということだ。武将である甘寧は力を振るって物理的に相手を潰すことしか知らない。しかし、国同士の戦いにはそうではないやり方があるようだった。周瑜や魯粛、そして呂蒙に世話になっていることを考えると、甘寧が一人飛び出してその喧嘩を台無しにするのは格好が悪い。
「そういえば甘寧、凌統とは話せたのか」
「ああ? んだよおっさん」
「奴が守りに徹してくれたお陰で、俺らはお前を助けることが出来た。お前から感謝の一つでも示せば、和解の兆しになろう」
甘寧は拳を握り直した。皮膚に感覚を集中させると、温度や鼓動を感じた。生きている。その事実が、凌統を
「よくあいつ、守備に頷いたな」
「まさか。反対していたぞ。だが、奴の忠孝は固い。殿の言葉にすぐ頭を下げていた」
「俺に突っ込めっつったり、俺を助けろっつったり。殿さんもなかなか曲者だぜ」
「俺は、殿にやはり主の器を感じる。孫堅殿や孫策殿とは異なるが、確かに江東の虎の血だ」
甘寧は隣の呂蒙を眺めた。伸びた顎髭を擦りながら、時々頷いて語り始めている。軍師という生き物は、誰かに持論を話すことで意見をまとめる傾向にある。少しだけ面白くなってきたので、黙って聞き入れることにした。
「お前が夷陵城に閉じ込められても笑って耐えていたことが、すでに陣中に広がっている。殿が吹聴したそうだ。お陰で、お前を懐疑的に見ていた古参の方々は、すっかり受け入れている」
「んじゃ、一旦俺は殿さんに認められたって訳だな」
「勘違いするなよ、甘寧。殿は黄祖討伐の時からお前を信用している。お前の部下にも十分な報酬が与えられている筈だ」
呂蒙の言葉で、手下のはしゃぎようを思い出した。甘寧が引き連れてきた部下にも、孫呉は格別の待遇を与えてくれていた。かつて部下に対し冷遇が続いたことで黄祖に嫌気がさしたことを思うと、始めから信頼されていたと聞くとむず痒い。
「じゃあ、あの朝議はなんだったんだ? 殿さん、随分当たりが強かっただろ」
「お前が凌統と揉めたからじゃないか」
「んだそりゃ」
孫権に信頼されていると聞いて高揚していた気分が急落した。下唇が勝手に出て来て、眉間が寄る。呂蒙はそんな甘寧の顔を見て笑っていた。それにもますます腹が立つ。
ずっと感じていることだが、凌統という男はこと孫権にやたらと甘やかされている。忠心篤き二世の武将。仇討ちを禁じられて君主に尽くす男。
「面白くねえ」
甘寧が見たいのは凌統の素顔だ。本心を押し殺して使える姿に興味はない。現状では自分に対し怒っているあの姿こそが素顔なのかと思うと、逃がしてやる気にはならなかった。
***
南郡の戦い以降、甘寧は見違えたように日々を過ごしていた。喧嘩のない日々などつまらないと感じていたが、案外そうでもないことが分かってきた。南郡での功績が認められて軍団員が増え、船や武器も豊富に与えられた。それらを次なる喧嘩に向けて鍛え上げるのは案外楽しいものだ。練兵などというきちんとしたやり方は当初馴染まなかったが、やってみれば面白い作戦もあった。
国の流れに従うことも、軍師の喧嘩に必要だと分かれば一旦は頷くことにしていた。だが、孫劉同盟の維持、ひいては結びつきを強固なものにするために、孫尚香が嫁ぐという話にはさすがに目を剥いた。たまたま中庭にいた彼女を捕まえて話を聞くくらいには、驚かされていた。
「姫さん、劉備の女になんのかよ」
「あら。寂しい?」
「じゃじゃ馬とか言われてるあんたがいなくなりゃ、寂しがる奴もいんだろ」
「ふふ。甘寧はそうでもないみたいね」
嫁ぎの支度で忙しいものかと思えば、尚香はいつも通り武装している。どうやら体を動かしていたらしい。あの柔和そうな福耳男に務まるのか、と甘寧は要らぬ心配までした。
「せっかく意中がいる国に行けるってのに、いいのかよ。政の犠牲になるなんざ、似合わねえぜ」
「やだ、心配してくれてるの? 優しいところあるじゃない!」
「痛ってえ!」
小さい手の平なのに、背を叩かれるととんでもない痛みを伴う。野蛮な風貌の甘寧相手に容赦なくやってくる女もそういない。無遠慮に睨んでも、尚香は朗らかに笑っている。ため息一つで諦め、本心を尋ねた。
「好きでもねえ野郎と一緒になるたぁ、女も楽じゃねえな。正直、どうよ」
「甘寧。私、玄徳様が好きなのよ」
凛とした声が響いて、甘寧は閉口した。これまで聞こえなかった鳥の声やら庭木のさざめきまで急に感じられた。平穏な風が吹いて柔らかく尚香の短髪を揺らす。
「私は私の意思で嫁ぐわ。政の道具なんかじゃないの。周瑜はただ孫呉のために必要な縁を繋いでくれただけかもしれない。でも、その相手が意中の人だなんて、運命的じゃない?」
はつらつとした表情で言い切った尚香がやけに眩しく、甘寧は目を細めた。華美すぎない髪飾りが陽光を反射して輝いている。甘寧は強い者が好きだ。尚香のように、進んで命運を掴み取る人間を、素直に称賛したくなった。
「姫さんすげえな」
「ありがとう。私、とっても幸せよ。傍にいて、玄徳様を守れるんだもの」
好きな人間を守りたいという思いに男女は関係ないのだと痛感させられた。純粋で強く、逞しい彼女に甘寧は拱手して頭を下げ、立ち去ろうとした。甘寧の背に声がかかる。
「私、あなたと凌統は、孫呉の力になるって信じてる」
「ああ? んだよ急に」
「凌統のこと、誤解しないでちょうだい。素直になれない性格なの。凌統は権兄さまの考えを尊重してくれている。だから、あなたが仲間だって認めてるはずよ」
「どいつもこいつも、俺が苛めてるみたいに言いやがる。中途半端に仇だの許せねえだの言ってんのはあいつの方だろ」
「でもあなた、怖い目で凌統のことを見てるでしょう」
甘寧はぎこちない動作でゆっくり振り向いた。尚香は形のいい眉を下げてその様子を見ている。
「二人の力が必要なの。お願い。凌統を嫌わないで」
ほんの少し間が空いた。大抵のことは即答する甘寧には珍しいことだった。
「……あいつが嫌いなんて言ったことねえだろ」
吐き捨てるように告げて、尚香の前を去った。
本人より先に他者に本心を告げる気はない。凌統のことは甘寧自身にもうまく説明できないのだ。うるさいと思うし、鬱陶しいことも多いし、腹立たしいことばかりだ。未だに、屈服させて乱暴にしたい気持ちもある。だがそれ以上に、凌統の目に自分だけが映る瞬間を増やしたい。甘寧の思いは少しずつ形を変え、柔らかく解けてきた。だが、その糸口は掴み損ねている。
がしがしと頭を掻いて、当てもなく歩き出した。