凌雲を掴むまで
情勢が目まぐるしく動くのを、凌統はただ黙って受け入れた。凌操の死によって家督を継いだ凌統は、時代の変遷に置いて己の未熟さを痛感していた。乱世に染まりたくないという思いがどれほど青かったことか。一軍を率いる責任の重さが、凌統を乱世に引きずり込んでいく。
曹魏の南進を食い止め、平穏が訪れたかと思うと今度はこちらからの侵攻である。かつて父に甘えていた時代であれば、幼稚な皮肉の一つや二つ溢していたかもしれない。だが、今は違う。凌家として孫呉に尽くしている以上、目指すのは天下泰平で、南郡を押さえるという決断もすぐに納得できた。
その決断が発表された日、凌統は朝議を欠席した。というよりはさせられた。甘寧に煽られ、口付けられて我を失った凌統は、ふと気が付いた時には陸遜の執務室にいた。激昂し、頭に血が上っていたところを、どうにかして連れて来てくれたようだった。
「凌統殿……大丈夫ですか」
「……すまないね、俺のせいで、朝議はサボりですか」
「不良に走りたい日もあるものです。お気になさらないでください」
笑顔で言う陸遜に、凌統はようやく肩の力を抜いた。全身が強張っていて、酷い筋肉痛のような状態だった。茶を淹れてくれた陸遜が、困ったように眉を下げる。
「普段冷静な貴方が、甘寧殿を前にするだけであのような……。お父上への気持ちがどれだけ強かったのか、察するに余りあります」
その一言に、凌統はぞっとした。温かい椀を掴んでいるはずの手指が冷たく、座面から背筋に寒気が走った。
今日の凌統の怒りに、凌操の存在は影響しなかった。嫌がらせのように唇を塞がれ、舌を捩じ入れられたことが許せず逆上した。気に食わない相手に喧嘩を吹っ掛けられ、まんまと乗せられたことになる。
言い換えれば、親仇の事実を除いても甘寧を嫌悪しているのだが、陸遜の懸念する怨恨がすでに薄れていると思うと恐ろしくなり、握った拳が震えた。
「……まるで、俺に睨まれることを楽しんでるような煽りをしてきましてね」
「甘寧殿は
凌統は視線を水面に落とした。いびつな波が立ち続けている。怒りなのか悲しみなのか絶望なのか判然としないが、この時凌統は真実を伝えることは出来なかった。
足音が背後から近づいて、凌統は閉じていた目を開いた。振り向いて拱手する。顔を上げ直すと、澄んだ碧眼の君主が凛と立っていた。その脇には周泰と練師も控えている。南郡侵攻の後発隊である。
「周瑜から伝令が来た。夷陵城の周辺に、何故か劉備の奴らがいるようだ」
「劉備軍が? 協力を仰いだのに、無視されてるって言ってましたよね」
「ああ。劉備……いや、諸葛亮か。食えぬ男だ」
熱い意思を燃やす瞳を見ると、凌統は闘志が湧いた。協力が得られるのであれば、曹魏攻略が前進しやすくなる。凌統に出来るのは、ひたすら武を奮うことだ。先発に指名されなかったことは悔しいが、君主の護衛や兵糧の保守が戦において重要だと己に言い聞かせていた。なにより、甘寧と顔を会わせなくて済む。
馬を向かわせて幕舎に入ると、周瑜や呂蒙が支度を整えて出るところのようだった。
「先ほど、魯粛殿の隊から伝令がありました。陽動に成功し、夷陵城は甘寧の手によって落ちたそうです」
「順調だな。このまま一気に南郡を取る」
都督らの計画によると、甘寧が夷陵城を押さえて足場を作ると同時に東側を押さえる手はずになっている。仇の活躍が面白くなく、凌統は不躾に腕を組んで足を踏み鳴らした。孫権の安全が確保できれば、東部の制圧に勝手に出てやろうと意気込む。
孫権の返答に呂蒙が丁寧に拱手した時だった。幕舎の外が急に騒がしくなった。
「もっ、申し伝えます! 甘寧様らが、夷陵城に閉じ込められた模様!」
「なに!?」
「陥落は策だったということか!?」
軍師らを筆頭に、幕内が一斉にざわつく。孫権も目を見開いて息を飲んでいた。
「どうやら、曹仁は夷陵城にはいないようです。しかし、城壁には多くの弓兵が配置されております! このままでは、寡兵の甘寧様らは……!」
思わぬ状況にさざめく陣中で、凌統は笑い出しそうになるのを必死に堪えていた。どんなに強い衝動が沸き起こっても、不敬に当たる行動は控える。それが凌統なりの忠義である。
甘寧のことは、孫権に誓った以上殺さないと決めていた。しかし、勝手に死ぬのであれば、凌統にとって願ったり叶ったりの状況である。仇が自らの手で討てない悔しさはあれど、目の前に現れなくなるという喜びが勝つ。
しかし、凌統の目論見はすぐに崩れた。
「殿、甘寧を救いに行くべきです!」
「本陣を精鋭のみとし、全軍で当たりましょう」
叫ぶように進言した呂蒙の提案を、周瑜が冷静になぞった。凌統は二人の発言に背筋を凍らせるばかりだ。
「ああ。甘寧は我が軍にとって重要な将だ。必ず救ってくれ!」
孫権は少しの間も空けずに、きっぱりと告げた。おおお、と雄叫びが陣中を包む。凌統は血の気が引いていく己を、まるで一歩離れた位置から俯瞰しているような錯覚に陥った。自分だけが、取り残された感覚だ。
「……です」
「……どうした……」
こぼれ出た言葉を、隣にいた周泰だけが気付いて拾った。凌統は震える手を握り、足元の土を踏みしめてその顔を睨み上げる。凌統より長身の男は、さらに鋭い目つきで凌統を睨み付けている。
「あんな奴を救うためだけに、全軍が出る? それこそ、敵さんの狙いなんじゃないですかねえ」
「……何が言いたい……」
「俺は反対です。一人で突っ込んで孤立? 庇う理由がありますかね」
周泰が無言であるのをいいことに、凌統は口元を引きつらせながら続ける。
「夷陵城は取れなかったが、あいつが犠牲になっている間に南と東から挟撃すれば、曹仁を突けるでしょう」
凌統の言を、孫権と周瑜も聞いていた。意見としては筋が通っているものの、軍師と君主を差し置いての発言に、すぐさま周泰が胸倉を掴み上げる。長身の凌統を浮かせる程の力は、並大抵の人間には持ち得ない。周辺の兵士に緊張が走る。
「凌統。お前は私と共に本陣に居てもらう」
つま先が付くか付かないかの位置で保持された凌統は、孫権の言葉に驚愕した。そろそろと瞳を動かしてみるが、冠しか視界に入らなかった。
「いいな。全軍突撃せよ。甘寧のことは周瑜と呂蒙に任せるとしよう。周泰、尚香・練師と共に東へ向かってくれ」
「そんなっ!? 殿っ、俺は」
「……御意……」
周泰が投げ捨てるように凌統を地に落とした。周囲は動揺しながらも拱手し、孫権の命令通り準備を始めている。周瑜は周泰と練師に、物見櫓に見つからぬよう、慎重に進めと命じていた。
受け身を取った凌統は、身体ではない痛みを感じていた。心臓が張り裂けそうで、肌がずっとざわざわと鳥肌を立てている。親の仇を同属だと認めるだけではなく、その男を救うために皆が出、己は本陣の守備に就かせられることが、どうしても納得できなかった。
「不満か、凌統」
蒼の目が見下ろしてくる。はっとして目を合わせた凌統は、ふいにその瞳の美しさに吸い込まれそうになった。孫権は凌統の苦痛をよく分かっている。気にかけ、苦労を掛けると直接告げてくれた日のことを、忘れてはならない。
地に跪いたまま、凌統は頭を垂れた。高く結い上げた髪が揺れて肩に掛かる。
「殿のことは、俺が全力で守ります」
固く誓った忠誠を、出陣直前の軍師たちがしかと見守った。
***
夷陵城には矢の雨が降り続けた。時々、歩兵が城壁から攻め入って来る。対する甘寧軍は、甘寧と丁奉という将兵の他、少しの騎馬隊と歩兵しかいない。絶望的な状況の中、甘寧は煮えたぎるような熱を全身に纏っていた。湧き出て来る衝動で笑いが止められない。
「楽しくなってきたぜえ。なあ、丁奉」
「某は、庭で静かに詩を詠む方を好みますが」
「へっ。寒いこと言ってんじゃねえよ」
背後を狙って突っ込んできた兵は、丁奉の断月刃に食われた。掬い上げて地に落とす戦い方は、彼の趣味とは真逆で残酷である。甘寧は笑うばかりだ。
「お前も本当は暴れんの好きだろ」
「美しき景色と国を守るためならば、某が武、奮い続けましょう」
戦う理由は多岐に渡る。野望も君主の考えも様々だ。甘寧も国を変え、時に自らが頭となって立場を変え、肌身で感じてきた。甘寧の戦う理由は単純で、楽しいからに尽きる。喧嘩をするたびにひりひりと焼け付くような緊張感が全身に響くことが、これ以上ない快楽だった。
奇襲よろしく槍を伸ばしてきたのを、甘寧は振り返らずに掴み、持ち上げて投げ飛ばす。鍛えた筋肉も喜びに躍るように動いている。状況は劣勢で危機的だが、切迫感こそが甘寧の目をぎらつかせていた。
丁奉はその狂気ぶりに感心しながらも、どっしりとした構えを崩さず、努めて冷静に兵を退け続けていた。
重く、硬い門が開いたのはその数刻後のことであった。喧しい音を立てて開いた城門に、甘寧が眉を上げる。そういえば、少し前から雨が止んでいる。静かになってつまらないなと丁奉に愚痴を入れていたところだ。
「甘寧っ、無事かっ!?」
「おっさん。それに周瑜まで。まさか、助けに来たってのか?」
「全く、なんだその締まりのない顔は」
鬼気迫る顔で甘寧の元へ走った呂蒙だったが、普段と変わりない様子の甘寧に思わず拳骨を落とした。理不尽な攻撃に、甘寧は頭を押さえて怒っている。その様子を見て周瑜は穏やかに笑っていた。お偉方の美しい笑顔に毒気を抜かれた甘寧は、胸がくすぐったくなるのを覚えていた。
「悪ぃな、大都督さんよ。手間かけさせちまったな」
「なに。君も大事な孫呉の将だ」
笑みを絶やさずあっさりと返答してきた周瑜に、甘寧は瞠目した。くすぐったさの正体を、瞬きを繰り返しながら探る。
甘寧は、信用されなくて当然と考えていた。寝返った敵を心から信頼できるような時代ではない。主を転々と変えた甘寧だからこそ、信頼を得る難しさを知っていたし、同時に自身も壁を作って生きてきた。根を張ることは弱さ一つとすら考えていた。決まった女を作らないことに似ている。
だから、孫権に命じられた時も動じなかった。命を懸けて孫呉に尽くすところを見せよ、という考えは、国主らしいと感心していた。しかし、今はどうだ。己を助けるために、重要な軍師らが続々と押しかけて来る。
籠城戦が数日も続けば危険であることは甘寧にも分かっていた。それゆえに、早期の救援は周瑜の言葉通り、大事にされていることを実感させられるのだった。
むず痒さが肌を伝い、甘寧はぽりぽりとむき出しの腕を掻いた。刺青の這う肉体は温度があり、生を確認できる。
「おっしゃあ! 改めて曹仁と喧嘩だな」
「ふ。頼もしい。その力、存分に見せてもらうとしよう」
任せとけ、と意気込みを露わにしようとした時だった。仕留め切れていなかった弓兵が城壁の隙間から覗くのが、甘寧には見えた。弓を引き、弾くところまで視界に入っていたが、あと一歩が出遅れた。
「ぐっ……!?」
周瑜が呻いて膝を着く。呂蒙がその体を抱きとめるのと、甘寧が拾った弓を引くのは同時だった。甘寧の矢は、ほんの少しだけ出ている敵兵の頭部を貫いた。丁奉が生唾を飲む。
「周瑜殿!!」
「……問題ない」
玉のような汗を浮かび上がらせた周瑜が言う。矢は肩口に刺さっており、致命傷ではないものの、染色ではない朱が滲む衣服を見て、呂蒙が直ちに手当てを命じた。
甘寧は怒りが内から渦巻き上がって来るのを感じた。その矛先は曹仁ただ一人に向かっている。しかし、指先まで整えられた周瑜の手に、飛び出しを制止された。
「これは、好機だ。私のことは囮とし使ってくれ」
「周瑜殿!?」
眉間を寄せた周瑜が淡々と言うと、呂蒙は声を裏返らせて驚きを見せた。甘寧はただ黙って周瑜の顔を凝視した。
「良いか。私は瀕死となった。危険な状態だ。偽の情報で曹仁をおびき寄せ、一斉に叩く」
「なるほどな。肝の据わった大都督様だぜ」
「甘寧、口を慎め!」
「良い。甘寧、やってくれるな」
鋭い眼光に貫かれた甘寧は、またうずうずとくすぐったさが上がってきた。信頼や期待といったものは偽りだと思い込んできた。しかし、そうではない。孫呉は甘寧を認めている。
「おう。ちなみに聞くが、本当に大丈夫なのかよ」
「心配無用だ。演技も長けていてすまないな。あくまで策であることは、ここだけの話にしてくれ」
ぜいぜいと息が上がってきた様子の周瑜に尋ねた甘寧だったが、すらすらと回答されて頷く他なかった。先ほど汗の見えた顔面はいつも通りの美麗な状態に戻っている。
「魯粛殿は今頃、劉備軍との接触を終えている頃でしょう。伝令が偽であることは、いずれ知らせなければ」
「敵を欺くには味方から、とも言う。慌てて引き返す魯粛を見れば、敵兵も釣られることだろう」
周瑜が立ち上がる。よろよろとしたその動作が、まるで重症を知らしめていた。そのまま、周瑜は棍を片手に城の外へと足を向け始める。
「負傷した周公瑾の姿、見せつけてやるとしよう」
周瑜の振る舞いに甘寧は胸を打たれた。生まれて初めて、信頼と期待に応えたいと感じた。もちろん、この気持ちは呂蒙へも抱いている。初めて会ったその日から、呂蒙の存在は甘寧にとって不可欠となっていた。
鎖分銅の柄を握り直したその時だった。城の南側から、別の伝令兵が走って来る。
「いっ、急ぎ申し上げます! 本陣に敵襲あり! 敵将には、李典と楽進が確認されました!」
「なんだと!?」
呂蒙がずいと前に出て、伝令に掴み寄る。甘寧も眉をひそめて動向を伺った。
「現在は凌統様が守備に徹しておりますが、敵軍は破竹の勢いです!」
「ぐ……、しかし、周瑜殿危篤の情報を流した以上、曹仁も出てくる……!下手を打てば、挟まれるのは我らか……!」
呂蒙の葛藤は甘寧の頭に入らなかった。伝令の告げた名に違和感があったからだ。
「どういうことだ? 周泰の野郎や、姫さんもいるんだろ」
「本陣の守備は凌統のみに託している。我らが実行する筈だった東部の制圧を周泰らに任せてきた」
「……あんたらが夷陵城に来たからか?」
「ふ。言い換えれば、凌統が守ってくれているからこそ、君を助けることが出来た。甘寧、どう思う」
甘寧の感情は既にいっぱいである。夷陵城に着いてから、あっという間に出来事が駆け抜けてきた。はっきり分かるのは、孫呉へ献身する覚悟が決まったことと、凌統の存在がやはり特別であることだ。
「俺は曹仁に当たる」
「甘寧、凌統が体を張ってくれているというのに、お前は……」
「あいつは強え。赤壁で見たからな。おっさんも知ってんだろ」
甘寧はじゃらりと鎖を鳴らして得物を構えた。取るべきは曹仁。本陣は凌統に託す。その覚悟に、美周郎が声高に笑った。怪我を感じさせない様子は、治療に当たっていた丁奉を安心させた。
「呂蒙。君は本陣の救援に戻ってくれ。こちらにはじきに魯粛も合流するだろう」
「……承知つかまつった」
すぐさま軍に指示を出し始めた呂蒙の背を、甘寧は眺め続けた。己の手で守りたい思いはある。しかし今、凌統の顔を見てしまっては、正気を保てないだろうと直感した。甘寧を救うことを受け入れた凌統の忠義に対し、甘寧が覚えたのは感謝などという生ぬるいものではない。張り裂けそうな劣情が
「丁奉。曹仁が来るまでそのでけえ体、隠しとけ」
「承知しました」
今にも走って暴れ回りたい欲を押し留めて、甘寧は曹仁が来るのを待ち続けた。