不和の共鳴
孫権軍一行は、国の平定に向けて奔走していた。河北の動向を睨みつつ、同盟相手であるはずの劉備軍にも注意を払い続け、時折発生する反乱を鎮圧する日々が続いた。
黄祖の元で冷遇されていた甘寧は、孫権軍へ投降してからおおむね満足した日々を送っていた。孫権は功を重んじる。武功を立てた甘寧だけでなく、その子分にも十分な報償や生活が与えられた。さらに、領土を拡大していることもあって戦は尽きない。若い頃よりも突っ走ることは減っているものの、己の本分は戦場にあり、戦うことで人生を
ひとつ、懸念があるとすれば、黄祖時代に討った将の子が同属にいることだった。乱世において敵が味方になることは珍しくなく、単なる仇の間柄であれば遠方に配置する等の対処で済む。しかし、例の子、凌統の場合そうはいかなかった。共に武官という立場であり、求められる役割が等しく、組織的には甘寧と凌統の力が合わされば軍として強力な武器になるという。
が、現実にはそう簡単にいく話ではない。仇の投降を受け入れるだけでなく、肩を並べて戦えという現況に、若き将星は反発していた。忠孝心篤き二世軍人は、甘寧のような流れ者と正反対に生きてきた。性格が合わないことも災いし、二人の間には依然として深い溝が在り続けていた。
「……なんで俺がこいつと一緒なんです」
「できねえなら、お家に帰っていいんだぜ」
「そもそも、帰る家もないようなあんたが、こっちの人間面してんのが気に食わないっつってんの」
「おいおい、そんなちゃちな煽り文句に乗ると思ってんのか?」
互いに腕を組んで言い合う猛将らの姿に、美周郎こと孫呉の大都督周瑜がため息を吐く。そのささやかな空気の揺れすら麗しい調べとなって、いがみ合う二人の耳にも届いた。ようやく凌統が口を閉じて佇まいを直す。
「周瑜殿、たかが要人警護でしょう。俺と無名で十分ですよ」
「凌統。君の気持ちは分かる。私も、猛将を三名も掛ける案件なのか、疑問はある」
「ああん? なら何でだよ」
「単なる私の勘だ」
甘寧と凌統は、思わず目線だけ合わせ、すぐに反らした。行動の一致を眺めながら、周瑜が美髪をかき上げ口を開く。
「改めて説明しよう。此度の要人は
「……女性、ですよね」
「ああ。南村で御母殿と静かに生活されていたが、その母君が亡くなった。孫権様は都で安全に暮らしてほしいと文を送り、承諾の返事が来た。そのお迎え、ということになる」
「まぁ、こうして聞くと確かに、たかが護衛だな」
周瑜、甘寧、凌統、そして無名の四名は卓上の地図を眺めている。白石が置かれた地点は、馬車で休憩を取りながらゆっくり行って三日程度、走れば一日の場所だった。
とん、と指が村の隣地に置かれた。物静かで戦場での獰猛さを感じさせない無冠の将だ。無名は顔を上げ、暁の瞳を光らせて他の三名それぞれと目を合わせた。
「さすがだな無名。私は個人的に、その地を注視している」
甘寧と凌統はそれぞれ黙って竹林の絵図を見た。切り倒しが難しく、危険な動物に出会うことも多い地は、人材不足の孫呉としては未だ手つかずの領地だ。逆に考えると、隠れ蓑としては最適と言える。
「どこのどいつがこんなところにいやがる。山越は黄蓋のおっさんのお陰で大人しいだろ」
「そこらの盗人が何日も過ごせるような場所じゃない。父上も、ここらは肉食動物が多く生息していると言っていました」
「そういった獣の類からも彼女を守ってもらわねばならぬが、やはり最も危惧すべきは人間だな。たとえば、劉備軍」
一室が静まった。仰天することではないが、疑うべき相手なのか、判断が難しい。最も年下の凌統が、静寂を裂くように口火を切った。
「お言葉ですが、一応、劉備は同盟相手ですよね。それに、わざわざ未開の地にあんな寡兵軍がいるとは思えない」
「ああ。全て君の言うとおりだ、凌統。だが、彼女からの返事に胸騒ぎがしたのだ。何故だと思う」
周瑜からの質問に、凌統はしばし睫毛を伏せて思案したが、返事は出来なかった。一方、甘寧は未だ大陸地図を睨んでいた。やがて、顎髭を擦りながら、無名同様に指を置いて伝わせる。
「俺ぁ転々としてきたからよ。怪しいってのは頷けるぜ。うちの領分ぎりぎりだろ、ここ」
「ああ。だが、特段劉備らとは近接していない。どう思う」
「噂なんざいくらでも立つ。実際に見なきゃ分からねえ。いいぜ、俺は腹決めた。危ねえっつうなら全力で守るしかねえだろ」
金に輝く瞳で甘寧は周瑜を見た。決断力のある男だ、と周瑜も熱意に圧倒されたまま頷く。ち、と舌打ちを響かせてから、凌統が拱手する。
「怪しげですけど、周瑜殿が言うなら気を付けます」
「君たちが協力すれば、なんてことはないだろう。無名、君にも苦労を掛けるが、頼んだ」
「承知した」
無名も黒髪を揺らして頷く。警護そのものよりも甘寧と凌統を共闘させる方が難しそうだと思ったが、口には出さなかった。
***
支度を整えて出立し、馬に荷を積んだ車を引かせ、一行は滞りなく進んだ。件の竹林は大人しく、柔らかく日差しを迎え入れて爽やかな風を通していた。無名が霊長の眼を駆使したが、異変は見当たらない。ただ、獣が多く生息していたので終始張りつめたような緊張感があり、甘寧と凌統ももめ事を起こすことなく目的地に到着したのだった。
「拍子抜け、だな」
「つまんないってんなら、いっそのこと賊に戻ったらいいんじゃないの」
「何でも突っかかってくんなよ。おい無名。あの林はあのままでいいのかよ」
凌統が憤慨しているのを後目に、無名は静かに頷いた。目や耳を使って注視したが今のところ伏兵や巣窟の気配も見られなかった。何か出来ることはないだろう。
「ようこそ、いらっしゃいました」
そこに麗しい声が響いた。男三人が一斉に声の主を見る。無名以外は思わず感嘆の声を上げた。
「
「構わない」
「遠慮するこたねえ、殿の気に入りなんだろ」
「ぞろぞろ訪れてすみませんけど、城まできっちり護衛させてもらいますよ」
三者は三様に女に向かって話し、それぞれ名乗って拱手した。女は全員に笑みを向け、恭しく頭を下げる。
「孫権様のお言葉に甘えさせていただき、この度建業に移ろう予定でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
前屈みになると女の胸元が晒され、甘寧と凌統の視線が吸い込まれた。立位の時から目立っていた豊満な谷間に釘付けである。
「今夜は、私の家で休みましょう。ささやかではありますが、宴の支度をしております。明朝の出発でよろしいですか?」
「ああ」
一切視線がぶれない無名が、薄紫の目を光らせた。色欲のない男だが、食欲は旺盛である。女と無名が進むのにつられて、甘寧と凌統も足を動かした。
「お前、胸ガン見しすぎだろ」
「はっ? あんたに言われたくないね。下品な唸り声上げてたぜ」
「依頼人に手ぇ出すなよ、坊ちゃん」
「こっちの台詞だっつの、賊野郎」
低俗な会話で睨み合う二人を、無名は振り返らずに進んだ。
女は一行を丁重にもてなした。絶品の料理が次々と出され、無名が黙々と摂取していくのに凌統も食らいつき、大量に腹に収めていく。
「そういえば、初代様が父に贈って下さったお酒がまだ残っておりますの。私は飲めませんから、よろしければ皆さまで召し上がってください」
「孫堅様の。そりゃあ光栄だ。無名、一緒に戦ってたんだろ?」
「ああ。懐かしい。豪胆で義理堅い男だった」
「へえ。俺も噂にゃ聞いてたんだが、まだゴロついてたからなぁ」
「無名様はあの初代様と……。凄いです」
手を取られ、赤らんだ顔で見られても無名は涼しい顔のままだ。むしろ腹の虫を鳴かせて見せ、次の料理をねだった。女は可笑しそうに笑って手を放し、厨へと向かって行く。
「あんたのさ、どの誘いにもスン……ってしてるとこ、ずるいよな」
「お前表情筋硬すぎるだろ。もっとデレついた顔見せてみろや」
「今は愉しい。笑顔のつもりだ」
「確かにいつもより口角が……って分かるかっつの」
賑やかな会話に、戻ってきた女が酒を持ちながら笑っている。翡翠の嵌められた酒器が登場した。高級そうな酒だが、時期を考えるとかなり酸化しているだろう。凌統が先陣を切って注がれた酒を舐めた。
「ん、思ったより酸っぱくない」
「母が保存には気を遣っておりました。ここは気温が高いですから、地下に穴を掘って、酒蔵にしていたのです」
「へえ。うん、美味い。現当主様も好みそうな味ってね」
「お前に酒の味が分かるのかよ。適当言ってんじゃねえの」
「悪いけどあんたより良いもの味わってきてるんでね。っと、一気、するもんじゃないな……急に、回っちまった」
凌統が瞼をとろんと下げて、ふにゃふにゃと机に突っ伏した。甘寧は呆れかえって溜息を吹き掛け、無名は次の食事に手を伸ばしている。
「あら。お疲れも出たのでしょう。隣に布団を用意してありますの。どなたか運んでくださいますか?」
無名と甘寧が互いを見合う。当然、甘寧は面倒事に関わりたくないという顔だ。
「俺が行こう」
無名が立ち上がり、凌統の両脇に手を突っ込んで引きずった。細身の身体からは想像が付かない程速やかに長身を運んでいく。凌統はすっかり目を閉じて身を任せていた。隣室の敷布に載せると、子どものように背を丸めて体を縮めている。よし、と内心で頷いてから、無名は居室に舞い戻った。女の姿は見えない。
「おう、ありがとな。俺には重荷だぜ。万が一気付いたらぴいぴい喧しいからな」
「凌統も随分、甘寧を認めているように思うが」
「そうかあ? いちいち煩くて敵わねえぜ」
甘寧がうすら笑う。年上なりの距離感で向き合っていることを知っているだけに、無名は関係の好転を確信していた。そこへ、困ったような表情の女が戻って来る。
「凌統様にお水を、と思ったのですが、甕が空になってしまいまして。二軒隣のところに井戸がありますから、汲んできては頂けないでしょうか」
甕は二つ。無名と甘寧は互いを見合わせて立ち上がった。
静かな夜道を、甘寧と無名はそれぞれ甕を持ち井戸へ向かう。足音以外は虫の声しか聞こえない。
「あいつばっかり役得じゃねえ? つうか坊ちゃんには余る役だろ」
「適任だと思う」
「女相手ならたらしの才能あるお前か、経験豊富な俺だろ」
「羨ましいのか」
淡々と会話を交わす二人は、甕を井戸の近くに置いた。水を汲むふりをして、懐の短刀を取り出す。
「いや。俺は体動かせりゃあ、何でも良いぜ!」
草木が揺れる音に合わせて、甘寧は振り向きざまに腕を伸ばした。ぐああと男の呻き声が響く。無名も、普段扱わない武器だとは思わせない程軽々と短刀を操り、次々に敵襲を伸している。
物音はしないが、周辺の木々から漏れ出る殺気や視線に二人は気が付いていた。戦力を削って仕掛けてきたつもりなのだろうが、どちらかと言えば甘寧と無名の方が武力は高い。そこの見抜きが甘い時点で余裕だな、と甘寧が口角を上げながら鈴を取り出し、腰に付け直した。しまい込まれていた球が広い空間に出て、りん、と気持ちよく声を上げる。
「こっちのこともロクに知らねえで、よく騙し討ちしたもんだぜ」
「そ、その鈴はまさか」
「鈴に
「か、甘寧! 鈴の甘寧だ!」
先頭の男が尻を着きながら震えた声で叫んだが、後続には届いていないようで、わらわらと木陰から武装した男達が飛び出してくる。甘寧の周辺は威圧で転んだ人間で溢れており、その一人から朴刀を奪った。馴染みの得物に近いが、握り心地や切れ味はいまいちの代物だ。それでも、短刀よりもはるかに早く、大量の敵をなぎ倒していった。
「おい無名! お前は何してんだ!」
一方、無名は立位のまま、ほとんど軸を変えることなく接近した敵のみを倒していた。鸞鳥の如く軽やかに捌く姿に惹かれてきた甘寧には、その異様さが分かる。紫鸞と呼ばれる
「匂う」
「ああ!?」
「竹林に向かう。凌統を連れてこい」
「おい! ったく、気まますぎる野郎だぜ……」
足音も立てずに走っていった無名の背に、甘寧はまたため息を吹き掛けた。残った連中の士気はほとんどなかったが、容赦なく斬り捨てていく。
「坊ちゃん迎えに行ってやるか」
これで女としけこんでいたら、間違って斬っちまうかもしれねえな。物騒な考えを浮かべながら、肩に脆い刀を乗せ、鈴を鳴らして走り出した。
凌統が横になる敷布に、女が手を付いて体を密着させ、覗き込んだ。あどけない表情で眠る男に、女はうっとりと吐息を漏らす。
「お肌が綺麗……かわいらしい寝顔……殺す前に、食べちゃおうかしら」
口唇が触れる寸前、女は倒れた。凌統が手刀を決めていた。
「あっぶな。こんなのと接吻したら黒歴史になっちまうって」
青ざめた顔で触れてもいない唇をごしごしと擦る。独り言は室内に霧散していった。
女を手で退かした凌統は、素早くその腕を後ろ手に縛り上げた。女相手にこんなことをするのは初めてだ。加減が分からないのを頭で詫びつつ、凌統は無名と甘寧との密談を回想していた。
『怪しい。怪しすぎるっつの』
『十中八九黒だな。けど証拠がねえ』
『食事は問題なかった。油断させる目的だろう』
女が孫堅から贈られたという酒を取りに行く間、三名は互いの考えを口にし、頷き合った。村に足を踏み入れた瞬間から、異様な気配に全員が気付いていた。
『殿肝いりの御方が、あんな下品に胸出してるとは思えないね』
『それがガン見の言い訳か?』
『なんだよ。じゃああんたは何で胸見てたんだい』
『巨乳は見るだろ。潔くそう言やいいんだよ』
『はっ、下劣。とにかく、どんな手でやってくるか分かんないから気を付けないとね』
『酒への混入を疑うべきだろう。凌統、飲むふりは出来るか』
『俺? 元賊さんの方が、女相手にしたそうだけど?』
『坊ちゃんにゃ出来ねえってんなら仕方ねえな』
『はあ? 誰がそんなこと! 無名、俺がやる!』
潜めた声の割にいつも通り言い合いとなったことはさておき、一口舐めた酒には痺れがあって凌統は毒を確信した。本来の作用は分からなかったが、卓に伏せた拍子に口に含んだ液体を忍ばせていた布に吐き出し、寝たふりをした。
女が依頼人とは別の偽者であることがこれで確定したものの、まだ動機や
「お、っと。これは……」
屋内調査を進め、棚を漁っていた凌統は二重底になっている棚を発見した。父の部屋にもこういった造りのものがあり、さぞ重要な書物が入っているのだろうと好奇心で開けたところ裸婦画が出てきて仰天した記憶がある。若くして妻、つまり凌統の母を亡くした凌操が厳重に守ってきた絵ということは、と今になってある可能性に行きつく。
(あれは、母上だったのかね……本当に見ちゃいけないもんだったな)
以降、反省した凌統は決して父の部屋に無断で立ち入らなくなった。だが、その経験が仕掛けに気付くきっかけとなったのだ。凌統は九泉の父に向って謝罪と感謝を告げた。
「うん。間違いない。孫権様の書状だ」
絢爛な意匠の押印に見覚えがあった。周瑜から事前に伺っていた内容とも合致している。やはり、この室に住まう本物の人間が護衛対象ということになる。
丁寧に結び直している時に、幻聴ではない鈴の音が近付いてきた。父への想いを馳せていたこともあり、つい舌打ちが出る。
「おう凌統、女に手籠めにされてねえか」
「されるかっつの! ああもう、やっぱあんたと任務なんざ二度と御免だね」
「何苛ついてんだよ。お前じゃ濡れねえとでも言われたのか」
むしろ襲われそうになったことは格好悪いような気がしたため、凌統は無視することでその場をやり過ごした。
「無名が竹林に来いってよ」
「分かった。こっちの女は縛ってあるし、あとは部下に任せよう」
「あの無名が随分焦ってたのが気掛かりだ……馬で行こうぜ」
「まさか、本物が竹林にいる、とか? あんな野獣だらけのところに居たら、すぐ食われちまうぜ」
「……比喩か?」
「あんたは馬鹿か。そのままだよ。狼だらけなの見ただろ」
嫌味をぶちまけながら、凌統は壁にあった弓矢を手にした。かつて、依頼人の父親が使っていたのだろうか。埃を被っていたが、しっかりと張られた弦は現役として使えそうだ。目を向けずに甘寧に放ると、しっかり捉えた音がした。次に、立てかけていた棍を握る。三人の中で、唯一凌統だけが得物を持ってきていた。最も軽く、見た目の物騒さがないためだ。
「行こうか」
外に繋いでいた馬を開放し、跨って走らせた。後ろからは、無名の馬もしっかり付いてきていた。
村から程なくして到着した竹林では、無名が一人踊るように敵兵を倒していた。
「甘寧、凌統! 奥に、納屋がある!」
「それがどうした!?」
「紅香草の強い匂いがした。人がいる」
「行ってみる。あんたは一人で大丈夫なのかい?」
敵兵が無名に向かって突進してきた。癖のある黒髪を靡かせて、鮮やかな一閃を決める。
「問題ない。頼む」
甘寧と凌統は一瞬だけ目を合わせ、無名の指差す方へ馬を走らせた。
月明りが届かないので、甘寧が手持ちの道具で火を熾し、簡易松明を作って進むことにした。
「見えた。あれだな」
「無名ってほんと、妙な奴だな……匂いねえ」
凌統の鼻腔は獣と草葉のみを拾っている。だが、木材の壁に耳を付けると、奥の喧噪と鳴き声とは別に土を擦る音が聞こえた。凌統は振り返って甘寧に頷いた。
意を決して二人で同時に扉に向かって蹴りを入れるが、太い幹が連なる壁はびくともしない。
更に、背後から獣の足音が聞こえてきた。振り返ると、狼の群れが走ってきている。
「おう凌統、絶体絶命だな?」
「はあ……よりによってあんたと。無理過ぎるね」
「へっ。相変わらず減らねえ口だな」
「けど、本当にまずいっつの……どうやって助ける?」
小屋にいれば獣に食い散らかされる心配はないだろう。だが、放置しては死ぬ一方だ。今は獣のみ相手にしているが、人間まで来たら。焦りが凌統の思考を混乱させる。
「凌統、お前跳べるか」
「は? こんな時にひよっこが、とか説教するわけ」
「そうじゃねえ」
甘寧は
「ああいう小屋ってのは、壁は頑丈に作るが、天井はそうでもねえ。多分、薄い板張りだな。上からならぶち破れんだろ」
甘寧の指示する内容を把握して、凌統は膝を打った。だが、賭けに近い。壁は凌統の身長より高く、着地の位置によっては中の人間を潰しかねない。
「大胆なことを言うもんだ……」
「ついで言うと時間がねえ。お前、俺の矢を信じられるか」
甘寧は既に矢を番えている。一刻を争う場面で、意地の悪い奴だな、と凌統が表情だけで誹った。
「やるよ。全部やってやるっつの」
凌統は甘寧よりも下がって納屋から距離を取り、一度両手で棍を構えた。助走と跳躍地点が重要だ。ばくばくと緊張で強く拍動する心臓の音を深呼吸で鎮める。その間にも、背後からは狼らが迫る音が聞こえた。このままでは噛み殺されるが、凌統は目を瞑って気を高め、一切振り向かなかった。明確には伝えなかったが、甘寧の実力を知っていて身を預けたからだ。
どす、という鈍い音が続々と立った。甘寧の連矢は凌統を避け、的確に獣を貫いていく。
「らぁああああっ!」
咆哮した凌統が一気に疾走し、足で地を踏むと同時に棍をつき刺した。得物をしならせて軸にし、足を天に向けて伸ばす。自分の身長より高く跳んで、空中で冷静に着地点を調整した。
土の音が聞こえた壁の、反対側を目指して足を伸ばす。
「せいっ!」
天井は甘寧の予想通り、薄い板で出来ていた。重力のかかった凌統の体重でいとも容易く壊れ、穴が開く。制御の難しい体勢でなんとか手足を折りたたみ、凌統は地に集中した。着地点に、人影はないように見えた。
地が足裏を叩き、鈍い痺れが全身に広がっていく。痛みを堪えて暗闇を探ると、何かが蠢いている。踏まないように気を払い、古びた閂を取り去って戸を開けた。甘寧が用意した松明の灯りで視力を取り戻す。
「良かった。本当にいた。思女士」
安堵の息をつきながら、凌統は横たわっていた女の縄を解き、轡を外してやった。ぽろぽろと零れる涙が月明りで真珠のように光って美しい。
「よくやったぜ、凌統! こいつらは駄目だ、キリがねえ! ずらかるぞ!」
「ああ! って、あんた血ぃ……!?」
「いいから、馬乗れ!」
甘寧は噛みつかれた方の腕をわざと使って凌統をけしかけた。反射的に女を抱え、馬に飛び乗る。いななく馬を御しながら、女性を落とさないように慎重に走り出すのだった。
「ここまで来ればいいだろう」
夢中で走っていた凌統だったが、焚き火の跡が燻る地で、無名の声に気付き我に返った。ろくに声もかけずに要人をここまで連れて来てしまった。無名が下りて傍に立ってくれたのでその身を託すと、女はふらついて無名の肩を借りたまま、せき込んでいる。
「辛い思い、させちまいましたよね。俺が必死に進んだせいで」
「いえ、ごほっ、大丈夫、です。ありがとうございました」
「凌統、お前のお陰だ」
いつの間に追いついたのだろうと思いながら、凌統は師に近い無名に褒められたことで柄にもなく浮かれた。尊敬して止まない人間が何人かいるが、無名はもはやその筆頭である。
「いや、無名こそ、よくあんなところにいるって気付いたな」
「
「手も口も塞がれて、足先でどうにか……私も驚きました。心より感謝申し上げます、紫鸞様」
無名が目を丸くした。その呼称を知っている人間は限られる。聞くと、孫堅が贔屓にしている武芸者、と紹介していたとのことだった。
「話を聞いた父も、貴方様のことを尊敬しておりました。孫策様にお仕えになったと聞いて、自分事のように嬉しかったです」
「照れるな」
「その顔で、照れてんのかい?」
ようやく少し和んだ場に、また血の臭いが漂った。追い付いた甘寧が落馬しかけている。無名の目はそれを捉えたが、女に肩を貸している状況では身動きが出来なかった。
「っぶな! なんだよ、あんた、瀕死なら言えって!」
「はっ……うるせえ奴に、助けられちまったな」
「助けてねえっつーの! こんなところで無様に死んだら、父上が浮かばれないだろ」
地になだれ込みそうだった甘寧を受け止めた凌統は、すかさず治療を開始した。と言っても馬に括り付けた荷では限界がある。布で止血をしてから、元化に教わった消毒作用のある葉を適当に揉み込んで、縛り付けた。
「痛ぇっ、お前の手つき、乱暴すぎんだろ」
「文句言うなら狼のエサにでもなるかい」
「えぐいこと言うなよ。……ありがとな」
謝罪を繰り出してきた甘寧に、凌統はぞわっと鳥肌を立てた。体を張って獣を止めてくれた借りを返しただけだ。内心で言い訳し、簡易的な手当てを終える。
無名は所持していた甘露水を女に分け与えていて、そちらも少し活力を取り戻していた。
「改めまして皆さま、窮地を救って下さりありがとうございました。
丁寧にお辞儀をする女に、男三人は揃って拱手した。女は泥まみれで衣服も千切れていたが、内側から溢れるような気品に満ちている。凌統は己の勘が外れていないことにも内心でほっとするのだった。
「手遅れになってすまない。迎えに来た」
手短な台詞に、甘寧と凌統がそれぞれ笑った。
無名の必要最低限な言い回しや逸れない瞳が、絶対的な信頼感を生むのだと知っている。
「とんでもないことです。こうして私は生き長らえることが出来ました」
また深々と頭を下げる女に、男たちは所在なさげにそれぞれ頭をかき、鼻をかき、腕を組んで照れを隠した。体を起こし、ぴんと背筋を伸ばした女につられ、三様に姿勢を正す。
「皆様のおかげで決心が付きました。私も孫権様のお力になりたい。単なる女官ではなく、なにか、お役立てできたらと思います」
一つ一つの音に意思が込められていて力強く、凌統はかえって励まされた。孫権の力になりたい、という思いは同じだ。ちら、と仇である男を見る。敬愛していた父の仇であり、今は共に戦う一員。その存在を認めるのは今でも不愉快である。だが、孫家への忠心を貫くことが、凌操への孝行となる。その為ならば仇と肩を並べる必要もあると、頭で分かっていたことが、今になってすとんと胸に落ちた。凌統の中から殺意は明確に消えていた。
甘寧がその視線に気が付いたのか、一歩寄って小声で耳打ちしてきた。
「本物は小せえな」
一拍置いて、それが女の胸の大きさの話だと分かり、不躾さに強い苛立ちが湧いた。
やっぱこいつ、むかつく。包帯を巻いた腕をわざと叩いた。
「痛ぇっ! 怪我人だぞこっちは!」
「そんだけデカい声出せるんなら、命に別状ないだろ」
「ふざっけんじゃねえよクソガキが」
「それはあんただっつの。蛮族って武器振るう以外脳がないね」
急に騒がしくなった平原に、安眠を妨害された野鳥たちが不満の声を上げていく。無名が表情を変えずに女に告げた。
「うるさくてすまない。次は俺の前に乗るといい」
「ふふ。では、お言葉に甘えさせていただきます」
星が瞬く夜空の下で、四人は建業を目指し、再び馬に跨った。
***
寝台に眠る男の傍に、無名が音もなく立った。気配を限りなく断っていたが、眠り人は長い睫毛を震わせて琥珀の瞳を見せた。
「紫鸞、無事帰ったようだな」
こくりと無名が頷く。体を起こそうとした周瑜に、無理するな、と一言だけ告げて、隣に座った。近くにいてくれると分かり、周瑜が大人しく横たわる。
「劉備がああいう女をけしかけるとは思えない」
「ふ……君が劉備と親交深かったのは随分前のことだろう」
「人となりは変わらないだろう」
あくまで劉備が黒幕ではないという風に言い張る無名に、周瑜は唇だけでささやかに笑った。それから、降参とでもいうように目を閉じてゆっくりと語り出した。
「劉備の一派、と言ったが正確には違う。あの女が勝手に劉備に惚れていただけのようだ」
「あの魅力にのめり込む人間がいるのは分かる。それと、
「……姫だ」
無名は暁の空の瞳をほんの少し揺らした。頭には活発で溌溂とした孫家の長女、孫尚香が思い浮かぶ。
「
「凌統が居室から書簡を見つけたと言っていた」
「今は本人の意思もあり、記録係として仕えて頂いているが……以前の情報が、どこからか漏れたのだろうな」
未だに本件と孫尚香の繋がりが見えず、無名は腕を組んでほんの少し首を傾げた。
「君は、姫が嫁ぐことを知っているか」
「…………知らなかった」
「我が軍の将来を考えると、孫劉同盟を蔑ろにはできない。姫には、縁を繋ぐためにも、劉備と婚姻してもらう予定でいる」
反応に乏しい無名も、これには驚いて目を丸くした。国としての判断は理解できるが、あの孫尚香が承諾したというのはぴんと来なかった。怪訝な様子が伝わったのか、周瑜が整った眉を下げる。
「すまない。君も姫とは懇意だったな。これは、姫の意思でもある。曰く、劉備の人徳に惹かれているのだと」
「そうか」
無名は無意識に握っていた拳を緩めた。どちらも思い入れの強い人物だが、今となっては孫尚香の味方という気持ちが高まっている。みすみす本心に背くようなことは許せない。
「まだ当の女は尋問中だから、ここからは私の推測に過ぎないが……大方、
「……ならば、俺たちに牙を剥いたのは何故だ。そのまま大人しくしていれば良かっただろう」
「彼女からの返事に疑問を抱いた私が、君たち猛将を三人も送り込んだせいで、何か不都合が生じたのだろう」
村内にはさして強くないものの戦闘経験のある兵士らがいた。あれらが全員劉備を慕う兵だとしたら。無名の頭にあまり良くない考えがよぎる。
「――劉備軍の兵が孫呉の将兵に討たれた、として婚姻破棄を狙ったのか?」
「……さあ。本当のところはこれから暴くとしよう」
周瑜の口から吐息が漏れる。かつてその息は美しい笛の音を奏でたが、今やその気力はなくなっていた。南郡の地での傷が病と手を組んで周瑜の身体を蝕んでいた。
「軍師は疑う生き物だ……劉備も、諸葛亮も、信用できない。姫を悲しませるとしてもこの手で劉備を討つべきだと、そう考えたこともある」
孫策を喪ってからずっと、周瑜は孤独に立ち続けた。苛烈な批判を覚悟して、多くの決断を一人で行ってきた。無名は時々その孤高の信念を聞いてやることしかできない。
ぎゅっと寄せた眉が目に入ったのか、周瑜はまた苦笑した。
「君にはいつも苦労をかける。私は死ぬまで孫呉の都督。だがきっと、多くのことを為せずに、孫策の元へ向かうことになるだろう。後のことは魯粛に託してある。他のことは任せた。太平の要――紫鸞」
「……わかった」
ことが切れたように瞼を閉じた周瑜に、慌てて無名が首を伸ばして覆い見る。静かな呼吸の度に膨らむ掛布を見て、ほっと胸を撫で下ろすのだった。
***
修練場に打ち合いの音が響く。見ている者が疲弊する程の早さで何十合も得物を振っているのは、甘寧と凌統であった。過去、凌統が殺気立ってばかりの頃は応えてこなかった。少しでもこの若者を傷付けようものなら、甘寧の孫呉での立ち位置が危ぶまれたからだ。
「まだまだっ!」
今は違う。凌統の瞳に見えるのは向上心のみで、もはや親の仇を討とうとは考えていないように見えた。出会った頃よりも随分と場慣れしてきたその動きは、時々甘寧をひやりとさせる。
「来い凌統っ! 何度でも打ちのめしてやるぜ」
「余裕ぶってんのも今のうちってね!」
凌統の反応の良さや体の柔軟さは以前から知っていたが、最近は必死に筋肉を増やしているようだった。連続して受け止めると重く、腕が痺れた。
「ここだ!」
一歩後退した凌統が身軽に棒を支えにして上空に飛ぶ。以前、自身が提案したにもかかわらず、この瞬間には想定していなかった動きで、ほんの少し甘寧の思考が停止した。
見える世界が緩慢になり、見上げた先の凌統はまるで翼が生えたように高く跳躍している。
「らぁっ!」
はるか上から踵落としをかましてくる凌統に、甘寧は気を取られた。柄にもなく怪我の心配をしたのだ。結果的に肩に思い切り蹴りを食らい、地に伏したのは甘寧の方だった。周囲にどよめきが走る。
「勝負あり、ってね。……って、平気かい? まさか、本気で食らってない、だろ」
遠慮なしに決めておいて動揺するところはまだまだ未熟だが、甘寧は己の身を以て凌統の成長を知れて、腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「ははっ! 何びびってんだよ。お前の勝ちだ、しゃきっとしろや」
正直に言えば肩は激痛であり、立ち上がるのもしんどい程体力が削られている。それをおくびにも出さず、甘寧は身を起こして凌統の背を叩き、健闘を讃えた。それを機に、見学者らからの拍手が沸き起こる。
「い、いつの間にこんな……分かった、いいって、もういいっつの」
「へっ。若鳥くらいにゃなったんじゃねえの」
若かりし頃であれば同僚に負かされることなど許せず、きっと再戦を申し入れただろうが、今は後進が育つ喜びで満足していた。年だな、と自身に聞かせていると、凌統が明後日の方を向きながら何やらぼそぼそ言っている。
「あ? なんか言ったか」
「だから! ……手合わせ、感謝致しますよ、甘寧殿」
あの凌統が、甘寧に対し拱手して頭を下げている。呆気に取られて反応できずにいる内に、凌統はまた独り言を呟きながら出て行ってしまった。
――人生捨てたもんじゃねえな。じんわりと心地よい感動が甘寧の胸に広がった。遠くから見ていた無名と目が合う。無言で拳を突き出すと、無名も黙って従ってくれるのだった。
【了】
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