SSまとめ(健全)

凌統+陸遜




 若き軍師は日々余念なく励んでいる。知識を得るために学を求め、戦略を練るために諸将と会話し、鍛錬があれば怠らない。忙しいはずだが身なりもきちんと整えている。そんな彼にも、隙はある。
 凌統は頃合いを見計らって執務室の戸を叩いた。予想通り返事はない。二回叩いて反応がなかったので、勝手に木枠を動かして身を滑り込ませる。
 いつ付けたのか分からない松明の火はまさしく風前の灯火で、前を通るだけで消えてしまいそうな程小さい。微かな灯りに照らされた陸遜の顔を覗き込んで、凌統は思わず口笛を吹きそうになった。どんなに陰っていても端整な顔つきである。大きな瞳は少しも凌統を認めることなく、卓上の簡を眺めている。手元には書き込まれた地図が見えた。
 凌統はまず火を換えた。持参した薪を慎重に灯篭に入れて、取り出した棒屑を振って消火する。部屋全体が明るくなっても、陸遜は頭どころか栗色の髪の毛一本すら動かない。照らされた室内全体は雑然としていて、凌統は苦笑した。いつもは整然とした部屋だというのに、執務に没頭するとあっという間に崩れる。床や卓上のあちこちに竹簡や図面が転がり、まとめていた紐は卓上から退屈そうにぶら下がっている。
「全く仕方ないね」
 完璧な若軍師のわずかな緩みが愉快で、凌統の声色は無自覚に弾んだ。
 次に、卓の横に寝台に備え付けてある棚を動かした。作業台を広くしてやってから、床に散乱した竹簡を拾い上げ、軽く眺めて関係の遠そうなものだけ縛って積み上げた。それから、松明の周辺に落ちた灰を拭き、ついでに室内の塵もかき集めて麻の端切れでまとめ上げた。
 陸遜は凌統の動きに気を取られることなく、今度は唇を動かして何やら唱えている。きっと、脳内では幾重にも戦が展開されていることだろう。丹念な作戦を練る時間が軍師を無防備にさせるとは皮肉なものだ。
「隙だらけですよ、軍師殿」
 からかい交じりの声かけは本人に届くことなく、整った空間にただ広がった。

 翌日、厩舎で鞍を拭いていた凌統の元に陸遜がやってきた。珍しく息切れして汗までかいている。
「敵襲かい?」
「すみませんでした! そして、感謝申し上げます」
 当てがなかったので、凌統は目を瞬かせた。
「昨晩、私の部屋を片付けてくださいましたよね」
 ぱちぱちと忙しなかった目は見開かれて止まった。陸遜は間違いなく没頭していた。作業にも声にも気付かず執務に集中していたはずだ。じっと見つめると、陸遜が綺麗な形の目を細めて笑う。
「凌統殿の香の匂いが残っていたものですから」
 些細な残り香でばれるようだ。潜入時には気をつけよう。凌統は一つ頭に刻んだ。
「別にだらしない姿をばらそうなんて思ってないっつの」
 恩を売るつもりはないため、あえてきつめの言葉をぶつける。凌統は、油断している姿を見られるのが愉しかっただけなのだ。陸遜はそれ以上言及せず、そして怯むことなく目を輝かせて凌統に近寄った。
「実は次の戦で火計を検討しておりまして……凌統殿、どうかお力をお貸しください」
 あれだけ真剣に考えていたのに、作戦内容はいつもと同じではないか。凌統はぐっと笑いを堪えて、丁寧に拱手した。
「軍師殿のためなら、いくらでも」
 陸遜は朗らかに笑って拱手を施し返した。眩しいほど真っ直ぐな若軍師に、孫呉の皮肉屋は手を挙げて降参し、全力を挙げることを誓うのだった。
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