SSまとめ(健全)

 静謐な時間が流れる。空間に音はほとんどなく、時折布と糸が擦れ、男の座っている椅子が軋むのみ。綺麗な獄中だな、と甘寧は感じていた。大変無礼で表現力に欠けるが、そうとしか思えない。彼にとっては刑務作業と同等か、もしそちらに肉体労働があるとすれば遥かに刑務所の方がましだった。
 甘寧はその空間をかち割るようにずかずか上がり込み、ごちゃごちゃ物が置いてあるテーブルからリモコンをひっ掴み、テレビの電源を入れた。十九時すぎ、ゴールデンタイムのバラエティーは人気芸人とアイドルが旅をする番組で、その喧しさにようやく息をつく。無駄に幽寂な空間で、無意識に息を止めていたようだ。
 ようやく、男が顔を上げた。茶の長髪を高く結い上げた頭を重たそうに左右に傾けると骨が鳴る。いっちまいそうで怖ぇ、と甘寧は勝手に身震いした。
「お前、いつからやってんだ」
「え? どうだったかな……あ、昼は食べたよ」
「世間様の昼はもう随分前だぜ」
「そう言われると、暗いね」
 手元のスタンドライトがあるから分からなかったと飄々と答える男に、甘寧はため息をつく。相変わらず没頭すると周りが見えなくなるらしい。自身のことも構わず作業に夢中になる男、凌統に隠しもせず苛立ちをぶつけた。
「お前よ、俺が来てねぇ日はちゃんと止めてんのか? オーバーワークで死ぬぞ」
「過労死ってこと? 労務災害になるのかね」
「ハンドメイドでなるわけねぇだろ、馬鹿かお前は」
 殴り付けたい気持ちを必死に抑えつけ、甘寧は牛丼の入った袋を凌統に押し付けた。途端に緩やかに目尻が下がり、感情の読めない顔面を崩すのでまた嘆息しかけた。只でさえ垂れた目が、笑うと一層垂れるのが可笑しい。
「ダイニングで食べる。甘寧、湯沸かしてくれ」
「おー。インスタントの味噌汁あんのか」
「あぁ。昨日……一昨日だっけ? 買い足した」
 広告やら新聞やらで散らかったダイニングテーブルに袋を着地させた凌統が、そのまま卓上を片付けていく。甘寧は電気ケトルに水道水を入れつつ対面キッチンからその姿を観察した。
 新聞の量からするに、このテーブルでまともに食事したのは五日程前と推測される。三十歳にもなる大人がこの様とはなと心の中だけで凌統を罵倒した。怒らせると面倒になるのであえて口にしない。保育所時代からの腐れ縁で幼なじみ。互いのことは知りたくもないことまで知っている。
 あまり充実していない食器棚から椀を二つ取り出し、ステンレスの台に並べる。いつもの棚を開け、未開封のインスタントの味噌汁のパッケージを破り、二つ選び取った。あさり。体に良さそうだという理由でそのまま採用された。甘寧が味噌の塊を出し湯を注いで運ぶ頃には、テーブルは食事が出来るくらいにスペースが出来ていた。
「久しぶりだね」
「俺は週一くらいで食ってる」
「そっちじゃなくて」
 食らいついていた顔を上げると茶の瞳とかち合った。ドキッと跳ねた心臓を潰したくなる衝動に駆られながら、甘寧は必死に冷静を装う。
「そうだったか? 俺も忙しいからな」
「今仕事してんのかい?」
「パチ屋辞めて、老人の施設で働いてる」
「パチ屋も初めて聞いたっつーの。なに、あんたが介護してるってこと?」
 凌統が食事の手を止めて無遠慮に笑う。人様に優しくする想像が出来ないと言うので甘寧はまた腹が立ってきた。してんだろ、お前にだけ。伝えられない台詞ばかりが頭の中で生産され、外に出されることなく死んでいく。代わりに苛立ちを全面に出した言葉を早口でぶつけた。
「相変わらずムカつく野郎だぜ。俺ぁ資格ねぇからジジババにゃ触れねぇんだよ。雑用だな。掃除とか話し相手とか。あとよく麻雀してる」
「あぁ、そういうことか。それならまぁ、分かるかな。つうかむしろ向いてる」
「結構面白いぜ。よくバーちゃんから告白されるしな」
「お婆さんも若返るね」
 穏やかに笑いながら食事を再開させた凌統の顔を、五秒ほど見つめてから甘寧も牛丼に向き合う。明太子の辛味が舌を刺激してきて現実に返った。危うく何か妙なことを言い出しそうになったのを、ぴりぴり痺れる食感を求めて一心不乱に口に運んだ。
 食べ終わった凌統が立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを二本持って戻ってくる。甘寧はそれを受け取らなかった。凌統が手渡してくれるキンキンのビール。喜んで飛び付いてきそうな場面でそうしてこない男を、差出人はただ黙って見つめる。手が冷たくなっても構わずに動向を待つ。
 甘寧が溜めに溜めてから、ぽつりとこぼした。
「……車で来てんだよ」
「泊まれば?」
 即答で返されて言葉に詰まった時点で甘寧の敗北である。人の気持ちも知らねぇで、と身勝手に立腹しながらそれを受け取った。乱暴にプルタブを開けて一気に半分飲み干すのを、凌統が笑いながら眺めていた。
「何だよ、化粧落としでも忘れちまったのかい? 生理中とか?」
「顧客のババア共に聞かせてやりてぇよ、お前のそういう発言」
「あ、顧客と言えば。ポーチの依頼があって」
 甘寧と真逆に静かにプルタブを開け缶を傾けて三口飲んだ凌統がビールを置き、作業スペースに向かう。ややしばらくしてから、六角形に切られた布きれをいくつも持って戻ってきた。ダイニングに乗った発泡スチロールの器を退けて新聞を広げ、布を並べていく。
「なぁ、あんたならどう並べるのがいいと思う?」
「知らねぇよ。俺にこんなもん聞くな」
「だって前にあんたが選んだ組み合わせ評判よくてさ。俺にないセンスっていうか。素質あるぜ」
「要らねぇ」
 乱雑に返すが、凌統が褒めてくれることは甘寧にとって喜ばしかった。そのような女々しい感情を決して悟られぬよう、残ったビールを一気に煽って荒々しくテーブルに叩き付ける。凌統はそんな甘寧を気にせず、一人ピースを見つめていた。布を指でついと動かしながら時折ビールを嚥下する様を、またつい五秒も眺めてしまい甘寧は慌てて視線を下げる。
 チェック、ボーダー、ドット、花柄、時々動物や英字。青ベースで選ばれた様々な布たちが新聞の上を鮮やかに飾る。甘寧から言わせればどれとどれが隣合っていようがどうでもいい。だがハンドメイド作家として名の知れた凌統は、布を組み合わせるピースワークに並々ならぬ情熱を注いでいた。
「赤いのねぇの?」
「赤? ヘキサゴン切ってあったかなぁ、見てくる」
 作業スペースに向かう姿をあえて追わないように甘寧は布を熱心に見やり、指で弄って並べ替えた。結局思い通りに動いてしまっていることは考えないようにして。
「あったぜ。……おぉ」
「こことここに赤。なんつうんだ、レンガみてぇな。あ、これいいな。こう。どうだ」
 じっと布たちを見ていた凌統が顔を上げて甘寧に破顔した。
「いいんじゃないの? うん。やっぱあんたセンスいいよ」
 口先では淡々としているが、いつもより格段に嬉しそうな顔を見せる凌統に、甘寧はまた釘付けにさせられた。もうすぐ出会ってからも三十年近くになるというのに飽きの来ない顔で、かえって憎らしく感じる。誤魔化すようにビールを飲もうとして空になっていたことに気が付き、甘寧が強く舌打ちをした。凌統は呑気に嵌まったピースを写真に収め、スマホを置いてからゆったりとビールを差し出した。飲みかけのそれを、挑発的に笑いながら。
「ご褒美」
「……金じゃねぇのかよ」
「いらないなら俺が飲む」
 そう言ってアルミ缶を傾けようとした手を、甘寧の手が覆った。ほんの少し触れただけで信じられないような緊張が走ることを、凌統が知る日は来るのだろうか。馬鹿にされそうだから、来なくていい。甘寧はそう思いながら冷たい手からビールを奪って飲み干した。凌統はただ、笑っていた。

 シャワーの音が響き、テレビからは相変わらずよく分からない番組が流れる。一気に賑やかになった空間で、凌統はキルティングを再開した。雑音がある中で行う作業も嫌いではない。その音を生み出したのが甘寧であるなら尚更良い。主催のパッチワーク教室では女性たちの賑やかな声を聞きながら行っているくらいなのだから、無音でないと出来ないなんてことはなかった。ただ、家で静かに作業していれば、甘寧が来る瞬間がすぐに分かる。厳つい靴の足音が煩く近付いてきて、渡している合鍵で解錠する音が聞こえたら、その日は大当たりだ。今日は泊まらせることにも成功した。甘寧が断ることは滅多にないことを知っていながら、凌統はいつもその駆け引きを楽しんでいる。
 甘寧が凌統に好意を抱いているのは確かで、凌統自身それに気付いている。多分、高校生くらいからだと認識していた。恐らく認めたくないのか、がむしゃらに彼女を作ったり、距離を置いてみたりしてきた甘寧に対し、凌統は同じ温度で接し続けてきた。近くに戻れば話をして食事をして酒を飲む。遠くに行けば忘れそうな頃にメッセージアプリで連絡する。こうやって家に上がって来るようになってもう十年くらい経った。頻度はまちまち。そんな付かず離れずの関係が気に入っていた。
 凌統は元より他人に興味が余りない。一方的に気に入られた相手に求められて性行為に及ぶことはあったので童貞ではないものの、ほとんどそれに近い状態である。自分から誰かを好きだとか愛していると思ったこともない。ただ、甘寧といる空間は心地よく、向けられる感情も嫌ではない。執着しているのは自分である自覚すらあった。それが甘寧の向けてくる感情と同じものかは分からない。凌統は判然としない想いごと、針を生地へと沈めた。
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