SSまとめ(健全)
その日、孫呉の者たちは束の間の行楽を迎えていた。それぞれの国が膠着状態に陥り、鬱憤の溜まる武将たちを見て、呉軍の主君孫権は久々の狩猟を提案したのである。お祭り好きの孫呉の者たちは皆喜んで参加を表明した。
黄祖の元を去り、呉に甘寧ありと言わしめた男もその一人であった。狩りそのものは仲間内で細々としていたが、国の将たちがこぞって参加するような規模は初めてであり、腕が鳴るとばかりに弓を拭いている。
「この度の狩猟は、久しぶりですから、修羅で行きたいと思います」
にっこりと素敵な笑顔を振り撒いた軍師陸遜の言葉に、周囲がざわつく。しかし、それを甘寧はすっかり聞き逃していたのである。
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「……へぇ。鈴の甘寧さんに、こんな趣味がおありだったとはね」
涼しい顔で声をかけたのは凌統だった。甘寧に父親である凌操を討たれながら、その後甘寧が呉軍に下ったことで仇討ちを禁じられ、凌統は少なからず憎い感情を甘寧に対し抱いていた。
それがこのような穏やかな声色で話しかけるほどには、二人は和解している。尤も、お世辞にも仲が良いとは言えなかった。
「凌統テメェ、じろじろ見てねぇでさっさとこの縄切れや!」
「アンタが吊るされてる絵なんて、これ以上なく見物だっつの。ちょっと皆さんにも見てもらおうか」
「ふざけんな!」
凌統の言葉通り、甘寧は今吊るし上げられていた。
一体どういう仕組みなのかは誰にも分からないが、甘寧は大木の根元に仕掛けられた罠に引っ掛かり、その体躯を宙に浮かせていた。勿論恥である。それをからかう凌統の言葉もまた、甘寧にとって大変な屈辱であった。
「おい、これはどういうことだ? 狩猟縄じゃねぇだろこりゃあ!」
「そりゃそうだっつの。これは人間用。で、まんまとかかったのはアンタ」
「はぁ!? んなもんが何でこんなとこに仕掛けられてんだよ!」
凌統は愉しそうに口角を上げながら甘寧が嵌まった大木まで近付く。しかしその足取りは妙だ。普通に歩けばよいところ、時々何かを避けるようにぴょんぴょん跳ねながら進んでいる。まるで仕掛けられた罠の位置が分かっているかのような足取りだ。
「……お前、まさか、今更仇討ちじゃねぇだろうな」
「だったらどうする? 自慢の弓まで落として、丸腰で吊られてる甘寧さんや」
凌統はそう言うと甘寧の弓を拾い上げた。立派な装飾部分を撫で上げて、土を払っている。自身の矢筒から一本矢を取り出して、キリリと弓を引いた。その先端は、甘寧に向けられている。
甘寧は閉口した。その感情は複雑だ。和解したとは言え好かれているとは思っていない。しかし、まさかまだ憎い感情が残っているのだろうか。そうだとしたら、それは甘寧にとって酷く虚しい。
「……ま、冗談はここまでにしときますか」
凌統が筈の力を緩めた。矢の切っ先は、甘寧を吊っていた縄の結び目を見事に捉え、それを解く。さして高さはないものの、そのまま落ちると痛いであろう状況で甘寧は綺麗に両足で着地した。凌統が三度手を叩いてお見事、と褒めるが特にそうとは思っていなさそうな口ぶりだ。
「……上手ぇじゃねえか」
「あんたに弓で助けられてから、ちょっとは練習したんだよ。下手したら脳天ぶち抜いてたけどな」
「おい、肝が冷えること言うなよ」
「いや、これは冗談じゃないけど」
甘寧が身震いした。わざわざ自信がどこまであるか怪しい弓で救ってみせたのは、凌統なりの意地だったのだろう。小刀一本あれば済む話だったのに、なんて性格の悪い奴なんだと凌統を睨み上げた。
「お礼ならまだしも、睨まれるなんて割に合わないっつの。もう一度吊られるかい?」
「そうだ、おい、これ何なんだ? よく見りゃあちこちに怪しい跡があるじゃねぇか!」
意識しなければ気付かない程狡猾に隠されているが、周囲には罠の跡があった。一部はもしかすると獣のために用意したものかもしれないが、大胆な太さの縄に繋がっているものは明らかに人間用だ。
「陸遜が言ってただろ、修羅でやるって。軍師さん方が容赦なく高難易度の狩りに仕立て上げてくれてるってわけ」
「聞いてねぇし、聞いてても知らねぇよ! つうかわざわざ人間を嵌める意味があんのか?」
「武将である以上、何時も気を緩めるなってね」
凌統は甘寧の弓を放って返した。そのまま二歩進んで、甘寧の向かいに腰を落とす。意外な態度に甘寧はつり上がっている眉を更に上げた。
凌統は視線を足元に向けて、ぶちぶちと草を抜いている。
「……随分信頼してくれちゃってさ」
「はぁ?」
「修羅ってさ、こんなもんじゃないんだよ。縄、落石、落穴、炎上、爆発なんでもありで」
「なぁ、この軍おかしくねぇ? これ娯楽だよな?」
「そんな物騒な遊びを、内部で揉めてる奴らがいる時に出来ると思うかい?」
甘寧はまた閉口した。凌統とは視線が合わない。ただ何か使命感に駆られたように草を抜き続けている。手を動かしていないと落ち着かないのかもしれなかった。
「俺とあんたが和解して、もう問題ないって判断したから、久しぶりに修羅なんだろうな。あーぁ、何だかこんなに注目していただいて、情けないやら恥ずかしいやら」
「そう言うことか。ま、なら、楽しむのが正解ってやつだな」
「飲み込みが良すぎるね。あ、そこ踏むと危ないぜ」
「ん? うお、これか。お前、何で罠把握してやがるんだ? 仕掛けたのお前か?」
先程の跳ねながら近付く姿を思い出して尋ねた。高く結われた髪が揺れる様は、さながら仕合か戦のようだった。
「俺は軍師さんたちと長いからね。って、あんたに格好つけても無駄か。本当に数え切れない程何度も、全種類の罠にかかってるぜ」
「よく無事だったな……」
お世辞抜きで甘寧は凌統を讃えた。先程の凌統の列べた仕掛けを思い出すと身の毛がよだつ思いだ。凌統が苦笑しながら立ち上がり、ようやく甘寧を見た。茶の瞳が案外澄んでいることを、甘寧は知っている。
「信頼してくれちゃってるのは、あんたもだろ」
「ああ?」
「あんたがあの程度の罠、そのお腰の小刀で切り抜けられないわけないっつーの」
「……気付いてやがったか」
思わず舌打ちした。特段隠しておきたかったわけではないが、わざわざ打ち明けることではないと思っていた。妙にばつが悪い。接近してきたのが凌統と分かった途端に自力で抜けるのを止め、試すような態度を取った理由も、甘寧自身説明できないというのもある。
だが、弓矢が頭上を向いた瞬間に甘寧が感じたのは安堵ではなかった。確信していた通りに救われた。その意図ごと凌統に露見していたならば、それはやはり照れ臭いのだが。
「悔しいけど、あんたの実力は認めてる。俺の背中を預けるんだ、こんなところで怯んじゃいられないぜ」
これは凌統なりの最大の褒め言葉だろう。一時は仇討ちだ何だと首を狙っていたことを考えると、甘寧の中に歓喜の感情が湧き上がった。
「おう! そんじゃ、俺とお前で一位もぎ取るか」
「当然狙うけど。あんた修羅初めてだからなぁ、役に立つかね」
「お前が経験生かして教えろや」
「俺に得あるのかい?」
「どんなに遠くの獲物でも抜いてやるよ」
甘寧が自信満々に弓を掲げると、凌統は両肩を上げて呆れたように笑った。弓矢の腕前が一級であることは誰よりも認めていた。
「行ってみようか」
「滾ってきたぜぇ!」
威勢よく狩りに勤しむ二人の姿を、孫呉の将たちが遠くから微笑ましく見ていた。
***
結局その日、最も多くの仕掛けにかかった甘寧と凌統を、主君孫権が笑いを堪えながら労った。
「テメェなんざ頼るんじゃなかったぜ」
「俺が知らない仕掛けばっかりだったんだっつの」
丸焦げになった二人は、いつものようにいがみ合うのであった。