SSまとめ(健全)
江の上では、未だ曹操の大船団が燃え続けている。繋がった船の一部は既に煤けて黒煙が上がっていた。
濁った水と焼け焦げた匂いが渦巻く空気を浴びる内に、ようやく気配が近づいてきた。随分前から背に視線を感じていたが、やっと腹が決まったらしい。せっかくなので歓迎してやろうと振り向くと、凌統が驚いたように目を開いて肩を跳ねさせていた。
「ったく、熱視線で背が焼けるかと思ったぜ」
「はあ!? そんな目してないっつの!」
「背中の墨が気になるなら、閨でじっくり見せてやろうか? 女にゃ評判の華が掘ってあるぜ」
煽るとすぐに唇を尖らせて睨み付けて来る。討った将の息子という因縁を抱える相手であり、年の割に根性があって忠義にあつく、執念深い。どちらかというと厄介な人間に分類される。
「で? わざわざお前から突っかかりに来たのかよ」
甘寧は凌統との距離を測りかねている。整った見目で睨まれるのは悪くないが、ようやく腰を落ち着けた軍で炎上するのは避けたかった。凌統こそ接したくないはずなのに、こうして寄って来るから不思議である。そう思って問いかけた。
凌統はしばらく俯いていた。これは長丁場になりそうだと、腕を組み直してその姿を観察する。
短い簪を二本使ってまとめ上げられた髪は長く、真っ直ぐに項の後ろまで伸びている。胴と同じ意匠の髪留めを外したら、どのくらいの長さだろうか、腰までは行かないくらいか。随分着込んでいるが腰は締まっているように見える。例えば掴んで打ち付けるのに手頃な――
「あいつから聞いた」
不埒な方向に逸脱した思考は、短い返答で終わりを迎えた。眉ひとつ動かさずに甘寧は凌統の言葉を頭で反復する。あいつ、と指すのが暁天の瞳を持つ友だと気付いた時、凌統が顔を上げた。
「無頼者だった頃仲が良かったんだろ?」
「俺もあいつも放浪してたからな。立場が同じで力量のある男とくりゃ、子分共も気に入ってたぜ」
「……じゃあ、なんで、孫策様について来なかった」
まったく想定外のところから刃を向けられて、甘寧は瞠目した。
「ああ? どういうこった」
「あいつが孫策様に仕え始めた頃にも会ってたんだろ。だったら、孫家の活躍は聞こえてたはずだ。……そうしたら、父上だって……」
急にべらべらと全てを語り出して、甘寧は体内の息全てをため息にしてぶちまけたくなった。甘い考えを露呈し始めた男の襟を掴み、捻り上げる。
「目え覚ませや。何下らねえ妄想してんだよ。お前は過去に戻れんのか? 俺が親父の仇じゃなかったらどうした?温 いこと言ってんじゃねえぞひよっこが」
「ぐ……ぅ」
苦しそうに潰された睫毛の隙間に雫が浮くのが見えて、甘寧は舌を打ちたくなった。どんな思考でふざけた考えに至るのか、いっそ組み敷いて聞いてやろうかと拳の力を強める。
甘寧は己の信念と直感に頼って生きてきた。結果的に生き長らえて孫呉にいるが、選んできた主が正しかったかどうか、遡って答え合わせをすることに意味はない。また、他者に否定される謂れもない。
「それともなんだ、仇じゃねえ俺なら、存分に惚れられたとでも言うのかよ」
腹が立って仕方ない甘寧は、考えつきを口にした。凌統を怒らせることが出来ればそれでよく、最も現実から遠そうな冗談を述べた。
凌統ははっとしたように目を開き、瞳を揺らして甘寧を見て来る。一瞬、世界から音が消えた。対岸の炎上も水の流れも何一つ分からなくなった。手の力を緩めた隙に、凌統が暴れ出して拘束を外す。乱れた襟を押さえ、馬の尾のような髪を振り回して逃げていった。
あの凌統が皮肉一つ吐かずに背を向けたことが、是と言っているようなものだ。弱々しく頭をかく。
「……参ったぜ」
年甲斐もなく若造に心を揺さぶられている自分を差し置いて、甘寧は凌統の消えた方へため息を吐いた。背後では、船がまた一つ爆発する音が響いていた。
濁った水と焼け焦げた匂いが渦巻く空気を浴びる内に、ようやく気配が近づいてきた。随分前から背に視線を感じていたが、やっと腹が決まったらしい。せっかくなので歓迎してやろうと振り向くと、凌統が驚いたように目を開いて肩を跳ねさせていた。
「ったく、熱視線で背が焼けるかと思ったぜ」
「はあ!? そんな目してないっつの!」
「背中の墨が気になるなら、閨でじっくり見せてやろうか? 女にゃ評判の華が掘ってあるぜ」
煽るとすぐに唇を尖らせて睨み付けて来る。討った将の息子という因縁を抱える相手であり、年の割に根性があって忠義にあつく、執念深い。どちらかというと厄介な人間に分類される。
「で? わざわざお前から突っかかりに来たのかよ」
甘寧は凌統との距離を測りかねている。整った見目で睨まれるのは悪くないが、ようやく腰を落ち着けた軍で炎上するのは避けたかった。凌統こそ接したくないはずなのに、こうして寄って来るから不思議である。そう思って問いかけた。
凌統はしばらく俯いていた。これは長丁場になりそうだと、腕を組み直してその姿を観察する。
短い簪を二本使ってまとめ上げられた髪は長く、真っ直ぐに項の後ろまで伸びている。胴と同じ意匠の髪留めを外したら、どのくらいの長さだろうか、腰までは行かないくらいか。随分着込んでいるが腰は締まっているように見える。例えば掴んで打ち付けるのに手頃な――
「あいつから聞いた」
不埒な方向に逸脱した思考は、短い返答で終わりを迎えた。眉ひとつ動かさずに甘寧は凌統の言葉を頭で反復する。あいつ、と指すのが暁天の瞳を持つ友だと気付いた時、凌統が顔を上げた。
「無頼者だった頃仲が良かったんだろ?」
「俺もあいつも放浪してたからな。立場が同じで力量のある男とくりゃ、子分共も気に入ってたぜ」
「……じゃあ、なんで、孫策様について来なかった」
まったく想定外のところから刃を向けられて、甘寧は瞠目した。
「ああ? どういうこった」
「あいつが孫策様に仕え始めた頃にも会ってたんだろ。だったら、孫家の活躍は聞こえてたはずだ。……そうしたら、父上だって……」
急にべらべらと全てを語り出して、甘寧は体内の息全てをため息にしてぶちまけたくなった。甘い考えを露呈し始めた男の襟を掴み、捻り上げる。
「目え覚ませや。何下らねえ妄想してんだよ。お前は過去に戻れんのか? 俺が親父の仇じゃなかったらどうした?
「ぐ……ぅ」
苦しそうに潰された睫毛の隙間に雫が浮くのが見えて、甘寧は舌を打ちたくなった。どんな思考でふざけた考えに至るのか、いっそ組み敷いて聞いてやろうかと拳の力を強める。
甘寧は己の信念と直感に頼って生きてきた。結果的に生き長らえて孫呉にいるが、選んできた主が正しかったかどうか、遡って答え合わせをすることに意味はない。また、他者に否定される謂れもない。
「それともなんだ、仇じゃねえ俺なら、存分に惚れられたとでも言うのかよ」
腹が立って仕方ない甘寧は、考えつきを口にした。凌統を怒らせることが出来ればそれでよく、最も現実から遠そうな冗談を述べた。
凌統ははっとしたように目を開き、瞳を揺らして甘寧を見て来る。一瞬、世界から音が消えた。対岸の炎上も水の流れも何一つ分からなくなった。手の力を緩めた隙に、凌統が暴れ出して拘束を外す。乱れた襟を押さえ、馬の尾のような髪を振り回して逃げていった。
あの凌統が皮肉一つ吐かずに背を向けたことが、是と言っているようなものだ。弱々しく頭をかく。
「……参ったぜ」
年甲斐もなく若造に心を揺さぶられている自分を差し置いて、甘寧は凌統の消えた方へため息を吐いた。背後では、船がまた一つ爆発する音が響いていた。