SSまとめ(健全)

 粉塵が舞い、焼け焦げた匂いが漂う。江の水面は赤く揺らいでうねり続け、人々の諍いに巻き込まれたことを怒っているようだった。
 退避指示が出てからもしつこく対岸を睨んでいる長身に、甘寧はあえて近づいた。
「なにちんたらしてんだよ」
 鈴の音で接近は分かっていた筈だが、凌統は逃げることなく、そして甘寧を見ることもなく、江に向き続けている。
「祝宴だぜ。劉備軍もそこそこ酒の当てがあるらしい」
「……遠慮しとくよ。劉備軍とやらを信用してないんでね」
 甘寧は片眉を吊り上げて凌統の横顔を見た。北風が長く垂らした横髪をさらい、江から逸れない瞳が窺える。
「龐統とかいう男、船繋いだだけじゃなく、向こうに強い酒を振る舞ったらしいね。結果、あの通りだ」
 凌統の指先には、未だ炎上と爆発を繰り返す大船団が見える。凌統の口調に同情は含まれておらず、淡々と事実を述べているだけのようだ。
 信用していないということは、同盟相手にも同様の手口を仕掛けてくる可能性を考えているのか、と考えついて甘寧は嘆息した。
「小難しいこと考えやがるな。宴会に乗じて潰すにしても、孫呉と劉備軍じゃ手数が違いすぎる。それに俺ぁ、酒にゃやられねえぜ」
「あんたのことも信用してないっつの」
 凌統の声は低く、呟くように喋るので集中しなければ水や風の音にかき消されてしまう。聞こえたところで毎度同じような言葉を突き付けられているだけなのだが、甘寧は腕を組み直して向き合った。
「信用してねえ奴でも、戦じゃ共闘すんのか?」
「殿が言う事なら何だって従うぜ」
 視線も向けずに即答するので、甘寧はだんだん腹が立ってきた。凌統は甘寧を見ようとしない。自身の感情を押し込めて主君の命に従う。臣下としては立派だが、その忠孝心すら甘寧にとっては邪魔だった。凌統のむき出しの表情が見たくて煽り言葉を吐き捨てる。
「そらすげえ。脱げって言われても咥えろって言われても従うのかよ。殿さんが羨ましいぜ」
 すぐに凌統が顔を向け、睨み付けてきた。燃え盛る炎を反射した瞳がまっすぐに甘寧を射抜いてくる。口角を上げていると、ぬっと凌統の腕が伸びて来て、手指がじっくりと甘寧の首にまとわりついてきた。甘寧の喉仏が掌の硬いまめと密着する。
「殿を侮辱するつもりかい」
「へっ……俺を殺すなって命じゃねえのか」
 ぎらぎらと怒りを燃やす凌統の目に興奮し、甘寧は歓喜に満ちていた。舌打ちしている凌統の様子からも、このまま絞め殺すつもりはなさそうだ。余裕が煽動欲を一層かき立てる。
「俺を救えって言われても、しっぽ振って従うのかよ」
 歯を噛み締める音が聞こえた。視線が絡み合い、冷たい手が首に触れ、息遣いすら感じる距離にいるこの瞬間はまるで情交のようで、甘寧は笑いが止まらない。
 狂気に満ちた甘寧の喜びは、ふと終わりを迎えた。凌統が甘寧の首から手を離し、長髪を振って歩き出す。
「殿の命に従い、父の軍を守る。これが俺の生き方なんでね」
 背を向けて溢された言葉は聞きづらく、何とか拾って繋ぐ頃には凌統が立ち去っていた。
 怨恨を必死に抑えて涼しい顔を続ける男を暴いて物にしたい。この願望が勝手である自覚はある。だが、難攻不落に見えて隙のある凌統の不安定さが、甘寧にはたまらない。
 甘寧の中に点火した炎は、先の戦と違い、逆風によって燃え盛った。凌統がどんな顔をして喘ぐのか、一人空想して口元が歪む。眼下の水面は不穏な波を生み続けていた。
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