理解ある混迷


「凌統殿、お待たせ致しました。出立の用意が整いました。この簡に記しましたが、時間がありませんので簡単にお伝えします」

赤い目をした陸遜が俺のところに来たのは翌朝のことだった。相変わらず仕事が早い。寝ずに調べるだけでこんな奇妙な事件のことすら検討がついてしまうなんて、身内ながら恐ろしさを感じた。

「この奇術師ですが、どうやら仲間はいないようです。女一人で、妙な術をやってのけている」
「へえ。お一人で大仕事しちまって。解き方は?」
「やはりそこまでは分かりませんでした。なので、決して殺さずに連れ帰ってください」
「分かったよ」

陸遜は他にも何点か調べ上げた点を伝えてくれた。支度をしながら聞く。ビリビリと痺れるような緊張がいっそ心地良い。やっと、ここまで来たんだ。

「あとは貴方が一番よく分かっているかと思いますが、とにかく、急いでください」
「それは言われなくてもってね」
「くれぐれも、凌統殿まで術にかかるようなヘマしないで下さいよ」

こんな時でも陸遜は俺に厳しい。いや、あえてそうしたのかもしれない。挑発されると燃える方だなんて、智将からしたら操りやすくてたまんないだろうな。

「行ってくるよ」

返事も待たずに飛び出した。



***


東の村には、馬で一時間程だった。幼少から孫呉に使える俺でもさっぱり知らないような地だ。

先日話していた陸遜によると孫策様の時代に奪った領地の一つらしい。辛い記憶を思い出させてしまったかと陸遜を見たが、いつも通りご聡明で凛としていた。乱世に染まる奴ばっかりで、少し悲しい。あれだけそれを嫌っていた自分も含めて皆、この時代に生きる者は大切な何かを失っている。

江の支流が村を通り、その川沿いでは様々な作物が植えられているようだった。被害者の中にも農家がいた筈だ。まともな人間に術をかけて殺すような女のことは理解しようとも思わないが、どういう経緯で甘寧と知り合ったのかだけは気にかかった。これが単なるあいつの色恋沙汰だったなら、術が解けたその瞬間にぶちのめしてやる。

「……凌統様」
「あぁ」

少数精鋭、部下はたった三人。一応武装はせず、目立たない格好で商人を装ったが、やはり闖入者にはお厳しい所のようで、すぐに屈強な男どもに囲まれた。

一人でやってんじゃなかったのかい?術そのものは一人で、護衛兵を雇ってるってことか?
まぁそんなことはどうでもいい。せっかくお出迎えしてくれたのだから、さっさと案内してもらわないとね。

「さぁて。行ってみようか」

俺の掛け声とともに、部下が一斉に飛び出した。俺も負けじと男どもに向かう。向かってくる刃を避けて蹴り上げ、一人を沈める。

二人目は刀を躱せなかったので、腰に刺していた剣で受ける。小村の民の持つ武器にしては、やけに手入れされている。持ってきた剣がさっそく刃こぼれしてきたので、さっさと手放した。一歩引いて懐に手を突っ込み、節棍を取り出す。三月程前に新調した冥狼波は、すでに手に馴染んでいた。

「火傷するぜ?」

節棍を振って刀を弾き、そのまま頭へ。
回し蹴りで体勢を崩したところにまた棍をぶちこむ。
跳躍し、踵落とし。

こんな場面だというのに、背中が涼しいことがやけに寂しく感じた。どの戦でも一緒というわけでもあるまいに、バカバカしい。だけど、あいつ以外に俺の背中を預ける奴はいない。

背後から襲ってきた奴を見向きもせず棍で払う。
やけになって槍を振って来た奴は、そのままその槍を掴んで投げる。

「仕方ないから、戻るまでは一人でどうにかしますよ、甘寧さんや」

あぁ。血が滾って、仕方ない。あるはずがないのに、鈴の音まで聴こえてきた気がして、いよいよだなと呆れた。



十人程の男どもを全て伸すと、残ったひょろい骨のような男が竦み上がって降参した。女のところへ案内しろと脅すと、オロオロしながらもその場に踏み留まる。こっちには時間がない。苛立ちから体が揺れる。

「おいあんた。ぶち殺されるのと黙って女のとこ案内するのと、どっちがいいって聞いてるんだけど」
「ひぃっ……命だけはご勘弁を……ひ、姫はこちらです」

散々命を弄んだ奴らがする命乞いなどおかしな話だが、姫とかいう奇妙な単語に引っ掛かり笑いはしなかった。どっかの豪族の娘なのか?それならこれだけの護衛兵も頷けるが、一体何のために?

連れられた民家は他より少し立派には見えたが、豪族の家とも思えなかった。要するに普通の住まいだ。布を捲りずかずか入り込むと、やけに臭い。女性がよく纏っている香だろうが、随分ときつくて顔をしかめる。

「……あら、貴方は初めてね。端正な顔立ち。わたくし、好きよ」
「それはどうも。貴女もお美しいことで」

こんなやり取りをしている場合ではないが、とりあえず乗っかる。肌を限界まで露出させて艶やかに笑う女で、正直好みではない。俺はもっと清廉な子がいいんだっつの。
それにしても、こんな女が、本当にあの物騒な術を使うのか?

「いきなりで悪いけど、俺と一緒に来てくれないかい?あんたの力が必要なんだ」
「まぁ、恐い顔。そんな今にも襲ってきそうな雰囲気の方に、着いていくとでも?」

クスクス笑うだけで欠片も動かない女に、苛立ちが止まらない。今すぐにでも殺してしまいたい衝動を必死に抑える。命さえあればいいので、気絶させるのが一番良いだろう。棍を使うまでもない。身構えた途端に、女がじゃらじゃらと装飾の付いた杖を掲げた。先端が重そうなのに、思ったより力があるじゃないか。

「わたくしの力のことご存知なのね。それなら、分かっているでしょう?逆らうと、貴方もその逞しい首を自分で掻くことになるわ」
「そりゃあ怖い。ただ、悪いんだけど、俺本当に今急いでるんだよ。お遊びに付き合っちゃいられないんだ。ウチの鈴野郎を治してもらわないと困るんでね」

そう言った途端、空気が変わった。禍々しい妖気のようなものが女から放たれている。自他共に認める脳筋族の俺ですら感じ取れるのだから、よほどのものなんだろう。危険を感じて部下を下がらせた。被害は最小でありたいし、俺には一応秘策がある。死ぬ気はない。

「あの男……甘寧。許せないわ。このわたくしを弄んで!まだ死んでいないの?しぶといわ」

女は頭をかき、爪を噛んで食いちぎった。やはり、甘寧はこの女にやられたのか。珍しいというべきか、ざまぁないというべきか。正気に戻ったら言ってやりたいことが山のようにある。

「あんたの言うとおり、女を弄ぶろくでもない男だよ。だが、孫呉に甘寧ありと言わしめた将だ。返してもらえないなら、あんたの命は保証できないね」
「わたくしを脅しても無駄よ。この力、すごいでしょう。拾い物から授かったのよ……天からの贈り物だわ」

結構勝手に喋ってくれるもんなんだな。あの男と言い、村の奴らは警戒心っつーもんが薄いのかもしれない。
女の話を聞きながら、可能なかぎり目だけで周囲を把握する。どこだ。どこにある。陸遜が言っていた。奇術には核となる石のようなものが必要だと。それも、あれだけ凶悪な力があるのだから、小さくもないだろう。それを打ち破るのが今回の秘策だ。

「……あの鈴男。わたくしに近づいたのはお父様に用があっただけだなんてほざいたのよ。わたくしの美貌にも、魅力的な体にも、何にも興味がなかったのですって」
「そりゃ、あいつに見る目がなかったんじゃないの」
「ふふ。貴方は少し、話が分かるようね」

なんだ、あいつ、この女が好きで近付いていたわけじゃないのか。だからなんだという話だが、奇妙なことにみるみる力が湧いてくる。キラ、と光る赤い石が臍のあたりに見えたのはその瞬間だった。これだ。厭らしいとこに付けやがって。

上機嫌になったその一瞬の隙に近付いて手刀を決める。女が重たくてうるさい装飾物と共に倒れた。その姿を嫌々支えながら、臍に付いた石を取る。

「おい、甘寧。これで戻らなかったら、無様にてめぇで死ぬ前に俺が殺してやるっつの」

節棍の側面で思い切り石を叩き割った。気持ち悪いくらいの重苦しい空気が飛散した気がする。こんなチンケな石が、人の命を惨たらしく奪ったのかと思うとやりきれない。

「片付いたよ。この女の後ろ手、縛ってくれるかい」
「凌統様!畏まりました」
「さ、とっとと帰ろう。この女に色々吐かせて、甘寧の無事、確かめないとね」

部下の返事もそこそこに、俺は女を担いで馬に乗り上げた。


***


先に部下二人を伝令替わりに走らせたので、建業の城に戻った時には陸遜と呂蒙さんが出迎えてくれる状態だった。この二人に歓迎されて帰ることもなかなかないな。新鮮で悪くないね。

「凌統殿、よくぞご無事で戻って下さいました」
「その女が元凶だな。俺の方で引き受けよう」
「お願いします。陸遜、これかと思ってかち割ったんだけど……」

呂蒙さんはすぐに女を抱えて城へ入った。勝手に核と判断した石の欠片を、それをくるんだ巾着ごと陸遜に渡す。陸遜はしげしげとそれを見つめ、叩いたり空に翳したりして観察する。

「私も間近で見るのは初めてなので、断言はできませんが……これで合っていると思います。書物にあった特徴が一致しています。お見事です、凌統殿」
「甘寧の様子は!?」

思わず前のめりに聞いてしまう。あいつのこととなると冷静でいられないのはいつからだっただろう。出会った時からか。

「今は独房で眠っています。縛り上げてすぐは、いよいよ全てを疑うような発言が見られました。私もお会いしましたが、余所者で賊上がりの自分を殺す気だろうと喚いておりました」
「討伐行軍の間は、どうだったんだい?」
「はい。やはりその前にかけられたのでしょう。時折様子がおかしかったと副将が仰っていました」
「具体的には?」

陸遜は場違いにも少し笑った。俺の必死さが可笑しいのだろう。俺だって甘寧が関わってなきゃこんな件大変だねの一言で済ますっつの。

「脂汗をかきながら、うるせぇ、仇なのは終わったことだろうと、何度も何度も言っていたそうです」
「幻聴ってやつか。……笑うところあったかい?性悪だねあんたも」
「凌統殿は役目を果たしてくださいましたから。安心してつい、出てしまったのです」
「安心ねぇ。俺はあいつの顔面ぶん殴るまでできないんだけど……やっぱり、俺が行くのは、厳しいよな」

本当は、今すぐにでも甘寧の所へ行きたい。格好悪く縛りつけられて、だらしなくぐうぐう眠っている姿を、叩き起こしてぶん殴って土下座させてやりたい。
だけど、俺にも分かっている。あいつの猜疑心を一番刺激したのは俺だ。目が覚めてまだ術が残っているとすれば、間違いなく死闘になる。そうなったら微塵の遠慮もなく、俺はあいつを殺すだろう。

陸遜は今度は困ったように笑った。俺が全てを分かっていて訊いたからだろう。そんな表情をしても決まるので美男子は羨ましいなと思った。

「……分かった。待つよ。あの馬鹿がどんな顔して俺の前に来るか、想像して待つのも悪くないしね」
「凌統殿は、本当に甘寧殿を信頼しておられるのですね」
「冗談よしてくださいよ。ったく、本当に何であいつの尻拭いばっかり俺がしなきゃなんないんだか」
「女の話など、他の情報も含めて、何かありましたらすぐお知らせします。今晩はゆっくり休んでください」

深く拱手して去る陸遜を見ながら、部下と共に武器を収めに足を進めた。自覚すると疲労で体が重たくなった気がした。


***


陸遜が来たのはそれから二日後だった。日頃の政務もある上に珍妙な事件まで任されて、ますます寝不足のようだ。それでも肌がツヤツヤしているのは、若さのせいか敬愛する呂蒙さんと終日共にいるおかげか。

「お待たせしました。ようやく、女の口が割れてきまして。あのような傲慢な性格の女は宮中でも見たことがなく…呂蒙殿がお疲れでしたので、私も手伝わせて頂きました」
「あんたは女性にも遠慮がなさそうだもんな」
「あんな女、丁重に扱う理由がないと思いますが」

血塗れになった爺の顔が浮かぶ。報せを待つ間に喪に服したが、その時は素直に悲しく弔うことができた。
なぜあの時珍しく登城しちまったんだ、なんて心中で責めてもみたが、爺でなくとも俺に関連する人物は誰だってあの日甘寧の餌食になったかもしれない。つまり、考えても無駄だった。

「……あの女、元は単なる民でした。ただ、占いを嗜んで銭を稼いでいたそうなので、少しは妙な力があったのかもしれません」
「ふぅん。あの石、拾ったとか言ってたな」
「はい。その石の力に気づいて実験的に三人程術をかけたと言っていました。それが最初の犠牲者でしょう」
「単なる実験台かい?胸糞悪いっての」
「ええ。聞くと元々恋愛絡みで揉めたことのある者どもだったそうです。ですから私怨もあるでしょう」
「ご自分の顔面に自信がありそうだったよ。姫とか呼ばれてたけどどっかの豪族なのか?」

陸遜はふるふると首を振っただけでそれを否定した。なんだ、本当に自分可愛さにというべきか、呼ばれたくて姫呼ばわりさせてたのか?寒気がするって。

茶をすする。気持ち悪い話で喉が乾いて仕方ない。陸遜も俺に倣い、一口二口飲み込んでからため息をついた。かつてこの事件を一人で抱えていた呂蒙さんのように重たい。

「甘寧殿は、女の父親に用があったそうです。出稼ぎに出ていて月に一度しか帰らないので、その機会を伺っていたとか。それを勘違いしたあの女が、自分に夢中になっているものと思い込んだみたいですね。そうではないと分かったため激昂して術をかけたそうです」
「甘寧の野郎も、よく大人しく術にかかったもんだ。女だからと油断したのかね」
「この奇術、目の前で見たわけではありませんので分かりませんが、どうやら痛くも痒くもないそうなんです、その瞬間は」
「そりゃ本当にご都合のいいことで。じゃあ、甘寧は女が怒っていたこと以外は気付かずに、ノコノコ帰って戦に出向いたわけか。つうか、よくそんなことまでゲロったね」

にっこり。きれいな顔で陸遜が笑う。怖すぎる。

「甘寧は何のためにあんな辺鄙な村に月一回来るかどうかの男に会いに行ったんだか」
「さぁ。それは女も語りませんでした。もしかすると思い当たる点はあるのかもしれませんが。用が済んだからもう来ないと甘寧殿が申し上げたので、逆上したそうですよ」
「あぁ、顔も体も興味ないって言われたってぶちぎれてたよ」
「貴方こそ、よく理性的に会話できましたね。幻覚で甘寧殿の信頼をうち壊したことも、御仁を殺されたことも、あの女が元凶でしょう。それも、ろくでもない理由で」
「……いや、本音を言うと、頭ん中では何度も殺したよ。目が合った瞬間に脳が弾けるかと思ったっつの。ともすれば節棍で元の顔が分からなくなるくらいにしちまうとこだった。……殿の命とあんたの忠告がなかったらね」

陸遜は特段軽蔑もせず、でしょうね、と共感してくれた。俺の気持ちを俺以上に分かってくれるやつがいるのは、心地良い。

「そういえばさ、要するに孫呉に仇なす存在じゃなかったんだろ?それだけは良かったよ」
「ええ。……案外、聡明ですね。見直しました」
「俺のこと本当に脳筋族だと思ってんだなあんた」
「はい」

即答すんなっつの。

「……甘寧は?」

本当はこの部屋に陸遜が入ってきた時からずっと、これだけが気になっていた。女のことも動機もどうでもいい。甘寧は目覚めたのか。術は解けてるのか。

陸遜はまた一つ重たいため息をついて、口を開けた。ひとつひとつの仕草がゆっくりに感じる。

「目は覚ましました。ですが、まだ茫然自失といった様子です。水は摂れましたが、食事はまだ。よほど精神的な衝撃があったものと推測します」
「そうかい。ぼーっと間抜け面してるあいつなんて、見物なんだけどね。直接お目にかかれず、残念だよ」
「言葉も発しておりませんので、本当に別人のようです。ぜひ貴方には見てほしいのですが……こればかりは、すみません」

珍しく気を遣って話してくれる陸遜は、良い奴だと思う。俺がこれ以上傷つかないようにしてくれているのだろう。本当は優しいことくらい、よく知っている。

「……ま、俺は待つと決めたんでね。週明けから、また異民討伐がある。甘寧の枠は俺が埋めることになった。ここでウジウジするのも今日までだ」
「はい。そちらの件はよろしくお願いいたします。ご活躍を期待してますよ」
「御意に」

殿にするみたいな反応をわざと返して、笑い合った。おい、バ甘寧。さっさと戻ってこいっつの。こうやって下らないことして喋り合うのは、あんただって好きだっただろう。


***


異民族が起こした反乱は、それが起きる度の対処としていたが、それもいよいよ限界のようだった。制圧するのは当然俺らの仕事だが、甘寧があんな状況で使いものにならない中で殲滅しろとは軍師さんも人が悪い。時間を稼いでるのか?

俺の方も宮中が気がかりではあるが甘寧の役割を無事果たすべく奮闘している内に、余計な不安や心配を拭うことができた。それどころじゃないというのが本音だ。

全く、こんな面倒なご命令をあいつの代わりに受けたんだから貸しは膨らむ一方だっての。あいつに払えるとは思えないね。

「よし、これで最後だな。皆よくやってくれた!今夜は休んで、明朝城へ戻る!」

おおう、と野太い返事が来る。今回の討伐は甘寧軍のほとんどが志願したので、俺も二倍の部下を抱えての進軍だった。よく統率されているし、甘寧の部下も大体知ってる奴となった今では非常にやりやすかった。

出立から十日。明日、ようやく建業に戻れる。
心を置いている理由が女性ではなくあの鳥頭だと思うと、なんだか笑えた。



朝早くから隊を動かし、城へと向かう。伝令はすでに城に着いているはずなので、討伐の成功は伝わっているだろう。にしても殲滅戦は疲労感が強い。全身血と土埃まみれで気持ち悪いし、さっさと湯浴みをして寝たい。隊長のくせにそんなことを思った。

開門してもらい、進む。部下たちは武器を収めるために軍倉庫へ向かわせた。副将にはそのまま解散させるよう告げてある。俺には報告やら収簡やらの仕事が残っているので一旦登城することとした。

まもなく城の入り口に差し掛かるところで、音が聞こえた。ちりんという鈴の音を、俺が聞き逃すはずもない。

「凌統!わりーな、討伐代わってもらっちまってよ!」

甘寧が姿を見せた。少し、痩せているがその様子はあまりに記憶と違えていなくて、俺は思い切りため息をついた。

「はぁ……信じらんないね。開口一番それか?あんた、本当に正気なのかい?」
「あぁ?俺が無事のご帰還を労ってやろうとわざわざ待っててやったんだろうが」

まるであの日の俺の言葉をなぞるみたいに甘寧が言う。覚えているのか。あの日のことも、その後俺のとこの爺を斬ったことも。疑心暗鬼になって孫呉を疑ったことも。

「あのさ、俺がどれだけ……どれ、だけっ」

地面に水滴が垂れる。変だな、雨なんて降っていないのに。

「げぇ、お前、まじか。泣くこたねぇだろ」
「何馬鹿言ってんだ。俺が泣くわけないっつーの。大体、あんたに言ってやりたいこととしてもらわなきゃなんねぇことが山のようにあるわけ。分かってんのかい!?」

ボタボタと地面が黒くなる。鬱陶しい雨だな。さっさと止んでくれ。張り詰めた糸がプツンと切れたみたいに、感情が溢れて止まらない。

「本当に、どれだけ、あんたのこと考えたか……分かんねぇだろうけど」
「凌統」

甘寧がふいに硬い声を出したので弾かれたように顔を上げる。目が合った。あの日のような冷たい目ではない。散々色んな勝負で間近に見てきた黒い目だ。

「すまなかった。んで、ありがとうな。お前がいなかったら、ちっとヤバかったわ」

だめだ、こいつ本当の馬鹿だ。ちっとなわけないだろ、あんた本当に状況掴めてんのか。三日三晩かけて俺の活躍を語り尽くしてやろうか。
そう言ってやりたいのに、さっさとぶん殴って跪かせてやりたいのに、切れた糸のせいか体が動かない。

「も、いいっつの……あんたに何か期待した俺が、馬鹿だった……」
「お前のご期待に添えるかは分かんねぇが、これ。落とすなよ」
「なに?」

布にくるんだ何かを突きつけてきた。重くも軽くもないそれは、何となく馴染んだ重量感だ。甘寧はただ顎をしゃくって開けろと誘導する。

布を解くと、よく見知ったものが出てきた。少し、装飾が増えているが、間違いない。俺が使っていた節棍だ。

「怒涛……?」

これ、再起不能になったよな。そうだ、あんたが模擬練習だってのに本物の武器を使いたがって、壊しやがったやつだ。何でここに、この状態で?
怒涛は今にも使ってほしそうに、キラキラと光を反射し輝いている。手に持つとしっくりと馴染んだ。今使っている冥狼波とは太さも長さも違うが、俺の手はこの感触を忘れていない。

「怒涛はお前の親父からのものだって言ってたろ。んで、ぶち壊しちまったあと借りてたじゃねぇか」
「……そうだったっけ、あんたに、預けてたのか」
「おう。例の村によ、引退したじいさんが隠れてやってる鍛冶屋があってな、腕が良いってんでそこに預けてた」

村の護衛兵を思い出す。やたらと手入れのされていた刀は、そういうことだったのか。
いや。待て。じゃあこいつ、俺の怒涛を直すためだけに、わざわざあんな辺鄙な村に行ったのか?鍛冶屋に取り付くためにあんな女を構って?

「はぁぁああ……ダメだ、力が入んねぇっての……」

膝が笑っている。ゆるゆるとしゃがみこんで、そのまま地面に尻を付けた。
なんだそれ。俺のためか。そんなこと、願ってもなかったのに。つうか、そのせいであんたが死にかけて爺が斬られたんだから、いっそ迷惑なんですけど。

「おい、いい加減泣くなよ。喜べとまでは言わねぇけどよ、お前がそんなんだと調子狂うぜ」
「一生狂っとけバ甘寧。あんたがおかしくなってる間中、俺は調子狂いまくりだったっつの」
「寂しかったのか、凌統ちゃんよ?」
「やっぱまだ術が解けてないみたいだね。責任取って俺が殺してやる」
「そんなヘロヘロで、よく言うぜ」
「あんたこそ華奢になっちまって、救ってくれた王子様に接吻でもしなくていいのかい」
「王子ってやつは姫様に会えて号泣するのかよ」
「ははっ……あんたも口が減らないね」

甘寧があまりにいつも通りで、思わず笑った。そうか。取り戻したのか。これでもう、こいつは俺を疑わないのか。安心感がますます立ち上がらせる気力を奪った。

「……俺が言うことじゃねぇけどよ。女は死んだぜ」
「は?あんたが殺したのか?」
「いや。そうしてやりてぇのは山々だったが、独房で発狂しながら首を掻いて死んだ」
「もう石はないのに……人を呪わば何とやら、か」
「凌統」

また、硬い声だ。もう、疲れたって。

「俺は、どうやってお前に詫びりゃあいい」

甘寧を見上げると、真剣な表情だ。語尾が全く上がらないその訊き方ってどうなんだと思うが、こいつが滅多になくショボくれてるのかと思うと気分が良くなってきた。

「さぁてね。何で返してもらおうか。言っとくが今回の貸しは本当にでかいぜ。あと、呂蒙さんと陸遜にもな」
「……おう……」
「ははっ、声が暗いぜ、甘将軍」

困ったように頭をかく甘寧を見て、こいつが俺の背中に戻るなら、謝罪も土下座もいらねぇか、といつになく素直に思えた。ま、当分、言ってやらないけどね。



【理解ある混迷】
どんなに迷い込んだって貴方のことは理解るから
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