理解ある混迷
甘寧は仇だ。でも今は認めている。圧倒的な武と竹を割ったような豪快な性格。異様な早さで孫呉に馴染んだあいつを受け入れるのには相当な時間と取っ組み合いを必要としたが、まぁ今ではいい好敵手くらいだと思っている。
狩りやら釣りやら囲碁やら仕合やらとにかく何でもいいから競り合い、時には酒も酌み交わし、戦では背中を預けた。
それくらいには、俺は甘寧を信頼しているし、同時に信頼されていると思っていた。
この日が来るまでは。
***
「むぅ……」
呂蒙さんが重いため息をつく事はそうそうない。いや、どちらかといえば四六時中何かしらに悩まされていている方で、(自分と甘寧もだいぶ元凶だが)しょっちゅう眉間に皺を寄せたり頭を抱えたりしているが、それでも普段はどこか楽しそうだと思っている。
それなのに、今日のため息と来たら絶望的なくらい重たい。たまたま提出する必要があった竹簡を届けに来た自分が話しかけていいものか、悩むくらいだ。
「ええと。呂蒙さん、御気分が優れないんで?」
「ん?あぁ、凌統か……。ちょっとな」
含みを持たせながらも明確な答えが返らない様子を見て、ますます珍しいなと呂蒙さんを見つめた。
「とりあえずこれ、渡しときますね。まぁ、俺ごときがお手伝いできることもそうないでしょうけど、いつでも頼って下さいよ」
「あぁ。気を遣わせたな。礼を言うぞ」
「いえ。では、俺はこれで」
元気がない呂蒙さんなんてどこか寂しい気もするが、原因が分からないので俺にはなす術がない。軽く拱手して戸の方へ振り向くと、気配を消した陸遜が目の前にいた。
「うわっ!びっくりした。陸遜、来たなら何か言ってくれよ」
「呂蒙殿……一段と悩まれていて、大変心苦しいです。この陸伯言、何でも代わりになります」
「無視かい?」
「おぉ、陸遜。ありがとう。そうだな、お前には話しておきたい」
陸遜の顔がぱぁっと華やいだ。頼られて嬉しいだなんて、陸遜は純真だな。無視された俺は可哀想だけど。
「さ、凌統殿。さっさと出ていってください」
「言われなくても出ていくつもりだったっつの」
「いや……やはり、凌統もいてくれ。お前にも、通しておきたい話がある」
陸遜がすごく怖い顔で見てくる。理不尽だ。決めたのは俺じゃない。そもそも、俺だってどうやら面倒くさそうな件に首を突っ込みたくない。
「頭のいいお二人と違って脳筋族なもんで、お役に立てますかねぇ」
「そうですよ。凌統殿程度の力が必要なのですか?」
「今日あんた圧強くない?」
「武力がいるかどうか……それすら分からんのだがな、今城下の一部で不審な事件があるのだ」
しれっと巻き込み始めた。これでは帰るに帰れないじゃないか。仕方がないので陸遜に呂蒙さんの前を譲り、俺は戸に寄りかかって話を聞くことにした。
「民が自ら命を絶つのだ。それも、自分の爪で、首を切るらしい」
「そりゃまた物騒な。でも爪で?首なんて切れますかね」
「何度も何度もガリガリと、それこそ酷く出血するまで掻くそうなのだ」
「……それは妙ですね。薬でしょうか?」
「分からん。正気ではないことは確かだ」
そうだろう。想像するだけで吐き気がしてくる。俺も何度も甘寧の首を取ろうと企てたが、爪を使おうという考えはなかったな。すごく苦しんで死にそうな気がするが、狂ってるならそういうこともないのか。
「被害はどのくらいなのですか」
「こちらが把握できているのは三件だ。どの者もまじめに勤しむ者だったようだな。自殺願望などもなかったと聞いている」
「各々住まいは近いのですか?」
「明確なところは調査中だが、どれも城の東側にある江の支流沿いの村の者だそうだ」
俺がただ怖いなという感想を持つ中、陸遜が淡々と質問していく。さすがは聡明な軍師さんだ。やはり自分が役立てそうには思えない。
「陸遜は俺と一緒に、この件の調査をしてくれ。凌統、お前は話を聞いた以上、妙な噂などを聞きつけたら教えてくれ」
「巻き込まれただけなんですけど……分かりましたよ」
「お前は街にもよく繰り出すだろう。民の声を聞いてくれ。甘寧には話して良いが、それ以外には他言無用で頼む。余計な混乱を招きたくない」
「はぁ。そりゃ分かりましたけど、なんで俺が甘寧に話す必要があるんです?そんなしょっちゅう一緒にいますかね」
「いますでしょう。毎日」
「そうかね?まぁ、いいですよ」
どちらにしても、自分があえて出来そうなこともないし、いつも通り過ごせということだと解釈した。街の酒場でも繰り出して、甘寧と適当に飲みつつ周囲に気を配ればいい話だ。
今度こそ脱出できそうなので、勢いで挨拶すると陸遜がしっしと追い出す仕草を見せた。なんて可愛くないやつになっちゃったんだか。
***
室を出て鍛練場を覗きに行くと、リンリンうるさい鈴を鳴らしながら甘寧が部下と仕合しているところのようだった。しばし遠くから眺める。
鈴の甘寧。降った当初の憎悪は既にない。自分でも情けなくなる位、こいつの性格に丸めこまれたなと思う。
仇討ちどころか親交を深めてしまい、あいつは俺の前でも泥酔するし爆睡するし背中を預けてくるので、俺は俺でその信頼が心地よく感じるようになってしまった。仇討ちを成し遂げられない親不孝を嘆きながら、一方でこの男なら信頼を預けられると判断した自分を前向きに認めている。我ながら複雑で面倒くさい。
「おう、何ボーッとしてやがる、凌統!暇なら手合わせしてくか!」
「いいぜ。その代わり、あとで城下で奢れよ」
「あぁ?お前の好む酒、いちいち小洒落てて高ぇんだよ!安酒にしろ」
「勝ったら、俺の行きたいとこで、ってね!」
模擬刀を取って二三度振ってから、甘寧に斬りかかった。勿論難なく受け止められ、押し返される。その力を使って体を翻す。こいつとの仕合は全身が痺れる。戦場さながらの緊迫感と判断が求められて、血が騒いだ。
あーぁ、俺、こんな武闘派だったかね。すっかり移っちまってる。ま、こんな自分も悪くはないか。
「滾ってきたなぁ、凌統!」
「そのうるさい口と鈴、黙らせてやるっつの」
結局、決着しないまま随分長いことやり合っていたらしく、数刻後俺たちはだらしなく床に転がるのだった。
「……で?わざわざ飲むのに城下ってこたぁ、理由があんだろ」
「まぁね。丁度この辺なら人もいないか。耳貸せっての」
城下へ向かう道すがら、人の気配がないところで甘寧に例の事件を伝えた。あまりに奇妙な事件に、意味が分からないとばかりに首をかしげ、眉を寄せている。
「そら物騒だな。聞いたことないぜ」
「だよな。そんなわけで、変な噂でも聞きつけたら呂蒙さんまで報告しろってさ」
「けど東の村か……当てはあんだよな」
「へぇ。手出した女の故郷とか?」
訊くと甘寧が返しに詰まったので図星かと気付いた。つまんだ子か真剣な方か分からないが、一々故郷まで覚えてるなんて殊勝な面もあるもんだ。
「今度会ったら聞いてみっか」
「わざわざ聞くほどじゃないよ、他言無用って聞こえなかったかい?その耳どれだけ詰まってんだか」
「うるせぇ奴だな、んだよ急に」
なんとなく甘寧が足繁く女の元へ行くことを考えると面白くない気になった。俺に今特定の女性がいないからかもしれない。これ以上密やかにする必要もないだろうと足を踏み出すと、鈴の音がすぐに追ってきた。
「ま、とにかく今日は情報収集と言う名の飲みだね」
「金出してくれりゃあどんどん回るんだけどな」
「言っても三件だろ、物騒だけど、自殺じゃそこまで重要な件とも思えないけどね」
「ヤクが出回ってたら止めるくれぇか?そこら中溢れてっから厳しいだろうな」
「別に俺らに大した働きは求められてないって。巻き込んで悪いけど、忘れてもいい位だ」
「それもそうだな。よっしゃ飲もうぜ」
すぐ頭を切り替えられるところはいっそ尊敬する。ぐだぐだ引き摺るのは俺の悪い癖だと自認しているので、たまにはこの男みたいになりたいもんだ。
結局この日はいつも通りただ飲んだくれて終わった。最近は酔っ払ったこいつを邸まで送ることもある。清々しいくらいの信頼に呆れてしまうが、どうしようもなく嬉しいと感じている自分が一番可笑しいなと思った。
こんな事件のことは、こうしてすっかり忘れていたのだった。
***
事件のことを聞いてから、二週は経った頃。当日ですらほとんど忘れていた俺は、久々に陸遜から被害があったことを耳打ちされて思い出す有り様だった。陸遜が呆れている。
「じゃあ、四人目ってことかい」
「はい。そして今回は死に至る直前にその者が妙な動きをしていたことが分かっています」
「それはすごいね。どうやって突き止めたんだか」
その問いにはにっこりとした笑顔しか返って来なかった。怖いので突っ込まないでおく。
「で、どんな動きで?」
「その者は快活で家業の農作業にも懸命に励んでいたそうです。ですが、突然鍬を持って民に振り回し、何かを恐れるようにして自室に籠りきりになりました。そして……」
「自分の爪で首を掻いて死んだ、ってかい。本当に妙な薬でもキメてるとしか思えないね」
「はい。合法すれすれの薬の情報は上がっても、このような強い作用の薬の話は今のところ、出ていません」
呂蒙さんと陸遜の力を以てしても分からないのだから、相当巧妙に隠されているのだろうか。そちらは、と一瞥されたが、苦笑しながら両手をあげて何の情報もないことを示すと、ですよねと当然のように返された。欠片も期待していなかったがやはりとでも言うような素振りだ。
「一人で勝手に死ぬならまだしも、他の民に影響が出るって話なら、本腰入れて動かないとね」
「貴方にしては聡明な点に気付かれましたね。呂蒙殿が疲弊している時点で、本腰入れてほしいところでしたけど」
「悪かったって。今日、甘寧が帰ってくるだろ。殿もいないし、俺だけ先に労うってことにして酒場にでも行ってくるよ」
「なんだか静かだなと思ったら、そういえば一週間ほど異民討伐に出ていましたね」
興味がなさすぎる。仮にも人を動かす側なのに。陸遜はからかうように笑った。随分仲良くなっちゃっての意だろう。過剰に反応しないのが一番だ。
「別に貴方一人で酒場に行かれてもよろしいんですよ?」
「そんな寂しいこと言うなっての。どうせ飲むなら誰かと連れ立って行きたいだろ」
「甘寧殿としか行ってないようにも思いますが……まぁ何でもいいです。呂蒙殿のお力添え、宜しくお願い致します」
「はいよ」
見た目にそぐわぬ早足で陸遜が去っていく。その背を見送ってから、俺はかえってのんびりと鍛練場へ向かった。急ぎの政務はないし、今日の調練は俺がいなくてもいい。鍛練場で体を動かして待っていれば、その内甘寧が帰ってきて覗くだろう。いつものように、へらへら笑いながら。
しかし、その日は夕方にはなっても鈴の音を聞くことはなかった。予定では昼前には着く行程のはずだし、少し休んだにしても姿を見せないのは不自然だった。まさかとは思うが、怪我でもしたのだろうか。
勝手知ったる甘寧邸に赴くと、どうやら怪我などはなく無事に帰ってきているようだった。ますます妙だ。上がってもいいか訊くと門番はいつもと同じように通してくれる。
「甘寧、いるのかい?入るぜ」
戸を開けると、甘寧がうつむいて寝台に腰かけていた。何故だろう。嫌な予感がする。根拠はない。えもいわれぬ感覚に、身震いした。
甘寧が頭を上げ、目が合う。その視線は、信じられない程冷たい。
「……帰れよ」
「はぁ?わざわざ無事のご帰還を労ってやろうと思って来たんですけど」
「それも、作戦か?」
会話にならない。一人で何の話をしてやがるんだこいつは。しかし甘寧の俺を見る目と言ったらまるで仇にでも会ったのかと言いたくなる。どちらかといえば俺がしていた目だろう。俺、こいつを怒らせるようなことしたか?
出立の前を思い出すが、釣りはこいつに負けて、碁は勝って、仕合は五分でとほとんどいつも通りだった気がする。出立の瞬間は見送れなかったが、まさかそんな程度で怒るやつでもないだろう。
「……聞いてんのか。帰れ。酒だのなんだのと、俺を懐柔して、首取るつもりなんだろ」
「はぁ!?あんた、自分で何言ってるか分かってんのかい?冗談も程々にしときなよ」
「大体おかしいと思ってたんだ、普通、親仇と楽しく飲んだり喋ったりするか?しねぇよな。忠義に篤いとかいう奴ならよ」
血がざわざわする。理由は分からないが、こいつは今間違いなくまともじゃない。聞いちゃいけない。冷静になってから、いくらでも詰ればいい。こいつの言うとおり、すぐに立ち去るべきだ。それなのに甘寧の目がまるで蛇のようで、俺はそれに睨まれた蛙のように身動きが取れない。声だけは聞こえてしまうので、内容を脳に入れてしまうと抑えきれない感情が溢れてしまいそうだ。
「俺を暗殺する隙を作ろうとしてんだろ。……俺はお前程度には殺されねぇぜ」
「あのさ、そのやり取りはもう随分前にやりきったと思うんですけど」
まだ、理性がある。口だけは達者に動くのに、全身は凍ってしまったかのように動かない。早く、ここを去って眠りたい。朝になれば、こいつをぼこぼこにできる。
甘寧はク、と口だけで笑った。挑発的で侮蔑したような表情だ。甘寧の口が開かれる瞬間、これ以上は本当に聞いてはいけないと本能が告げた。それなのに、体が動かない。
「てめぇの親父、矢一本で倒れたな。その程度の将の子が、俺に勝てるわけねぇだろ」
「……っ父上を侮辱するのか!!あんたが!!」
ようやく体が動いた。しかし、それは室を出るためではなく、甘寧を殴るためだ。勢い任せのそれは空を切り、振り返り様に繰り出した蹴りも腕であっさり止められた。そして。
「っ!おい、あんた、俺に、」
刃を向けるのか。
「忠告した。出ていけよ」
小刀の当たった頬がピリピリと痛む。俺は情けなくも泣きそうになり、慌てて室を出た。
吐き気を抑えて走る。信じたくない。悪い夢だ。さっさと眠って、朝には軍師さんに報告してやる。謀反のような冗談を仕掛けたこと、絶対に後悔させてやる。
――謀反?
まさか。
一瞬浮かんだ考えは、即座に取り払われた。俺はすでに、あいつのことを全面的に信頼している。あいつは孫呉の人間となり、殿に終生を誓い、その力の全てをこの軍に尽くすと決めたはずだ。
じゃあなんだ。さっきの目は。まるで俺を憎むみたいな態度は。本当は、冗談なんかではないことくらい肌で感じている。咄嗟に避けたが、あの小刀は間違いなく俺の目を狙っていた。当たれば将として使い物にならなくなると分かっているはずなのに。
何より信じていた奴に裏切られた衝撃はすさまじい。悲しい、悔しい、惨め――どの言葉も当てはまらない。とにかく信じられないし信じたくなくて手近にあった木を力任せに殴ると、痛みが現実であることを知らしめてきた。
「くそっ……鬱陶しいんだよ……!」
何も考えたくなくて、ひたすら自邸まで走った。息が上がっても止まることなく、ただただ、走った。
***
一週間が経った。地獄のようなあの日以降、俺は甘寧と顔を合わせていない。陸遜と呂蒙さんには翌朝すぐに事情を話してある。初めは信じられないとでも言うように笑っていたが、登城した甘寧と会って、その事実は確かなものとなった。
――凌統は信じられねぇ。未だに俺を仇と付け狙ってる。
そう言っていたとのことだ。いっそ笑える。陸遜の口の巧さを以てしても一切意見を曲げなかったらしいので、今の甘寧はその考えが全てなのだろう。
いつも俺に厳しい陸遜も、さすがにどう声をかけてよいのか分からないようで、長い睫を伏せて黙っていた。呂蒙さんも何度か声をかけてくれたが、話に乗る気になれず会釈だけしてその場を去った。
それでも何度か、会いに行こうか悩んだ。頭がおかしくなっているのなら、他でもない俺ならば治せるのはないかと、妙な自信が湧いたこともある。だが、結局行けなかった。拒絶される恐怖は、これまでに味わったことがなかったからだ。
まぁ気に食わないところも多々あれど、信頼という観点で言えばしているつもりだ。あいつは、そうじゃなかったのだろうか。
調練が一段落した頃、思わずいつものように鍛練場へ足が向きかけて自嘲した。踵を返して街に出向く。いよいよ一人で飲むことになろうとは、本当に甘寧以外に友人がいないみたいだ。
ざわめきが耳に心地良い。平服に着替え、髪を雑に結えば俺も立派な平民だ。この辺りでは最も粗暴な輩が集まる酒場で、姿勢を崩して怠惰にあおる。
それでも、どこで何をしていてもあの日の甘寧の目を思い出してしまう。これまで俺を仲間だと言い張り、救ったり競ったりして笑っていた表情が思い出せなくなるくらい、冷たい目をしていた。格好付けずに言うなら、怖かった。
預けられていたはずの信頼が音を立ててなくなった。足元がぐらつき、自分を支えていたものが失われて、今にも倒れそうだ。孫呉の武将ともあろう自分が、情けない話だが。
――掻いて死んだらしい
――先週に続いて、今度は女か
――俺らも……に逆らったら終わりだ
耳に飛び込んできた会話は、俺を急に現実に引き戻した。呂蒙さんと陸遜の顔が浮かぶ。意識する間もなく、立ち上がって距離を詰めた。
「なぁ、あんたら。その話ちょっと詳しく教えてくれない?」
「アァ?んだテメェ!すっこんでろ!」
「いいとこの坊っちゃんか?声の掛け方ってやつを教えてやるよ!」
突然一方の大男が殴りかかってくる。街のゴロツキとは言え悪くない筋だ。兵卒にでもなれば、一戦は持つかもしれない。のんびりと考えながら、その腕を取って捻りあげる。鳩尾に肘を入れ一人が泡を噴いて倒れると、もう一人は青ざめて手を上げた。話が分かる奴でいいじゃないか。
「店主、勘定。俺とこいつらの分」
銭を投げて、卒倒している男を引き摺りながら店を出ると、話が分かる方の男も黙って着いてきた。人のいない裏手に回り巨体を解放すると、聞くまでもなく口を開いてくれた。
「お、俺たちは東の村の出で……最近妙なことが起きてんだ」
「自分の爪で首を掻いて死ぬんだろ。それは知ってる。あんたら、黒幕知ってそうな素振りだったろ。どんな薬なんだい?」
「薬じゃあねぇ、術だ」
術?まさか、そんな怖い話があるのか。黄色い布つけた術師連中がいて、奇術を使うことがあったのは聞いていたが、自ら死ぬように仕向けるような術がこの世にあるとすれば、それは脅威に他ならない。
「俺たちの村にいる女だ。目を付けられれば、かけられる。かかった奴は皆死んだ」
「自分で死なせるような術なんてあるのか……」
「俺たちだって最初は信じちゃいなかった。だがな、女の予言通りになった!初めは、人を疑う。声が聴こえて、誰も信じられなくなる。そして、首の痒みを訴えて……掻いて死ぬ」
「吐き気がする話だね」
「本当だ!全てこの目で見てきた!俺たちだって怖えが、村から住まいを移せば発動すると脅されたんだ!出れもしねぇ」
「つっても、今日みたいに城下まで来て飲んだくれて喋っても、許されるんだ?」
「正直分からねぇ……明日には死んでるかもな」
青ざめた顔でペラペラ喋った内容は、恐らく嘘ではないだろう。貴重な情報ばかりで、早く城へ戻って呂蒙さんと陸遜に報告したい。それなのに、何かが引っ掛かって、喉につかえている。気持ち悪い。
疑心暗鬼になる。急に術をかけられて。
東の村、女。
「……少し前に、男が来なかったかい?鈴を着けた派手な野郎が」
「あぁ、来てたぜ。その女の気に入りだったらしいが……この間揉めてたな。そいつも術をかけられたか?諦めろ、治すすべはない」
――甘寧!
「……俺は孫呉の将、凌公績だ。あんたらの命も村の奴らも、……鈴野郎も、必ず救う。その女のことをもう少し教えてくれ」
乞うというより命令のようになったが、男は俺が武将と知るとますます顔を青ざめさせて、またしてもペラペラと喋り出すのであった。
***
城に戻った俺は挨拶もそこそこに呂蒙さんと陸遜の元へ向かった。切れた息もそのままに、聞いた内容を全てぶちまける。一刻も早く、その知恵を貸して欲しかった。
「奇術とは信じられません……。しかし、本当にお手柄です、凌統殿。その、お辛い中で、よく行動してくださいました」
「うむ。感謝するぞ、凌統。これで一歩進める。甘寧も、間違いなく取り戻すぞ」
「はい。あの馬鹿の目覚まさせて、土下座してもらわないと気が済まないんでね」
言葉に力が戻る。俺も単純だ。要するにあいつは今洗脳されていて、話してる内容は欠片も本心ではない筈なんだ。その事実は、俺をひどく安心させた。あれらの暴言が全て甘寧の本心であったなら、俺はもうあいつの近くにはいられないと思った。
「分かっている情報は少ないですが、女を討ちに行きますか?俺は、今すぐにでも行けますよ」
「……お気持ちは分かりますが、少しお時間を頂けますか?ほんの少しで構いません。万が一にも術師を討った後、術が解けなかったことを考えると、怖いのです」
「それも、そうだね。悪い。気が逸った」
「凌統の気持ちも分かる。陸遜、急ぐぞ」
はい!とこんな時でも嬉々としてはつらつに返事をする陸遜を見て、久々に笑えた。どん底のような気持ちからは這い出せた。あとは、呂蒙さんの言うとおり取り戻すだけだ。楽しかったあの日常を。
その時だった。城内では滅多に聞くことのない怒声と叫声が聞こえ、咄嗟にそちらへ走る。
甘寧が立っている。その足元には、人が倒れていた。彼は、俺の軍の重鎮だ。父上の代からいてくれる、祖父のような親戚。厳しいが間違いなく凌家を支えてくれた人だ。親しみを込めて爺と呼んで可愛がってもらった。
その人が血を流して倒れている。一目で死んでいると分かった。傍に立つ甘寧は、血塗れの刀を抱えて、まるで猫みたいに周囲を警戒していた。やったのは、あんただろうに。
俺は引き続く地獄の光景に、ただ突っ立っていることしかできなかった。
分かっている。術のせいだ。悪いのは全て術師のせいだ。それなのに、どうしようもない怒りが湧いてくる。あんたはまた、俺の大事な人を奪ったのか。
斬った甘寧にも、間に合わなかった自分や軍師さん方にも、ひどく腹が立つ。沢山の兵に囲まれて無理やり武器を奪い取られ、暴れながら独房へと連れられる甘寧を、俺はただじっと見つめていた。
***
――甘寧が凌操の縁故を殺したそうだ。
その噂はすぐに建業をかけ巡った。忙しくされている孫権様の耳にも入ったようで、翌日の夜には俺が呼び出された。
「凌統……いや、公績。此度は、一体何があった?お前たちは和解し、それ以上に親交を深めた関係だった筈だろう」
殿のお言葉に、思わず縋りつきそうになった。久しぶりに優しく字で呼ばれたからか、幼少の頃を錯覚させる。勘違いしてはいけない。今は、主従の関係だ。
蒼い目を見つめ、唾を飲んで口を開く。空気がべっとりして重たい反面、喉が異常に乾いていた。
「……殿。不肖凌公績、貴方への絶対の忠誠を誓います」
「公績、そのような口上はよい。甘寧の行動を……」
「あいつを、処罰しないでやってくれますか」
喉から出る声が、自分のものではないみたいだ。どろどろして気持ち悪く、下手をすれば吐いてしまいそうになる。驚く殿の顔を見ながら、なんとか自分を律して固く拱手した。
そしてようやく全てを殿に打ち明けた。どうやら甘寧が妙な術にかかっていること。疑心暗鬼に囚われ、本心とは違った行動に出ているであろうこと。俺のことを最も疑っていて、その部下である彼を殺めてしまったであろうこと。
爺の顔が浮かぶ。思い出を振り返ると泣いてしまいそうだ。それほどに、大切な人だった。失った悲しみと怒りは、うまく表せない。最後に交わした会話はなんだっただろうか。戦がないからといって適当にしてしまったかもしれない。もう会うことが出来ないなんて、信じられない。
だが。それでも。甘寧を再び恨むことは出来なかった。あいつも、あいつこそ、かけがえのない存在だ。尻拭いはごめんだしお守りも手いっぱいだが、判断を間違えて甘寧を失うことがあれば、深刻な傷を受けて後悔するだろう。
「このままでは、甘寧は自害する恐れがあります。どうか、厳重に縛り上げて、様子を見るようにしてください。必ず俺が救って、ぶん殴りますから」
「公績……。お前は、強くなったな」
「孫権様には敵いませんけどね」
「ふっ、相変わらずの軽口か。頼もしいな。呂蒙と陸遜が既に動いておるとのことだが、改めて私からも請おう。……甘寧を救ってくれ」
「仰せのままに」
頭を垂れて返事をする。組んだ手に力が籠る。やはり俺は、この方に尽くすために生まれたのだ。孫権様の命とあらば、個人感情を抜きにして、戦える。
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