頂きもの/捧げもの
コーヒータイムをあなたと (堅陸)
高校を卒業し、無事に大学生となった陸遜は、心を弾ませながらアルバイトを決めた。喫茶Barner――偶然家族で訪れてその空間に惚れ、以来ずっとここで働きたいと考えていたのだ。オーナー兼店主として働く男は、バリスタとしての評価も高く、全国各地から客が訪れる店だ。かねてより共に働きたいと熱望していたこともあり、マスターは4月になってすぐ、陸遜の身長に合わせたギャルソンの制服を用意してくれていた。
接客を学んだ陸遜は、 マスターの期待以上にてきぱきと働いた。見た目も好青年できれいな敬語を使うとなれば、客も放っておかない。Barnerは以前より更に繁盛する店となった。
「ということで、出張販売を始めよう」
マスターの突飛な提案に、店を閉めて掃除に勤しんでいた陸遜は目を丸くした。自由人で突発的な男なので今更驚きはないが、現実味のない提案だと感じたのだ。
「どういうことでしょう。こんなにも来客が多い中で外販ですか? 到底捌ききれるとは思えません。スタッフを今の倍にしても難しいのではないでしょうか。何か秘策がおありですか」
「まあ落ち着け。キミ本当に口達者だなぁ。責められちゃ、おっちゃん泣いちゃうぜ」
なよなよと泣くふりのマスターを無視して、陸遜は最後の一基のサイフォンを洗い始めた。複雑な形をキレイに洗い上げるこつを、ようやく最近掴んできたところだ。
「無視。もう。えー、まずスタッフは増えます。女子が二人」
丁寧にガラスにスポンジやブラシを当てながら、陸遜は黙って聞いた。マスターにツッコミを入れてはきりがない。
「それから、受けるのは俺の知り合いだけ。世話んなったところへの恩返しだ。大体皆忙しいから、混んでる店入れないってわけ」
「なるほど。限定的な顧客のみになら……頻度にもよりますが」
「頻度は計算中。基本は豆か挽いた粉の注文を想定してる。配達時に淹れ立てのコーヒーとデザートもつける。んで、配達行くのはキミ」
えっ。陸遜が心の中だけで器用に驚いた。手元には繊細な容器がある。慎重にかごに入れて、手を拭いてから向き合った。
「なぜ、私が。あなたの懇意にしてるところなら、あなたに会いたいのではないですか」
「うーん、良い響き。でもほら、店には俺のコーヒーを待ってる人がわんさかいるからさ」
マスターはなぜか上機嫌になって、エスプレッソマシンを起動した。フォームドミルクを驚くほど上手に操って絵を描き、ラテを提供してくれる。陸遜にはたいてい、火の模様を出してくれることが多い。初めて見た中学生の時に褒めそやしたのが忘れられないらしい。
お辞儀をしてカウンターに座り、ラテアートのカップを持つ。美しい意匠と馴染んだ香りに、陸遜は配達を許諾せざるを得なくなったのだった。
***
陽虎建設。門前のプレートで社名を再確認してから、陸遜は足を踏み入れた。初めてのおつかいだ。マスターによると、住宅改修を担ってくれた棟梁がとてもいい人で、喫茶店にも興味を示してくれたそうだ。だが、多忙もあり、なかなか店には足を運べないという話があり、今回の案に繋がったという。やはり自分で運べばいいのにと突っ込みつつ、ゆっくりと門扉をくぐった。
受付で店の名を出すと、女性職員が笑顔で応接室に通してくれた。大学生の身ではなかなか見ることの出来ない光景に胸を躍らせて、陸遜は室内に目を向けた。リュックから容器とカップ、豆や粉を取り出して、提供のセットをする。
少し準備に手間取ったが、相手方は見えない。マスターの話ではとても格好いい親方だと聞いていたので、陸遜も興味があった。辺りを見ていくと社報が置いてあったので、ぱらりとめくってみる。『ご挨拶』というページに写っていたのは、白髪の男だった。今時珍しいねじり鉢巻きをして、大きな角印形の飾りを首にかけ、威風堂々と言うように腕を組んでいる。虎の刺繍がしてある装束も古風で雰囲気に合っていた。立派な眉に口ひげ顎ひげを携えた男らしい写真に思わず見入る。
「すまない、待たせたな」
戸が開くと同時に、はっきりとした声が背にかかった。少しおののき、跳ねるように振り向くと、写真と同じ男が立っていた。今はスーツで、胸元まで空いたワイシャツが印象的だった。
「あっ、いえ。お初にお目にかかります。喫茶Barnerのマスター代理で参りました、陸遜と申します」
「はっはっは、あの男にこのような爽やかな者が付いているとはな。俺は孫堅。陽虎建設の代表だ」
差し出された名刺を両手で受け取った陸遜は、しばし紙面を眺めた。株式会社の代表取締役。なかなか日常生活では会うことの出来ない立場の人間に、陸遜の背がさらにしゃんと伸びる。
「あの……私はしがないアルバイトなのですが、孫堅殿のような方に提供してよろしいのでしょうか」
「そう硬くなるな。今はただの客でいさせてくれ。それに、佇まいや口調で、お前が信頼できる男だと分かる。さっそく、頂いていいか?」
孫堅がゆったりと諭してくれた後、ためらいなく席に着く。その様子にほっとして、陸遜は用意を再開した。磁器製のポットは保温能力に優れており、一時間経っても香りと温度を保ってくれる。マスターの手腕を損なわぬよう、努めて慎重にカップへと注いだ。もう一つ、小柄な保冷バッグには小さなチーズケーキが入っている。店で客に出すときと同じように所作に気を付けながら皿に移し、二つを提供した。
「お待たせいたしました。バーナーオリジナルブレンドのコーヒーと、チーズケーキです」
「立派なものだ。話に聞いていたよりずっとクオリティが高い」
「孫堅殿には大変お世話になったと聞いておりますが、提供内容は店と同じです。配達する代わりにいきすぎた贔屓はしないと豪語しておりましたから」
ぺらぺらと話してから、少しだけ、しまったと後悔した。陸遜はつい、マスター相手にも強い言葉を使ってしまう。その日常を滲ませてしまい、背を冷や汗が伝った。
「はははは! どうやら、肝が据わった男だな、陸遜?」
「す、すみません……」
「俺はあの男を気に入っているが、お前のことも気に入った」
「恐れ入ります」
お世辞であると分かっていながら少し嬉しい。頭を軽く下げてから見守ると、孫堅がゆったりとカップを持ち、コーヒーをすすった。目を瞑って香りや味を確かめる様子がとても様になっている。パンフレットの写真も棟梁感があって勇ましかったが、スーツ姿も似合っていた。自分の父親とは異なるタイプの男性に、陸遜は素直に憧れを感じた。
孫堅は落ち着いた動作で、だが止まることなく飲食を続け、卓上に用意したメニューはあっという間に空になった。自身が作ったものでなくても、嬉しい瞬間だ。
「素晴らしい味だった。久々にいい出会いだ」
「ありがとうございます! マスターも喜びます」
「もちろん、お前の接客あってこそだ。この道を目指すのか?」
食事を終えてもなお、孫堅は座ったまま陸遜を見上げている。もう少しこの空間にいられると分かって、陸遜は自然と笑顔になった。
「勉学や研究も面白いので、断言はできませんが……マスターの技術には羨望があります。バリスタは簡単ではないでしょうが、選択肢の一つとして考えたいところです」
「なるほど。ちなみに建設業はいつでも人手不足でな。お前のような優秀な男が入ってくれたら助かるんだが」
「滅相もない。というか、初対面の若者にそのような信頼の置き方は、些か不用心ではないでしょうか」
驚きすぎて説教のようなことを言ってしまい、少し慌てたが本心は伝えねばならない。事実、孫堅とは本日が初めてで、大学も学部も何一つ晒していないのだ。
「お前のことはマスターから聞いている。いい後継を雇ったと」
「単なるアルバイトなのですが……」
「お前の利発さは非正規雇用でも伝わるということだ」
とても優雅に手を組んで微笑む孫堅からは、大人の余裕がにじみ出ている。陸遜としては過剰な評価にたじろいでしまうのだが、素直に受け取ると嬉しい言葉だった。そう言われては、励む他ない。
「これからも全力を尽くします」
「ああ。ところで、このサービスは続けてもいいのか? できれば、この豆をどうしたらいいかも教えてほしいものだ」
「マスターの口ぶりでは、特別な顧客にはサービスを継続したいとのことでした。この豆は、今日は宣伝に持参したのですが、次回お挽きしてお渡しも出来ますし、やり方もお伝えできます」
「お前からか?」
「不安でしょうが、ミルの取り扱いは許可をいただいています」
店にある中で最も小さなコーヒーミルは、家庭用としても使われるものだ。持ち運びには便利な一方、袋のすべてを挽くのは困難といえる。謙虚に答えた陸遜だったが、孫堅がふっと笑うので少し心臓が高鳴った。こんなにも年上で目上の人間が優しく、柔らかく接してくれることは滅多にないことだ。
「お前に直接やってもらえるなど、僥倖以外の何物でもない」
心から嬉しそうに言われ、陸遜の頬が上気した。渋くて格好いい人間にこうも求められると、嬉しくて堪らない。
「頻度や方法を、マスターと打ち合わせてきます。孫堅殿にはポットのコーヒーを提供しますが、この豆や粉で、いずれ私が提供できたら、嬉しいです」
「ああ。期待している」
相手は大企業のトップだというのに、出過ぎただろうか。陸遜の懸念はすぐに返ってきた言葉で吹き飛んだ。これはマスターを脅してでも、役をもぎ取らねばならない。
「土曜の午前九時。この時間が一番都合がいい。できれば、毎週会いたいものだな」
「は、はい……その度に、成長をお見せできれば、幸いです」
「楽しみにしている」
孫堅の言葉を頭の中に刻み込み、頭を下げた。すっかり浮かれ切っているが、営業として手作りのメニュー表を渡し、手土産の焼き菓子も授けた。孫堅は驚きながらも過度に遠慮はせず、全てを鷹揚に受け入れた。
三十分の与えられた時間通りにビルを出て、軽くなったリュックを握りしめて俊足で店まで駆け抜けた。
「マスター!」
「うおお。珍しいね陸遜ちゃん。陽虎建設、でっかかったろ」
「私にコーヒーの淹れ方を教えてください」
陸遜の真剣なまなざしに、店主はきょとんと目を丸くしている。この時間の常連客は皆微笑ましい表情だ。
「目覚めちゃった? 俺、コーヒーにはうるさいよ?」
「バリスタとはそういう職業でしょう。孫堅社長に、私が直接コーヒーを淹れて差し上げられるまで、ご指導ご鞭撻のほどお願いいたします」
「なるほど。カッコいいもんなー社長。惚れちゃったの?」
「あのお人柄にはどのような者も惹かれると思います。マスターも見習った方がいいですよ」
「言うねえキミは」
陸遜の忌憚ない言葉とマスターの軽い受け答えに、常連客が笑う。このやり取りも名物の一つだ。孫堅の前では緊張してしまい、本来の姿の一割も見せられていない。偽りの姿を気に入られてしまっただろうかと陸遜はやや意気消沈したものの、出来ることと言えば技術の向上くらいなので、襟元を正してカウンター内へ踏み出した。
***
優秀な学生である陸遜は、大学の講義内でこと足りた。すべての単位で秀の結果を出し、つつがなく前期を終えた。サークルなどには属していないので、他のすべての時間を喫茶Barnerで過ごすことができた。
「ん、もういいよ。これくらい出来たら、社長になら出しても」
「本当ですか!」
「焙煎とブレンドはまだまだだけど。挽くのと淹れるの位、まあいいかな」
陸遜は勢いよく直角で頭を下げた。いつもマスターのふざけた言葉と態度には反発してしまうのだが、バリスタとしての実力は確かだ。国内トップを取ったこともある。そんな人物から、あの孫堅に淹れてもよいとお墨付きをもらえたのだ、たまらず笑顔がこぼれた。
「いつもそれくらいニコニコしてくれたらいーのに」
「お客様には意識してスマイルも提供しておりますが」
「お、れ。俺にも」
「えっ、なぜですか……?」
「ガチのびっくり顔やめてよ」
今日も今日とて軽いやり取りを終え、陸遜は出前の準備を始めた。本日のケーキに豆、ミル、ドリッパーなど必要な道具を一拭きして丁寧にリュックに詰める。揺らさず跳ねずに自転車で運ぶのもかなり上達した。一分でも早く会社に着き、息を整えたかった。
「行ってまいります!」
意気揚々と飛び出し、暑い日差しの中を真っすぐに突き進んだ。
指定時間の十分前に会社に着いた陸遜は、来客の手続きを済ませ、社長室へ向かった。孫堅の取り計らいで二回目以降は直接こちらを訪ねていいことになっている。入室前に汗を拭き、体温の上がった体を静めて、時間ぴったりになったらノックをする。これが今の陽虎建設との常になった。返事があったら速やかに入り、いつものように丁寧にお辞儀をする。
「いつも大変お世話になっております。喫茶Barnerです。コーヒーをお持ちしました」
「ああ、陸遜。今週も会えて嬉しいぞ。お前は盛夏でも爽やかでいい」
「勿体ないお言葉です。あの、本日私が直接コーヒーをお淹れしたく……よろしいでしょうか」
「真か。待ち侘びていたぞ」
目尻に皺を作って喜ぶ孫堅に、陸遜は胸がきゅっと締め付けられた。歓喜と緊張が同時に湧く。
社長室内にはミニキッチンがあり、IHヒーターまで完備されている。このことをマスターに伝えると、IH対応の細口ポットを用意してくれた。これに店で使っている軟水を注ぎ入れ、沸騰させる。その間にリュックからキャニスタとミルを取り出し、あらかじめ量ってある豆を投入口に詰め、ゆっくりと取っ手を回した。こりこりと豆が挽き潰れる音が静かな室内に響く。
「いい音だ。やはり、目の前で挽いてもらうと違うな」
「今度はぜひ、お店にも。孫堅殿であれば、マスターも営業時間など気にしませんよ」
「そうだな。だが、こうしてお前と二人でいる空間は心地がいい」
「光栄です」
孫堅の言葉はいつも陸遜を奮い立たせてくれる。もちろん、顧客と店員の関係以上の気がないことは分かっていた。それでも嬉しいものだ。陸遜自身はというと、いつも余裕たっぷりに受け入れてくれる孫堅に、すっかり恋慕を抱いていた。これまで、あまり他人に心を寄せたことがなかったが、今になってこれまで受けた告白の意味が分かった。とにかく四六時中孫堅の顔や声、動きが浮かび、考えているだけでときめきが止まらないのだ。まるで少女のようだが、一度自覚すると加速してしまい、今はこうして週に一度会えることを幸福に思っている。
ちらと見た孫堅は穏やかに笑って陸遜の続きを待っていて、一気に緊張が増してきた。ドリッパーにフィルターをセットする手が震えた。挽き終えた豆をフィルターに移し、湧いたポットを持ち上げる。練習通りに、まずは少量――意識しすぎると、力はコントロールを失うものだ。
「あっ」
ばしゃ、と多量に入った湯は、粉をフィルター外にも飛ばし、一部はサーバー内に流入した。これでは、ざらつきが舌についてしまう。
「も、申し訳ございません……これは、お出しできません」
「ん? まだ出来てもいないだろう」
「ですが、粉が入ってしまいました。これではマスターのコーヒーの名に傷をつけてしまいます」
練習を積み重ねても、力加減で駄目になる。コーヒーの奥深さと目標を達成できなかった挫折感を一度に味わい、陸遜は肩を落とした。
「ふ、ははは! 真面目で隙がない青年だと思っていたが、そうでもないようで安心した」
「お人が悪い。私はただの、経験値不足の学生です」
「だが日頃から一生懸命だ。それくらい知っている。なに、若者の失敗など、俺には旨味にしかならん。そのまま淹れてくれ」
「孫堅殿……」
頷く孫堅に、陸遜は体が温まるのを感じた。緊張と失敗で冷たかった手足に血が行き渡るようだ。今度は落ち着いて、ゆっくりと細口ポットを傾ける。のの字を描くように慎重に粉を膨らませ、焦げ茶の雫が落ち切るのを待つ。規定量を注ぎ切り、フィルターを外して、サーバーからカップに注いだ。見た目に異変はないが、この液体の中には粉まで混ざっている。内心で落ち込みつつ、丁寧にケーキを添えて孫堅の前に出しだした。
「陸遜が提供します、バーナーブレンドです」
「所作が美しいぞ」
孫堅が息を吸うように褒め言葉を言ってから、カップを口に運んだ。孫堅は筋骨隆々の男だが、動きが洗練されていて無駄がない。美しいのはそちらです、と妙なことを口走りそうになって、慌てて陸遜は口をきゅっと閉じた。
「うむ。いつも通り美味い。風味も香りも一切損なわれておらんぞ」
「ありがたいお言葉、感謝いたします。あの、底部にはおそらく粉が沈殿しているかと。最後まで飲み切らなくて結構ですから」
おろおろと付け足すも、孫堅は眉を上げて笑うだけだ。いつものように優雅にケーキと共に味わっている。いたたまれない陸遜はそそくさと片付けを進めた。自分の作ったものが他人の口に商品として入ることの責任。それがいかに重たいものかを実感して、ひっそりと店主への尊敬の念を高めた。普段接しているとあまり思わないのだが。
きっちり片付けを終えて振り向くと、孫堅はカップを空にしていた。いつもは澄んでいる底面はざらざらと粒が残っている。
「そ、孫堅殿っ」
「前々から気になっていたのだ。この粉から抽出している液体が美味いのだから、粉も美味いのではないかと。……なるほど」
「不味い、ですよね。出涸らしはただ不快な食感が残るだけで……孫堅殿にこのようなものを飲ませてしまって、申し訳ないです」
しゅん、と頭を垂れる陸遜に、孫堅はあくまで笑いを飛ばした。
「俺が勝手に飲んだものを、お前が謝る必要はない。また一つ勉強できたしな」
「今でも十分聡明だというのに、頭が下がる思いです」
寛大にすべてを許容する孫堅に、心惹かれるのを止められない。毎週の訪問で、孫堅には三人もの子供がいることを知り、何度も歯止めをかけねばと自分に言い聞かせてきた。だが、恋慕というものはコントロールできるものではない。年齢差や性別、立場の違いなどいくつもの障壁を実感するたびに、かえって惹きつけられていった。だが、今ここにいるのは陸遜個人ではなく、喫茶店の店員としてだ。就業中に私情を挟んではならないと最後の砦のように理性を利かせた。
「マスターには此度の失敗をきちんと報告します。その上で、孫堅殿が引き続き注文してくださり、マスターの許可が下りましたら……また私が、届けに来てもいいでしょうか」
こうして話ができるだけで僥倖だ。戒めのように頭を下げて、制服をじっくり眺める。ギャルソン仕立ての制服は赤が差し色に使われていて洒落ていた。
「もちろんだ。今はもう、お前以外に頼む気にはならん。あの男が来たら、追い返してしまうやもれんぞ」
泣き真似をするマスターの顔が即座に浮かび、陸遜は孫堅と目を合わせて笑い合った。
店に戻った陸遜は、洩れなく自身の失態を報告した。怒るわけでもなく、しゃくり上げてまで笑った店主は、陸遜の続投を認めてくれた。翌週になって、今度はつつがなく提供でき、孫堅から褒め言葉をたんまりともらった陸遜は、夢見心地のままアルバイトを続けていった。
***
季節は秋に差し掛かり、提供するケーキが芋や栗にシフトするようになった。陸遜は変わらずBarnerに勤め、孫堅の元へと通い続けた。孫堅への羨望が恋情と誤認したのでは、と自問自答したこともあったが、結局時々触れる手や掛けられる言葉へのときめきは説明がつかず、片思いを続けていた。元より欲望は控えめな方であり、毎週三十分でも顔を合わせられるだけで十分だった。
土曜日。持参したスイーツはパンプキンタルトで、仕上げは陸遜が担った。好んで食べてくれるだろうかと足取り軽く訪れた陽虎建設で、初めて陸遜は入室を待たされた。この時間帯には予定を入れないよう調整してくれていたので少し驚いたものの、企業のトップたる孫堅だ。当然多忙なのだろうと指定場所に座して待った。
少しして、珍しく大工姿の孫堅が遠くに見えるようになった。見知らぬ客人と盛り上がっているようで、ちょうど植え込みに隠れる形となった陸遜に気づいている気配はない。
「じゃ、その件は頼むぜ。ところで旦那、最近若くて可愛いのを囲ってるって話じゃあねえか」
「なんのことやら」
「しらばっくれる気か? お高い珈琲にお熱なんだろ。何をお供に頂いてんだか知らねえけど」
「ふ。なに、そう特別なものではない。お前の方がよほどいい店を知っているだろう」
「ははは、上手いねえ」
厳格な男の笑い声が響く。陸遜は耳を塞ぎたくてたまらなかったが、体が凍ってしまったように動けない。ただの客と店員の関係性であることは、陸遜自身が一番分かっていることだ。店で女性に言い寄られた時はむしろ言い訳に使っているではないか。だというのに、孫堅の口から放たれた「特別なものではない」という一言が何度も頭で繰り返されて胸を抉った。息苦しくて、座っているのにくらくらと目まいがする。血の気が引いて指先の感覚が分からなくなった。
「……!」
視界も聴覚も不良で、鐘のような鈍く低い音が脳内を支配している。
「陸遜!」
急に名が聞こえて、ぱっと弾かれたように顔を上げた。初めはよく見えなかったが、クリアになると目の前に孫堅の顔があると分かった。
「すっ、すみません!」
「良かった、正気に戻ったか。呼びかけても反応がないから、焦ったぞ」
顔が熱くなるのを誤魔化すように、陸遜は何度も頭を下げて謝罪した。まだ脳内は混乱を極めているが、反射的に孫堅への畏怖の念が出たようだ。いつもと違う棟梁装束は、陸遜にとって新鮮でより一層緊張させた。
「とりあえずここでは落ち着かんだろう。歩けるか?」
「もちろんです。孫堅殿のお手を煩わせる訳にはいきません」
「陸遜くらいなら、余裕で抱きかかえて行けるぞ。こう見えてまだまだ現役でな」
にっと口角を上げる孫堅の顔を見ていられず、視線を下げた陸遜は、立派な胸筋と目が合った。緑の印のような飾りの下で、黒いインナーがぱつぱつに張っている。ものすごく見てはいけない気にさせる光景だ。
「だ、だいじょうぶです、歩けます」
「そうか? 無理はするなよ」
再び軽い目まいを覚えながら、陸遜は慎重にリュックを背負い直して逞しい背に続いた。
社長室で、いつものように提供の準備を始めるが、その日は注意散漫だった。一つ一つ丁寧に行うべき所作がばらばらだ。しまいには、うきうきで仕上げをしたケーキを皿に移す際に傾けて落とし、せっかくの装飾が台無しになった。明らかに先ほどのショックを引きずっていると自覚し、陸遜は手を止めた。
「今日は、私が買い取ります。大変申し訳ありません」
「どうした、やはり調子が悪いのではないか」
心配した面持ちで近づいた孫堅に対峙し、全てを投げ出す覚悟で顔を上げた。今日の不手際で、店長や孫堅からの信頼と評価は落ちている。ならばもう、苦しい思いを解き放ちたかった。
「特別に、なりたかったのです」
「……陸遜?」
「孫堅殿を好きに、なってしまいました。喫茶店の店員という些末な身分で近づき、あまつさえ懸想してしまうなど、あってはならないことです。申し訳ありません」
アーモンド型の大きな目から涙が零れた。本心を伝えてしまえと自暴自棄になったが、謝りたかったわけではない。好きになって、日々の活力を貰い、近くで社会の勉強をさせてもらって、感謝をしている。そのことを伝えたかったのに、上手く言葉がまとまらない。滲む世界で、孫堅の驚愕が見える。
「私個人が暴走しただけです。きちんと、店は辞めます。ですから、Barnerは使い続けてほしいのです」
深く礼をすると、床にぽろっと滴が落ちた。情けなくて格好悪い姿だ。それだけでも居心地が悪いのに、片付けなければ部屋を出られない。自ら作り上げた生き地獄に、また胸が苦しくなってきた。寒くて体の震えが止まらない。
しかし、まもなくして、寒気は吹き飛んだ。あの厚い胸板に抱擁されている。
「落ち着け。俺の鼓動の音は聞こえるか?」
ばくばくと鳴り響く拍動に、陸遜の心臓こそ壊れそうだ。抜け出そうにも、孫堅がしっかりと抱きしめているせいで身動ぎもできない。ただただ温かい体に包まれて、硬直する。
「年甲斐もなく拍が早いと分かるか? 一応、食事には気を使っていてな。普段は頻脈ではないぞ」
「そ、孫堅殿は、健康的だと思います」
「そう見えていたなら良かった。陸遜、お前が謝る必要はない」
片手を離した孫堅が、陸遜の頭を撫でてくる。時々施されてきた動作が、至近距離というだけで過剰に緊張が高まった孫堅がふ、と口元を緩めて笑うので、目が離せない。
「いかんな、お前からの想いが嬉しくて、言葉が見つからん。だが、本心だ。俺もお前のことは好ましく思っている」
目の前から放たれる重低音が陸遜の耳を攻めてくる。心地の良い音に聞き惚れたが、意味が分かるとひどく動揺した。
「そ、それは、その」
「だがな陸遜。俺の葛藤も分かってくれ。お前は未来ある青年で、俺は壮年の男だ。今、妻はいないが子はいる。このような立場でお前を俺のものにするのは気が引けるだろう」
緊張もあるが、今度は驚きのあまり言葉が出ない。片想いの確信がひっくり返ったのだから、陸遜にとっては大事件だ。
「それでも、心惹かれるのは事実だ。お前からの言葉、嬉しく思うぞ」
「と、特別ではないと、先ほどの方に」
なんとか声を絞り出した陸遜に向けて、孫堅がさらに口角を上げて妖しく笑う。香り立つ色気に、陸遜の心臓が大きく跳ねた。
「本当に美味いものは、教えない主義でな」
囁くように言われたセリフで、陸遜の腰が抜けた。弱弱しく膝が折れていくのを、孫堅が支えてくれる。
「はははは、青いな陸遜」
「ずるいです、孫堅殿……そんな風に言われては、私はあなたを諦められない」
「なに、諦める必要はない。だが、俺は今でも、お前を独占する覚悟は出来ていないぞ」
あくまで一歩引いた立ち位置にいようとする姿に、陸遜の心に火が着いた。引かれると押したくなる好奇心の強さは幼少期から変わっていない。
密着している体を、背伸びをしてさらに寄せる。目を瞑って唇を狙ったせいか、少し外れて髭に当たった。薄目を開けると、面食らったような孫堅の顔が見える。
「では、覚悟が決まるよう、全力で参ります」
レアな表情はすぐに終わって、陸遜の肩を両手で掴んだまま、孫堅は天を仰いで大笑いした。豪快な笑いにつられて、陸遜も表情を崩して笑う。自身の感情も相手の感情もまだまだ計りかねているが、互いをよく想っているという事実が嬉しかった。
「敵わんな。俺の理性がいつまで持つものか」
「成人しておりますから。いつでも大丈夫ですよ」
「お前に後悔はさせたくない。合意形成に時間をかけるべきだ」
陸遜は納得して頷いた。慎重で堅実なところにも惚れている。
「ならば訊こう。口付けていいか?」
陸遜の不意打ちは失敗に終わっている。そのことを内心残念がっていた陸遜は、早速の合意形成に目をぱちぱちと瞬きをして、それからしっかりと返事をした。
「もちろんです」
今後こそ柔らかい感触を覚えた陸遜は、孫堅への想いをさらに強めていくのだった。
【END】
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