ごみ棄て場は何処
父が孫呉に仕えるようになる前から、凌家は厳格だった。
幼少の頃から武術だけでなく、礼儀作法だの上に立つものはかくあるべきだの小難しい話を聞かされ、時には父から厳しく折檻された。その教え方は父だけでなく、いずれ当主になるであろう俺に過度な期待をしている家人にも伝染しており、父の見ていないところでも俺は念入りに躾けられたのを覚えている。躾けだなんて体のいい言葉で、家人の苛立ちを発散させるための道具だったような気もするが。それほどには暴力や言葉で痛めつけられた幼少期だった。
自分の意見を言ったところで通してくれるような家ではなかったので、自分の本音は殻の中に隠すようになった。こんなものを延々と懐で温めていても、何も生まれないというのに。
そんな折、父が小覇王孫策様の野望に触れ感激し、仕えることとなったある日。そこで俺はきれいな蒼の目をした孫権様と出会った。俺も孫権様も十歳かそこらで、俺はこの時孫権様に出会っていなければ一生自分の考えも持たずに過ごしたと思う。
孫権様は偉大な父と兄を持ちながら、それでもご自身の信じる孫呉の行く先をあの時から見据えていたような気がする。登城して孫権様から聞くお話はどれも新鮮で刺激的で面白かった。孫権様と朱然と一緒に学を学ばせてもらったり、碁石を敵に見立てて戦術を語りあったりするのは、家にいては得られない貴重な時間であった。
その頃にはさすがの俺も家人の要求する人物像が分かってきていたので、家ではそれなりに大人しく過ごし、隙を見ては武術を磨くことに専念した。体を動かすのはいい。何も考えなくて済む。剣や刀はあまり合わず、節棍という一般的ではない武器を選んだあたりひねくれている自覚はある。
そんな風に育つ中で、だが、父を愛していないかというとそうではなかった。父は他の家人と違い厳しい中にも確かに愛情があって、稀に単なる息子として扱われた時には嬉しかったのを覚えている。
『お前は細いのによく食べるなぁ。どんどん食べなさい。大きくなって、殿に尽くす身なりとなりなさい』
笑って頭を撫でてくれた手が、温かくて気持ちよかった。
***
父上が亡くなった後の家人の動向は、もはや俺の手に負えるものではなかった。
家を挙げて父の仇を討つべく、部下として預かった者のうち戦に出ることができる者は皆一様に厳しい訓練を受けて武術を叩き込まれ、年老いた者や怪我疾病等で戦場に立てない者は軍の規律を遵守させるよう目を光らせながら、知恵を絞るべく尽力させられた。
そういったことを指示するのは恐らく当主となった俺の仕事だが、まだまだ坊ちゃん扱いの俺にさせてもらえることは殆どなく、ただ武術だけは秀でていると認められたため、鍛錬にますます籠ることとなった。
俺も打倒黄祖には当然燃えていたため、体がずたずたになろうと疲労を感じなかったことを覚えている。
この頃の孫権様は父や兄を失い当主となったという事実だけ見れば同じ立場の方で、気丈に振る舞い様々な判断を下している姿を心から尊敬した。幼少の頃ほど親密な関係ではなくなっていたが、俺と孫権様の間には確かな信頼関係があって、孫権様が父の仇と注力する対黄祖戦は俺の中でも生きがいとなっていた。
凌家としては、まさかその前に実際の親仇である甘寧が孫呉に降ってくるとは、想像もしていなかった。まさに大事件で、その事実を知った時は自分の反応より家人の反応を伺ってしまい、その絶望的な表情には内心笑ったもんだ。
孫権様(実際は軍師である周瑜殿や呂蒙さんだろう)の判断に、家人は非難轟々だった。勿論直接盾突くことはなかったが、あのような野蛮な水賊を孫呉軍に入れるとは、孫権様もやはり幼いなどと揶揄する声が耳についた。
孫権様の腹心である周泰さんだって、元は水賊ではなかったか。出自はどうあれ、孫呉に尽くすかどうかが重要なのではないのか。甘寧を庇うわけではないが、家人の言い草には反抗心がもたげる。
そして、先代の仇が目の前にいるのだから討たない理由はないと言われ始めた。仇討ちはいつなのか、その首を凌家に飾るまでは家人一同当主として認められないなどと家に帰る度に言われては吐き気もする。その他の罵詈雑言は幼少の頃から言われすぎて、空で言えるほどだ。
周囲にあまりに言われるので、俺自身は甘寧にどの感情を持てばよいか分からなかった。自分の意見や感情を押し殺して生きてきたので、私意私見とは何たるかが未だに理解できない。戦において一般的にどう動くかの知恵をつけたので軍議でそういった発言はできるが、自分の感情を基にして考えるのは苦手だった。
俺は孫権様を心より慕っている。その彼が判断したことを、いち部下である俺が勝手に覆すわけにはいかない。よほどの考えがあって、彼は甘寧を孫呉に迎え入れたのだろう。凛として判断する孫権様の蒼い目が脳裏に浮かぶ。
俺も、自分で決めてみたい。そのためにも父を討った将がいかほどの者か、知りたいと思った。孫呉の将に値する存在ではないと思ったら、孫権様を裏切ってでも斬ってやる。そのように決意して甘寧との対峙を楽しみに待っていた。
が、軍師様連中は俺がそのように考えていることなどつゆ知らず、それどころか勝手に家人により甘寧への仇討ちを狙っていると吹き込まれていたようだった。全体の前で随分遠くから姿を認めたものの、それ以降は殆ど姿を見ることがなく、内心落胆する日々が続いた。父の仇討ちを達成するか自身が認めた孫呉の将となるのか、一人の生殺与奪の権を勝手に握るという落ち着かない気持ちを抱えながら時だけが経つ。
その内、自分の耳にも甘寧の評価が入るようになった。豪放磊落、竹を割ったような性格で粗暴ではあるが人懐っこく、圧倒的に武術に長け、人を動かす力がある。
――へぇ、そりゃまた、羨ましいお人柄で。
まるで俺とは真逆な評価を聞いただけで嫉妬のような気持ちを抱く自分は、本当に情けないったらありゃしない。
念願叶って甘寧と対峙したのは、運が悪いことに家人を連れている時だった。初老の家人は父凌操の腹心で孫権殿や軍師連中にも顔が知れたいわば重鎮だ。そして、凌家の中でも最も甘寧を恨んでいる。俺のことを厳しく折檻した一人でもあり、その視線が甘寧を捉えるなり俺は自分の思いだとか楽しみだとかを全て放り投げて、甘寧に殴りかかるはめとなった。幼少から刷り込まれた支配感はそう簡単に抜けないものなのかと絶望する。
「おっ……と。んだ、てめぇ?」
「簡単にかわしてんじゃねぇっつーの!」
更に殴りかかるも今度はその拳を捕られ、力が込められる。俺の手を握り潰さんとばかりのその力に、全てを悟った。こいつは強い。
脚を振り回しその手を放させて距離を取る。睨み合うと、甘寧が面白そうに笑った。なる程、粗暴で戦いを好みそうな男だ。水賊の頃から相当暴れていたそうなので、ここ孫呉での陽気な空気には飽きているのだろうか。
「へっ……お前が凌統か?」
「どこで聞き及んだか知らないが、易々と呼んでほしくないね」
「俺ぁてめぇの父親のこと、謝ったりしねぇぜ」
その一言に、家人が唇を噛むのが分かった。それを見て俺はなんとも性格が悪いことに胸がすく思いだった。そうか、こいつが存在しているだけでこの家人はすこぶる不快な思いをするわけか。それはなんとも、気持ちいい。俺がこの家人から受けた仕打ちを思い出すだけで、倍返しにしてやりたい気持ちが浮かぶ。
なんだったら、しばらくはその無念を感じてもらおうじゃねぇの。鈴の甘寧さんとやらは巻き込んじまって悪いけど。
ニヤニヤと笑ってしまったような気がして、慌てて取り繕う。とりあえずは、しばらく家人の思い通りに動いてやらないと。その上で、手こずって殺せないとなると、もしかすると自分から甘寧に仇討ちを仕掛けるかもしれない。そうしてかえって殺されでもすれば、この胸糞悪い家人は消えて、ついでに甘寧も処罰されていなくなるかも。驚くほど下衆な考えが浮かぶ。
「俺は、あんたを許さない」
「……へぇ。そうかよ」
随分長く本来の自分を封じ込めているので、容易く演技ができる。甘寧はギロリとこちらを睨んだが、さっさと踵を返して目の前から消えた。
あとは、家人より悔しがる演技を続ければ完璧だった。
それからの俺は忙しかった。城には武官も文官も女官も多くおり、どこから俺の演技が漏れるか分からないので、甘寧に出会う度仇討ちを仕掛けるはめとなったからだ。家人がいてもいなくても気が抜けない日々は想像していた以上に精神をすり減らされた。家人の苛立ちも相当鬱陶しいが、それだけ悔しがっているのかと思うと何とか耐えられた。自分もつくづく面倒な性格になっている。
甘寧はというと、俺が殴りかかる度にそれなりに面倒くさそうにはするものの、かと言って本気で斬りかかってくるようなこともなく、それは少し意外だった。もっと野蛮な奴だと聞いていたので、下手をすると本気で自分が殺されかねないとは思っていたからだ。真意はよく分からないが俺のことを無下にする様子もなく、ただ斬りかかれば真剣に返すし暴言を吐けば倍で返ってくるような向き合い方をしてくれていた。
そうして過ごす内に甘寧自身のことも、自分の目で見えるようになってきた。赤壁の戦いでの勇姿は黄蓋殿の活躍の裏で兵たちが賑やかに噂していて知り、案外知略もこなせるのかと思うと悔しいが孫呉の将として考えれば十分な功績だった。
そして、濡須口。俺は奴に命を救われた。そのことは俺の甘寧の見方を明らかに変えた。こいつは孫呉にとって必要な将だと確信したのだ。こいつの中では俺はとっくに味方であったということは驚きすぎて逆に呆れた。あれだけ命を狙われておきながら、その心の広さには感服するってもんだ。多分、馬鹿なのかもしれない。俺ももう少し、馬鹿になってこいつのように楽に考えたらいいのだろうか。
そして一緒に戦場に立たされて、改めてその強さを知った。俺は自分の身のこなしには自信があったが、甘寧の動きは俺のものとは違う強さだ。一薙ぎすれば敵兵が飛んで行く。戦場ならではの高揚感でいつも通り口論はしながらも、預けた背中と預けられた背中がとても誇らしく感じた。
俺の中で甘寧の見方が変わった頃、家人のことも分かってきた。甘寧の実力を知ったこともあってか家人は焦ったように一層苛立ち、殺すよう勧めてきたが、自分では殺しに行かないようだった。行けない、と言った方がいいか。家人は俺が奴と背中合わせで戦ったことが大層面白くないようで、殿や軍師殿が盛んに褒めてくれた裏で同じだけ罵倒された。
俺の中の甘寧像は変わりすっかり憎くもなんともなくなったが、俺から甘寧への攻撃を止められるかというとそうではなかった。数年にわたり演技とは言え姿を見ると殴りかかっていたもんだから、癖になってしまったのもある。家人は引き続き俺に対して腰抜けだの親不孝ものだの言い続けており、そのような者には部下など着いて行かぬと怒鳴られればエセ仇討ちが染み付いてしまうのも仕方がない。
合肥で多くの配下を失い、孫権様の好意で新たに授かった部下たちを修練の度に眺める。俺はこいつらを大事にしたい。そう言えば、甘寧はあれでいて部下を大切にしているらしい。兄貴と慕われる姿を見れば一目瞭然ではあったが、あまりに羨ましくて直視できなかった。俺の部下は新しいということを差し置いても、心の距離を感じる。家人に吹聴されていることもあると思うが、やはり皆心の中では親仇を討つことも出来ずのうのうと過ごし日々しつこい取っ組み合いをしているに収まる俺のことを疎ましく思っているのだろうか。
***
そんなある日、俺はいつものように甘寧を見つけたのでとりあえず殴りかかる。簡単にかわされて掴み合いになり、ここ最近の流れ通り呂蒙さんに叱られた。この人の叱り方はなんと優しいのだろうと初めは驚いたものだ。大きな声も拳骨も、家人のものとは比べ物にならない。だがとりあえず、痛がっておこうか。
「呂蒙さん、容赦なさすぎませんか……痛ってぇ」
「凌統。大方お前が仕掛けたのだろう。全く、甘寧が嫌なら放っておけばよいのに、何故わざわざ絡むんだ?お前はもう少し冷静な奴だと思っていたが」
「こいつの極悪顔見ると体が勝手に動いちまうんですよ。俺は悪くありません」
とりあえずそういうことにしている。甘寧を見ると呆れた顔で見てきた。本当に意外なことに、しつこく殴りかかるのを止めない俺に甘寧はしぶとく付き合ってくれた。
「俺は別に構わねぇぜ。どうせ本気で殺す気があるわけじゃねぇし、分かってっから放置してんだろ?」
やはり殺す気がないのは皆に伝わっているらしい。家人にも気付かれているのではとヒヤヒヤする。にしても一体何を考えていたらこのような鬱陶しい存在を受け入れられるのだろうか。懐の深さに、自分の浅さを思い知らされる。
「そうは言うがな甘寧。毎日毎日騒がれてみろ、煩いことこの上ないぞ。周瑜殿がますますやつれておる」
「そんなに言うなら領地を放してくれって俺は言ってるんですけどね」
それを孫権殿に申し出たのは事実だった。これ以上反射的に殴りかかるのも悪いような気がしたし、近くにいるだけで家人がやかましいのもある。凌家と言っても随分縮小化されて来ており偉そうにしているのはあの重鎮ぶったじじいとその側近だけなので、あんな奴らを置いて出られるならばこれ以上いいことはない。こいつと、甘寧とやり合うことが出来なくなるのはつまらないような気持ちはあるが。
そのようなことを考えていると呂蒙さんがじっと見てきた。考えていることを見透かされそうな瞳で、思わずたじろぐ。
「……それがお前の本心だというなら、俺も尽力するんだがな」
勘弁してくれ。まるで俺が甘寧と一緒にいるのを望んでるみたいに。その思いはそのまま口に出ていたのか、呂蒙さんが呆れた顔で続けた。戦では俺と甘寧の相性がいいだなんて言われ、甘寧も同意するように話を振るので思わず両断する。どことなく恥ずかしい。
お忙しい呂蒙さんはさっさと消えていなくなった。こいつと取り残されたところで、俺は惨めな気持ちであったり申し訳ない気持ちであったりと複雑なので、どうしていいか分からない。俺も立ち去ろうとすると、甘寧が話しかけてきた。
「じゃ、喧嘩じゃなくてイイコトすっか」
はぁ?何それ。これはまた言葉に出ていたようだ。甘寧は鼻をこすりながら、釣りやら酒やらを提案してくる。本当にこいつ懲りないというか、よくもまぁうるさく殴りかかってくる男と親交を深めようなんて思うよな。
「なんであんたと?」
「健全な憂さ晴らしだろ。それとも妓楼でも行くか?」
「それこそあんたとは行きたくないっつの」
どういう趣味があったら親仇が女を抱く姿なんか見たいんだ。本気で殺そうとしているなら、行為に耽っている内に討たれるぜ。
甘寧とわざわざ仲良くするというのはこれまで思い付かなかった。いい加減殴りかかる演技も疲れるし、俺自身こいつが悪い奴ではないことは重々承知している。家人が自ら殺せないとなると、いっそ仲良くしちまえばそれはそれであのじじいは腹が立つのだろうか。俺の行動があいつらを不快にさせることができるだなんて、それはちょっと、悪くないかもしれない。身体的には既に俺の方が上回っているし言葉の暴力は今更慣れている。やってみる価値はあるかもしれない。
首をかきながらそんなことを考え、そう言えば部下に贈る剣を選びに行きたかったことを思い出した。物で釣るような安易な考えで本当に恥ずかしいが、戦場でも使えるものを渡したいという気持ちは本当だ。
「あのさ、あんた剣詳しいか?」
「刀程じゃねえけど」
「俺の部下二人、昇進させようと思ってて。剣一本ずつ作らせたいんだけど」
「へぇ、いいじゃねえか。あんだけいて大事にしてんだな」
甘寧がすぐ俺の考えを肯定したので、内心驚く。馬鹿にするとかそれこそ物で部下の忠心を買うのかと蔑まされるとか、その辺りを勝手に想像していたので何の支障もなく受け入れられることに少し感動した。部下思いなのは、こいつもだろうに。それこそ物なんか贈らなくても従われるくらい、甘寧の求心力と統率力が優れていると今なら分かる。そう思っていたらつい「そりゃあんたもだろ」と口に出していた。甘寧を前にすると時々心の声が勝手に出ていく。
「へへ、まぁな。よし、行こうぜ。馴染みの店案内してやる」
簡単にそう言ってのけて俺の腕を掴む。おいおい。俺は子どもじゃねぇっつの。それもどうやら声に出ていたようだが、おうと一言適当な返事があっただけで甘寧は引き続き楽しそうに笑って歩を進めた。
刀剣を扱う店なんてほとんど入った記憶がなかったので面白かった。色々見たり触ったりし、時には振り回していると甘寧がジロジロと見てくる。俺がこの手の武器を持つのはそんなに面白いかね。剣を持って挑発すると、甘寧が呆れたように返事をする。戦を除きこんな風に近い距離で話したことなんて掴み合い以外でなかったので常に新鮮な空気がまとう。妙にくすぐったいが、悪い気はしなかった。俺の話を冗談と捉えつつも甘寧は剣の助言をしてくれた。気のいい奴だと思う。まぁ俺の家人は冗談なんかじゃなく、未だに本気でこいつの首を飾りたがってんだけど。
「これはどうだ?重さは普通だと思うぜ。柄が寂しい気すっけど」
「あんたのが派手すぎるんだよ。これくらいが丁度いい」
甘寧が選んだ剣は一般的なものに近いが少し刃が波打つ物で重さも長さも想像していたものと合致した。そのまま採用することにし店主に声をかける。鋳造工程でそれぞれ本人のものだと分かるように印を入れてもらうことにした。良いものが見つかったことで、いつもより格段素直に感謝の言葉が出る。
「助かったよ。二人ともよくやってくれてるからさ」
「お前から褒め言葉の一つでもやりゃ十分喜ぶだろ」
「形に残るものをあげたかったんだ、万が一の時に家族にも遺せるかもしれないし」
父上の物は結局何一つ遺らなかったし。思わずそう言外に含むとどうやら気付いたのか少し苦い顔をしていた。一瞬前まで素直に感謝できたというのに、染み付いた嫌味はなかなか抜けないようだ。
甘寧より先に店を出てふと気付く。こいつが気のいい奴なのは分かるが、また借りを作ってしまった。命を救われるだのなんだのと一緒にしていい話ではないが、こいつには色々返さなきゃならないかもしれない。甘寧が出てきたところで思わずそれを口にしていた。本当にスルスルと考えなしに心の声が漏れて、少し困る。
「お前から誘っといてか?別にこの程度貸しとも思ってねぇし」
甘寧はまた呆れながらそう返した。特に考えて言った様子もないので本心なのだろうがやはり理由が分からない。単なる同僚よりは随分嫌な思いをさせられたと思うが。
「……それ。あんたさ、変だよな。俺が仇討ちしようが頼み事しようが、嫌な顔一つしないで受けやがる。何考えてんだっつの」
「……懐深い俺様に感謝しろよ」
珍しく溜めたその返事にごまかしたな、と気がつき反射的に睨む。適当にかわすその意味はなんなんだか。こいつも何か企んでいるのだろうか。真っ直ぐな奴なのでその裏が俺のようにひん曲がって捩れているとしたら、結構衝撃だ。何となく嫌だなと思うが理想の押し付けが苦しくなることを知っているのでなかなか深掘りできない。そうこうしている内に甘寧が少し早口で訊いてきた。
「それを言うならお前も変だろ。おっさんの言うとおり、俺が気に食わねえなら放っときゃいいだろうが」
「あんたの顔がムカつくっつってんだろ」
「それなら、こうやって出掛けるなんてあり得ねぇしよ。何考えてやがる?」
「それは……」
まさか全て家人の影響があるとは余りに格好悪くて言えない。幼少からの支配力で食ってかかるのを止められず、今日はそれを裏切ってみようと思って来ましたなんて、誰が信じるのだろう。
暗い顔でもしてしまったのか、甘寧がどうでもいいかとあっけらかんと言い放った。この切り替えを俺も覚えたいもんだ。
「おい凌統、腹減った。借りがあると思ってんなら、飯奢れや」
「言い方に可愛げがないね」
「ご馳走してくれ」
「……ははっ、それがあんたの可愛げなのか?」
やっぱりこいつ、変だな。そしてちょっと面白い。誰かと話をしていて楽しいと感じるだなんて、あの日の孫権様以来かもしれない。朱色に輝く懐かしい記憶に気分が良くなった。人の前でこんな風に笑える自分がまだいたことにほっとする。
「馴染みの店を紹介してくれた礼だ。俺も馴染みの店のところへ行きましょうかね」
甘寧の影響で殻に籠っていた自分が出てこようとしているのかもしれない。こんな風に前向きに考えられるなんて、初めてのことかもしれなかった。足早に馴染みの飯屋に向かいながら、俺は清々しい気持ちになっていた。
その飯屋は凌家が嫌いそうな粗暴で不潔な店で、俺はそれがいたく気に入っていた。こんなことでしか反抗できない自分の矮小さには泣けてくるが、この店を見つけた時の気持ちはそれだったし、その上で味が絶品だったので密かに行きつけにしている。ここで丁寧な言葉を使うと舐められることは過去の経験で分かっていたから投げやりな注文でいい。清く正しく礼儀よくと躾られてきた俺からすれば真新しい経験で初めは緊張した程だ。今では馴染みだし特に訊いたこともないが店主も俺のことを認識していると思うので、自然と互いに適当になっている節はある。
甘寧が俺のそんな様子を見て物珍しそうにしていたので、つい睨む。あんたの言いたいことは何となく分かるけど。
「……なんだっつの」
「知らない面も、色々あるもんだな」
「あんたの知ってる面の方が少ないだろ」
「面白ぇな。お前のこともっと教えてくれよ」
俺のこと?訊かれて率直に驚き何度も瞬く。まさか武将でも何でもない俺のことを知りたいと思う奴がいるとは思わなかった。それも、甘寧がそういう風に思っていることにも二度驚いた。
本当に変な奴。そう思ったらまた笑いがこぼれた。自分に素直になるって、こんなにくすぐったいもんなのかね。自分の好きなことをゆっくり思い出しながら列挙する。茶々も入れずに黙って聞いているので少し意地悪をしたくなった。
「孫呉の人間。あ、仇以外」
「なんだそりゃ。俺も入れてくれ」
間髪入れずにそう返してきたのがあんまり面白くて、つい天地が返ったらとかいう訳の分からないことを言ってしまった。甘寧は大したことのないはずの俺の言葉にやけに喜んでいて、その様子がまたくすぐったい。その次に俺も将軍としてではない甘寧のことが知りたくなった。
「さ、次はあんたの番だぜ。俺だけ発表するなんて不平等だろ」
そう聞くと何故か甘寧は顔を赤くしながら返しに詰まる。こいつでもそういうことがあるのか。好きなものなら沢山ありそうなもんだが…ありすぎて答えに窮しているのだとしたら、それはまた羨ましい話だ。
「俺は、」
甘寧が何か言いかけたところで飯が来た。こいつのことを知ってみたいとは思ったが多くの好きなものを列挙されても嫉妬してしまいそうで、それ以上追及するのを止めた。俺も腹が減っていたし言ったとおり食うことが好きなので目の前にあっては抑えきれない。
「……お前、食うことばっか好きって言ってなかったか?」
「嘘つくことでもないでしょ」
「まぁそうか…お、美味ぇなこりゃ」
甘寧のお墨付きをもらって内心気分が良くなる。
「言ったろ?まだ何品か来るぜ」
「太っ腹だな凌将軍」
「ケチケチしてたら甘将軍にどんな噂流されるか分かんないからね」
これが楽しいってことかね。素直にそう思ったが、その言葉はなんとか口を衝くことを避けたようだった。
***
店を出て伸びを一つ。こんなに気分よく食事を終えたのはいつぶりだろうか。幸せな満腹感が心地いい。それが親仇である甘寧との会合だなんて、皮肉な話だ。俺の中の恨みなど、当初からあったかも分からないけれど。
「あー、食った。帰ろうか」
「お前、その体のどこに入ってんだ?量食うなぁ」
「俺、小さい頃からそれ言われるの気持ち良かったんだ」
優しい瞬間の父上が浮かぶ。あの温かい手がもうこの世にないことは悲しいが、乱世の将軍である以上誰もが覚悟すべきことだろう。いつまでもウジウジしている家人も、それを強い姿勢ではね除けられない俺も、覚悟が足りない。それにしても楽しい時間だったし、せっかくの家人の目がない中でこいつと話せるならばもう少し引っ張りたいような気もする。何かなかったかと思い巡らせていると、甘寧の方から口を開いた。
「あっちに、最近できた甘味処あるぜ。まだ食えりゃの話だが」
「そりゃ食えるさ。別腹だっつの」
「じゃあ行くか」
おお。これは、なんというか、嬉しい。こいつから、こんな風に誘ってもらえるもんなんだ。いつも人気者だと思っているので、俺なんかに時間を割かずとも楽しく過ごせそうな気がするが、貴重な時間をもらえるなら、もう少しこいつのことが知りたい。
「案内よろしく」
いつになく浮かれたような返事になってしまったかもしれない。甘寧は気にした様子もなく指差していた方向へ歩いていった。甘味、食うんだな。俺は好きだと言ったけど、こいつはどうなんだろう。わざわざ新しい店の情報を覚えているくらいだから、嫌いではなさそうだな。さっき飯屋で言いかけていたことを、みみっちい嫉妬なんてやめて後で聞いてみるのもいいかもしれない。
店に着くと甘寧がさっさと注文し、品を渡してくれた。薄桃色のそれは表面がもちもちしていて冷たく、中には桃の味がする餡が詰まっていた。こんなの食べたことがない。あと十個は食べられそうなくらい美味いし好みだ。最高の気分に浸っていると甘寧から呼ばれた。あぁ、金を払ってないな。
「ん?あ、美味かったよ。ご馳走さん。いくら?」
「お前、人前っつうか、城にいる間だけ俺に突っ掛かるよな。誰に、見せつけてんだ?」
「っ……!!」
焦って息を飲む。まさか、殺気がないのはバレバレだったにしても、そんなところまで気付いていたのか?あんた、本当に俺のこと見てんだな。それは、悔しいような嬉しいような複雑な気持ちだった。甘寧は真剣な顔で俺のことを見ている。それを見ていたら、俺が格好悪いこととか家人に支配されていることとかそういう事実と負の感情ごと、こいつに知られてもいいような気になった。
「……言われるんだ。俺のとこの、お偉方にさ。仇を前にして情けないとか腰抜けとか。極悪非道の鈴野郎に皆騙されてるとか。親孝行も出来ない若造には、誰も着いて行かないとか、さ」
「で、中途半端に従ってるってか?」
「あんたに何が分かる!?家のしがらみってのは、想像してるより重いんだぜ。二世だなんだと言われ、大役預かるには早いって自覚もあるのに、誰も着いて来ないなんて言われてみろっつの…怖くて、震えちまう」
甘寧の一言は完全なる図星で言い訳すればするほど格好悪いが、つい声が大きくなる。本音をさらけ出すことも部下にこれ以上疎ましく思われることも余りに怖い。手を開くと震えていた。家人の呪いが情けないほど強くかかっている。甘寧は俺の掌にあった菓子のごみを取るとくしゃっと潰した。
「おい、ごみ棄て場何処だ?」
甘寧が唐突に店主に声を張る。あっちでやす、と返事が来て甘寧が棄てると言うので案外ちゃんとしてんだなと思っていたら、体が浮いた。急なことで理解が追い付かない。
「うわっ、おいっ!甘寧、何しやがる!」
「ごちゃごちゃ面倒くせぇこと考えるやつは、一回棄ててやる」
どうやら甘寧の肩に担がれたようで、慌てて首を捻ると教えられた街の棄て場に向かっているようだった。棄てるってなんだ、まさか俺のことか、どういう意味なんだと混乱と怒りが湧く。近づく棄て場は様々なごみが重なり強烈な臭いを発していた。生来仕込まれた潔癖が危険だと告げている。
「ふ、ふざけんなっ、うわっ、汚ぇ、まさか本気でぶちこまないよな!?」
「おらよっ」
甘寧が掛け声と同時に俺を放り投げた。棄て場のあまりの汚さに直視できず目を閉じる。
パキッ
何かが割れる音を聞きながら背中から着地する。反射的に受け身は取ったが唐突な痛みに声が出て、そっと目を開けると棄て場は避けその奥の草むらに放られていた。安堵と共にまた怒りを覚える。何考えてたら人を急に放り投げるようなことができるんだか。
「い、ってぇっつの!急に何なんだ!?」
「おし。これで、これまでのお前はごみ箱行きだ。新しくやり直せるぜ」
「……はぁ?無茶苦茶すぎ」
まだまだ理解が追い付かず睨むと甘寧は俺から少し視線を外して口を開く。その口から出てきたのは、大量の褒め言葉だった。それもすごく、早口だ。俺の怒りはそのまま行き場をなくす。だって、甘寧が、俺を褒めてるんだぜ?考えられるかい?
すげぇ将軍だとか強いとか意見が的確だとか。俺に着いていきたい奴はごまんといるだとか羨ましいだとか。俺の家人がろくに俺の実力も知らないでごちゃごちゃ言ってるだとか。
俺が口を挟もうとしても止まる様子がないくらい立て続けに言葉が出てくる。うわ、なんだこれ、これが褒め殺しってやつか。
「凌統の気を煩わせてるってだけで、無性にイライラしてくるぜ。おい、お前がよければ俺が殺していいか?」
「落ち着けっての!駄目に決まってんだろうが」
「そうか?お前が止めるなら、しねぇけどよ」
内容がぶっ飛んでいたので慌てて諌める。ようやく甘寧も聞く気になってくれたようだが、俺はもう赤面するのを止められない。恥ずかしい。
「……随分、俺のこと、買ってくれますね甘将軍」
「嘘つくことでもねぇだろ」
相変わらずひねくれたようにしか確認ができないような器の小さい俺とは違い、甘寧はさらっと先程の俺の言葉をそのまま使って事実であることを伝えてきた。
人から褒められたことはこれまでに何度かあるものの、こんなにも直球で褒めてもらったことはなかった。しかも、親仇だとか顔がムカつくだとかでしつこく狙ってきた相手のことをここまで手放しで評価できるものなんだろうか。心が広いとかそういう次元ではない気がする。一体どんな育ち方をしたらこんな風になれるんだか。
一部は言葉に出ていたかもしれない。俺は小さく漏れでる声を止めて、ふうと一呼吸した。こんなにも言ってもらったんだから、その言葉が自分にとって良いものだったことは伝えないとね。
「だからって急にぶん投げやがったのはムカつくけど……まぁ、嬉しいよ。自信つくっつうか」
「おう。お前はもう少し自惚れろ。鈴の甘寧が認めた男だ。シャキッとしろや」
「言ってくれるね」
本当にすごいやつだな。そして、そんなやつが認めてくれているらしいことは、なんて幸福なんだろう。そうか。俺は、もう俺のままでいていいのか。甘寧を仇として狙うふりをしなくても、親不孝のままでいても、家人の言うことなんか聞かなくても、いいのか。俺は、ちゃんとやれているのか。それを甘寧が、見ていてくれるのか。
甘寧の言葉をゆっくり思い出しながら浸透させていく。
小さい頃に作り出した自分の本音を閉じ込めた殻が、割れて行くのが分かった。さっき、ぶん投げられた時に聞こえた高い音はこれが割れる音だったのだろうか。実際は枝か何かだと思うが、今は少しくらい自分に都合が良くても許されるだろう。
「これでお前がむやみやたらと俺のとこ来なくなるのか。寂しくなるぜ」
甘寧を見ると心底残念そうだった。ふりで殺気がないとは言え、あんなに殴りかかられて取っ組み合いになってと大分鬱陶しかったと思うがよくもまぁそんな風に思えるもんだ。寂しいと思ってくれるのか。ふぅん。内心で意地悪な自分が出現する。
「ぶん殴りに行くのは、やめるけど。あんたのとこ行ったら嫌かよ」
「嫌なわけねぇだろ、俺の毎日の楽しみが……あ?来てくれんのか?」
「あんたが言ったんだろ。イイコト、色々あるって」
甘寧の言葉を借りてわざと声を落としてそう返事をすると甘寧が見たことないくらい赤面した。これは爽快だ。なんて楽しいんだろう。ニヤニヤ笑っていると、甘寧がますます悔しそうにする。
「おい、凌統。俺は本気でやるぜ。いいか?」
突然そんなことを言い出すので強がりかと思い甘寧を見やると、赤い顔のまま真剣に言ってきた。
「天地ひっくり返すんだよ」
それはつまり、俺の好きなものの中に入りたいということか。またそんな恥ずかしいことを言われて赤面しそうになる。ぐっとこらえて返事した。
「……へぇ。そりゃ、大仕事で。ま、いいんじゃないの」
「よっしゃ、滾るぜ!」
あんまり嬉しそうにしてくれるもんだから気分がいい。甘寧が天地を返してくれるのなら、それを楽しみにしていよう。そんなことをしなくてももう俺の中の特別なところに居る気がするのだけど。それはあえて言わないでおこうか。
【孵化】
壊して生まれる本当の気持ち
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