人格メンテナンス
ここは温泉郷。掘り当てた温泉が心身を癒すと評判になり、辺境の村だというのにお客さんはひっきりなしに来てくれる。とは言っても、恐らく城下の人混みに比べれば大したことはない。都はきっと華やかで愉しく、素敵な所なんだと思う。
そんな風に思いを馳せながら、私は今日も働いている。父が開業した温泉宿は決して華やかではないけれど湯の効能が抜群で、建物内の掃除が行き届き、食事が美味しいと評判になっている。この宿で生まれ育った私は自然と宿を手伝うようになり、20歳を迎えた今では立派に若女将として勤め上げている。
って自分では思ってもいいよね。父がどう思ってるか知らないけど、亡くなった母の代わりに一生懸命勤めてる娘のことくらい、認めているはず。
畑で育てた野菜の収穫を終え、厨房にそれらを引き渡してからふと、要りものを思い出した。台帳を書くための墨が無くなりそうだったんだ。
土を払うのもそこそこに買い出しへ向かう。こんな土地で文字を勉強する機会はほとんどない。書ける人は少数で、その人に教わりなんとか事業に活かす程度だ。文具を取り扱う店は一つしかなく村の廃れた場所にあるので、走ってそこへ向かう途中だった。
「よぉ嬢ちゃん。そのお腰の巾着袋は金かい?」
「へへへ。大人しくしてりゃあ痛い目は見ねぇよ」
「そうそう。気持ち良くはしてやれるけどなぁ!」
すごい。下衆な台詞集とかあるのかな。そう思うくらい在り来たりな言葉を吐きながらニヤニヤする男共に、ため息をつくのをぐっと堪えた。
もちろん私は武術なんてからきしのただの若女将だ。絡まれる機会が職業柄多くあるせいでやけに口は達者になってしまったけど、今日は場所が場所なだけに焦る。村民も客も誰一人いない。
「私帰るので」
とりあえずこういう時は引き返そう。そう思って振り向き走るが、すぐに腕を掴まれた。どうしよう。怖い。誰か、助けて。上手く声も出せない。震える体に合わせて涙がぽろっと落ちた時、突風が吹いた。次の瞬間には掴まれた腕が放されて。気付くと三人いたはずの男の一人が遠くに吹き飛んでいた。
「そろそろ喧嘩に飢えてたんだよなぁ!」
「慰安旅行だっつってなかったっけ。ま、あんたは暴れてた方が元気になんのかね」
「おう!嬢ちゃん、巻き込まれねぇよう気をつけな!」
「すまないね。ちょっと気付くの遅れちまったかな。怪我ないかい?」
恐る恐る見上げると、男性が二人私を囲っていた。体躯のいい男が好戦的に笑いながら両手を叩くのを、背の高い長髪の男が呆れたように見ている。
ポンポン飛び交う会話に呆けつつ、助けてくれたのだとようやく気が付いて頷いた。こんなに格好いい人たちに話し掛けられるどころか、救っていただくなんて夢みたいだ。
「さ、行ってみようか、興覇」
「へへ。公績、お前こそ遅れんなよ!」
三人の下衆達が泣きながら走って逃げるのは、その直後のことだった。
「本当にありがとうございました!どうお礼したらよろしいか……」
「気にすんなっての。こいつ、誰かをぶちのめしたかっただけなんだ」
「あ?お前だって溜まってやがったくせによ。最後の踵落としは余計だろ」
「久々に容赦なくやっていいとなると、ついね」
男性たちが喋る様子から、とても仲が良いのだなと窺えた。思わずくすっと笑う。さっきまで怖い目に遭って泣いていたとは思えない。笑顔になった私を見て、お二人も言葉を止めて安心したように笑ってくれた。
「慰安旅行とおっしゃっていましたか?」
「おう。有名な温泉郷なんだろ、ここ」
「はい。お礼になるか分かりませんが、私の父の宿にお越しになりませんか?」
「お父上が宿やってんだ。そりゃ渡りに船ってもんだろ。いいよな、興覇」
「お前が良けりゃ俺はどこでもいいぜ」
どうやら来てくれることになりそうだ。再度礼をしてから、向かおうとして思い出す。墨を買いに来たのだった。
「ほんの少し、遠回りしてもいいですか?調達したいものがあるんです」
「構わないよ。人里離れると物騒みたいだしね」
「あんなこと、この場所では初めてです。宿ではよくお客さまがお暴れになるんですけど」
「お前、だから慣れてんのか。俺らみてぇなの見てビビらねぇのも珍しいぜ」
好戦的な方――こうはさん、がぴらりと襟を崩して刺青を見せてきた。わざわざ見せるのもどうかと思うけど、早めに晒して嫌なら離れろということなんだろうか。
「はい。母が亡くなっているので、若女将として働かせてもらってます。刺青、素敵ですね」
なるべく背筋を伸ばして挨拶すると、お二人が面食らったような表情になるのが可笑しくて、また笑えた。
「へえ。やるねあんた」
「公績、嫉妬は見苦しいぜぇ」
「してねぇっつの」
お二人の会話はとても面白い。まるで兄弟のようだ。わざわざ一緒に温泉に浸かりに来るくらいなんだから、相当気が合う間柄なんだろう。
「申し遅れちまったけど、俺は公績。こっちの厳つくて目付きの悪いのが興覇だ」
「性格の悪いタレ目が公績な」
「……さっきの雑魚じゃ運動の足しにもなんないと思ってたんだよね」
ボキボキと拳を鳴らし近付く公績さん。それを怖がることもせず慣れたように笑う興覇さん。これは賑やかなお客さまね。
「公績様に興覇様、改めてこの度は本当にありがとうございました」
「おい、様はやめてくれや。しがない商人だぜ」
「呼び捨てしづらいなら、せめてさん付けで頼むよ」
「ふふ。では、公績さん、興覇さん。よろしくお願いいたしますね」
そうこうしている内に目当ての店に着いたので、さっさと求めの品を買って宿へと向かうことにした。
お二人は相変わらず楽しそうに喋ったり笑ったり叩き合ったりしている。もしかすると、男性の声があれば悪党も寄ってこないという考えなんだろうか。
「賑やかなお声が熊避けみたいで、頼もしいですね」
「……なんか、トゲがない?それ」
「嫌味っぽいとこ陸……あいつなんだっけ?あいつそっくり」
「可愛い顔も伯言みたいだ」
誰のことか分からないが、二人がハクゲン二号って呼ぼうと盛り上がっているのを全力で阻止した。
***
宿に着くと、二人はその構えを見て仕切りに立派だと褒めてくれた。想像していたよりは良い印象を与えられて安堵する。中へ通して台帳を確認し、一番良いお部屋が空いていたのでそこを取ることにした。
「念のためのご確認なんですが」
「なんだい?」
「お一部屋でいいんですよね?」
「あぁ、いいよ。部屋二つも取っちまうなんて悪いしね」
「素直に俺と一緒じゃなきゃ寂しくて眠れないって言えよ」
「頭から温泉に突っ込んでやろうか?」
すぐ口論になるのが可笑しくて、墨を摺る手が震えた。笑いを堪えるなんてこと、ここ最近なかったから新鮮で楽しい。素敵なお客様と出会えて幸せだ。
「はぁっ……はぁっ、女将、助けてくれっ」
そんな時に、息を荒げた男が急に入ってきた。
物騒な雰囲気にすぐお二人が戦闘態勢に入ったのを、腕を伸ばして制止する。
「この方は悪党ではありませんので大丈夫です。……さぁ、奥のお部屋に行きましょう」
肩を貸して男を歩かせ、進んでいく。お二人は目を見合わせてから手伝いを申し出てくれた。ありがたくその身を預け、医室へ案内する。男を横たわらせてくれたのを確認してから棚を漁って、目当てを取る。
「ここには医者がいないんです。隣町にはやぶ医者がいますけど。なので出来る限り、ここで診ることにしているんです……とはいえ、私に深い知識はありませんし、煎じ薬を飲ませることしか出来ません」
私の話を二人はそれぞれらしく聞いてくれた。公績さんは大変だね、と共感を交えて、興覇さんはふぅんと興味がなさそうに。男が薬を飲んで落ち着いたので、一旦そのまま休んでもらうことにして、改めて二人を部屋に案内した。反応は上々だったので、あまりこういった良い部屋に慣れていない立場なのかもしれない。商人と言っていたけど、お金持ちとは限らない。格好はみすぼらしいとも裕福とも取れぬ、平凡なものだった。
職業柄お客様を勝手に観察してしまい慌てて首を振って中断する。とにかく、大事なお客様だ。居心地のよい空間と満足いく時間を過ごしていただくことに集中しよう。改めて衣紋掛けを引き締めて、厨房へ入った。料理人により一層腕を振るうよう伝えるために。
***
夜。それぞれのお部屋へとお食事を運び、お酒を提供する。もちろん恩人である二人には上等なものをお出しした。大変喜んでくださり、こちらとしても嬉しくなる。温泉に入る前に、私のいる番台に寄って下さったのでまた改めて話せることになった。
「にしてもあんた、働き詰めだね。お父上は?ご挨拶も出来てないよ俺たち」
「申し訳ありません。本来ならば、助けていただいたお礼を真っ先にすべきですのに」
「いや、そういうんじゃねぇって。むしろすげぇ良くしてもらってっからよ」
両者が真剣にそう言うので、本当に良い方々に出会えたのだな、と幸福を噛み締める。この人の良さで商人が勤まるのかなとは思うものの、それぞれ口と腕が達者そうなので恐らく上手くやってきているんだろう。お二人に椅子を差し出して座っていただき、ほんの少しお酒も飲んでもらうことにした。
「実は、父が先月から臥せっておりまして……。隣町のやぶ医者は、父の状態を知っていながら、何もしてくれないのです」
涙が滲む。父が元気でいた頃はその厳しさにうんざりしていたはずなのに、その口が開かれないとなると途端に叱られたくなった。拳骨も怒鳴り声も全部受け止めるから、どうか良くなってほしい。
「なので今は、私一人でも切り盛りして、お金を作って、都に行きたいんです。都には腕のいいお医者様がいるはずですから」
「そうだったんだ。悪いね、込み入ったこと聞いちまってさ」
公績さんが優しく頭を撫でてくれる。声色まで心に寄り添ってくれるような柔らかさで、少しドキドキしてしまった。
「そろそろ風呂行こうぜ」
「あんたなぁ。空気読めっつの」
「あぁ?今ここで慰めてどうこうなるもんじゃねぇだろ。俺は行くぜ」
「勝手にしな。俺はもう少し若女将といるよ」
興覇さんは苛々としたように一つ大きく舌を打って風呂場へと向かってしまった。いいのかなと思い公績さんを見上げるが、にこっと笑って流されたので思わず赤面する。正直に考えるととても容姿が好みの真ん中で、素敵な方と二人きりになれて嬉しいなと思った。
すぐに我に返ってその考えを打ち消す。お客様に、なんてことを。
「ゆっくり落ち着きなよ。大切なお父上を守るあんたは格好いいね。尊敬するぜ」
お酒の器を傾けながら色気たっぷりに片目を瞑られて、どうしようもなく心が揺らぐのを感じた。ご自分の魅力を分かってやっているのかな。無自覚でもそうでなくても、ずるいと思う。
「ありがとうございます。お陰で落ち着きました」
「そう?まだ震えてるみだいだけど?」
「これは、その」
「じゃあ、俺の話でも聞いてくれるかい?」
きっと私が落ち着くための時間稼ぎだろう。私なんかが相談に乗れるようなこともない程成熟されているように見える。こういう機転の利かせ方も。私は返事を声に出さず、こくりと静かに頷いた。
「……呼び名を変えたんだ」
「えっ?」
「ちょっとした因縁の相手がいてね。けど、それはもう色々あって、怨恨を流そうと決めたんだ。だが、積年の思いって奴はそう簡単に消えちゃくれない」
公績さんはひたすら手元の杯を眺めながら、ゆっくりと語りだした。この辺りで、相談事ではなくて本当にただ聞いてほしいだけだったのか、と気が付く。勝手に頼られた気になっていたのが少し恥ずかしい。私に出来ることはこの魅惑的な低音で紡がれる言葉を、きちんと耳に入れることだ。
「それで、ふとした思いつきで一時的に呼び名を変えてみることにしたんだよ。名前って結構重要だろ?雰囲気が変わって、気持ちが一新されたりしないかなってね」
「なるほど、一理あるかもしれません」
「ありがとさん。最初は良かったんだ。これで気兼ねなく接することが出来る――そういう錯覚が見れた」
公績さんが一息に杯を煽った。嚥下される瞬間に動く喉をじっと見てしまい、戻ってきた視線と絡むと慌てて目を反らした。男性の首元に色気を感じてしまうなんて、はしたない。
淡々と表情も変えずに話されていた彼は、ふうとため息を一つ吐くと眉を寄せて困ったように笑った。
「考えが甘いよな。いくら大事だなんだと言っても、名前なんかじゃ人は変わらない。そいつはそいつのままで、過去が変わるわけでもない。夢心地に浸って、逃げてるだけなんだ。だから――ちゃんと現実に向き合おうと思う」
最後に真剣な表情でそう宣言されて、私には何の関係もない話なのに、まるで愛の告白をされているように感じてしまった。勝手に胸が高鳴る。落ち着かなくちゃ。公績さんはお客様だし、それに今、彼は全く恋愛ごとに触れていない。
上手い返事が思いつかなくて、ただ黙って頷いた。公績さんは二度瞬きをしてから、また口を開く。
「なんてね。格好つけて言ったけど、まだ限定期間なんだ。遊戯感覚でいつもと違えて呼ぶのも楽しいし、新鮮で悪くないよ」
「楽しい……つまり、ええと、その因縁の方とは、今は仲良くされているんですか」
「まぁね。不本意なところもあるけど」
「……凄いことです。私には、きっとできません。一度無理だと感じた相手を、許せる気がしないんです」
なんて心が狭くて性格が悪いんだろう。それを余りに素直に露呈しすぎて、内心落ち込む。
すると、頭に温もりを感じた。顔が赤くなっていくのが分かる。ポンポンと優しく頭を撫でられて、一気に緊張が走った。
「あんたのことまだそこまで知らないけど、きっと大丈夫。人生に絶対はないってね」
微笑んだそのお顔やお声がとても優しく、私だけを映す茶の瞳に吸い込まれそうになった。全身が熱くて、こんな時間だというのに汗まで出てくる。早く、遠ざけなくちゃ。本能的にそう思った。
「なんだか私の方が励まされてしまいました。素敵なお話、ありがとうございます。あの、興覇さん、きっと待ってらっしゃいますから、もう行ってください。効能には自信があるお湯ですよ」
「長々すまなかったね。じゃ、そろそろ行こうかな」
またね、と挨拶を落としてから長い髪を揺らして歩いていく姿を、見えなくなってもずっと目で追っていた。彼らは連泊の予定だから、明日も、その次の日も会える。そう思うと、自然と力が湧くような気がした。
***
早朝。
朝食は各自のお部屋ではなく、広間で取っていただくこととしているので、朝からそこで支度に追われた。調理は雇っているが、配膳は私一人だ。お泊まりになった方の数からすれば今日は慌てる程ではないだろう。冷静に食器を整えながら室の入り口を見ると、興覇さんが立っていた。
「おはようございます。どうぞ、お入り下さい」
「悪ぃな、ちっと早かったか?」
「いいえ。大丈夫です。……お一人ですか?」
お連れであるはずの長身の方が見えないので、思わず視線で探してしまう。興覇さんは「あー」と頭をかきながら、やや面倒そうに答えた。
「あいつ朝は弱ぇんだ。で、俺はこのあと狩りに行きてぇから、食ったら出るわ」
「別行動でよろしいんですか?」
深い意味はなく、単に共に旅に来たのだから一緒に出掛けるものなのではないかと思って訊いたが、目の前のお方は存外楽しそうに笑った。やんちゃなつり目が閉じられて一層上がる。猫みたいで、少し幼く見えて可愛らしい。
「そんなんで怒るくれぇ、可愛げ持ってほしいよな。で、どこ座りゃいいんだ?」
「あ、ではこちらへ……」
今朝はご機嫌が良い方なのか、私にもにこやかに話かけてくれて嬉しくなった。お客様に素敵な時間を過ごしていただきたいという信念が叶うなら、こんなに喜ばしいことはないだろう。
興覇さんはその後、気持ちの良い食べっぷりで朝食を召し上がり、最後には美味かったぜ、とお褒めの言葉までいただいた。忙しそうに鍋を振る調理人にその旨を伝えると喜んでいたので、朝からやりがいが身に沁みた。
あらかたのお客様が朝食を取り、人足が落ち着く。皆が良かったよ、と声をかけて下さったので安心した。父が元気であれば、きっと一緒に喜んでくれたはずなのに。そう思うと少しだけ、心に影が落ちる。
「おはようさん。あれ、なんだかまだ、落ち込んでる?」
そんな時に、穏やかな声と一緒に本当の影が私に差す。見上げると、麗しい長身の方が逆光の中で輝いて見えた。眩しくて見惚れてしまう。
「……おはようございます」
「元気ないね。まぁ、出せってのも無理な話か。いい医者のところへ早く行けるといいね」
「あっ、いえ、すみません。少しぼうっとしてしまって。父のこと、お気遣いいただきありがとうございます」
改めて丁寧に会釈すると、ようやく公績さんが笑ってくれた。贔屓目なしにしても、すごく端整な方だと思う。綺麗な御髪、整った眉、緩やかに垂れた目、色気のある泣き黒子、すっと通った鼻筋に薄い唇……とじっくりお顔を見てしまい、慌てて目を反らした。公績さんは観察されたことに気付いているかいないか分からないけど、楽しそうに笑っていた。
「なぁ、あいつもう出た?」
「えっ?」
「興覇」
「あ、はい。かなり早くにいらして、沢山召し上がっていただきました。狩りに出てくると仰ってましたよ」
「ふぅん。血気盛んで羨ましいねぇ」
そう言いながら誘導した卓で欠伸を一つした公績さんに別行動を咎める様子はない。ぐぐっとしなやかな背を伸ばした後、ちらりと私を見た。透けるような茶色の瞳と目が合うだけで緊張してしまい、仕事に支障が出る気がした。
「俺、朝弱くてさ。少しだけ出してもらえるかい?」
「かしこまりました」
「いや、畏まらなくていいんだけど」
そう言って目尻を下げて笑ってくれるので、私も同じようにして笑った。こんな些細なことすら嬉しい。まるで恋だ。お客様に抱いていい感情ではないが、一時のものだと思えばそれを楽しむくらいはいいのではないかという気がしてくる。毎日頑張っている褒美くらい、勝手に感じていてもいいよね、父さん。
朝食を運んだ後はすぐに番台仕事に就いた。三組程の精算を終えたところに、ふらりと公績さんが赴く。自然と胸が高鳴るのを、そっと受け入れた。
「美味しかったよ、ごちそうさん」
「お気に召していただいたなら、光栄です」
「あんたは今日、どういう予定なんだい?」
尋ねられて瞠目する。意図は分からないし、期待してはいけないと思いつつ、顔の火照りは抑えられない。努めて冷静に予定を確認した。
「あとお二方お帰りになられるのを済ませたら、お部屋のお掃除と、少しだけ畑仕事に調理補助をします」
「あんた毎日そんなに働いてんの?」
俺にはできないな、とおどけて言う様子まで好ましく感じてしまうくらいには、目の前の御方に惹かれてしまったようだ。いつもと同じ仕事、という曖昧な回答ではなく、わざわざ展開して答えたのは公績さんに認めて貰いたかったからかもしれない。それが叶うとじんわりと喜びを感じた。
「なぁ、少しくらい手伝わせてくれないかい?あんな雑魚追い払ったくらいで、こんなにいい所を贔屓してもらうなんて、悪いしさ」
「でも、お客様にそのような……」
「本当に少しだけだからさ。頼むよ」
昨日の片付け忘れていた椅子に座って、台に両腕を着けて上目遣いで懇願される。その表情は、さすがに狙っていると思うのだけど。断れるはずもなく、こくこくと頷くだけの返事をした。
「あ、でも調理補助ってやつは出来ないな。芋の皮剥きで怪我なんかしたら、興覇が烈火の如く怒ると思う」
指をぷらぷらと振って呆れ顔で呟くので、首を傾げてしまった。仲が良いにしても、調理の傷を怒るような間柄なんて不思議だ。
「公績さんの怪我を、興覇さんが怒るんですか?」
「そうそう。肝心のいく――商売で負う怪我は気にしない癖に、調理関連はうるさいんだよ。まぁ、俺滅多にしないから、やらかすのが怖いんだろうけど」
「不慣れな方の調理って、何か仕出かしますもんね」
「そういうとこ、ほんと伯言そっくり」
ちょっといじわるなとこあるよねあんた、と拗ねたように言うのが可愛らしくて、また笑ってしまった。こんなに色んな感情を抱かせてくれる方に出会えることは、もうないかもしれない。そう思うと、どうにかしてここに留まってくれないかな、と勝手な欲がもたげた。
何か言わなくちゃ、そう思って口を開こうにも上手く言葉が出なくて、結局もだもだしている間に他のお客様が見えられて、会話は一度絶ち切られた。
「じゃあ、俺にも出来る仕事があったら声かけて。もう一眠りしてくる」
そう言って去っていく背中を見て、本当に朝が弱いんだな、と可笑しくなった。
ほとんどの客室の掃除を終えて、最後に残ったのはお二人のお部屋だった。連泊なので本来無理に入ることはない。だけど折角申し出て下さったので、公績さんに声だけ掛けることにした。
トントンと戸を叩くも、返事はない。さすがに勝手に入るのはまずいだろう。諦めて戻ろうかという時に、体に影がかかった。
「あ、興覇さん。お帰りなさいませ」
「……おう。お前何してんだ?」
「公績さんにお声がけするよう言われていたので、参りました。でも寝ていらっしゃるみたいで」
言葉の途中で、興覇さんはまた舌を打って乱暴に戸を開けた。押し入ってすぐに閉まったので、中の様子は確認出来ない。この室は二重襖なので、何かお二人が話しているような声は聞こえるが、内容までは分からなかった。
まだここにいるべきか、立ち去るべきか考えあぐねていると、目の前の戸が動いた。
「……悪いね。あいつ機嫌損ねちまったから、手伝いはまた後ででもいいかい?」
「あっ、はい。勿論です。あの、お顔が赤いですけど、どこかお悪いですか?」
御髪は乱れ、目も少し潤んでいる。心配になって尋ねると、公績さんは勢い良く首を振って否定した。大丈夫だと何度も言われては、引き下がるしかない。
「何かご入り用がありましたら、なんなりとお申し付けくださいね」
「あぁ。ありがとさん」
「よぉ、若女将。俺ぁ一つ頼みがあるぜ」
公績さんの肩に腕を回し、後ろから興覇さんが顔を覗かせた。話が聞こえるくらいにはすぐ後ろにいたようだ。
「鳥何羽か狩ってきたからよ、昼にうまいこと調理して出してくれ。あっちの料理人に渡してきたぜ」
「承知いたしました」
「俺らじゃ余るから、お前らも食っとけ」
「ありがとうございます!貴重な食材は嬉しいです」
じゃあな、と言って目の前の戸が閉まった。私の目にはご機嫌に見えたけど。
戻りながら、もう少し二人と、特に公績さんと話をしたかったなと傲慢な考えを持った自分に驚く。お客様の都合が優先されるのは当たり前だ。自分にそう言い聞かせて、調理場へ向かった。
***
その後は洗い場の掃除や新たなお客様のお出迎えをする内にあっという間に夜になり、公績さん方とお話どころかお姿を見ることも叶わなかった。昨晩よりご宿泊の方が多く、それに伴って手伝いを増やしたので、私が配膳に行くことも出来なかった。若女将として宿全体の管理をしなければならない今、もともと個別のお世話をする方が珍しいのだけれど。
夜はお二人でお出掛けになられていたようで、まもなく深夜になろうという時間、ちょうど、また一人具合の悪い方を医室に連れた後に宿へと戻られた。顔が見られただけで嬉しく思う。
「お帰りなさいませ」
「あぁ。結局なんの手伝いもできないで、すまないね。明日こそ起きるよ」
「へっ。どうだかなぁ、公績。お前の寝起きの悪さは筋金入りだからな」
「うるさいっつの。元はと言えば誰のせいだと……いいや。俺少し若女将と話してっていい?」
「好きにしろ」
興覇さんはそのまま温泉の方へ向かった。ふいに訪れた二人きりの機会に胸が高鳴る。明日でお別れだなんて信じがたい。
「お酒は飲まれますか?」
「いや、今日はやめとくよ。なぁ、あんたさ、今俺に出来ることはないのかい?」
じっと真剣な目で見つめてくる。手に変な汗が浮かんで、心臓の音が煩くて、生唾まで飲んでしまった。本当に整ったお顔立ちだ。格好よすぎる。……好きに、なってしまう。
「それは、あの」
「俺に言いたいこととかさ。ないかな」
ぼぼっと顔が赤くなるのが分かる。甘く痺れるような低音で囁くように尋ねられて、照れない方がおかしい。
それでも、さすがに自分からそのような感情を伝えるのは躊躇われて、俯いてばかりいると公績さんがひとつため息を付いたのが分かった。
「ま、明日で俺はお別れだ。それまでに、出来ることはさせてくれよ」
お休み、と言って浴場へと消えた背を、穴が開くほど見つめ続けた。心の声がそのまま届けばいいのにと願いながら。
***
翌朝、公績さんは本当に早く起きてくれて一緒に畑仕事をして下さった。昨日の意味深な雰囲気はなかったかのように軽やかに働いていて、正直なところほっとしたし、とても助かった。男手でないと出来ない桝の修理もしていただいた。本当にお優しい方だ。
興覇さんは昨日と同じくらい早く起きて、またどこかへ出掛けていった。二人きりでいられる時間が長くなったように感じられて、内心喜んでしまう自分が浅ましくて恥ずかしい。表にさえ出さなければ大丈夫と必死に自分を擁護する。
朝の仕事が全て終わり、番台で台帳を書きながら公績さんと茶を嗜む。流石は商人で、茶の種類を言い当てたので感心した。こんな楽しい時間ももうすぐおしまいなんだと思ったら、やはり、少しでも好意があることは伝えてもいいのではないか、と思い直した。押し付けるわけではなく、あくまで、少し特別な感情を教えてもらったことを感謝するくらいで。
口を開こうとした瞬間だった。興覇さんが、お帰りになったのだ。
「お帰りなさ……っ!?」
「おう若女将」
「随分な美人連れでのお帰りだ。俺にも紹介してくれませんかね、興覇さん」
興覇さんの横にいる、公績さんが美人と言った人物の顔を見て、全身の血の気が引いた。無意識に噛んだ唇が、ぶつりと切れるのが分かる。冷たい拳を握って震えを誤魔化そうとしたが、手だけではなく体中ががたがた震えていて抑えられなかった。
許せない。許せない。
怒りで涙と震えが出るなんて、これまで知らなかった。知りたくもない感情だ。
「こいつが隣の医者ってやつだ。すげぇ美人だろ。俺もくらくらきちまうぜ」
「そんな、あの、興覇様……」
「楽しそうなとこ邪魔して悪いけど、若女将はお呼びじゃないみたいだぜ」
公績さんがとん、と背中に触れて、撫でてくれる。それだけなのにすっと震えが引いた。寒くてたまらなかった体が、触れられたところからじんわり温かくなっていくようだ。目が合うと、大丈夫かい?と柔らかく微笑んでくれた。涙を拭って頷く。弱い女だと思われたくない。
「こいつは、医者でありながら、私の父を見捨てているんです。あんなに苦しんでいるのに、お金も払うと言っているのに、何も……!」
「だそうですけど?」
公績さんが流し目で促すも、医者は視線を落とすだけで無言だった。否定しないのだから、事実を認めているようなものだ。また沸き上がる怒りが、握った拳を医者の頬に向かわせた。
ぱし。軽い音がして、医者を殴り付ける前に興覇さんに難なく受け止められた。
「止めないで下さい!興覇さんは、そいつの味方なんですか!?」
「殴ったって何にもなんねぇだろ」
「でも…っ、許せないんです!この怒りを、分からせてやりたいんです!」
決壊したようにまたぼろぼろ出てくる涙が、恥ずかしくて情けない。そのまま医者を睨み付けていると、公績さんが興覇さんの手を掴んで外させてくれた。力を込められていたわけではないので痛みはなかったけど、離れてくれて安心してしまった。私の中で、興覇さんまで敵に見えてしまう。
「ま、俺は若女将の気持ちも分かるけどね」
「あぁ?お前まだんなこと思ってんのか?」
「共感しただけだっつの。ケリ着くまでの葛藤なんざあんたには分かんないよ、興覇」
公績さんが今度は私の手を掴んで、じっと見つめてくる。涙で不細工面だろう顔を見られたくなくて視線を反らした。甘い状況ではないことくらい分かるのに、ドキドキしてしまう。
「あんたがお父上のことを大事に思って働いてるのは、本気ですごいと思ってるよ。だけど、やっちゃいけないことってのもあるだろ」
それは、医者を殴ろうとしたことなんだろうか。興覇さんとの会話からするに私に共感してくれたと思ったのに。うっすらとした悲しみは、次の言葉で全て流れていった。
「若女将。民衆に薬を売り付けてるね?中毒性のあるヤバイやつを、高値で」
「えっ……?」
医者が現れた時以上に、血の気が引くのを感じた。
どうして?なぜ?――何故あなたが、知っているの?
公績さんの手を無意識に払う。また、体が震えだした。
「……な、んで」
「認めるのかい?ま、俺は畑に植わってるの見てるしね」
「ついでに医室にいた野郎もゲロってるぜ。お前にとんでもねぇ金払って、気持ちよくなるお薬貰ってるってよ」
「何か言い方いやらしくない?」
「事実だろ」
こんな時でも軽口を叩き合う二人がむしろ羨ましかった。私も混ざりたい。それなのに、働いてきた悪事をまさか好意を持った人物に知られているなんて思いもしなかった私は、ひたすらガタガタと体を震わせるしか出来なかった。腕を組んで自分を守る。怖い。怖いよ。父さん。
「お前は悪に手を染める奴じゃない!そんなことは私が知っている!」
隣のやぶ医者が吠える。幼馴染と言ってもいい間柄のそいつは男だというのに確かに美人で、それが一層私を苛立たせた。
「あんたが……あんたが父さんを見捨てさえしなければ!私はこんなことっ!」
泣きながらまた殴りかかろうとした手は、また公績さんに取られた。それなのに、先程までの胸が高鳴る感じはまるでない。掴まれた手は温かいのに、焦りや恥があるからか上手く喜びを感じられなかった。
「若女将」
「公績さんっ、離して!」
「ちゃんと聞いてくれ。……口付けでもされたいかい?」
体が固まった。甘い低音でそんなことを言われて止まらない女はいないと思う。やっぱり狙ってやってるんだ。なんて、ずるい方なんだろう。
腰が抜けて、その場にへたりこんだ。公績さんがしゃがんで目線を合わせてくれる。
「この医者の見立てじゃ、お父上にできることはもうないんだよ、若女将」
「……そんなはずありません。父は、ちゃんとしたお薬や手当てがあればよくなります……だから、お金を……都に行かなくちゃ」
「知り合いなんだろ。ちゃんと見てやれっての。こいつは本当にやぶ医者なのかい?」
幼馴染に目を向ける。本当は分かっている。適当な診察なんかしていないこと、父はもう助からないこと、危険な葉っぱを薬として売っていること。
「……ごめんなさい……私は、父にまた、叱ってほしかっただけなんです……」
涙が溢れる。最低なことを重ねた私は泣くような立場じゃない。それなのに止まらない。そんな私をふんわり抱き締めたのは、公績さんではなく幼馴染の医者だった。
「お前を傷付けたのは私だ……気休めの煎じ薬でも、何でも出来たのに。心に寄り添えなかった私は、医者失格だな」
そう言って勝手に泣き出す幼馴染と、二人で抱き合って泣き続けた。時間は戻らない。父は助からないし、道を誤った私は許されない。これから先残るのは空っぽの宿と、薬が切れて苦しむ村民と、私の無意味な罪悪感だけ。そんな地獄で私は罰を待つのだ。
少しして罪を受け入れる覚悟が出来た頃、ようやく恥ずかしくなって幼馴染を引き剥がす。ぼろぼろの顔で公績さんを見上げると、すぐにすいと視線を興覇さんに向けられた。目も合わせたくない程失望させたのだと思うと、心に棘が刺さったみたいだ。ちくちくと痛い。
「さぁて。これからどうしようか」
「誑かすのがお得意だろ。お前が何とかしろや」
「……あんた怒ってんのかい?」
「口付けしたくなるくれぇ若女将に同情してんだろ」
そう言われて赤面した。同情でもなんでもいいから、どうせならしてもらえばよかった。こんな時でも浅ましい欲が出る自分が気持ち悪い。
公績さんはふう、と悩ましげなため息をついてから、ふいに顎を掬って口付けた。
興覇さんに。
「やれやれ。あんたのご機嫌取りばっかりだ」
「……けっ。誰が損ねてんだ」
「えっ、えっ、えええ!?」
今、一旦、何が。
状況の理解が追い付かず、ここ最近の険悪さも忘れて幼馴染と見つめ合う。
うわ、という短い声が聞こえて見上げると、興覇さんが公績さんの頭を鷲掴みにして口付ける瞬間だった。
「ん……ふっ」
し、したがはいってる。
目からも耳からも強すぎる刺激が入ってきて、固まる。これは、つまり、えっと、その。
「へへ。ご機嫌取りならこれくらいしろってんだ」
「……調子乗んなっつの……」
「嬉しそうな顔してよく言うぜ」
興覇さんの肩に顔を埋めた公績さんの表情は確かに満更でもなさそうだ。ちらりと見える耳は真っ赤で、潤んだ瞳も大変色気がある。この様子を、どこかで見たような。……あ、昨日の昼前に伺った時だ。そう、だったんだ。
「お二人は、その、情人だったのですね」
失恋したのだから、もっと悲しいものかと思いきや、案外そうでもない。興覇さんには間違いなく敵わないし、自分の悪事が筒抜けだったことのほうが余程堪えたからかもしれない。
「それも当たりだな。俺たちの関係性なんざ一言じゃ表せねぇよ」
「あんたが威張ることじゃないっつの」
「事実だろ、凌統」
強調された聞き慣れない言葉に、耳が反応する。どことなく香る嫌な予感が握ったままの手の力を強くさせた。ぎゅ、と握り返してくれて、幼馴染の手が意外にも大きくて安心する。
「なんだよ、もうおしまいかい?甘寧」
「頃合いだろ」
「じゃ、これも返しますかね」
公績さんが腰の巾着から丸いものを取り出した。包んでいた布を外して出てきた大きな鈴を、手慣れたように興覇さんの腰に付ける。リン、と澄んだ音がして、それを合図に幼馴染がまさか、と声を漏らした。
――りょうとう、将軍。鈴の、かんねい、将軍。
「……え?」
「悪いね。騙すような真似して。あんたの薬、ちょいとまずい人に渡っちまってね。俺とこいつで調査してたんだ」
「俺はお前と婚前旅行に来たようなもんだけどな」
「……せめて慰安旅行のままでいてくれ」
甘い空気を醸し出すお二人にも反応できない。全身が冷めていくのが分かる。手が繋がったままの幼馴染も、可哀想なくらい青ざめていた。お二人の豪傑の名を知らない人なんかいない。
将軍様だったんだ。おしまいだ。なにもかも。
「これまでのご無礼、申し訳ございませんでした……首刎ねはどうか、一思いに」
もう表情も作ることが出来ない。涙だけが意識とは別に流れ出た。絶望が重なりすぎて、感情が色んな所を行き来して、疲れた。最期に、好きだった人に首を刎ねてもらえるならば、本望なのかもしれない。頭を地面に擦り付ける。隣の幼馴染も、細かく震えながら倣った。父さん、ごめんね。救えなかったどころか、私、先に命を落とします。親不孝な娘で、ごめんなさい。
「勘弁してくれっての」
急に、視界が開けた。肩を思い切り掴まれ、無理やり体を起こされる。目の前にあったのは数刻前まで傾倒していたお顔で――いや、今見ても、あまりに端整だ。焦ったような表情は出会って初めてお見かけする。そんな困り顔まで素敵だなんて、憎らしく見えてくる。
「若女将。俺があんたを殺すと思うかい?あんたは俺の何を見て来たんだ。ちょっとは自惚れてたんですけど?」
「……ですが、その、態度を差し置いても、私の行為は重罪です」
「そりゃまぁ、そうだけど。だからってあんたを刎ねてどうすんだっつの」
呆れたように頭を撫でられて、不覚にもまた心が喜んでしまう。こんなに短時間で感情を揺さぶられて、おかしくなってしまいそうだ。
「あんたは都で処分だ。保護者として、お父上も来て貰おう」
「そういや、お前も来るか?都で医学をどうこう言ってたろ」
興覇さん――甘将軍が、幼馴染の顔を上げさせてそう言う。そいつは肩を盛大に揺らして驚いていた。
その前に、公績さん――凌将軍は、なんて?
「このお宿はどうにか残せるよう手配するよ。その間にあんたは罪を償って、お父上は療養だ。俺には医療の知識がないから、そもそもどうにかなるかは分かんないけどね」
「こいつが言うには手遅れみてぇだし、期待はすんなってこった」
「何だかなぁ。あんたのそういういやに現実的なところ、鼻につくんだよな」
「甘い事言って落とすのがお好みだからな、お前は」
「……俺とやろうってのかい?」
「おう、いいぜ。手加減しねぇから覚悟しろよ凌統」
お二人がこれまでと変わらない様子で口論するのが面白くて、可笑しくて、また泣けた。優しい。変わらない。こんな汚い私に、温かく接してくれたのは、嘘じゃなかったんだ。
遂にしゃくり上げて泣く私を、凌将軍が背を撫でて、甘将軍が肩を叩いて慰めてくれた。
私はじっくり時間をかけて涙を流し、現実とこれからを受け入れる覚悟を決めた。
幼馴染は残ることになった。自分がいなくなれば隣町とこの村が困るだろうとのことだ。いつか必ず都へ学びに行きますと礼を告げて去る背中が、何だか大人びて感じる。眺めていると、凌将軍が声を掛けてくれた。
「あんたのこと、随分気に掛けていたみたいだぜ。これでも、無理だと思った相手は、許せないかい?」
「……いえ。教えていただきましたから。絶対はないって」
「うん。やっぱり強いな、あんたは」
ふるふると首を振る。私は、父が助からないという現実を受け入れられなくて、幼馴染の言葉を信じたくなくて、自分勝手に罪のない人々を薬漬けにして金を巻き上げた最低な女だ。それは、自分が弱かったからに過ぎない。
「私も、きちんと現実と向き合います。あの時の呼び名のお話は、甘将軍とのことだったんですね。私に、自ら気付いてほしくて言ったんですか?」
「ま、無理やりね。本音はただあんたに聞いてほしかっただけだよ。呼び名を変えるだけで全てを忘れて愛せるかもしれないなんて、甘っちょろい考えが自分にあったことが驚きで、自信がなくなったんだ」
凌将軍が遠くを見ながら言う。甘将軍が少し後ろで控えていた。会話を聞いているのかいないのか分からないけど、遮ってこないところを見るに、もう少し続けてもいいのかもしれない。
「でも言った通りだ。名前ごときじゃ俺とあいつは変わらない。関係性だって、一つじゃない。それでいいんだよな」
「……なんだか、羨ましいです」
「あんただってそうだぜ。立場も気持ちも、一つじゃなくていい。立派な温泉宿の若女将で、お父上の娘で、あの医者の幼馴染で、罪人だ。そして、誰をどう思おうが、それはあんただけの気持ちだよ」
もの寂しげに言う憂い顔まで素敵で、一時でも恋ができて良かったなと思う。その感情を否定されたわけではないところも、紳士的だと思う。
「本当は都まで一緒に付いていってやりたいけど、ここでお別れだ。部下が迎えに来てるから、あんたはそいつに従ってくれ」
「はい。本当に、ご迷惑をおかけしました」
「世話になったね。……絶対また会えるさ。あんたがこの宿に戻る頃に」
力強くそう言うので反射的に頷くが内心ではもう会えないことくらい分かっている。絶対はないのだから、皮肉な望みを持たせるものだ。この方は優しいし紳士だけど、やはり将軍様なんだなと思う。見え隠れする冷徹な部分が、綺麗だけではない所が、かえってまた惹かれた。
「一つだけお尋ねしてもいいですか?」
「なんだい?」
「最初から、私が悪事を働いていること、知ってらっしゃったんですよね。あの時の悪党達は仕込みですか?」
お二人との出会いを思い出す。怖い思いをしたところを助けられて、私はお二人を信用して泊めたのだ。仕組まれていてまんまと騙されたのだということくらい分かっている。それなのに、一筋の期待が消えない。どこまでも浅ましい人間だと思う。凌将軍が驚いたように瞬いて、体ごと私の方を向いてくれた。
「最初からあんたのこと、分かってたよ。困ってるところを助けて近づくってのも、筋書き通りだ」
「やはり、」
「でも、あの雑魚たちは俺たちの仕込みじゃない。もっと痛くも痒くもないのを用意してたんだ。女に怪我や怖い思いをさせる策なんざ俺もあいつも乗らないぜ」
思わずお二人の顔を交互に見る。その際に振り向くと、先程よりも甘将軍が近くにいた。私の頭をぐしゃりと撫でてくれる。手が、とても温かい。
「ありゃ焦ったよな。誰だ?さぁ?分かんねぇけどやっちまうか、ってよ」
「本物の部下に目だけで来んなって指示するのも大変だったね」
「そういうこった。若女将、こいつは本物の優男でタラシ野郎だからな。人嵌めるってのも慣れてねぇ。だから、お前へ態度はどれも本心だと思うぜ」
妬けるがな、と悪戯めいて言う表情が、また涙を呼んだ。そんなことをわざわざ伝えてくれるこの方も、本当に優しいと思う。そして、凌将軍の――公績さんの行動や反応や台詞が演技ではなかったということが、本当に嬉しい。
「まーた、泣いてる。つうか、あんたいつまで頭触ってんだっつの。怖がってんだろ、鈴野郎」
「お前は散々やってたろうが、あぁ?本当に口付けとかしてねぇだろうな」
「してねぇっつの。あんたと違って女にがっついたりしないんだね」
「俺にはあんなにがっついてんのになぁ?」
ニヤニヤといやらしく笑う甘将軍に、凌将軍の顔がこれ以上なく赤くなった。なんて可愛らしいんだろう。自分の恋は叶わないが、好きになった人のこういう姿を見られるのは貴重な気がする。赤面したままふいと視線を反らした長身の方が、高いところから「あんたにだけだ」とこぼしたのを、私も甘将軍も聞き逃さなかった。
「あ、俺からももう一つ聞いておきたいんだけど」
「ふふ。なんでしょう」
まるで誤魔化すように尋ねてくるのが微笑ましくて、涙を拭いながら応えた。ばつが悪そうに頭をかいてから、凌将軍が私を見る。
「あんたは暫く若女将じゃなくなるからね。名前、教えてくれよ」
この方が呼んで下さる若女将という響きが好きだ。自ら失った立場だけど、私は父の宿の若女将であることを誇りに思っていた。だからその呼称が聞けなくなるのはとても寂しい。だけど、私は知っている。呼び名が変わっても、私は私のままなんだ。
「私の名前は――」
【人格メンテナンス】
直せばまた使えるようになるから
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