Lorelei
マユリは足の痛みを堪えながらゆっくり立ち上がると、机上に置かれた手拭いを手に取る。
「私は、恐ろしい……襲われても対処できる力も術も身に着けたが
それでも未だに恐ろしくて恐ろしくて堪らない
……だが」
ガタガタと震える手は言う事を聞かず、それでも無理矢理手拭いを濡れた顔に押し付ける。
取れかけた化粧が大方拭われたのを、床に出来た水溜りの反射で確認したマユリは今にも泣き出しそうな少年のようだった。
動悸が激しくなる、それに合わせて呼吸が荒くなる。
手の震えが全身に及ぶ程の恐怖が、マユリの脳味噌を鷲掴み、揺らし、囁く。
また、恐ろしい目に遭うぞ。
また、痛い目に遭うぞ。
……それでも
それでも、見て欲しい。
例え、それで殺されてしまおうとも、構わない。
マユリは頭に掛けられた羽織を両の手で肩口まで降ろすと
一呼吸置いて、浦原の方へと振り返った。
「君には、私を見て欲しい」
深く鮮やかな青い髪から滴る水滴が、白く透明感のある輪郭を伝う。
硝子細工のように繊細な睫毛から覗いた黄金色の瞳が、ゆっくりと浦原を映し出した。
正に天女。
魔性の者、と云う輩もいるかもしれない。
そのような見目麗しい素顔を曝け出したマユリを前に
浦原は口をぽかんと開けて間抜け面をしながら、何とも素っ頓狂な声を上げていた。
「へ……あ……え……?」
「……何だネ、その顔は」
一大決心、マユリとしては腹を括ってこの素顔を曝け出したのだが
浦原の予想外の反応にマユリは思わず調子が狂い、その様子に呆れざるを得なかった。
何故このような間抜けに大事な秘密を教えてしまったのだろうか、と頭を抱えそうになる。
このまま羽織を被り直して帰ってしまおうか
そんな考えまで過った所で浦原は我に返ったようだった。
「はっ……!!?危ない!
意識が外宇宙を突き抜けてこの世の真理に到達する所だったっス!」
「そのまま廃人になってしまえば良かったものを」
「酷い!!」
いつもの調子でぎゃあぎゃあと騒ぐ浦原にマユリは悪態を吐くが、次の瞬間には安堵から体の力が抜けてその場に座り込んでしまった。
よかった、信じて、よかった
凍えるような恐怖心から抜け出し、目頭が熱くなる。
突然床に座り込んだマユリを心配した浦原は駆け寄るが、しまったという表情をしたかと思えば助けようと差し出した手を直ぐに引っ込めてしまった。
はてと首を傾げれば、浦原は視線を泳がせる。
「いや、だって涅サン、触れられるのは怖いと思いまして……スミマセン」
馬鹿な男だ。
「君が、足をくじいた部下を助けずに見放す冷酷な上司だったとは
悲しさのあまり私のこの繊細な心がどうしようもない程深く傷付いてしまったヨ」
「そ、そんなつもりじゃあ……」
傷付いたと云う割にはニタリと意地悪な笑みを浮かべるマユリが伸ばした手を
参ったなと苦笑する浦原はしっかりと握り、助け起こした。
が、重心の掛け方を誤った身体がふらりと揺れて、浦原が咄嗟にそれを抱き留める。
今までならば気色悪いと乱暴に突き放していただろうが
布越しに感じる温もりに、煩い程の心臓の鼓動に、生まれて初めて安らぎを得ていた。
この男が今どんな表情をしているかは分からないが、
手をその広い背中に添えれば、抱き締め返してくる腕の力の心地良さに
マユリの美しい瞳から、頬に一筋の涙が伝う。
……西洋には、美しい容姿や歌声で人を惑わし、陥れる魔魅がいるらしい
私もその魔物と変わらない
魔物が真実の愛など、馬鹿げている
そう幾度も、幾度も自嘲しては押し殺してきた
それでも
ずっと、ずっと、求めていた。
ありのままの自分で、息が出来る場所を……。
「涅サン……ボク、貴方がどんな姿であれ、ずっと恋をしてました」
「浦原……私も、君の事を……」
「あぁ……涅サン……
死んでも、離しませんから」
恋を歌う魔魅の足に
沈みゆく船乗りは笑顔で枷を括り付けた。
end
