オフ記録
【完売】THE STRAY SHEEP
2019/11/17 00:00文ス他
2019/11/17 異譚レナトス12発行分
文庫/176p/全年齢
文庫/176p/全年齢
追記
2015年エイプリルフールネタ 文豪ストレイシープの本
※原作にない文豪の作風擬人化が含まれますが、作品内の表現を以て実在の作家を表現するものではなく、またご本人と関係は一切ありません。
※オリジナルキャラクターが多めです。太宰はほぼいません。
※CP要素はなしとしていますが、同ラインで双黒のCPを製造しています。
※軽度の暴力表現があります。
完売│以下本文サンプル
02.帽子屋、或いは二人組の男
ガラン、と客の来訪を報せるベルが、重く錆びた音を一つ鳴らした。無骨な鉄の装飾のついた両開きの扉を閉めると、外気のぬるさが完全に遮断され、冷房の快適な空気が肌にひんやりと貼り付く。中原は帽子を脱ぎ、少し扇いで空調の冷気の心地よさに暫し浸った。
淡黄色を基調にした、落ち着いた内装の店だった。手狭ながらも何処かの聖堂を思わせる高いドーム型の天井に小洒落た小窓が幾つかあって、静かな店内に午睡を誘う陽光を降り注いでいる。照らされたストーンタイルの床は艶やかだ。中へ進むと、壁を埋めるように掛かる無数のフックに、様々な型の帽子が所狭しと並び、新しく所有者となるべき人間にその魅力を存分に振り撒いている。
元町の中でも、年季の入った店だった。昔からの個人営業で、従業員は年老いた店主とその連れ合い、たまに入る女の店員一人の他に見たことが無い。後は業者の出入りがあるくらいか。表通りの店の方が人の入りは多く盛況だったが、中原は逆にこの店のひと気の無さが気に入っていた。此処なら中原の顔を見咎めて警戒をする人間も多くない。気晴らしの時間を邪魔されたくはなかった。
カウンターでは店員の女が一人、レジで顔を伏せて作業をしていた。声を掛けようか迷っていると、視線に気が付いた店員が顔を上げ、ぱっと顔を綻ばせたものだから、中原は少し面食らった。店主とは懇意にしていたが、この娘にまで顔を覚えられているとは思わなかった。
店員の女は笑顔の愛嬌に反して、極めて控えめに来客を歓迎する。
「いらっしゃいませ」
「ああ。今日は店主は?」
「呼んで参ります。少々お待ちを……」
店員が歯を見せて笑い、踵を返して店の奥へと引っ込んだ。中原はちょっと手持ち無沙汰になってカウンターに寄り掛かる。別に呼んで貰わなくたって善かったか。でも折角なら顔見せときてえし。気合い入れて仕入れてきたのがあればやっぱ見てえし。
態々呼びにいってくれた娘に少し申し訳無く思いながら、何となしに店の中を見渡す。特に広くもない店内で、中原の居る位置からは、柱が死角になる以外は店全体を見渡すことが出来た。
中原の他に、客は二人居た。一人は水色のパーカーにジーンズと、ラフな格好をした短髪の若い男だ。息を殺すように店内を巡っていて、興味が無さそうにちら、と帽子を手に取り値札を見ては戻すことを繰り返している。対照的に、もう一人の白人の三十代と思しき男はじっくりと棚に並べられた帽子を吟味し、時折手に取っては目を閉じ暫しの間空想に浸っていた。恐らく自分が被ったときの装いを考えているのだろう。色素の薄い金髪は丁寧に撫で付けられていて、着こなすアイボリーのスーツはそのラインから仕立ての上等なものなのだろうと伺える。
と、パーカーの男がガラン、とベルを鳴らすのも密やかな様子で店を出ていったので、店内にはついに中原とスーツの男の二人になってしまった。中原はその動きを無意識に目で追う。地元の人間だろうか。そう考える理由は幾つかあった。先ず観光や地元に疎い状態で帽子を買いたければ間違いなく表通りの店に行く。迷い込んだなら挙動に自信の無さが表れても善いだろうに――ちょうど、先程のパーカー男のようにだ――その態度の妙に堂に入った様子から、この店を偶然に訪れたと云う訳ではなさそうだ。特に目立った看板も出していない、街の中でも奥まったこの場所を帽子を買う為に探し当てられたと云うのならば相当土地勘があるのだろうと思われた。
然し、中原の見立てに反して、スーツの袖口から控えめに覗く艷やかな黒のクロノグラフは一時を少し過ぎた時刻を指していた。今は昼の二時過ぎだ。合っていないにしてもズレ過ぎている。
なら知り合いの紹介を経て来た出張中のビジネスマンと云うところだろうか。中原だって、海外での一時的な滞在なら腕時計の時差のズレを一々直したりはしない。
そんな風に観察していたら、ちら、と僅かに目が合った。
中原は思わず目を瞠った。男は硝子のような冷え冷えと透き通った目をしていた。色素の薄さが、感情の怜悧さをも映しているような氷の色。体内を巡る血の勢いが僅かに強まるのを感じた。まるで会敵したときのようにだ――この男はかなりやる。
思わず一歩踏み出す。
「――あ」
「中原様。ご無沙汰しております」
アンタ、と呼び掛けるところだった言葉を引っ込めて中原は踵を返した。他人の気配に釣られ過ぎだと自戒する。あの男の背景など、如何でも善い筈だ。そう、今日は気晴らしで来たんだから。
気を取り直す。
奥のカウンターで中原を出迎えた店主は相変わらず壮健のようだった。老年に近いながらも腰は未だピンと張っている。白髪の混じった頭は中原の視線より僅かに低く、柔和な瞳と目を合わせるには中原は少し視線を下げなければならなかった。
「済まねえな、中々来れなくて。新しいのを買いに来たんだ」
「長く使って頂いていたのでしょう? 私共と致しまして喜ばしい限りですよ、ささ、此方へ。お気に召すものがあれば善いのですが……」
「期待してる……っと、夫君は元気か?」
「ええ、今日も仕入れに行っていますよ。今日辺り、フィレンツェだったかしら……中々腰を落ち着ける気が無いみたいで」
「動けるうちは善いんじゃねえの。また土産話でも聞きてえな……」
「中原様は海外には――?」
「それが中々気軽に行けなくてよ……」
奥まった区画のショーケースに案内される。「此方が新作ですね」鍵を開けて貰うと、一瞥しただけで艷やかな生地の商品が幾つも収まっていて、思わず顔が綻んだ。手袋を脱いだ手で労るように撫で、その良質な予感を確信へと変える。「試着頂いても結構ですよ」言葉に甘えてそのうちの一つを被ると、新しく縫い付けた糸の匂いがした。丁寧な仕事だ、と思う。縫製が善い。生地が継ぎ合わされず、緩やかなカーブを描いている。これなら長く使ってもよれないだろう。この店の輸入する商品には間違いが無い。
中原は帽子に限らず、手製の造りのオートクチュールを見るのが好きだった。人間の手の掛けられたことがわかる物。物の向こうに、人間の居ることが判るものだ。そう云う物を通じて他人の息遣いを感じると、ひと気の無い寂しい冬の山中で、人の気配のある小屋を見付けたように少し嬉しくなる。
「こっちか、こっちだな……悪い、少し考えさせて欲しい……」
「ええ、ごゆっくり」
店の主人の離れていく跫音を背に、中原は候補を二つに絞って矯めつ眇めつ見比べてみる。二つとも中折れハットで、一つは帯の装飾の収まりが善かったが、一つはつばの角度が非常に好みだ。
却説、どちらが善いだろうか、戦場に連れて行く恋人は。
息をするように戦場へ戻ることを考えている自分に気が付いて、中原は独りでに自嘲の笑みを漏らしていた。如何転んだって、それこそ別の生き物に生まれ変わるくらいしなければ自分にとって戦場に戻らないと云う選択肢は無いんだろうな、と思う。
部下が幾ら死のうと。
そのことで幾ら後悔と云う泥に塗れて息が出来なくなろうと、自分の価値は戦場でこそ発揮されることを中原は知っていた。自分は力と云う手札を持っていて、それを持つ者の責任がある。その事実は相棒として手綱を取っていた人間が消えようと変わりはしない。泣こうが喚こうが、己の役割は覆らない。
だから何にも出来やしないんだよなあ、と中原は改めて思う。死んだ者に対して。これまで幾度も悩んではきたが、その度答えは出なかった。こうやってぐるぐると考えが巡るだけだ。時間の無駄。その通りだ。中原が悩んだ時間は死人には還元しない。
死んだ者に対して出来るのは、ただ覚えておくことだけだ。そして今生きている人間を守ること。過去は美しいが、心を其処に留めておくことは出来ない。
前を向かなければ。
今まで失ってきた仲間達を記憶の中に思い浮かべる。悪いな、と。
「なあ、どっちが善いだろうな……」
――そうですね、中原さんなら。
「……どちらも、君によく似合うように思うね」
男の声に息を詰めた。
気配に気付かなかった訳ではない――店のもう一人の客であるその男は、思えば先程からずっと中原の隣に居たのだ。そのことに違和感を抱かなかった自分に驚いた。気を散らし過ぎたか? 然し幾ら考え事をしていたとは云え、間合いに入られても尚体が反応しないなどと云うことがあり得るだろうか。
動揺を悟られないようちらりと隣へ視線をやる。
「決まったかね」
男は間合いの侵入に対し特に気負った様子も無く、中原に話し掛けてきた。ショーケースを前に、間にあるのは人一人分の距離だ。中原よりも上背があるが、此方を見下ろす視線に威圧感は感じない。恐らくそう故意に印象付けている。先程はビジネスマンか、と判じたが、その落ち着いた語り口は学者でもやっているようにも見えた。
その男が、ごく自然に、行き掛かりの人と人が軽く会話を交わすような調子で両手に一つずつ持った中折れ帽を示して中原に言葉を投げ掛けてくる。中原が一瞥した彼の左手には、多指症と云うやつか、帽子の陰から六本の指が見えている。
「ああ、そんなに警戒しないで欲しい。君の意見をぜひ聞くべきだ……、と思ってね。どちらが善いと思う?」
中原は帽子の代わりに男の爪先から天辺までを炙り出しでもするように眺め回した。下ろし立てのように皺の無いスーツも服飾品も一級品だ、ネクタイピンですら無銘ではない――そして接近くと初めて判る、微かに香る品のいいオーデコロン。身のこなしに嫌味なほどに隙が無い。徹底して拘りを追求する意志が見て取れる。如何見ても、見ず知らずの他人に意見を求めるような、かわいらしい優柔不断さを持ち合わせている人間には見えなかった。なら他に目的があって接触してきてんのか。
答え倦ねていると、「……そんなに熱烈に見詰められると、君がわたしに気があるのかと勘違いしてしまうな」と照れた風なことを云われた。
何故か無表情で。
……あ、此奴苦手なタイプかも知れねえ。
「寧ろわたしは、君に敬意を抱いているのだよ。この店の人間との話を聞くに、君はよく此処に来るのだろう? 趣味の合う人間と云うのは貴重だと思わんかね……少なくとも、都会の空にベテルギウスを見付けるよりも発見が困難だ。わたしにとっては」
「じゃ此処に住めば善いじゃねえか。俺の他にも客は来る」
「それも一興だな。但しわたしは住むなら巴里が善いね……ラ・ペ通りにいい店がある。時間が許せばそちらを訪れたいところなのだが、生憎出張中の身だ。旅先で汚してしまった大事な帽子の代わりを急ぎ手配するとなれば、妥協も止むを得まい。得てして悲劇とは唐突に訪れるものだ……君もそうではないのかね」
「巴里に住みてえかって?」
「いいや。よく帽子を汚しては駄目にする」
「……」
中原は目を眇めて男を見た。…
※原作にない文豪の作風擬人化が含まれますが、作品内の表現を以て実在の作家を表現するものではなく、またご本人と関係は一切ありません。
※オリジナルキャラクターが多めです。太宰はほぼいません。
※CP要素はなしとしていますが、同ラインで双黒のCPを製造しています。
※軽度の暴力表現があります。
完売│以下本文サンプル
02.帽子屋、或いは二人組の男
ガラン、と客の来訪を報せるベルが、重く錆びた音を一つ鳴らした。無骨な鉄の装飾のついた両開きの扉を閉めると、外気のぬるさが完全に遮断され、冷房の快適な空気が肌にひんやりと貼り付く。中原は帽子を脱ぎ、少し扇いで空調の冷気の心地よさに暫し浸った。
淡黄色を基調にした、落ち着いた内装の店だった。手狭ながらも何処かの聖堂を思わせる高いドーム型の天井に小洒落た小窓が幾つかあって、静かな店内に午睡を誘う陽光を降り注いでいる。照らされたストーンタイルの床は艶やかだ。中へ進むと、壁を埋めるように掛かる無数のフックに、様々な型の帽子が所狭しと並び、新しく所有者となるべき人間にその魅力を存分に振り撒いている。
元町の中でも、年季の入った店だった。昔からの個人営業で、従業員は年老いた店主とその連れ合い、たまに入る女の店員一人の他に見たことが無い。後は業者の出入りがあるくらいか。表通りの店の方が人の入りは多く盛況だったが、中原は逆にこの店のひと気の無さが気に入っていた。此処なら中原の顔を見咎めて警戒をする人間も多くない。気晴らしの時間を邪魔されたくはなかった。
カウンターでは店員の女が一人、レジで顔を伏せて作業をしていた。声を掛けようか迷っていると、視線に気が付いた店員が顔を上げ、ぱっと顔を綻ばせたものだから、中原は少し面食らった。店主とは懇意にしていたが、この娘にまで顔を覚えられているとは思わなかった。
店員の女は笑顔の愛嬌に反して、極めて控えめに来客を歓迎する。
「いらっしゃいませ」
「ああ。今日は店主は?」
「呼んで参ります。少々お待ちを……」
店員が歯を見せて笑い、踵を返して店の奥へと引っ込んだ。中原はちょっと手持ち無沙汰になってカウンターに寄り掛かる。別に呼んで貰わなくたって善かったか。でも折角なら顔見せときてえし。気合い入れて仕入れてきたのがあればやっぱ見てえし。
態々呼びにいってくれた娘に少し申し訳無く思いながら、何となしに店の中を見渡す。特に広くもない店内で、中原の居る位置からは、柱が死角になる以外は店全体を見渡すことが出来た。
中原の他に、客は二人居た。一人は水色のパーカーにジーンズと、ラフな格好をした短髪の若い男だ。息を殺すように店内を巡っていて、興味が無さそうにちら、と帽子を手に取り値札を見ては戻すことを繰り返している。対照的に、もう一人の白人の三十代と思しき男はじっくりと棚に並べられた帽子を吟味し、時折手に取っては目を閉じ暫しの間空想に浸っていた。恐らく自分が被ったときの装いを考えているのだろう。色素の薄い金髪は丁寧に撫で付けられていて、着こなすアイボリーのスーツはそのラインから仕立ての上等なものなのだろうと伺える。
と、パーカーの男がガラン、とベルを鳴らすのも密やかな様子で店を出ていったので、店内にはついに中原とスーツの男の二人になってしまった。中原はその動きを無意識に目で追う。地元の人間だろうか。そう考える理由は幾つかあった。先ず観光や地元に疎い状態で帽子を買いたければ間違いなく表通りの店に行く。迷い込んだなら挙動に自信の無さが表れても善いだろうに――ちょうど、先程のパーカー男のようにだ――その態度の妙に堂に入った様子から、この店を偶然に訪れたと云う訳ではなさそうだ。特に目立った看板も出していない、街の中でも奥まったこの場所を帽子を買う為に探し当てられたと云うのならば相当土地勘があるのだろうと思われた。
然し、中原の見立てに反して、スーツの袖口から控えめに覗く艷やかな黒のクロノグラフは一時を少し過ぎた時刻を指していた。今は昼の二時過ぎだ。合っていないにしてもズレ過ぎている。
なら知り合いの紹介を経て来た出張中のビジネスマンと云うところだろうか。中原だって、海外での一時的な滞在なら腕時計の時差のズレを一々直したりはしない。
そんな風に観察していたら、ちら、と僅かに目が合った。
中原は思わず目を瞠った。男は硝子のような冷え冷えと透き通った目をしていた。色素の薄さが、感情の怜悧さをも映しているような氷の色。体内を巡る血の勢いが僅かに強まるのを感じた。まるで会敵したときのようにだ――この男はかなりやる。
思わず一歩踏み出す。
「――あ」
「中原様。ご無沙汰しております」
アンタ、と呼び掛けるところだった言葉を引っ込めて中原は踵を返した。他人の気配に釣られ過ぎだと自戒する。あの男の背景など、如何でも善い筈だ。そう、今日は気晴らしで来たんだから。
気を取り直す。
奥のカウンターで中原を出迎えた店主は相変わらず壮健のようだった。老年に近いながらも腰は未だピンと張っている。白髪の混じった頭は中原の視線より僅かに低く、柔和な瞳と目を合わせるには中原は少し視線を下げなければならなかった。
「済まねえな、中々来れなくて。新しいのを買いに来たんだ」
「長く使って頂いていたのでしょう? 私共と致しまして喜ばしい限りですよ、ささ、此方へ。お気に召すものがあれば善いのですが……」
「期待してる……っと、夫君は元気か?」
「ええ、今日も仕入れに行っていますよ。今日辺り、フィレンツェだったかしら……中々腰を落ち着ける気が無いみたいで」
「動けるうちは善いんじゃねえの。また土産話でも聞きてえな……」
「中原様は海外には――?」
「それが中々気軽に行けなくてよ……」
奥まった区画のショーケースに案内される。「此方が新作ですね」鍵を開けて貰うと、一瞥しただけで艷やかな生地の商品が幾つも収まっていて、思わず顔が綻んだ。手袋を脱いだ手で労るように撫で、その良質な予感を確信へと変える。「試着頂いても結構ですよ」言葉に甘えてそのうちの一つを被ると、新しく縫い付けた糸の匂いがした。丁寧な仕事だ、と思う。縫製が善い。生地が継ぎ合わされず、緩やかなカーブを描いている。これなら長く使ってもよれないだろう。この店の輸入する商品には間違いが無い。
中原は帽子に限らず、手製の造りのオートクチュールを見るのが好きだった。人間の手の掛けられたことがわかる物。物の向こうに、人間の居ることが判るものだ。そう云う物を通じて他人の息遣いを感じると、ひと気の無い寂しい冬の山中で、人の気配のある小屋を見付けたように少し嬉しくなる。
「こっちか、こっちだな……悪い、少し考えさせて欲しい……」
「ええ、ごゆっくり」
店の主人の離れていく跫音を背に、中原は候補を二つに絞って矯めつ眇めつ見比べてみる。二つとも中折れハットで、一つは帯の装飾の収まりが善かったが、一つはつばの角度が非常に好みだ。
却説、どちらが善いだろうか、戦場に連れて行く恋人は。
息をするように戦場へ戻ることを考えている自分に気が付いて、中原は独りでに自嘲の笑みを漏らしていた。如何転んだって、それこそ別の生き物に生まれ変わるくらいしなければ自分にとって戦場に戻らないと云う選択肢は無いんだろうな、と思う。
部下が幾ら死のうと。
そのことで幾ら後悔と云う泥に塗れて息が出来なくなろうと、自分の価値は戦場でこそ発揮されることを中原は知っていた。自分は力と云う手札を持っていて、それを持つ者の責任がある。その事実は相棒として手綱を取っていた人間が消えようと変わりはしない。泣こうが喚こうが、己の役割は覆らない。
だから何にも出来やしないんだよなあ、と中原は改めて思う。死んだ者に対して。これまで幾度も悩んではきたが、その度答えは出なかった。こうやってぐるぐると考えが巡るだけだ。時間の無駄。その通りだ。中原が悩んだ時間は死人には還元しない。
死んだ者に対して出来るのは、ただ覚えておくことだけだ。そして今生きている人間を守ること。過去は美しいが、心を其処に留めておくことは出来ない。
前を向かなければ。
今まで失ってきた仲間達を記憶の中に思い浮かべる。悪いな、と。
「なあ、どっちが善いだろうな……」
――そうですね、中原さんなら。
「……どちらも、君によく似合うように思うね」
男の声に息を詰めた。
気配に気付かなかった訳ではない――店のもう一人の客であるその男は、思えば先程からずっと中原の隣に居たのだ。そのことに違和感を抱かなかった自分に驚いた。気を散らし過ぎたか? 然し幾ら考え事をしていたとは云え、間合いに入られても尚体が反応しないなどと云うことがあり得るだろうか。
動揺を悟られないようちらりと隣へ視線をやる。
「決まったかね」
男は間合いの侵入に対し特に気負った様子も無く、中原に話し掛けてきた。ショーケースを前に、間にあるのは人一人分の距離だ。中原よりも上背があるが、此方を見下ろす視線に威圧感は感じない。恐らくそう故意に印象付けている。先程はビジネスマンか、と判じたが、その落ち着いた語り口は学者でもやっているようにも見えた。
その男が、ごく自然に、行き掛かりの人と人が軽く会話を交わすような調子で両手に一つずつ持った中折れ帽を示して中原に言葉を投げ掛けてくる。中原が一瞥した彼の左手には、多指症と云うやつか、帽子の陰から六本の指が見えている。
「ああ、そんなに警戒しないで欲しい。君の意見をぜひ聞くべきだ……、と思ってね。どちらが善いと思う?」
中原は帽子の代わりに男の爪先から天辺までを炙り出しでもするように眺め回した。下ろし立てのように皺の無いスーツも服飾品も一級品だ、ネクタイピンですら無銘ではない――そして接近くと初めて判る、微かに香る品のいいオーデコロン。身のこなしに嫌味なほどに隙が無い。徹底して拘りを追求する意志が見て取れる。如何見ても、見ず知らずの他人に意見を求めるような、かわいらしい優柔不断さを持ち合わせている人間には見えなかった。なら他に目的があって接触してきてんのか。
答え倦ねていると、「……そんなに熱烈に見詰められると、君がわたしに気があるのかと勘違いしてしまうな」と照れた風なことを云われた。
何故か無表情で。
……あ、此奴苦手なタイプかも知れねえ。
「寧ろわたしは、君に敬意を抱いているのだよ。この店の人間との話を聞くに、君はよく此処に来るのだろう? 趣味の合う人間と云うのは貴重だと思わんかね……少なくとも、都会の空にベテルギウスを見付けるよりも発見が困難だ。わたしにとっては」
「じゃ此処に住めば善いじゃねえか。俺の他にも客は来る」
「それも一興だな。但しわたしは住むなら巴里が善いね……ラ・ペ通りにいい店がある。時間が許せばそちらを訪れたいところなのだが、生憎出張中の身だ。旅先で汚してしまった大事な帽子の代わりを急ぎ手配するとなれば、妥協も止むを得まい。得てして悲劇とは唐突に訪れるものだ……君もそうではないのかね」
「巴里に住みてえかって?」
「いいや。よく帽子を汚しては駄目にする」
「……」
中原は目を眇めて男を見た。…