オフ記録
【完売】羊の亡霊
2019/01/27 00:00太中
2019/01/27 異譚レナトス2発行分
A5/46p/全年齢
A5/46p/全年齢
追記
白瀬の幻覚に悩まされる中也さんの話。
※白瀬くんがひどい目に遭います
※若干の白瀬→中也さん描写があります
完売│以下本文サンプル
一.
中也、と。
すれ違いざまに呼ばれた気がして振り返った。
其処には誰も居ない。ただ少しばかり早い木枯らしが、かさかさと乾いた音を立てて、今まさに踏み締められたばかりのような鮮やかな紅葉を攫っていこうとしていた。
聞き覚えの無い声だった。知り合いには、そんな穏やかな声で――まるで気を許した昔馴染みのように、柔らかく中也の名を呼ぶ男など居なかった。……いや、一人、名前で呼ぶ男が居るには居るが、然し中也があの元相棒の声を聞き漏らす筈がなく、何より憎らしい砂色外套が今は側に無い。
空耳だ。
そう考えるのが自然だった。
然しその声は、中也の記憶に微かな引っ掛かりを残した。
――中也。
何時か遠い昔に、そんな風に呼ばれていたような。
――若しかして、中也は海を見るのは初めてなのか。
呼び起こされるのは原初の記憶だ。中也を初めて人たらしめた、世界の知覚、色彩の獲得、その中であって柔らかく手を握られた思い出。
初めて知った人の体温。
「――白瀬」
ふと、その名前が口を突いて出てきた。
思わず口を押さえる。込み上げる懐かしさを止めることが出来なかった。白瀬、白瀬。中也の小さな手を引いて、行くぞと立ち上がらせて呉れた影。何も判らず、ただ擂鉢街の底で死を待つだけだった小さな子供を、仲間として迎え入れて呉れた一人の少年。
もう今は遠い地に行ってしまった。
「来てるのか? 横浜に……」
いや、と首を振る。
だとしても何なのだろう。誰も居ない街頭に佇んで、中也は一人自問自答する。もう仲間でも何でもないのだ。中也と白瀬は、決定的な断絶を抱えたまま道を違えてしまった。顔をあわせて、よお、久しぶり、と気兼ねの無い挨拶が交わせる間柄ではなくなったのだ。
中也の前に姿を現す筈も無い。
今更思い出すなんて、如何かしている。
それに、この場には誰も居ないのだ。中也は辺りを見回す。交通量の少ない道のためか、車も通らず閑散としている。一瞬感じた気配も、潮の匂いの中へと掻き消えてしまった。
なのに、遠く懐かしい笑い声が聞こえた気がした。
地に散った紅葉が、重みを失ったようにふわりと風に浮く。
それは例年より少し肌寒い、秋の初めのことだった。
◇ ◇ ◇
詰まる処、マフィアなどとは云っても商品を買って売って利益を上げている点は凡百の民間企業と変わりがない。ただ少し、商品が法令で取引の規制されているものだったり、そもそも商品として扱うこと自体が非人道的だとされるものだったり、取引のときに威力をチラつかせて公正な市場形成を阻害したりしているのが法に則していないだけで。
だから需要に対して仕入れが途切れないよう奔走もすれば、市場でシェアを保つよう工夫もする。競合が同じような武力を得ようとしていたら、当然調査をして対策を立てる。
マフィアの知らない処で勝手に競合組織に銃器を売りつけている組織が居ると聞いたとき、俺は無論その組織の詳細を問うた。
然し部下から返ってくるのは、如何にも煮え切らない返事ばかりだ。
「中華街を根城にしている――と云うのは判ったんですが、それ以上は。購入相手の方は捕縛して上に処分を仰いでいますが、売った側を未だ捕捉出来ていません。チームの何人かを界隈に潜入させているものの、あと一歩と云うところでまるで此方の手の内を読んだかのように消えてしまって足取りが掴めないと」
「……へえ。情報が漏れてる?」
「その可能性はあります」
俺は淹れ立ての珈琲を時折口に含み、溜まった決裁書類をガサガサと処理しながら考える。部下の直感を重視するなら内部の情報が漏れている可能性がある――然しそこまで大掛かりな編成は未だ組んでいない筈だ。自然チームの人数も絞られるからそこから内通者が出るとは考え難い。何か、壁に耳でも生やす異能力者が向こうに居るのかも知れない。そうであるならば厄介だ。
「続けろ」
「其奴等――ああ、名称は『羊』と云うんですが――」
げほ、と噎せた。飲んでいた珈琲が、今まさにサインしようとしていた書類に数滴掛かる。やっべえ。
素早くティッシュで染みの部分を抑えながらゲホゲホと呼吸を整える。
今なんつった。
「……羊? 其奴等の名称がそうだってえのか」
「は、はい。……ああ、いいえ、直接の確認は取れていません。然し購入相手の方が、『羊の連中が』と云っていましたので、少なくとも取引相手に使用している名称のようです」
「……ところでお前勤続何年だっけ。確か去年の夏に来たから一年ちょっとだよな?」
「はっ……はい! そうです……」
そんな訳はない。
俺は固まる。羊は解体されたのだ。元相棒が解散させた。
偶然だろう。その筈だ。だが。
――中也。
先日聞いた幻聴のような声を思い出す。あれが果たして質量を伴った声だったのか、俺には判別が未だついていない。あれは何かの予兆だったんじゃあないのか。
嫌な感じがする。そしてその直感は、大抵の場合正しい。
逡巡の末、俺は席を立った。書類の山をキャビネットにぶち込み、外套を椅子の背から取ってひらりと羽織る。
「な、中原さん!? どちらへ」
「取り敢えず様子見だ。俺が行く」
「中原さんが直接行かれる程のことでは……!」
「いや」
帽子を被り、髪をバサリと払って後ろにやる。恐らく偶然だ。けれど同時に、俺が行くべき案件でもあるんだろう。
あからさまに心配を滲ませる部下を振り返って笑う。
「そんな顔すんなよ。散歩ついでだよ、たまには善いだろ」
◇ ◇ ◇
「この辺で羊と名乗る連中が最近幅利かせてるって聞いた」
少し足の長いスツールに腰掛け、靴の先をぶらぶらと遊ばせる。俺の足が足りないんじゃなく、本来ならバーカウンターに置かれるべき椅子だからだ。客じゃないなら其処に掛けときな、と邪険に云われて、俺は大人しく、その惣菜屋の隅に忘れられたように置き去りにされた椅子に座っていた。
子供みたいに。
店内に客は居ない。裏から見る色とりどりの惣菜が並べられた冷蔵ショーケース、その向こうのアクリルガラスの出窓のあるドアからは昼の日差しの中に賑わう人の往来が見える。
惣菜屋は未だ混む時間じゃない。
「何か知ってるか」
「知ってるも何も」
口を開いたのは、ショーケースに肘を突いた気難しい壮年の女性だった。此処の店主だ。女手一つで昔からこの惣菜屋を切り盛りしている。
「急に余所モンが流れ込んできて、ここいらはピリピリしとるよ。最も、マフィアを気に入らん連中は歓迎ムードで居るがね。全く、此方は迷惑してる」
「どんな奴が居るか判るか」
「おや、悪者退治して呉れんのかい」
「まあ貰ってるショバ代の分はな。何せ俺は『悪い奴の敵』なもんで」
はん、と鼻で笑われた。別段腹も立たなかった。この前までちんちくりんだった子供が随分と大人ぶった口を利くものだ、と思えば可笑しくもあるだろう。姐さんも善く云う。
それから、少し皺の寄った人差し指で宙を描いて、淡々と知っている情報をなぞって呉れた。
前身は大陸の方で活動している非合法組織らしいこと。売る武器の供給も向こうから得ているんだろうと云うこと。恐らく、動きからしてマフィアの市場を乗っ取る心算なんじゃないかと云うこと。相変わらず、随分と情報通だ。如何云う仕組みかは知らないが、この店主の元には昔から情報が集まってくる。女はそれを選り分けるのが得意だった。
それから、リーダーは最近大陸から渡ってきた、若い青年ではないかと噂されていること。……
「悪い奴の敵って云えば、太宰の坊やは元気かい。この間、あの辺をお硬そうな眼鏡の子に引き摺られていくのを見掛けたよ」
「マフィア抜けたよ」
「知ってるよ」
カラン、とベルが鳴って、一人の客が入ってきた。中也は黙って置き物に徹した。こう云うとき、年若い見た目は助かるなと思う。必要以上に他人に威圧感を与えずに済む。店主が接客している間に、ちら、壁に掛かった時計を見る。もう少ししたら、夕飯の支度をしたい客で店が賑わう時間だ。
じゃあこのポテトサラダとピクルス、それぞれ小さいサイズで。あいよ、毎度あり。ガチャンと鳴る古臭いレジの音、がさりとビニール袋の中身に気を遣りながら嬉しそうに退店する客の背中を見送ってから、俺は口を開いた。
「じゃなんで俺に訊くんだよ」
「あン? アンタ達もうお泊まり会はしてないのかい。小さい頃はあーんなに離れたくないよ~って喚いてたじゃないか」
「いや何もかもが初耳でどっから否定すれば善いか判んねえよ『もう』も何もそんなもんした覚え無えが!? 如何せ太宰があること無いこと好き勝手吹聴してたんだろ!?」
或いは、孫か何かの話と勘違いしてるかだ……。云おうとして口を噤む。
そうだった、此処の店主は数年前の大規模抗争で亭主と子供を亡くしている。
「そうかい? あの子よく云ってたよォ『おばちゃ~ん、今日も中也が漏らしたの~』って……」
「あンのクソ野郎……いや、漏らしてねえから……」
大体、俺がマフィアに入ったのは十五歳の頃じゃねえか、と憤慨する。そんな歳で寝小便なんかする訳ない。
……よな?
カラン、カラン、と立て続けに戸に取り付けられたベルが鳴って、客が一人、二人と来店してくる。誰もが一瞬俺にチラと目を向け、それから何も見なかったようにショーケースに向き直った。俺とて気配は消せるが姿まで消すことは出来ない。正面から入ってくれば嫌でも俺の姿は目に入る。これ以上此処で気を散らせ続けて営業妨害すんのも善くないな、と思ってトンと椅子から飛び降りる。
「悪い、邪魔したな」
「別に善いけどさ。昇進してから如何せ外食ばっかなんだろ。たまには何か買っとくれよ」
「部下に云っとく」
笑ってドアをカラン、と潜る。
実際、此処の惣菜は中々美味しい。
◇ ◇ ◇
「……然し風評被害も甚だしいだろあの野郎……次会ったら一発殴る……」
店を出ても矢張りその点だけは如何にも納得がいかなくて、人気の無い裏路地でつい独り言ちる。少なくとも俺が認識する限り、お泊まり会なんざしたことは無かったし――太宰が勝手に部屋に忍び込んでくることはあったが流石にノーカンだ――太宰と初めて会ったのも、幼年期を大分過ぎてのことだ。マフィアに入る前、十五歳の頃。あの事件以来の付き合いだ。
先代首領が蘇り、過去から復讐へと舞い戻ったあの事件。
実際は蘭堂と云う男の異能だった。人間を異能化する能力。先代首領の死体を異能化し、操って、或る一つの謎を暴こうとしたのだ。
あの事件以来、俺は現在の首領である森鷗外の組織運営の手腕に敬意を表し、ポートマフィアに籍を置いている。
《羊》を抜けて。
羊――その名を名乗る組織の出現は偶然だろうか。この街の裏社会に昔から居る人間であれば、その名を冠することがポートマフィアへの敵対を意味することくらいどんな下っ端だって知っている。誰もそんなリスクは冒さない――仮に真っ向から敵対する気概のある組織であれば、それでも矢っ張り《羊》などとは名乗らないだろう。何せ弱そうだ。そう云う連中はきっと、もっと強そうな生き物の名前を好む。例えば龍とか獅子だとか。
ただ、今回その組織の中心に居るのは余所者だと云う。それであれば、何年も前に形成された暗黙の了解など知り得ないのも無理は無いだろう。
或いは、あの頃を知っている人間の仕業か。
まあ、どのみち潰す組織だ。どんな名を取ろうと、ポートマフィアのシマを荒らすなら、相応の目に遭って貰うまでだ。…
※白瀬くんがひどい目に遭います
※若干の白瀬→中也さん描写があります
完売│以下本文サンプル
一.
中也、と。
すれ違いざまに呼ばれた気がして振り返った。
其処には誰も居ない。ただ少しばかり早い木枯らしが、かさかさと乾いた音を立てて、今まさに踏み締められたばかりのような鮮やかな紅葉を攫っていこうとしていた。
聞き覚えの無い声だった。知り合いには、そんな穏やかな声で――まるで気を許した昔馴染みのように、柔らかく中也の名を呼ぶ男など居なかった。……いや、一人、名前で呼ぶ男が居るには居るが、然し中也があの元相棒の声を聞き漏らす筈がなく、何より憎らしい砂色外套が今は側に無い。
空耳だ。
そう考えるのが自然だった。
然しその声は、中也の記憶に微かな引っ掛かりを残した。
――中也。
何時か遠い昔に、そんな風に呼ばれていたような。
――若しかして、中也は海を見るのは初めてなのか。
呼び起こされるのは原初の記憶だ。中也を初めて人たらしめた、世界の知覚、色彩の獲得、その中であって柔らかく手を握られた思い出。
初めて知った人の体温。
「――白瀬」
ふと、その名前が口を突いて出てきた。
思わず口を押さえる。込み上げる懐かしさを止めることが出来なかった。白瀬、白瀬。中也の小さな手を引いて、行くぞと立ち上がらせて呉れた影。何も判らず、ただ擂鉢街の底で死を待つだけだった小さな子供を、仲間として迎え入れて呉れた一人の少年。
もう今は遠い地に行ってしまった。
「来てるのか? 横浜に……」
いや、と首を振る。
だとしても何なのだろう。誰も居ない街頭に佇んで、中也は一人自問自答する。もう仲間でも何でもないのだ。中也と白瀬は、決定的な断絶を抱えたまま道を違えてしまった。顔をあわせて、よお、久しぶり、と気兼ねの無い挨拶が交わせる間柄ではなくなったのだ。
中也の前に姿を現す筈も無い。
今更思い出すなんて、如何かしている。
それに、この場には誰も居ないのだ。中也は辺りを見回す。交通量の少ない道のためか、車も通らず閑散としている。一瞬感じた気配も、潮の匂いの中へと掻き消えてしまった。
なのに、遠く懐かしい笑い声が聞こえた気がした。
地に散った紅葉が、重みを失ったようにふわりと風に浮く。
それは例年より少し肌寒い、秋の初めのことだった。
◇ ◇ ◇
詰まる処、マフィアなどとは云っても商品を買って売って利益を上げている点は凡百の民間企業と変わりがない。ただ少し、商品が法令で取引の規制されているものだったり、そもそも商品として扱うこと自体が非人道的だとされるものだったり、取引のときに威力をチラつかせて公正な市場形成を阻害したりしているのが法に則していないだけで。
だから需要に対して仕入れが途切れないよう奔走もすれば、市場でシェアを保つよう工夫もする。競合が同じような武力を得ようとしていたら、当然調査をして対策を立てる。
マフィアの知らない処で勝手に競合組織に銃器を売りつけている組織が居ると聞いたとき、俺は無論その組織の詳細を問うた。
然し部下から返ってくるのは、如何にも煮え切らない返事ばかりだ。
「中華街を根城にしている――と云うのは判ったんですが、それ以上は。購入相手の方は捕縛して上に処分を仰いでいますが、売った側を未だ捕捉出来ていません。チームの何人かを界隈に潜入させているものの、あと一歩と云うところでまるで此方の手の内を読んだかのように消えてしまって足取りが掴めないと」
「……へえ。情報が漏れてる?」
「その可能性はあります」
俺は淹れ立ての珈琲を時折口に含み、溜まった決裁書類をガサガサと処理しながら考える。部下の直感を重視するなら内部の情報が漏れている可能性がある――然しそこまで大掛かりな編成は未だ組んでいない筈だ。自然チームの人数も絞られるからそこから内通者が出るとは考え難い。何か、壁に耳でも生やす異能力者が向こうに居るのかも知れない。そうであるならば厄介だ。
「続けろ」
「其奴等――ああ、名称は『羊』と云うんですが――」
げほ、と噎せた。飲んでいた珈琲が、今まさにサインしようとしていた書類に数滴掛かる。やっべえ。
素早くティッシュで染みの部分を抑えながらゲホゲホと呼吸を整える。
今なんつった。
「……羊? 其奴等の名称がそうだってえのか」
「は、はい。……ああ、いいえ、直接の確認は取れていません。然し購入相手の方が、『羊の連中が』と云っていましたので、少なくとも取引相手に使用している名称のようです」
「……ところでお前勤続何年だっけ。確か去年の夏に来たから一年ちょっとだよな?」
「はっ……はい! そうです……」
そんな訳はない。
俺は固まる。羊は解体されたのだ。元相棒が解散させた。
偶然だろう。その筈だ。だが。
――中也。
先日聞いた幻聴のような声を思い出す。あれが果たして質量を伴った声だったのか、俺には判別が未だついていない。あれは何かの予兆だったんじゃあないのか。
嫌な感じがする。そしてその直感は、大抵の場合正しい。
逡巡の末、俺は席を立った。書類の山をキャビネットにぶち込み、外套を椅子の背から取ってひらりと羽織る。
「な、中原さん!? どちらへ」
「取り敢えず様子見だ。俺が行く」
「中原さんが直接行かれる程のことでは……!」
「いや」
帽子を被り、髪をバサリと払って後ろにやる。恐らく偶然だ。けれど同時に、俺が行くべき案件でもあるんだろう。
あからさまに心配を滲ませる部下を振り返って笑う。
「そんな顔すんなよ。散歩ついでだよ、たまには善いだろ」
◇ ◇ ◇
「この辺で羊と名乗る連中が最近幅利かせてるって聞いた」
少し足の長いスツールに腰掛け、靴の先をぶらぶらと遊ばせる。俺の足が足りないんじゃなく、本来ならバーカウンターに置かれるべき椅子だからだ。客じゃないなら其処に掛けときな、と邪険に云われて、俺は大人しく、その惣菜屋の隅に忘れられたように置き去りにされた椅子に座っていた。
子供みたいに。
店内に客は居ない。裏から見る色とりどりの惣菜が並べられた冷蔵ショーケース、その向こうのアクリルガラスの出窓のあるドアからは昼の日差しの中に賑わう人の往来が見える。
惣菜屋は未だ混む時間じゃない。
「何か知ってるか」
「知ってるも何も」
口を開いたのは、ショーケースに肘を突いた気難しい壮年の女性だった。此処の店主だ。女手一つで昔からこの惣菜屋を切り盛りしている。
「急に余所モンが流れ込んできて、ここいらはピリピリしとるよ。最も、マフィアを気に入らん連中は歓迎ムードで居るがね。全く、此方は迷惑してる」
「どんな奴が居るか判るか」
「おや、悪者退治して呉れんのかい」
「まあ貰ってるショバ代の分はな。何せ俺は『悪い奴の敵』なもんで」
はん、と鼻で笑われた。別段腹も立たなかった。この前までちんちくりんだった子供が随分と大人ぶった口を利くものだ、と思えば可笑しくもあるだろう。姐さんも善く云う。
それから、少し皺の寄った人差し指で宙を描いて、淡々と知っている情報をなぞって呉れた。
前身は大陸の方で活動している非合法組織らしいこと。売る武器の供給も向こうから得ているんだろうと云うこと。恐らく、動きからしてマフィアの市場を乗っ取る心算なんじゃないかと云うこと。相変わらず、随分と情報通だ。如何云う仕組みかは知らないが、この店主の元には昔から情報が集まってくる。女はそれを選り分けるのが得意だった。
それから、リーダーは最近大陸から渡ってきた、若い青年ではないかと噂されていること。……
「悪い奴の敵って云えば、太宰の坊やは元気かい。この間、あの辺をお硬そうな眼鏡の子に引き摺られていくのを見掛けたよ」
「マフィア抜けたよ」
「知ってるよ」
カラン、とベルが鳴って、一人の客が入ってきた。中也は黙って置き物に徹した。こう云うとき、年若い見た目は助かるなと思う。必要以上に他人に威圧感を与えずに済む。店主が接客している間に、ちら、壁に掛かった時計を見る。もう少ししたら、夕飯の支度をしたい客で店が賑わう時間だ。
じゃあこのポテトサラダとピクルス、それぞれ小さいサイズで。あいよ、毎度あり。ガチャンと鳴る古臭いレジの音、がさりとビニール袋の中身に気を遣りながら嬉しそうに退店する客の背中を見送ってから、俺は口を開いた。
「じゃなんで俺に訊くんだよ」
「あン? アンタ達もうお泊まり会はしてないのかい。小さい頃はあーんなに離れたくないよ~って喚いてたじゃないか」
「いや何もかもが初耳でどっから否定すれば善いか判んねえよ『もう』も何もそんなもんした覚え無えが!? 如何せ太宰があること無いこと好き勝手吹聴してたんだろ!?」
或いは、孫か何かの話と勘違いしてるかだ……。云おうとして口を噤む。
そうだった、此処の店主は数年前の大規模抗争で亭主と子供を亡くしている。
「そうかい? あの子よく云ってたよォ『おばちゃ~ん、今日も中也が漏らしたの~』って……」
「あンのクソ野郎……いや、漏らしてねえから……」
大体、俺がマフィアに入ったのは十五歳の頃じゃねえか、と憤慨する。そんな歳で寝小便なんかする訳ない。
……よな?
カラン、カラン、と立て続けに戸に取り付けられたベルが鳴って、客が一人、二人と来店してくる。誰もが一瞬俺にチラと目を向け、それから何も見なかったようにショーケースに向き直った。俺とて気配は消せるが姿まで消すことは出来ない。正面から入ってくれば嫌でも俺の姿は目に入る。これ以上此処で気を散らせ続けて営業妨害すんのも善くないな、と思ってトンと椅子から飛び降りる。
「悪い、邪魔したな」
「別に善いけどさ。昇進してから如何せ外食ばっかなんだろ。たまには何か買っとくれよ」
「部下に云っとく」
笑ってドアをカラン、と潜る。
実際、此処の惣菜は中々美味しい。
◇ ◇ ◇
「……然し風評被害も甚だしいだろあの野郎……次会ったら一発殴る……」
店を出ても矢張りその点だけは如何にも納得がいかなくて、人気の無い裏路地でつい独り言ちる。少なくとも俺が認識する限り、お泊まり会なんざしたことは無かったし――太宰が勝手に部屋に忍び込んでくることはあったが流石にノーカンだ――太宰と初めて会ったのも、幼年期を大分過ぎてのことだ。マフィアに入る前、十五歳の頃。あの事件以来の付き合いだ。
先代首領が蘇り、過去から復讐へと舞い戻ったあの事件。
実際は蘭堂と云う男の異能だった。人間を異能化する能力。先代首領の死体を異能化し、操って、或る一つの謎を暴こうとしたのだ。
あの事件以来、俺は現在の首領である森鷗外の組織運営の手腕に敬意を表し、ポートマフィアに籍を置いている。
《羊》を抜けて。
羊――その名を名乗る組織の出現は偶然だろうか。この街の裏社会に昔から居る人間であれば、その名を冠することがポートマフィアへの敵対を意味することくらいどんな下っ端だって知っている。誰もそんなリスクは冒さない――仮に真っ向から敵対する気概のある組織であれば、それでも矢っ張り《羊》などとは名乗らないだろう。何せ弱そうだ。そう云う連中はきっと、もっと強そうな生き物の名前を好む。例えば龍とか獅子だとか。
ただ、今回その組織の中心に居るのは余所者だと云う。それであれば、何年も前に形成された暗黙の了解など知り得ないのも無理は無いだろう。
或いは、あの頃を知っている人間の仕業か。
まあ、どのみち潰す組織だ。どんな名を取ろうと、ポートマフィアのシマを荒らすなら、相応の目に遭って貰うまでだ。…